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第6章 渡慶次の産業経済と基盤整備
第2節 渡慶次の産業
1 製糖業の歴史
(1)甘蔗の伝来
今日甘味料といえばすぐ砂糖を思い浮かべる。しかし、砂糖と呼ばれるものにもいろいろある。甘蔗糖、甜菜糖(てんさいとう)の他、ヤシ糖、トウモロコシ糖および楓(かえで)糖などの各種があり、いずれも植物から採取されることを特徴としているが、今日では石炭から生産されたサッカリンもある。その中でもサトウキビから取れる砂糖(甘蔗糖、蔗糖)が主流である。
甘蔗の原産地はインドであったが、それがイラン、メソポタミア、シリアなどを経て地中海のキプロス島に渡り、大西洋のカナリア諸島から新大陸へ渡った。
一方、インドからビルマ(現在のミャンマー)を通り中国に伝わったものやジャワに渡ったものがあり、それらが各地へ広がっていった。
中国から日本への渡来は、琉球と長崎がその受入口となったといわれている。わけても甘蔗伝来の中心は琉球であった。
(2)甘蔗は読谷山から
甘蔗はいつ頃琉球に入ってきたであろうか。『琉球国旧記』−1731年(享保16)−には「本国自古有甘蔗(本国いにしえより甘蔗あり)」とあるだけで年代ははっきりしない。『李朝実録』−1429年(永享1)の記録には「甘蔗の味は甜美であり生でこれを食し、(中略)また煮て砂糖となす。琉球国、江南に得る。」とあり、これを受けて豊田武は、甘蔗はすでに15世紀の初め、江南より琉球に移植させられたらしいとしている。
しかし事実はそれよりずっと古く明の洪武7年(1374年(文中3))「王弟泰期、中国に進貢し、甘蔗を移植」と又吉真三編著『琉球歴史・文化史総合年表』に見える。これによると甘蔗を最初に琉球にいや日本に入れたのは、わが読谷山人(ユンタンザンチュ)の泰期だったということになる。
(3)琉球での製糖法の発達−人力から畜力そして水力へ
「儀間真常が中国から黒糖製造の技術を導入する以前の製糖方法は実に幼稚なものであった。甘蔗を2、3寸程にきって臼で搗(つ)きくだき、布の袋か竹製の篭に入れて糖汁をしぼり、その汁に石灰を加えて煮詰めていたという」(金城功著『近代沖縄の糖業』1985年)。
しかし、やがて中国で学ぶにつれ、製造法は確実に向上していった。
それまで二転式であったのが、真喜屋実清による三転式搾汁具の改良(1671年(寛文11))は日本独自のもので、画期的なものだった。この発明により搾汁歩留りも30〜35%と上がり、黒糖を製造するにはその三転式の木車が普及することになった。
更に、1854年〜1863年(安政1〜文久3)の頃、首里の饒波某が木製蔗茎圧搾器を改良して石製にし、搾汁歩留りも40%までに高めた。
1882年(明治15)、鉄車(鉄製圧搾器)の奨励が計られた。その圧搾器は縦子三転轆轤(ろくろ)で、歩留りも53%に高めていった。
1888年(明治21)中頭郡読谷山間切字牧原の開墾農場において水力を原動力とする横式鉄車を使用し、以後、中頭、島尻、国頭、久米島等水利のある各地には漸次この方法が普及していった。
ここでもまた読谷山が先駆けをしていたのである。
(4)機械製糖工場−汽力製糖工場
「明治39年には、糖業改良事務局が設置され、事務局の西原工場では英国製の機械を備え付けて製糖をおこなうことになった。政府経営の試験を主とする工場ではあったが、沖縄における最初の機械製糖工場として運転された」(金城功著『近代沖縄の糖業』)。
この工場は1911年(明治44)沖縄製糖株式会社へ有償払い下げされるが、同社は更に同年嘉手納に400トン工場を竣工させ、翌年操業を開始している。同社は、合併買収等々により1912年(大正1)に沖台拓殖製糖株式会社となり、1917年(大正6)には台南製糖株式会社に変わり、1932年(昭和7)には沖縄製糖株式会社と改称されている。
やがて村内でも製糖機械化が導入されるようになり、「村内には高志保に10屯、座喜味に20屯、楚辺、波平、伊良皆にそれぞれ30屯の計120屯の共同製糖工場と、在来の鉄車製糖工場が80か所(約300屯)もあり、昭和13年期には46000挺の含蜜糖を生産したこともあった」(読谷村役所『読谷村誌』1969年)。
