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第5章 渡慶次区民の移民・出稼ぎ
第2節 戦後の移民
1945年(昭和20)太平洋戦争の敗戦によって、戦前多くの移住者が渡航した南洋群島、台湾、満州などの入植地は日本の領土ではなくなった。焦土と化した沖縄へそれらの国及び地域にいた者の引き揚げが始まった。しかし、米軍の土地接収により畑地の面積が限られたことや労働者を雇用する民間の事業所も少なく、失業者があふれる状態だった。そんな中、海外の県人会から届くたくさんの救援物資が沖縄復興の一助となった。また、生活に困窮する沖縄から脱し、広大な南米へ移って来ることができるように海外の沖縄県人会が移民受入の体制を整え、琉球政府と協力して移民奨励なども行うようになっていった。
沖縄からの戦後の海外移民は他府県よりも早く、1948年(昭和23)アルゼンチンからの呼び寄せで33人が渡航したことに始まる。家族や同郷者の呼び寄せによる自由移民に加えて、1954年(昭和29)からは琉球政府によるボリビアへの計画移民やブラジルへの産業開発青年隊の移民などが盛んに行われるようになった。これらの移民は、当時の琉球政府の社会局移民課によって行われ、移民金庫の融資も受けていた。このように琉球政府の移民政策と、住民の移民熱の高まる中、1958年(昭和33)には、民間による計画移民も出てきた。
読谷村からも1954年(昭和29)、戦後初の海外移民がボリビアへと出発した。以降、ブラジルやアルゼンチンへ多くの村民が雄飛している。また、将来海外移民を志望する青年、郷土で農村中堅青年として活躍しようとする青年に対して「働きながら学ぶ集団」として自治訓練を行い、共同生活を通して真に汗を流して働くことを喜び得る青年を養成する目的で「沖縄産業開発青年隊」が募集されるようになった。『読谷村だより(広報よみたんの前身)』第25号には1958年(昭和33)までの青年隊修了者名簿が掲載されている。
年次別 移住国別 移住者数
(読谷村役所経済課)
(読谷村史研究資料No.31より)
字別移住先別移住者数(1954年〜1963年)
(読谷村役所経済課)
沖縄産業開発青年隊修了者名簿
1958年7月31日
(「読谷村だより」第25号より渡慶次出身者を抜粋)
戦後、長期にわたり郷土渡慶次への復帰が許されず、高志保での仮住まいを強いられていたことやボーロ飛行場用地として大部分の耕作地が接収されていた歴史的背景がありながらも、渡慶次は近隣の字に比べ移民者数がそれほど多くない。
次に、渡慶次から希望を抱いてボリビア、ブラジルへ雄飛した渡慶次出身者の名簿及び状況を国別に見ていく。
ボリビア
ボリビアは南米大陸のほぼ中央に位置し、ブラジル、アルゼンチンなどの国に囲まれた内陸国である。
『ボリビア・コロニア沖縄入植25周年誌』によると、1899年(明治32)から始まったペルー移民が、アンデス山脈を越えてボリビアに入国したのが始まりであるとされている。1910年(明治43)には沖縄県人が入国したという記録もあり、それらの人々は野生ゴム林で就労していた。しかし、ゴム景気が後退すると沖縄へ帰国した者やペルーに戻った者もいた。大部分はボリビアの各地で農業や牧畜、商業を営むようになった。
太平洋戦争後、ボリビアに残った県出身者が沖縄戦災救援会を組織し、郷土への救援活動を開始した。金品の送付だけでなく、ボリビアに沖縄村(うるま移住地)を建設し、沖縄からの移民者を受け入れる事業が行われるようになった。1954年(昭和29)琉球政府は移民金庫を創設し、希望者には渡航資金、支度金、定着資金、営農資金を融資した。そして、第1次ボリビア計画移民として272名が送り出された。
ボリビア移民名簿
『海外移住者子弟研修生受け入れ事業10周年記念誌読谷村』より
※儀間※※以下7名は、資料によると渡航年月日が1958年(昭和33)10月19日となっているが、儀間※※の証言をもとに1960年(昭和35)4月に訂正した。
