第4章 戦後復興期
第1節 新発掘資料に見る渡慶次の戦後復興期
1 はじめに
2006年(平成18)3月13日と22日に字誌編集委員会では公民館倉庫の資料整理を行った。その時の模様は既に「渡慶次字誌編集だより」第12号(2006年4月)として報じたところである。古い資料はほこりをかぶり、虫食いも進んでいて、マスクに手袋着用での作業であった。出てきた資料は大きな項目ごとに分類し、それを年代や内容で細かくファイルし、公民館の小会議室にボックスに入れて整理してある。
その中に、今回注目した「1947年興隆会寄附者氏名」や青年会活動への支援を寄附という形で渡慶次の人々が支えてきたことを証明するいくつもの「寄附者芳名(氏名)」が出てきた。これらの古い資料が保管されていたことに驚くとともに、内容自体大変貴重なもので先人たちの記録を残すことへの意識の高さと、戦後復興へかけた区民の気概を感じた次第である。
本稿では、字渡慶次の戦後復興期のバックアップ組織となった「興隆会」の財政的な裏付け資料の紹介を目的とするが、併せて新発掘資料の概要と戦後復興期の区民の動きを概観する。
倉庫から取り出した資料を整理する編集委員
2 帰村
本論に入る前に、戦後復興期の各収容所や居住地区からの帰村状況を『読谷村史第5巻資料編4戦時記録下巻』(第五章 帰村時行政文書等にみる村民移動)から要約する。
無血上陸した米軍は、いち早く1945年(昭和20)4月5日に、読谷山村字比謝に「アメリカ海軍軍政府」を置いて、占領政策「ニミッツ布告」を発表した。即ち「南西諸島及びその近海並びにその居住民に関する総ての政治及び管轄権並びに最高行政責任は占領軍司令長官兼軍政府総長米国海軍元帥たる本官の権能に帰属し本官の監督下に部下指揮官に依り行使させる」としたのである。それは沖縄が日本の行政権(統治)から切り離された瞬間でもあり、また沖縄の軍事占領政策の始まりともなった。
米軍は同年8月20日、戦後初の沖縄の中央政治機構である沖縄諮詢会を設置、9月12日には新しい16の市が誕生して地方行政の第一歩が始まった。それを受けて10月23日の第1回市長会議において、米軍から「移動計画案指示要綱」が発表された。
その目的を要約すると「従前の居住地区に移し、従前の屋敷と土地に帰し、出来るだけ永久的な家屋に住まわせ、耕作適格地にて耕作させること」となっている。その目的を達成するために、「家族及び各個人移動は、この目的達成の次に行うものとする」として、勝手な移住ができないようにも規制されていた。
占領されて1年後の1946年(昭和21)4月には、市町村長も任命され、読谷山村は知花英康が村長に就任した。
さて、県内の具体的な住民移動は、1945年(昭和20)9月には兼城(糸満)が移動許可となり、後に拡大して糸満地区となった。さらに10月29日には中城村安谷屋、その直後に知念地区への移動許可が出た。その後も続々と各地に移動許可が下り、県全体的には、1946年(昭和21)4月にはおおかたの市町村は一段落した状況にまでなっていた。
ところが読谷山村では、村域のほとんどが基地に占領されていたため、11か月遅れた1946年8月に移動許可が下りた。比較的被害の少なかった長浜・高志保・波平の一部が移動許可地区に指定された。ちなみに、北谷村(嘉手納・屋良)はさらに遅れて、1947年(昭和22)2月頃になって移動許可が下りた。それらの地域も米軍飛行場用地としてそのほとんどを接収されていたためであった。
読谷山村への帰村
読谷山村への帰村陳情活動は、知花英康が村長に任命されて始動した。幾多の請願陳情を繰り返し、ついに同年8月3日に「耕作許可」が下り、同6日に村民待望の移動が許可された。村長が陳情してから実に4か月後のことであった。
本村の学校設立許可(教務部)は、移動許可とほぼ同時に下りている(同年8月11日)。空襲で焼かれ、艦砲射撃で破壊されてから、約1年半後の学校建設となった。