(5)甘蔗増産への努力
「甘蔗は、1374年、察度王の代に支那から導入されたとみられるが、当時の甘蔗は竹蔗(チクチャ)の一種で、島荻(シマオギ)と呼ばれ、もっぱら甘味食物として利用されていた」(読谷村役所『読谷村誌』)。この甘蔗導入年は、先の読谷山人(ユンタンザンチュ)泰期が「中国から甘蔗を移殖」の記述と一致する。読谷山人(ユンタンザンチュ)泰期は王弟という名目で進貢正使となり、明の洪武帝に5回も進貢しているが、その2回目の渡明の帰りに甘蔗を招来したのである。
「沖縄の原生種には島荻(シマウージ)なる一種がある。慶長年間島津の琉球を攻撃した時に遠征軍が渇を覚えて噛(かじ)ったのは此種である。西暦1816年(文化13年)沖縄群島を踏査した英国の軍人ベーシルホールの探検記中にOojiの出来る事が記してある。Oojiは即ち土産(どさん)の荻である。(河野信治著『台湾・沖縄糖の市場及糖業政策』1922年(大正11))
(6)甘蔗の改良読谷山種の育成
甘蔗の改良でもまた読谷山人(ユンタンザンチュ)は先駆的役割を果たす。「島ウージ(竹蔗)は、節が大きく、節間は短くて小さく、ススキに似ている。この品種の繁殖法は、古株を掘り起こして移植する方法で繁殖していたようである。(中略)読谷山間切楚辺村の比嘉牛が、ある日さとうきびをたべて、その後の梢頭部を水がめの側につきさしておいたところ、数日後芽を出したので、これにヒントを得て、従来の繁殖法のほかに、梢頭部による繁殖法もできるのではないかと思い自来研究をつづけたということである。(いわゆる芽状変異による品種改良法)」(読谷村役所『読谷村誌』)
こうして比嘉牛の研究によって開発された「読谷山種の普及で、反収は4屯台を維持し、沖縄の糖業界に大きく貢献した」(前掲書)。
「読谷山荻は支那四川省の芦銭種、芳蔗系に属し、読谷山村に於て梢頭部を使用して栽植したもの」(樋口弘著『本邦糖業史』1943年(昭和18))。
一方河野信治はその著『台湾・沖縄糖の市場及糖業政策』の中で、世界中主要30種の甘蔗と読谷山種との圧搾歩合、ブリックス、反収等を比較し、結論として「読谷山種は如何なる点に於ても他種に劣るものにあらず之を台湾のローズバンブー種に比すれば純糖度に於て少しく劣れども蔗茎百分中可製糖率は却って優って居る。要するに読谷山種は各蔗種中傑出するものの一である」と高い評価を下している。
「この品種は、台湾へも移出されたことがあり、またさとうきびの主要生産国において品種改良の素材として広く利用され、さとうきびの品種改良に貢献したといわれている」(読谷村『読谷村誌』)。
ところが読谷山種の育成がいつ頃であったか、そのことが判明しない。よってここでは比嘉牛の出生年並びに没年から想像する以外にない。
比嘉牛は1812年(文化9)生まれで、1888年(明治21)4月5日に77歳で亡くなっている。そうなると読谷山種の育成は明治初期のころではなかっただろうか。1868年(明治元)には彼は56歳の初老(当時として)の域に入っていたはずである。
(7)優良種の導入−大茎種の普及
読谷山の地で発祥し明治、大正そして昭和初期まで蔗作の主流となり沖縄県糖業史の輝かしい一ページを飾った読谷山種も、やがてその栄光の座を大茎種に明け渡さなければならない時がやってきた。
大茎種普及に当ってはいろいろ非難もあったというが「大茎種のすぐれた点がみとめられ、昭和2年にはPOJ2714が県の奨励品種に指定されるようになった。(中略)昭和9年には、甘蔗の栽培面積中90パーセント以上を大茎種が占めるようになった。最初に普及したPOJ2714はやがて衰退しかわってPOJ2725が主流をしめるようになった。昭和14年には、大茎種が99パーセントをしめるようになった」(金城功著『近代沖縄の糖業』)
「大茎種POJ2725、POJ2778は、反収を6屯にまで引き上げたので、沖縄製糖KKもその普及に力をいれた。村当局も当時の大城又次郎村長が先頭に立ってその普及に努めた。農業技手に起用された比嘉良平氏は、村内の各農家甘蔗園をまわって栽培を指導した」(『読谷村誌』)
(8)渡慶次の製糖事業の推移