これを契機に、1964年(昭和39)の第19次計画移民までに572世帯、3371名が移住した。
読谷村からは1954年(昭和29)の第1次渡航で22名が渡航したのを皮切りに1963年(昭和38)までに365名、60家族が渡航した。字別渡航者数から見て移住者数の一番多い瀬名波は、当時琉球政府移民金庫の事務局長をしていた知花※※を中心にボリビアへ集団移民をしている。渡慶次からも瀬名波のボリビア移住者と縁戚関係にあった者などが移住した。(読谷村史研究資料31参照)
1958年(昭和33)に渡航した与那覇※※は、家族より一足先にボリビアに移住している。当時は独身者の渡航は難しかったため、琉球政府移民金庫の事務局長知花※※の取り計らいで、瀬名波区の祖慶※※家族の一員として移民した。その後1960年(昭和35)に第10次移民として渡航してきた家族と合流することになった。
ジャングルを切り開いての当初の生活は、気候風土や言語、習慣も違い戸惑いも大きかった。また熱病(うるま病)の発生や蚊、ダニ、蟻などの害虫にも悩まされた。その上、河川の氾濫による水害や旱魃(かんばつ)などで移動を余儀なくされるなど苦労も多かった。以下に、第10次ボリビア移民として移民した儀間※※の体験談を紹介する。(読谷村史研究資料No.32より修正加筆した。)
ボリビア移民体験
私たち家族は、読谷に移動許可が下りてから1947年(昭和22)に具志川に戻った。戦後、姉が具志川に嫁いだこともあり、具志川とは縁があるように思える。
小さい頃は勉強というよりもンムチュクヤー(芋作り)ばっかりさせられていた。芋を食べて生活していたので、大きい芋をたくさん作るためシルンムー(白芋)やスビクラガー(楚辺暗川)、百号などを栽培していた。紅芋は無かった。芋を作るのは豚のえさにするためでもあった。芋を炊いたら、そこからおいしいものを選んで自分たちのものとして取っておいて、残ったものは豚にあげた。その豚が糞をすると、刈ったススキやマカヤを敷いて踏ませていた。毎日それを掃除して畑まで持って行って堆肥にする、というのが日課だった。どの家庭でもしていた。
またうちは稲作もしていたので、田植えや田草取りもさせられた。小学校4年生頃には大人並みに仕事をしていた。一斗缶に水をいっぱい汲んで担ぐこともできた。
読谷村からの戦後移民は、字瀬名波出身の知花※※がボリビアを視察に行ったことから始まる。瀬名波の人だったから、1958年(昭和33)の第6次ボリビア移民には瀬名波から多くの人が行った。その中にうちのムーク(婿)の知花※※がいた。そこで「いい所(トゥクマ)やぐとぅ早(ヘー)くくーわ」と呼ばれて行くことになった。
その当時、畑地は米軍のボーロポイント飛行場に取られていて、畑も十分にできなかった。鉄砲をグヮーラグヮーラして米兵は歩いているし、私達は薬莢を拾い集めて歩く様な時代だった。「ギブミー民族」という言葉もあったほどで、土地も使えないし、食べ物もなかった。
戦前フィリピンに移民して帰ってきた人から、ボリビアでは羽地ターブックヮ(名護の羽地にあった広く肥沃な田んぼ)の面積分を1人でもらえるという話を聞いた。「ボリビアへ行けばみんな食える」という希望も出て、米軍の軍作業や薬莢等を拾って暮らすよりは広い海外へ出た方が良いと考えるようになった。
私が13歳の中学生の時、1960年(昭和35)4月19日、第10次ボリビア移民としてボイスベン号に乗り、家族でボリビアに移民することになった。
南米移民の出港
ンムチュクヤーの生活から抜け出せることがとても楽しみで、移民に行くことにわくわくしていた。
先にボリビアに移民していた義兄たちに教えられ、沖縄からカバ(米軍野戦用テント布)、馬の鞍、ジープのタイヤ、石臼など何もかもたくさん準備した。軍用地料を10年払いでもらって、その資金でトラックも購入して渡航した。
