続 渡慶次の歩み
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第5章 渡慶次区民の移民・出稼ぎ
第2節 戦後の移民
丸数字-16px-太-02 ブラジル
 太平洋戦争後、ブラジルでも戦前の県出身移民による沖縄戦災救援委員会(文化救援協会)が結成され、救援活動が行われた。1952年(昭和27)の対日講和条約の発効を受けて、日伯間の国交が回復されると戦後のブラジル移民が再開した。翌年には文化救援協会が発展的に解消して全伯沖縄海外協会(県人会の前身)が結成され、沖縄からの地縁、血縁者などの呼び寄せ移民を奨励した。しかし当初沖縄は日本政府の渡航費貸付対象からはずれていたことなどもあり、移民者数はそれほど多くなかった。1956年(昭和31)に沖縄も渡航費貸付の対象となることが決議されると、翌年以降の移民者数が急増していった。
 1958年(昭和33)には民間による計画移民も始まった。南米拓殖会社移民や「カッペン移民」が挙げられるが、カッペン移民の中で最も多いのが読谷村出身者であった。
 現在ブラジルは、日本の次に日本人が多い国だと言われるほど多くの日系移民が生活しているが、読谷村からもたくさんの人々がブラジルに移住し、2世、3世と世代をつなぎ、広いブラジルの地に大きな根を下ろしている。そのブラジルの読谷村人会が2007年(平成19)に発行した『ブラジル読谷村人会のあゆみ』より渡慶次出身者とその関係者の名簿と移民の様子を抜粋して紹介する。
 
ブラジル在住の渡慶次出身者
氏名 続柄 生年月日 渡伯着年 入植地 船名 世代
小橋川※※ 単身 1938年1月 1958年(昭和33)
6月10日
ペードロデトレード ルイス号 1世
小橋川※※ ※※長男 1961年 2世
小橋川※※ ※※孫 1987年 3世
小橋川※※ ※※孫 1990年 3世
知花※※ 家長 1906年 1960年(昭和35)
8月12日
カッペン ブラジル丸
知花※※ ※※妻 1960年(昭和35)
8月12日
カッペン ブラジル丸
知花※※ ※※長女 1960年(昭和35)
8月12日
カッペン ブラジル丸
知花※※ ※※長男 1939年 1960年(昭和35)
8月12日
カッペン ブラジル丸 1世
知花※※ ※※妻 1948年 1世
知花※※ ※※長男 1968年 2世
知花※※ ※※二男 1971年 2世
知花※※ ※※長女 1975年 2世
知花※※ ※※二女 1977年 2世
知花※※ ※※二男 1960年(昭和35)
8月12日
カッペン ブラジル丸
知花※※ ※※四男 1944年 1960年(昭和35)
8月12日
カッペン ブラジル丸 1世
知花※※ ※※妻 1949年 1世
知花※※ ※※長男 1972年 2世
知花※※ ※※の妻 1978年 3世
知花※※ ※※二男 1973年 2世
知花※※ ※※妻 伯人
知花※※ ※※長男 2000年 3世
知花※※ ※※二男 2002年 3世
 
氏名 続柄 生年月日 渡伯着年 入植地 船名 世代
知花※※ ※※長女 1974年 2世
知花※※ ※※二女 1978年 2世
知花※※ ※※三男 1982年 2世
知花※※ ※※五男 1949年 1960年(昭和35)
8月12日
カッペン ブラジル丸 1世
知花※※ ※※妻 1956年 1世
知花※※ ※※長男 1979年 2世
知花※※ ※※二男 1983年 2世
知花※※ ※※二女 1960年(昭和35)
8月12日
カッペン ブラジル丸  
山内※※ 家長 1914年 1960年(昭和35)
8月12日
カッペン ブラジル丸 1世
山内※※ ※※妻 1960年(昭和35)
8月12日
カッペン ブラジル丸  
山内※※ ※※長男 1960年(昭和35)
8月12日
カッペン ブラジル丸  
山内※※ ※※妻 1947年 1世
山内※※ ※※孫 1972年 2世
山内※※ ※※孫 1976年 2世
山内※※ ※※孫 1974年 2世
山内※※ ※※孫 1979年 2世
山内※※ ※※長女 1960年(昭和35)
8月12日
カッペン ブラジル丸  
山内※※ ※※二女 1960年(昭和35)
8月12日
カッペン ブラジル丸  
山内※※ ※※二男 1952年 1960年(昭和35)
8月12日
カッペン ブラジル丸 1世
山内※※ ※※妻 1954年 1世
 