その頃、読谷山村民が収容されていたのは、石川8,048、コザ762、前原306、中川(金武)1,485、漢那2,003、宜野座1,219、久志308、田井等319、辺土名161、計14,611人(1946年9月)であった(『村の歩み』80頁)。
郷土の建設へ
移動許可がおりた8月6日から6日後の12日には、村建設隊を組織し、村長以下600名が郷土建設のため高志保・波平の一部に入った。建設隊員たちは、波平の東門(アガリジョー)辺りに茅葺きを建てたり、残存家屋を利用して住んだ。
戦前(1944年)、総数で3,179棟あった(『村の歩み』123頁)住宅も、建設隊の調査では戦争被害から免れた家や修理可能な家も含めて130棟と記録されている。実に98%が戦禍に見舞われたことになる。
村建設隊の組織を村建設隊編成表にみると、村長の知花英康隊長を中心に、総務部、建築部、農耕部、衛生部、食糧部となっている。
それぞれの活動を『村の歩み』からみると、建築部では、山城※※隊長以下部員が屋敷の整理、規格住宅を建てる。衛生部では、大湾※※隊長(衛生課長)以下部員が井戸を凌渫(しゅんせつ)して飲料水の確保にあたり、さらに便所を造る。農耕部では、花城※※隊長(産業課長)以下部員が野生化した甘藷や野菜を採り、隊員の食料に供し、農耕計画を立て実施する。総務部の監視隊では神谷※※隊長外11人で村内を巡視し、「戦果あさり」(農作物や米軍軍需品を盗むこと)を監視するなどとなっている。隊員は各字ごとにまとまり、残存家屋を修理して宿舎にし合宿生活をした。「隊長」という呼称も、戦後間もない頃の世相が反映されている。
村建設のバックアップ
建設隊を資金や資材面から支えたのは、軌を一にして結成された読谷山村建設後援会であった。建設隊の任務遂行を支えて、全村民が一日も早く帰村できることを目的に、1946年(昭和21)8月16日に結成された。
その目的は「すべての犠牲を払って奮闘する設営先遣隊員の生活援護と移動促進」にあると言明。一般寄付、篤志寄付を募ることと、労働奉仕に参加することなどを謳っている。建設作業への協力では、親志、喜名以南の南部組と座喜味、上地以北の北部を北部組とし、隔週日曜日交替にて十六歳から六十歳までの男子は作業に出動するとした。追而(おって)で、「先遣隊は農耕班350人建築250人出ていますが建築班の賃金は政府負担ですが農耕班は村で負担しなければなりません」と述べ、村民一人あたり10円以上の献金を呼びかけている。
だが、帰村を待つ村民のために着々と活動している最中、8月31日に急に「建設中止」「居住中止」の命令が米軍(民政府)から出され、やむなく建設隊を解散して、隊員はそれぞれの収容所に戻った。中止命令の理由は、米軍飛行場からの軍需物資の盗難が大きな理由であったということであった。
翌日、知花英康村長は(沖縄諮詢会)又吉総務部長宛に「読谷村建設中止ニ関スル件」として、中止命令の撤回方を訴えた。
建設隊の再入村と村民受け入れ
9月11日には、中止命令が解かれ「居住許可」が再度下りた。しかし、当初の長浜・高志保・波平の移住許可から「長浜ハ居住ヲ許サズ」と「居住部落ハ字波平字高志保トス但シ字波平中南部ノ一部ハ居住並耕作スルコトヲ得ズ」という新たな条件が付けられての許可であった。村建設隊は各地区懇談会で推薦された人々を集め、陣容を立て直した。そして、9月16日に再入村した。
後に第15代読谷村長となる池原昌徳の話しによれば、建築班の使う資材は「軍の払い下げや残存家屋の材料や米軍使い古しのトゥバイフォーを使った」「移住する村民のための家は規格住宅と呼ばれ、2間(けん)×3間(けん)の茅葺き」であった。(注:ツーバイフォーは2インチ×4インチの木材)
村内で受け入れ準備が整った11月20日から12月12日にかけて、第一次村民移動が始まった。その状況は、「家を何軒建てたから何百人入れると各地区に割り当てた。そして、番号のつけられた波平の何号へ高志保の何号へと、建設隊と幹部会または住宅配給係が指定した家に家族単位で」受け入れたという。