ボリビア移民は、1次〜4次移民までは相当苦労したようだ。井戸もなく、水には本当に困ったという。私たちは10次移民だったが、モータクー(ヤシの葉)で屋根を作り、20メートルほどの長屋を造った。それからの最初の仕事は井戸を掘ることだった。打ち込みポンプという井戸を掘る機械が、第2コロニアに来たのでそれで掘った。井戸が掘られる前は、毎日川まで水を汲みに行って、生活用水や飲料水にしていた。しかし、雨季と乾季があり、水のない時期や洪水が起こる時期があった。水が枯れると動物もいなくなったし、水が満ちるといろんな動物が出てきた。水が多すぎると畑や家が水没することさえあった。
ボリビアはとにかく何もかもスケールが大きく、パパイヤもスイカもヘビも沖縄のものとは比べものにならないくらい大きかった。鳩くらいの鳥がパパイヤの実を食べていたのを見ていたが、だんだん食べ進めるうちに鳥が実の中にすっぽり入ってしまった。しっぽだけがパパイヤに空いた穴から出ていた。子どもだったから何にでも興味があったんだろうが、何もかもが珍しくて、自然の中にいるいろいろな生き物や植物をもっと見たい、知りたい、という好奇心が尽きなかった。鳥、虫、蟻、魚、木の実、芽など、何を見ても毎日発見と感動があった。
ヘビは頭としっぽを切ってから天ぷらにするとおいしかった。またバンデーラは、盛り土の大きな蟻の巣から蟻をとって食べる動物だった。色とりどりの鳥の美しさ、子猿との知恵比べ、そして何より、ギラギラ光る木には驚いた。金銀様々な色にギラギラ輝いている木があったが、不思議に思って近づいてよく見ると、光沢のある虫が隙間無くびっしり木に張り付いていた。あれは、開墾した後に木が生えて、山の中やふつうの時には見られない現象だと思う。
トイレットペーパーなどももちろん無かった。沖縄の人も昔はユウナの葉っぱを使っていた。ボリビアにはいろいろな植物の葉っぱがあったが、ピカピカーという1メートルほどの大きな葉っぱで、この葉には毒があって、指先で触るだけで痛かった。あるおばあさんがこの葉っぱでお尻を拭いてしまって、大変痛くてタライに水を入れてつかったという嘘のような本当の話もある。
早く移民した人ほど苦労をしているが、読谷から第2次移民としてボリビアに移住した喜友名※※という方がいる。私たち家族はこの人にとっても助けられた。この人は、自分自身が苦労した分、いろいろな面で知識も豊富で、「あんたたち無かったらこれ持っていきなさい」と言ってバナナやパパイヤを分けてくれた。また若い夫婦も子育てに大変苦労していた。近くに病院もないし薬もないから、子どもがひきつけを起こしたりしてもどうしていいか分からない状況で、子どもを亡くした人も多かった。
生活では沖縄から持って行った様々なものが役に立った。石臼で大豆をひいて豆腐を作ったり、収穫した稲を干すためにカバも必要だった。ボリビアでは陸稲を作るので、まず大木を伐採して焼き畑にする。そしてその木の根っこに稲を植えていく。雨さえ降れば豊作になった。風で倒されてもまたそのまま立って伸びていくほど土が肥えていた。育った稲を刈り取ると、同じように沖縄から持参した脱穀機で脱穀した。その米の干し方によって米が砕けてしまうこともあったし、雨が少なかったり多すぎたりしても砕けた。収穫した米はサンタクルスまで車で運んで売った。道路も舗装されてないので、でこぼこだった。
このようにボリビアで5年間農業をしていたが、1963年(昭和38)ごろブラジルのサンパウロに移った。サンパウロに行ったのも知花※※が先に行っていたからで、私たちもそこへ行き10年ぐらいクストゥーラ(縫製業)で生計を立てていた。忙しいときには1日の睡眠時間が2〜3時間になることもあった。
ブラジルで暮らしてから9年目を迎えた頃、母の※※が「沖縄を1度見てこよう」と沖縄へ再渡航した。そのとき、沖縄で姉が病気になり、そのまま沖縄に留まることになった。そのうちに沖縄の生活情報がボリビアにも届くようになり、宮城※※家族(屋号知花・字儀間)が帰沖したことをきっかけに、ボリビアから沖縄へ帰る人が増えてきた。
私も1973年(昭和48)頃、沖縄に戻ってきた。中学生から30歳前までは南米に暮らしていたので、南米の環境に馴染んでいた。ボリビアでは朝8時頃になるとすごく暑いが、夕方になると