渡慶次の糖業は明治の初期から普及し始め、甘蔗の圧搾機も畜力による木車から、石車、鉄車に移り変わってきた。
甘蔗もこれまで小径の「読谷山種」から、台南製糖株式会社の奨励で1929年(昭和4)、POJ2725(大茎種)に変わった。反当り収量も伸び、耕地面積の半分が甘蔗だったという。
砂糖小屋(サーターヤー)も8舎24組からなっていた。1912年(明治45)1月、嘉手納水釜に沖縄製糖株式会社の400トン分蜜工場が操業開始してからは、甘蔗はそこへも搬入された。そのため、サーターヤーも整理縮小され、5舎15組(このうち前之川上は独自の舎を持つ)で1943年(昭和18)まで製糖が続けられた。
朝早くから製糖作業が始められ、1日がかりで3丁程仕上げ、その動力は組合員7、8人を要した。甘蔗1200斤ぐらいで1丁(正味120斤樽詰)が製糖された。
また、製糖会社側は買い付け甘蔗を運搬するため、トロッコ専用鉄軌道を敷設した。これが俗に「トゥルク道」と呼ばれた線路である。
◎[写真]本編参照
宮平※※画より
「甘蔗を運ぶトロッコ馬車」
1911年(明治44)12月4日の沖縄毎日新聞によると、「越来線・国直線・諸見里線・照屋線・島袋線・美里線・渡具知線・読谷山海岸線・伊良皆線・喜名線等にわかれてあるが其の内一番長いのは読谷山海岸線で5哩40鎖ある。此のレールの総延長25哩68鎖であって其の内15哩2鎖は既に敷設を完了して居る」となっている。
この読谷山海岸線は、宇座の事務所前から渡慶次カタノーに出て渡慶次小学校前を通り、まもなくして西に折れ、それから高志保、波平の西側を通り、都屋の東から楚辺の海岸寄りへ渡具知線と合流した。喜名線はエンミ毛で伊良皆線と合流し、さらに旧古堅小学校の南で渡具知線と合流して回転橋を渡り、工場へと進んだ。
トロッコは平台車であったが、両側に刺し棒をつけ、普通1.8屯程度の甘蔗を積載した。
製糖工場へ搬入する農家には甘蔗のウチバーという制度があった。ウチバーとは搬入額の一部を内金として前借りする方法で工場側と生産者の搬入の契約にもなっていた。
ほとんどの家庭が旧盆費用はこのウチバーに頼っていたので、当時の字書記は次年度の生産高を正確に把握する必要があった。借りたウチバーより甘蔗原料代が少ない場合は2倍にして返済するという規則もあったようで、慎重を要したという。
また当時の字書記は工場の担当員でもあり、工場から年間200円も支給されていたという。
このような製糖の流れも戦争で途絶え、避難先から移動して高志保に仮住まいの1948年(昭和23)頃、渡慶次青年会が方々にある甘蔗を刈り集めて、カタノーのサーターヤーで黒糖を作り区民に配ったのが、戦後の製糖の始まりである。
1956年(昭和31)農協の50トン製糖工場が波平の東側に設置されるやにわかに生産意欲が高まり、キビ作ブームとなった。しかし、操業3年にして負債を抱え、操業停止になった。その後は、製糖工場が県内の各地に建ち、甘蔗搬入はそこへ移っていった。その工場も閉鎖や合併をくり返し、現在はうるま市にある球陽製糖工場(2100トン)に搬入されている。本島南部地域は翔南製糖工場(2100トン)に搬入している。
沖縄の基幹産業である甘蔗は政治的保護策等があり今日まで続けられている。
(9)甘蔗栽培農家の今後の方向性
栽培農家の高齢化が急速に進み、しかも小規模経営が多く、圃場の散在化や手刈り収穫等沖縄の基幹産業である甘蔗栽培の前途は極めて厳しいものがある。
搬入価格の5分の4を国からの援助で支え、担い手育成を図るために、機械化による反収を上げ、安定した経営を目指して、2010年(平成22)より次の要件の1つを満たさなければ助成が打ち切られることになるという。
認定農業者
大規模農家
基幹作業の委託者
機械による共同利用の組織化
手刈作業のユイマール的組織化
現在渡慶次では約30戸の甘蔗栽培農家があるが、の機械による共同利用組織化に向けて検討している。
〔注〕
*書籍からの引用部分に関して、旧漢字引用部分も新漢字に改めた。また漢数字も数字に直した。
*球陽製糖株式会社(北部製糖株式会社の関連会社として紹介されている:
http://www.hokutou-sugar.co.jp/profile.html)
