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第11章 渡慶次の芸能と年中祭祀
第6節 エイサーについて
1 戦前の渡慶次エイサー
読谷ではほとんどの字が戦前、エイサーを行っていた。演じる期日は2通りあり、ウークイ前の旧暦の7月14・15日とウークイ後の15・16日である。旧家で踊った後各家庭を回るわけだが、その目的は「カリー*1」をつけるためである。
1907年(明治40)の琉球新報に読谷のエイサー団についての記述がある。
集落内を練り歩くエイサー隊
ここから察すると、渡慶次においても戦前エイサーが行われており、年齢別に団を構成していたことがうかがえる。しかし、1913年(大正2)に打ち出された産業10年計画により、それまで興隆していたエイサー及びムラアシビが禁止された。それにより渡慶次のエイサーの歴史はいったん途絶えてしまうこととなった。
その後、1922年(大正11)に産業10年計画が終了し、他字に比べてもいち早くアシビトゥイケー*2を催した渡慶次であったが、次第に活気を帯びてきたムラアシビと違い、エイサーはムラアシビのようにはいかず、その後の太平洋戦争で再びエイサー・ムラアシビ等が禁止となったこともあり、エイサーの復興は戦後数年経ってからとなった。
1907年(明治40)の琉球新報に読谷のエイサー団についての記述がある。
〔前略〕欺くて其エイサーの当日行はれたるは上記の座喜味、高志保、楚辺、渡慶次等にて此処に一団一団去るもあれば来るもあり。其身飾踊り方、歌及び其の調子などは全く異ならず是等エイサーの組は色々にして其年配に依りて分たる。一は既婚者連、一は二十前後の未婚者連にして所請平素毛遊びの連中なりと云ふ。他は十四五才の少男少女の一団なり。彼等は其の一村中にても各区に分かれ此の三団に分かる。〔後略〕
(琉球新報、1907年8月31日)
(琉球新報、1907年8月31日)
集落内を練り歩くエイサー隊
ここから察すると、渡慶次においても戦前エイサーが行われており、年齢別に団を構成していたことがうかがえる。しかし、1913年(大正2)に打ち出された産業10年計画により、それまで興隆していたエイサー及びムラアシビが禁止された。それにより渡慶次のエイサーの歴史はいったん途絶えてしまうこととなった。
その後、1922年(大正11)に産業10年計画が終了し、他字に比べてもいち早くアシビトゥイケー*2を催した渡慶次であったが、次第に活気を帯びてきたムラアシビと違い、エイサーはムラアシビのようにはいかず、その後の太平洋戦争で再びエイサー・ムラアシビ等が禁止となったこともあり、エイサーの復興は戦後数年経ってからとなった。
2 戦後の渡慶次エイサーの復活
上述の経緯により渡慶次のエイサーは何年も途絶えており、戦前のエイサーについて知る者はいなかった。だが、12年に一度龕(ガン)と獅子の改修を行い、その後に改修のお披露目という形で道ジュネーが行われていた。旗頭を先頭にした仮装行列の際に使われていた楽曲が、現在エイサーでも使われる「スーリ東(アガリ)」であったと記憶する古老がいる。旧盆に行われるエイサーとは趣旨が違うが、行列をなし、曲を流しながら集落を練り歩くその姿はエイサーと通じるものがあると思われる。
現在のように旧暦の七月エイサー、お盆でのエイサーが行われるようになったのは1956年(昭和31)頃になってからである。その1、2か年前、旗スガシーのためにたまたま渡慶次区の区民が集まっている所へ宇加地の青年団がエイサーを踊るために読谷へやってきた。
そこで、渡慶次も招き渡慶次区民の前でも踊ってもらう事になった。宇加地青年団のエイサーを見た後、慰労のためにお酒を振舞っていたところ、区の先輩方から渡慶次青年会へ「お前達にも出来ないか」という話しが出て、やってみるようけしかけられた。公民館建設中の1956年(昭和31)の7月には締太鼓だけを持ち、各戸を廻ったが基礎も何もできてなく、粗雑に踊ったエイサーだったため余計に怒られてしまい、どうせやるならば本格的にやろうと発起した。
1958年(昭和33)、当時エイサーの先進地であったうるま市具志川の赤野・屋慶名・平敷屋等のエイサーを見て研究するようになった。そこはパーランクーを使ったエイサーが多かったが、渡慶次は角力大会等で集めた資金で、大太鼓2個、小太鼓10個を既に購入していたのでそれが生かせるように大太鼓・小太鼓を使ったエイサーをしている所を探して各地を廻った。