儀間※※さん歓迎会(母の日)白百合会
1970年5月10日
冷え込んで震えるくらい寒くなって声も出せなくなるほどだった。沖縄に帰ってきても3年ぐらいはその感覚が残っていて、夕方になると冬服を着て、いつ寒さが来るかとビクビクしていた。
南米シンカは、今日、明日食べるものがないなどという苦労を共にしてきた人達だから、今でも会うと親戚のように感じる。自分たちで活路を見出してやってきたからこそ、今でも一生懸命働き生きる力がある。今の子どもたちも、自然と触れあう中で生きる力を付けてほしいと思う。
沖縄からの戦後の海外移民は他府県よりも早く、1948年(昭和23)アルゼンチンからの呼び寄せで33人が渡航したことに始まる。家族や同郷者の呼び寄せによる自由移民に加えて、1954年(昭和29)からは琉球政府によるボリビアへの計画移民やブラジルへの産業開発青年隊の移民などが盛んに行われるようになった。これらの移民は、当時の琉球政府の社会局移民課によって行われ、移民金庫の融資も受けていた。このように琉球政府の移民政策と、住民の移民熱の高まる中、1958年(昭和33)には、民間による計画移民も出てきた。
読谷村からも1954年(昭和29)、戦後初の海外移民がボリビアへと出発した。以降、ブラジルやアルゼンチンへ多くの村民が雄飛している。また、将来海外移民を志望する青年、郷土で農村中堅青年として活躍しようとする青年に対して「働きながら学ぶ集団」として自治訓練を行い、共同生活を通して真に汗を流して働くことを喜び得る青年を養成する目的で「沖縄産業開発青年隊」が募集されるようになった。『読谷村だより(広報よみたんの前身)』第25号には1958年(昭和33)までの青年隊修了者名簿が掲載されている。
年次別 移住国別 移住者数
(読谷村役所経済課)
年次 | ボリビア | ブラジル | アルゼンチン | 計 |
1954年 | 22 | 0 | 0 | 22 |
1955年 | 6 | 6 | 0 | 12 |
1956年 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1957年 | 8 | 3 | 13 | 24 |
1958年 | 49 | 8 | 0 | 57 |
1959年 | 22 | 21 | 0 | 43 |
1960年 | 70 | 105 | 7 | 182 |
1961年 | 50 | 19 | 3 | 72 |
1962年 | 125 | 11 | 0 | 136 |
1963年 | 13 | 0 | 6 | 19 |
計 | 365 | 173 | 29 | 567 |
字別移住先別移住者数(1954年〜1963年)
(読谷村役所経済課)
ボリビア | ブラジル | アルゼンチン | 計 | |
渡慶次 | 19 | 8 | 0 | 27 |
喜名 | 9 | 3 | 5 | 17 |
座喜味 | 58 | 0 | 0 | 58 |
伊良皆 | 0 | 4 | 0 | 4 |
上地 | 0 | 4 | 0 | 4 |
波平 | 30 | 32 | 0 | 62 |
都屋 | 6 | 27 | 0 | 33 |
高志保 | 0 | 10 | 0 | 10 |
儀間 | 13 | 9 | 0 | 22 |
宇座 | 8 | 42 | 0 | 50 |
瀬名波 | 160 | 12 | 0 | 172 |
長浜 | 10 | 9 | 0 | 19 |
楚辺 | 22 | 3 | 9 | 34 |
比謝 | 18 | 0 | 8 | 26 |
大湾 | 0 | 0 | 7 | 7 |
古堅 | 4 | 0 | 0 | 4 |
大木 | 0 | 3 | 0 | 3 |
牧原 | 8 | 7 | 0 | 15 |
計 | 365 | 173 | 29 | 567 |
沖縄産業開発青年隊修了者名簿
1958年7月31日
期別 | 氏名 | キャンプ名 | 住所 | 備考 |