ところが、役場の計画に基づいて期間内に移動してきたグループと、特殊技能者とその家族、私物資材を持ち込んで期間外で移動してきた人々などが入り交じって、第一次帰村は行われており、その後もこうしたことは繰り返された。
帰村村民は、原則として高志保以北出身者は高志保地区へ、波平以南の人々は波平に居住が指定され、建設隊の造った規格住宅や残存家屋に入った。規格住宅の割り当ては、8名以上の家族で1棟、7名以下だと2家族で1棟であった。
そうした中で、1946年(昭和21)12月1日には役所を波平1番地に開設し、同時に、前村議で構成された第1回村政委員会において、村名を「読谷山村」から「読谷村」へ改称することを決議した。改名に際しては、波平の4つの区と高志保の3つの区の7区長と役場幹部が話し合い、それから石川・金武・コザなどの収容所にいる村民の意向を確かめ、沖縄県知事へ申請して、1946年12月16日に許可が下りた。
その後も村民の帰村は続き、1947年12月調査の移動済人口は、男6,818人、女7,772人。計14,590人、戸数にして3,273戸となった(『村の歩み』76頁)。それらのすべての人々が収容地区からの移動ではなく、他市町村在住者や引揚者等を含めたものであろう。
波平・高志保は読谷村の戦後の出発拠点であった。波平には旧読谷校区(波平、上地、座喜味、喜名、親志、伊良皆、長田の一部)と旧古堅校区(比謝、大湾、比謝矼、牧原、古堅、渡具知、楚辺、大木、長田の一部)が入り、高志保には旧渡慶次校区(渡慶次、儀間、宇座、瀬名波、長浜、高志保)の人々が居住した。その後、楚辺・大木地域(俗称「南部」)への移動許可が下り、旧古堅校区の住民はそこに移動した。その後、渡慶次、儀間、瀬名波の移住許可が出て移動したが、儀間、渡慶次は「立退命令」が出て渡慶次、儀間の区民達は再び高志保、瀬名波などへ移住した。
3 渡慶次、儀間の居住許可
『渡慶次の歩み』(昭和46年11月21日発行・79頁以降)の「行政日誌」から関係する部分を抜粋すると
1946年
・9月現在、渡慶次区民の各地区分散居住状況は石川583人、コザ23人、前原15人、中川(金武)53人、漢那98人、宜野座208人、久志17人、田井等13人、合計1,010人
・部落代表山内※※選出、事務を代表者宅にて行う。
1947年
・19代 代表者大城※※
農耕地の分配(個人の土地所有権は認められず1戸に約100坪の農耕地が割り当てられた)
・6月渡慶次畜産組合発足
・7月渡慶次青年会発足(会長新垣※※氏、副会長山内※※氏、玉城※※さん選出される)
・8月旧部落内道路拡張碁盤型計画に基づき、設計実測を行う(内容は中間道路の十字路は幅員3間(けん)にして其の他の道路は2間(けん)2尺(しゃく)とする。)
・準青年会発足、会長山城※※氏選出
・11月渡慶次への住民居住許可の通知があり旧部落への復帰が始まる。
農耕地の分配打ち切り(注:許可が下りたのは10月なので、通知が若干遅れたと思われる)
・12月31日現在渡慶次区民の読谷への移動済人口、戸数224戸、男438人、女529人、合計967人で高志保、波平に居住していた。
1948年
・4月事務所の新築 旧砂糖組(サーターグミ)の方々より瓦の寄贈を受け、字有林より松材を切り出しマシ知花屋敷(現148番地)に新築する。
・5月18日字渡慶次、儀間両部落、立退命令により家屋の撤去作業開始(区民は高志保、瀬名波で仮住まいをする。立退当時、部落に移動していた戸数107戸)(注:命令が出たのは5月12日、作業開始が18日)
・6月 マシ知花屋敷に新築した事務所も高志保381番地に移転(瓦葺)
となる。
区民の怒り
たった半年での立ち退き命令に区民は大きな怒りと落胆を隠せなかった。前掲の『渡慶次の歩み』からその心情の一部を抜粋する(一部修正・加筆した)。