氏名 続柄 生年月日 渡伯着年 入植地 船名 世代
山内※※ ※※長男 1982年 2世
山内※※ ※※長女 1984年 2世
山内※※ ※※二女 1985年 2世
山内※※ ※※三女 1960年(昭和35)
8月12日
カッペン ブラジル丸  
山内※※ ※※四女  
山内※※ ※※祖母 1960年(昭和35)
8月12日
カッペン ブラジル丸  
山内※※ 家長 1932年 1960年(昭和35)
10月10日
カッペン チチャレンカ号 1世
山内※※ ※※妻 1932年 1960年(昭和35)
10月10日
カッペン チチャレンカ号 1世
山内※※ ※※長男 1956年 1960年(昭和35)
10月10日
カッペン チチャレンカ号 1世
山内※※ ※※二男 1958年 1960年(昭和35)
10月10日
カッペン チチャレンカ号 1世
山内※※ ※※妻 1962年 2世
山内※※ ※※長男 1991年 3世
山内※※ ※※二男 1994年 3世
山内※※ ※※母 1960年(昭和35)
10月10日
カッペン チチャレンカ号  
山内※※ ※※弟 1934年 1960年(昭和35)
10月10日
カッペン チチャレンカ号 1世
山内※※ ※※妻 1960年(昭和35)
10月10日
カッペン チチャレンカ号  
山内※※ ※※長男 1960年 1960年(昭和35)
10月10日
カッペン チチャレンカ号 1世
山内※※ ※※長女 1963年 2世
山内※※ ※※二男 1965年 2世
山内※※ ※※二女 1966年 2世
 
氏名 続柄 生年月日 渡伯着年 入植地 船名 世代
山内※※ ※※三女 1975年 2世
山内※※ ※※弟 1939年 1960年(昭和35)
10月10日
カッペン チチャレンカ号 1世
山内※※ ※※妻 1949年 1世
山内※※ ※※長男 1966年 2世
山内※※ ※※二男 1968年 2世
山内※※ ※※三男 1972年 2世
神谷※※ 単身 1982年(昭和57) スザノ 飛行機  
儀間※※ 家長 1906年 1960年(昭和35)
4月19日
ボイスベイン号  
儀間※※ ※※母 1960年(昭和35)
4月19日
ボイスベイン号  
儀間※※ ※※妹 1960年(昭和35)
4月19日
ボイスベイン号  
儀間※※ ※※弟 1942年 1960年
(昭和35)4月19日
ボイスベイン号 1世
儀間※※ ※※妻 1947年 1世
儀間※※ ※※長女 1976年 2世
儀間※※ ※※二男 1979年 2世
儀間※※ ※※二女 1983年 2世
儀間※※ ※※三女 1989年 2世
儀間※※ ※※弟 1960年(昭和35)
4月19日
ボイスベイン号  
儀間※※ ※※弟 1960年(昭和35)
4月19日
ボイスベイン号  
儀間※※ ※※弟 1960年(昭和35)
4月19日
ボイスベイン号  
儀間※※ ※※長男 1960年(昭和35)
4月19日
ボイスベイン号  
 