第三期 | 大城※※ | 名護キャンプ | 字渡慶次 | |
第五期 | 山城※※ | 大保キャンプ | 字渡慶次五班 | |
〃 | 小橋川※※ | 〃 | 〃 | |
第十期 | 宜保※※ | 大里キャンプ | 字渡慶次 | 入所中 |
戦後、長期にわたり郷土渡慶次への復帰が許されず、高志保での仮住まいを強いられていたことやボーロ飛行場用地として大部分の耕作地が接収されていた歴史的背景がありながらも、渡慶次は近隣の字に比べ移民者数がそれほど多くない。
次に、渡慶次から希望を抱いてボリビア、ブラジルへ雄飛した渡慶次出身者の名簿及び状況を国別に見ていく。
ボリビア
ボリビアは南米大陸のほぼ中央に位置し、ブラジル、アルゼンチンなどの国に囲まれた内陸国である。
『ボリビア・コロニア沖縄入植25周年誌』によると、1899年(明治32)から始まったペルー移民が、アンデス山脈を越えてボリビアに入国したのが始まりであるとされている。1910年(明治43)には沖縄県人が入国したという記録もあり、それらの人々は野生ゴム林で就労していた。しかし、ゴム景気が後退すると沖縄へ帰国した者やペルーに戻った者もいた。大部分はボリビアの各地で農業や牧畜、商業を営むようになった。
太平洋戦争後、ボリビアに残った県出身者が沖縄戦災救援会を組織し、郷土への救援活動を開始した。金品の送付だけでなく、ボリビアに沖縄村(うるま移住地)を建設し、沖縄からの移民者を受け入れる事業が行われるようになった。1954年(昭和29)琉球政府は移民金庫を創設し、希望者には渡航資金、支度金、定着資金、営農資金を融資した。そして、第1次ボリビア計画移民として272名が送り出された。
ボリビア移民名簿
本籍地 | 氏名 | 生年月日 | 渡航年月日 |
与那覇※※ | 1939. | 1958.10 | |
瀬名波 | 儀間※※ | 1905. | 1960.4 |
※※ | 1929. | 1960.4 | |
※※ | 1950. | 1960.4 | |
※※ | 1942. | 1960.4 | |
※※ | 1945. | 1960.4 | |
※※ | 1945. | 1960.4 | |
※※ | 1949. | 1960.4 | |
※※ | 1939. | 1960.4 | |
渡慶次 | 与那覇※※ | 1884 | 1960.4 |
※※ | 1918. | 1960.4 | |
※※ | 1911. | 1960.4 | |
※※ | 1943. | 1960.4 | |
※※ | 1947. | 1960.4 | |
※※ | 1953. | 1960.4 | |
※※ | 1955. | 1960.4 | |
※※ | 1959. | 1960.4 |
※儀間※※以下7名は、資料によると渡航年月日が1958年(昭和33)10月19日となっているが、儀間※※の証言をもとに1960年(昭和35)4月に訂正した。
これを契機に、1964年(昭和39)の第19次計画移民までに572世帯、3371名が移住した。
読谷村からは1954年(昭和29)の第1次渡航で22名が渡航したのを皮切りに1963年(昭和38)までに365名、60家族が渡航した。字別渡航者数から見て移住者数の一番多い瀬名波は、当時琉球政府移民金庫の事務局長をしていた知花※※を中心にボリビアへ集団移民をしている。渡慶次からも瀬名波のボリビア移住者と縁戚関係にあった者などが移住した。(読谷村史研究資料31参照)
1958年(昭和33)に渡航した与那覇※※は、家族より一足先にボリビアに移住している。当時は独身者の渡航は難しかったため、琉球政府移民金庫の事務局長知花※※の取り計らいで、瀬名波区の祖慶※※家族の一員として移民した。その後1960年(昭和35)に第10次移民として渡航してきた家族と合流することになった。