「渡慶次によせて」 山城※※
戦後、部落民の集合場所は、高志保の製糖工場跡を借り受けて行われるようになりました。
強固な部落団結の話し合いがなされ、部落復興に邁進することを約し、現在の高志保公民館広場で、盛大な復興会が結成されました。
後日、旧部落への移動を前提として部落内の整備企画が起案され、道路を碁盤型にすることと、道路幅員の拡張を全会一致で可決し、現在の部落内(道路)を建設したのであります。
潟野製糖場4号製糖小屋の瓦を、所有者の方々の了解を得て、部落中心である(元の)前ノ上地宅地(マシ知花屋敷)に、瓦屋根の事務所を建築中再び立ち退きを命ぜられ、やむなく事務所と共に高志保に移動し、そのまま高志保に事務所が建築されました。
当部落は、幾度となく、高志保と渡慶次の行ったり来たりで、時を費やし、復興が他部落より3カ年以上おくれたにもかかわらず進取の気性に富む吾等部落民は、益々一致協力し、………。
(277〜278頁)
「渡慶次に生を受けて」 儀間※※
終戦後、読谷村先遣隊に参加し、中でも渡慶次への移動許可の件に関しては、その筋への陳情、請願、折衝等、当字役員と共に、東奔西走(とうほんせいそう)したことは、いまだに忘れません。
1947年10月に渡慶次への移動許可がなり、当時の区長玉城国安氏と…尾頓川山から資材を切り出し、工事も着々進行、区民はよかったと皆喜びに湧いていました。ところが運命のいたずらか、完成一歩手前という時に突然立ち退きを命ぜられ、泣くにも泣けず、仕方なく事務所を高志保に移しましたが、その時の口惜しさ苦労は筆舌では言い表すことはできません。(281頁)
4 渡慶次、儀間の再移動許可への動き
自らの古里渡慶次に帰りたいという思いは全区民の悲願であり、戦後復興の重要なステップであった。当時の区長ほか字の有志は次のような嘆願書を出して、再移動の許可を請願した。
読谷村渡慶次旧部落への移住御許可方に関する嘆願書
1947年12月に軍御当局の御同情に依り吾が渡慶次旧部落は当時条件付きにて移住御許可を得て部落民は欣喜致し和を以つて逐次部落内の清掃と建築にと順調に進行致し全部落民が殆ど移動完了せんとする1948年5月12日命に依り部落の立退きを命ぜられましたので政府並に村当局の物心両面に亘る御同情に依りまして条件通り今月20日まで(3日間)に立退きを完了致しました。其の後高志保区に居住致して居りますが別紙略図の通り農耕地への距離が1里近くもあり増産にも大いなる影響を来し尚高志保部落だけに数部落の住民が雑居致し居る関係上衛生的にも火災予防の見地又は部落民指導の見地からしても大いなる悪条件が伴い憂慮致し居る次第で御座います。
依って渡慶次旧部落への移住御許可に関し特別の御詮議を以ちまして御許し下さいます様、茲に吾々5名部落住民を代表致しまして嘆願致します。
西暦 1949年11月28日
読谷村渡慶次区長
山城吾助 公印
読谷村議会議員
儀間玉永 印
読谷村渡慶次有志代表
山城※※ 印
神谷※※ 印
読谷村渡慶次婦人会代表
与那覇※※ 印
沖縄知事
志喜屋孝信 殿
(誤字は訂正し、旧漢字は常用漢字に改めた)
前掲の「行政日誌」の1949年の項には、20代区長山城吾助の7月渡慶次復興会設立と記されている。移動後の立ち退きからもう一度区民の心を一つにして字渡慶次の復興への思いを実現しようと、復興会を結成したことが読み取れる。そしてその区民の決意を体しての嘆願書であった。
それから3年が経過し、1952年(24代区長玉城源助)に「渡慶次部落への移動許可の口答あり(この年より渡慶次への移動始まる)」と「行政日誌」は記した。
その間の苦労がいかばかりであったか、察するに余りあるが、人々の字渡慶次への復帰の思いはかなり熱いものがあった。そのことが次に紹介する新発掘資料から推察できる。これまで字渡慶次の戦後復興のバックアップ組織として「興隆会」というのがあったと言われていたが、寄附者名簿でその存在が裏付けられたのである。