ブラジル移民体験記
 前述の記念誌には、ブラジルカッペン移民の移住後の移動と定着のプロセスの事例として知花※※、山内※※一家の様子と、移民の思い出を語った山内※※の体験談が掲載されている。
 「カッペン移民」のカッペンという名称は、便宜上地名として使われているが、地図上にはカッペンという地名はない。受入側であるブラジルの「マリオポリス樹液採集・農牧組合有限会社(COOPERATIVA AGRO-PECUARIA ESTRATIVA MARIOPOLISLTDA.)」の略で、CAPEM(カッペン)と呼ばれていた。儀武※※らによって会社所有地(実際は州政府より植民地契約により官有地分譲権をあたえられたもの)への移民受入が立案・実行された。この民間移民計画が「カッペン移民」と呼ばれ、カッペン移民に提供されたブラジルのマットグロッソ州シャパーダ・ドス・ギマランエス郡内の地域がカッペン入植地などと呼ばれた。
 
050304-移民者を見送る
移民者を見送る人々
 
 1958年(昭和33)の第1次から1960年(昭和35)の第4次にわたって行われたカッペン移民は、与えられた移住地が酸性の土壌で作物栽培に適さず食物に事欠く状態であり、また生活用品が手にはいるような街からは遠く離れた奥地であったこと、マラリアなどの風土病の発生もあり死亡者も出ている。また、入植者に与えられた土地の権利が移民者になく、融資を受けることもできず、当面の生活資金にも困窮していた。事前に受けた説明とかけ離れた現状に耐えられず、次々と退耕していった。1962、3年(昭和37、8)頃にはほとんどの移民者が退耕しているところからも、ブラジル移民の中で最も過酷であったと言われている。
 渡慶次出身のブラジル移民もほとんどがこのカッペン移民であり、同時期に移民した同郷者等と共に多くの苦労を味わっている。
 以下、記念誌より要約して紹介する。
 
知花※※一家(第3次移民) 
 知花※※は、戦前、妻※※(1908年生)を伴って南洋パラオに移民した。※※、※※、※※、※※、※※はそこで生まれた。
 パラオでは農業試験場に勤務し、永らく平穏な生活を送っていたが、今次大戦により南洋群島にも暗雲が漂い、過酷な生活を余儀なくされるようになった。終戦後の1946年(昭和21)2月20日に沖縄に引き揚げてきた。郷土読谷村は戦禍により以前の面影はなく、さらに米軍によって広大な土地が占領されていた。村民は残った狭い耕地に芋を植え、その日暮らしの生活を送っていた。
 知花※※も渡慶次区の方々と手を携え、復興のために尽力した。1954年(昭和29)には第26代の渡慶次区長にも就任している。その頃には※※、※※も生まれ、9人家族となっていた。
 大家族の将来と狭い沖縄での生活に見切りをつけ、親戚や知人と相談し、カッペン移民を決意した。
 1960年(昭和35)の第3次カッペン移民として、都合により長男を残し家族8人で渡伯した。
 