*哩(マイル)=1.609q、鎖(チェーン)=20.1168m(25哩68鎖=約42q、5哩40鎖=約9q)
関連資料
1)1980年(昭和55)〜2006年(平成18)までの甘蔗生産量及び農家数の推移グラフ
渡慶次まつりの資料に基づき、1980年(昭和55)以降のサトウキビの生産高と生産者を棒グラフと折れ線グラフで表したものである。
1980年(昭和55)は50名の生産者が、1986年(昭和61)には85名に増えている。その間、生産高も増加し、1989年(平成元)には1,941トンに達している。
渡慶次における甘庶生産量及び農家数の推移
これは西部連道の土地改良とも関連している。
それ以降は生産者の高齢化と農地を他字の菊栽培農家に貸したため、年々減少し、それに伴って生産高も右肩下がりの傾向にある。2003年(平成15)以降は、450〜500トンぐらいでほぼ横ばい状態となり、生産が行われている。
2)現在沖縄(渡慶次)で生産されている甘蔗の種類と特徴
(平成19年11月15日 沖縄県農業研究センター作物班作成資料参考)
名称 | 特 徴 | ||
○ | 農林8号 | NiF8 | ・早熟、高糖、多収で、可製糖量が多い。 ・さび病、黒穂病などの主要病害に対する抵抗性が強い。 ・脱葉しやすく、収穫作業の効率化が図れる。 ・台風にやや弱い。 |
○ | 農林15号 | Ni15 | ・収容は以前のNCo310と比較して春植、夏植で多く、株出しはやや少ない。 ・早期高糖で、甘蔗糖度が高いため、可製糖量は三作型(春植、夏植、株出し)ともに多い。 ・比較的台風に強い。 |
○ | 農林17号 | Ni17 | ・早期高糖性で風折抵抗性がすぐれ、台風の潮風害による糖度低下が小さく、台風による気象災害の影響が小さい。 ・萌芽が良く株出し収量はF177(K-1)より多い。 |
○ | 農林20号 | NiTn20 | ・発芽、萌芽、茎伸長が良く、春植、株出し共に良好。 ・早期高糖で12月収穫も可能。その後の株出しも良好。 ・既存品種の収量が少ない圃場でも多収が期待できる。 |
○ | 農林21号 | Ni21 | ・Nco310やF177よりも糖度が高い。 ・収量もNCo310より安定して多い。 ・風折抵抗性にすぐれ、台風による潮害後でも比較的糖度が高い。 |
農林23号 | Ni23 | ・発芽、萌芽が良く、茎伸長に優れている。 ・春植、夏植、株出しともに原料茎重が重く可製糖量が多い。 ・夏季に干ばつが発生した年でも、他の品種より収穫量が多い。 |
|
農林24号 | KN91-49 | ・NiF8に比べ、原料茎数は少なく、甘蔗糖度はやや低いが、1茎が重く原料茎重があるため、可製糖量が多い。 ・夏植による早期収穫ではNiF8に比べ、可製糖量が多い。11月収穫での甘蔗糖度は基準糖度(13.1%)以上で、10月からの収穫が可能な年もある。 ・株出し栽培で発病の多い黒穂病に対する抵抗性が強い。 |
|
農林26号 | RK95-1 | ・茎数が多く、株出し多収である。 ・早期高糖で、早期収穫に適している。 ・台風時の茎折損はF161より少ない。 ・夏植では10月から甘蔗糖度が基準以上で、可製糖量が多く、秋収穫も可能である。 |
|
○ | K-1 | F177 | ・可製糖量が多く、沖縄本島中南部のジャーガル土壌地域における春植栽培向きである。 ・1月頃から収穫可能で、2月から収穫最適期に入る。 |
2 その他の農業
◎ビニールハウス経営農家
氏名 | 作付け品目 | 坪数 | 経営年数 | 備考 |
国吉※※ | メロン ゴーヤー |
1,000 | 30年 | メロン年2回収穫 |
大城※※ | サヤインゲン ゴーヤー オクラ |
400 | 10年 | |
新垣※※ | ゴーヤー パパイヤ |
895 | 7年 | |
比嘉※※ | サヤインゲン ゴーヤー |
165 | 4年 | |
比嘉※※ | サヤインゲン ゴーヤー |
165 | 4年 | |
安田※※ 安田※※ |
パパイヤ | 892 | 7年 2年 |
|
安田※※ | パパイヤ ゴーヤー サヤインゲン |
570 | 7年 | |
安田※※ | ゴーヤー サヤインゲン パパイヤ |
570 | 15年 |