ジャングルを切り開いての当初の生活は、気候風土や言語、習慣も違い戸惑いも大きかった。また熱病(うるま病)の発生や蚊、ダニ、蟻などの害虫にも悩まされた。その上、河川の氾濫による水害や旱魃(かんばつ)などで移動を余儀なくされるなど苦労も多かった。以下に、第10次ボリビア移民として移民した儀間※※の体験談を紹介する。(読谷村史研究資料No.32より修正加筆した。)
ボリビア移民体験
儀間※※(昭和20年生)
私は1945年(昭和20)に具志川で生まれた。沖縄戦当時、お腹の大きな母は、子どもたちを連れて山原(国頭村辺土名)まで避難していたが、再び渡慶次に戻り、ガン屋(ヤー)にいたそうだ。ここで米兵に捕虜にとられたわけだが、その時母がお腹をさすってジェスチャーで「動けない」と伝えたため、赤十字のマークの車に担架で運ばれて具志川の高江洲に連れて行かれ、そこで私が生まれた。私たち家族は、読谷に移動許可が下りてから1947年(昭和22)に具志川に戻った。戦後、姉が具志川に嫁いだこともあり、具志川とは縁があるように思える。
小さい頃は勉強というよりもンムチュクヤー(芋作り)ばっかりさせられていた。芋を食べて生活していたので、大きい芋をたくさん作るためシルンムー(白芋)やスビクラガー(楚辺暗川)、百号などを栽培していた。紅芋は無かった。芋を作るのは豚のえさにするためでもあった。芋を炊いたら、そこからおいしいものを選んで自分たちのものとして取っておいて、残ったものは豚にあげた。その豚が糞をすると、刈ったススキやマカヤを敷いて踏ませていた。毎日それを掃除して畑まで持って行って堆肥にする、というのが日課だった。どの家庭でもしていた。
またうちは稲作もしていたので、田植えや田草取りもさせられた。小学校4年生頃には大人並みに仕事をしていた。一斗缶に水をいっぱい汲んで担ぐこともできた。
読谷村からの戦後移民は、字瀬名波出身の知花※※がボリビアを視察に行ったことから始まる。瀬名波の人だったから、1958年(昭和33)の第6次ボリビア移民には瀬名波から多くの人が行った。その中にうちのムーク(婿)の知花※※がいた。そこで「いい所(トゥクマ)やぐとぅ早(ヘー)くくーわ」と呼ばれて行くことになった。
その当時、畑地は米軍のボーロポイント飛行場に取られていて、畑も十分にできなかった。鉄砲をグヮーラグヮーラして米兵は歩いているし、私達は薬莢を拾い集めて歩く様な時代だった。「ギブミー民族」という言葉もあったほどで、土地も使えないし、食べ物もなかった。
戦前フィリピンに移民して帰ってきた人から、ボリビアでは羽地ターブックヮ(名護の羽地にあった広く肥沃な田んぼ)の面積分を1人でもらえるという話を聞いた。「ボリビアへ行けばみんな食える」という希望も出て、米軍の軍作業や薬莢等を拾って暮らすよりは広い海外へ出た方が良いと考えるようになった。
私が13歳の中学生の時、1960年(昭和35)4月19日、第10次ボリビア移民としてボイスベン号に乗り、家族でボリビアに移民することになった。
南米移民の出港
ンムチュクヤーの生活から抜け出せることがとても楽しみで、移民に行くことにわくわくしていた。
先にボリビアに移民していた義兄たちに教えられ、沖縄からカバ(米軍野戦用テント布)、馬の鞍、ジープのタイヤ、石臼など何もかもたくさん準備した。軍用地料を10年払いでもらって、その資金でトラックも購入して渡航した。
ボリビア移民は、1次〜4次移民までは相当苦労したようだ。井戸もなく、水には本当に困ったという。私たちは10次移民だったが、モータクー(ヤシの葉)で屋根を作り、20メートルほどの長屋を造った。それからの最初の仕事は井戸を掘ることだった。打ち込みポンプという井戸を掘る機械が、第2コロニアに来たのでそれで掘った。井戸が掘られる前は、毎日川まで水を汲みに行って、生活用水や飲料水にしていた。しかし、雨季と乾季があり、水のない時期や洪水が起こる時期があった。水が枯れると動物もいなくなったし、水が満ちるといろんな動物が出てきた。水が多すぎると畑や家が水没することさえあった。