◎[写真] 本編参照
移民に出る友人や同級生を励ます会がよく催された
 
 カッペンヘ入植したものの、木を伐採し農業で生活しようとするもうまくいかなかった。そのうち食糧がなくなり、若者たちは、入植地から約120qも離れた松原植民地(Rio Ferro植民地)に出稼ぎに行き、報酬の一部として得た種籾(たねもみ)をカッペンヘ持ち帰り植えつけたがほとんど収穫できなかった。
 生活の見通しが立たなかったので、1年ほどでカッペンを引き揚げた。移転に際しては戦前移民の具志堅さん(本部町出身)に依頼し、ブラジル人農夫にトラックを出してもらえることとなり、カッピンブランコへ行くこととなった。
 その耕地には15家族ほどの沖縄県出身者が雇用されていた。私達もここで4年間歩合農として働いた。植えつけた作物は、米、フェイジョン(豆)、トウモロコシ等だった。
 家計も一息ついたが、いつまでも歩合農をしていくわけにもいかず、1965年(昭和40)にカッピンブランコからカンポグランデ郊外に移動することになった。そこで3年間トマト栽培をして生計を立てた。
 1968年(昭和43)、サンパウロ市内で縫製下請け業を手広くやっていた親戚を頼ってそこへ移動した。私達も中古のミシンを5台購入し、縫製下請けを始めた。主としてジーパンを縫っていたが、多忙を極め、後には、7〜8人のブラジル人労働者を雇用するまでに繁盛し、家計も安定した。預貯金もでき、土地を購入して住宅や工場を建てることができた。そして、子どもたちも分家独立するようになった。
 次男※※は縫製下請けを行うかたわら、読谷村出身の山内※※、喜納※※から受け継いだフェイラ(青空市場)でのパステイス(パステル:挽肉などを包んで揚げたもの)販売も手がけた。その販売業は12年ほど続いた。
 1980年代半ば頃、サンパウロ市東部に住む沖縄県人の間で金物小売が流行っていた。※※も金物業か建築資材の販売が有望と考え、従業員込みでペンキ屋を購入した。ペンキ屋は順調に業績を上げ、現在は2店舗を保有している。
 
山内※※一家(第4次移民)
 戦後、軍作業に従事していた山内※※は、沖縄には将来の夢が持てないと考え、南米で広大な土地をもらって大規模な農業を営むという希望を持って移民を決意した。※※が28歳のとき、妻※※、長男※※、次男※※、弟※※、※※、姉※※と母※※の8人で、カッペン第4次移民としてブラジルに渡航した。
 
050306-ブラジル丸渡航記念
1960年(昭和35)神戸移民斡旋所前での
ぶらじる丸乗船者渡航記念

 
 1960年(昭和35)10月10日にサントス港に到着し、そこから汽車で移動し、カッペンには12月に入植した。
 1961年(昭和36)には、資金も食糧も底をつき、他の10家族とともにカッペンを退耕することにした。クヤバの町に住んでいた他府県出身の上村さんという測量士が所有する農場で歩合農として働くことになった。山を伐採し、米、フェイジョン(豆)、ミーリョ(トウモロコシ)を栽培し、退耕する際には、牧草地にするという契約を交わした。食糧や日用品はすべて農家のVenda(セール)で購入していたが、インフレのため、借金に追われる生活が続いた。
 4年間ここで歩合農として過ごしたが、他人に雇われる生活には限界があり、カンポグランデに移動することを決意した。再び10家族で引っ越すことになった。そこでは、羽地村出身の親川さんの所有するシゲレイロ耕地で1ヘクタールの耕地を借りて野菜作りを行った。主としてトマトを栽培したが、市場での値段があまりにも安く、生活は苦しかった。
 将来に不安を抱いた※※は、サンパウロでCeasa(大きな市場)の仲買人をやっていた伊礼※※さん(元カッペン移民)をたずねて様子を見に行った。ここならばなんとか生活ができると考え、家族での移動を決めた。伊礼さんの土地を借り、野菜作りを始めた。家族一緒の移動のつもりが、弟たちはクヤバへ移動しメルカード(スーパーマーケット)の仕事やホテル経営をするようになった。
 ※※はサンパウロで4年間借地農として生計を立てていたが、生活は依然として苦しかった。弟や義兄弟を頼って、クヤバへと引き返すことにした。クヤバではレストランを15年ほど経営した。
 その後、再びサンパウロへ戻り、市内東部のサンミゲール地区でブラジル料理屋を始めた。そこには1988年(昭和63)くらいまで住んでいた。
 当時、ブラジルの日系社会では日本への「出稼ぎ」がブームだったこともあり、※※の子どもたちも日本へ出稼ぎに行っていた。※※の妻が日本へ行きたいと言ったことをきっかけに、ブラジル料理屋を売却し、家族で日本に出稼ぎに行くことにした。
 日本では、息子を頼って愛知県岡崎市に行った。そこで4年間働き、1992年(平成4)3月には再びブラジルに渡航した。
 
 

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