ボリビアはとにかく何もかもスケールが大きく、パパイヤもスイカもヘビも沖縄のものとは比べものにならないくらい大きかった。鳩くらいの鳥がパパイヤの実を食べていたのを見ていたが、だんだん食べ進めるうちに鳥が実の中にすっぽり入ってしまった。しっぽだけがパパイヤに空いた穴から出ていた。子どもだったから何にでも興味があったんだろうが、何もかもが珍しくて、自然の中にいるいろいろな生き物や植物をもっと見たい、知りたい、という好奇心が尽きなかった。鳥、虫、蟻、魚、木の実、芽など、何を見ても毎日発見と感動があった。
ヘビは頭としっぽを切ってから天ぷらにするとおいしかった。またバンデーラは、盛り土の大きな蟻の巣から蟻をとって食べる動物だった。色とりどりの鳥の美しさ、子猿との知恵比べ、そして何より、ギラギラ光る木には驚いた。金銀様々な色にギラギラ輝いている木があったが、不思議に思って近づいてよく見ると、光沢のある虫が隙間無くびっしり木に張り付いていた。あれは、開墾した後に木が生えて、山の中やふつうの時には見られない現象だと思う。
トイレットペーパーなどももちろん無かった。沖縄の人も昔はユウナの葉っぱを使っていた。ボリビアにはいろいろな植物の葉っぱがあったが、ピカピカーという1メートルほどの大きな葉っぱで、この葉には毒があって、指先で触るだけで痛かった。あるおばあさんがこの葉っぱでお尻を拭いてしまって、大変痛くてタライに水を入れてつかったという嘘のような本当の話もある。
早く移民した人ほど苦労をしているが、読谷から第2次移民としてボリビアに移住した喜友名※※という方がいる。私たち家族はこの人にとっても助けられた。この人は、自分自身が苦労した分、いろいろな面で知識も豊富で、「あんたたち無かったらこれ持っていきなさい」と言ってバナナやパパイヤを分けてくれた。また若い夫婦も子育てに大変苦労していた。近くに病院もないし薬もないから、子どもがひきつけを起こしたりしてもどうしていいか分からない状況で、子どもを亡くした人も多かった。
生活では沖縄から持って行った様々なものが役に立った。石臼で大豆をひいて豆腐を作ったり、収穫した稲を干すためにカバも必要だった。ボリビアでは陸稲を作るので、まず大木を伐採して焼き畑にする。そしてその木の根っこに稲を植えていく。雨さえ降れば豊作になった。風で倒されてもまたそのまま立って伸びていくほど土が肥えていた。育った稲を刈り取ると、同じように沖縄から持参した脱穀機で脱穀した。その米の干し方によって米が砕けてしまうこともあったし、雨が少なかったり多すぎたりしても砕けた。収穫した米はサンタクルスまで車で運んで売った。道路も舗装されてないので、でこぼこだった。
このようにボリビアで5年間農業をしていたが、1963年(昭和38)ごろブラジルのサンパウロに移った。サンパウロに行ったのも知花※※が先に行っていたからで、私たちもそこへ行き10年ぐらいクストゥーラ(縫製業)で生計を立てていた。忙しいときには1日の睡眠時間が2〜3時間になることもあった。
ブラジルで暮らしてから9年目を迎えた頃、母の※※が「沖縄を1度見てこよう」と沖縄へ再渡航した。そのとき、沖縄で姉が病気になり、そのまま沖縄に留まることになった。そのうちに沖縄の生活情報がボリビアにも届くようになり、宮城※※家族(屋号知花・字儀間)が帰沖したことをきっかけに、ボリビアから沖縄へ帰る人が増えてきた。
私も1973年(昭和48)頃、沖縄に戻ってきた。中学生から30歳前までは南米に暮らしていたので、南米の環境に馴染んでいた。ボリビアでは朝8時頃になるとすごく暑いが、夕方になると
儀間※※さん歓迎会(母の日)白百合会
1970年5月10日
冷え込んで震えるくらい寒くなって声も出せなくなるほどだった。沖縄に帰ってきても3年ぐらいはその感覚が残っていて、夕方になると冬服を着て、いつ寒さが来るかとビクビクしていた。
南米シンカは、今日、明日食べるものがないなどという苦労を共にしてきた人達だから、今でも会うと親戚のように感じる。自分たちで活路を見出してやってきたからこそ、今でも一生懸命働き生きる力がある。今の子どもたちも、自然と触れあう中で生きる力を付けてほしいと思う。