最初は習いに行くという気持ちではなく本当に「見に」行くだけのつもりであったということで、ガジュマルの影や草むらの方からこっそりと見ていた。
この時行ったメンバーは、運転手に神谷※※(現在安慶名在住)と車にぎりぎり乗る儀間※※・棚原※※・儀間※※・与那覇※※・与那覇※※・玉城※※の7名であった。
そして、宇堅のエイサーを見ている時に金城※※に見つかり、そこのエイサー団の円の中に呼ばれた。そこで与那覇※※が一緒に来ていた玉城※※のことを「読谷一の三線弾きですごいよ!」と切り出し、宇堅の青年団と渡慶次青年会との勝負のような形になってしまった。しかし、玉城※※は名が知られるほど三線の腕前が有名だったということと、玉城と金城※※が軍作業での知り合いだったこともあり、宇堅エイサーを教えてもらうことになった。
見学に行ったメンバーでそれぞれの分野に分かれて踊りの手を習った。
与那覇※※・神谷※※→大太鼓
棚原※※→締太鼓
儀間※※→女踊り
儀間※※・与那覇※※→男踊り
玉城※※→三線
3日間宇堅に習いに通った後、金城※※が読谷まで指導に来てくれることになり、予算の中から謝礼を払っていたが、3、4日間のみの指導であった。
ある程度踊りの手や振り付けが出来てくると、習った振り付けに自らアレンジして全体の構成を行った。全体構成には与那覇※※があたり、曲の1番、3番は宇堅で習った手で、2番、4番を渡慶次のオリジナルで組み立てた。その一番分かり易い例が「あやぐ節」である。構成としては今のものとほとんど同じである。
そして遂に第1回目のエイサーを4、5曲で実施することになり、玉城※※と※※の兄である玉城※※他8人が地謡を務めた。
当時エイサーは青年会独自で実施し、集めた寄付金を運動会や陸上競技大会等の経費に充てることがねらいだった。朝儀から始まり他字に居住している渡慶次区の各家庭を廻って再び渡慶次に戻るという行程だった。
最盛期には参加人数も多く、渡慶次集落内では二手に分かれて実施したこともあった。特に新築や改築をした家庭は必ずエイサー団を招き、「カリー」をつけてもらうのが慣わしだった。
現在のように公民館広場でやぐらを建て、その周りで踊るようになったのは1960年(昭和35)頃からである。婦人会の音頭舞踊を取り入れ、全区民で楽しみたいとの移行に賛同してのことであった。
字楚辺では生まれ年の青年層が大太鼓を叩くという慣わしがあるようだが、昔は渡慶次でも同じ事が行われていたという。大太鼓は迫力があり、団員のリーダーで憧れの的だったことは今も昔も変わりない。現在では適材適所で決めているのが実情のようだ。
また当時非協力的な会員には罰金を科す仕組みになっており、仕事等で参加できない会員は率先して寄付行為をしていた。学校や役場職員及び青年会のOBは交通整理や誘導係を務めたり、地謡の応援をしてサポートしていた。
衣装は、太鼓と地謡はクンジーを着け、踊り手は男女共に浴衣だった。その後男性の踊り手と太鼓打ちはウッチャキになった。1973年(昭和48)に開かれた若夏国体の開会式の集団演技に参加した際には、男子は全員ウッチャキに統一していた。
上記の若夏国体へは実行委員からの推薦で本島中部から読谷は渡慶次、楚辺、長浜、沖縄市は中之町のエイサーが参加した。会場は奥武山陸上競技場で各地のエイサーは統一された曲でそれぞれの地域の特色を生かした振り付けや衣装で踊った。80名余の人数が必要なため婦人会、健青会にも応援を依頼し、合同練習も数多くもたれた。大太鼓のリーダーが発する出だしの大声は太鼓の息を合わせるためのもので、若夏国体以降重要視されたようだ。当時社会教育に携わっていた宮城※※、仲本※※が中頭の婦人会の群舞やエイサーの演出にあたり、迫力あるアトラクションは今でもはっきりと関係者の脳裏に残っている。
現在のように旧暦の七月エイサー、お盆でのエイサーが行われるようになったのは1956年(昭和31)頃になってからである。その1、2か年前、旗スガシーのためにたまたま渡慶次区の区民が集まっている所へ宇加地の青年団がエイサーを踊るために読谷へやってきた。
そこで、渡慶次も招き渡慶次区民の前でも踊ってもらう事になった。宇加地青年団のエイサーを見た後、慰労のためにお酒を振舞っていたところ、区の先輩方から渡慶次青年会へ「お前達にも出来ないか」という話しが出て、やってみるようけしかけられた。公民館建設中の1956年(昭和31)の7月には締太鼓だけを持ち、各戸を廻ったが基礎も何もできてなく、粗雑に踊ったエイサーだったため余計に怒られてしまい、どうせやるならば本格的にやろうと発起した。
1958年(昭和33)、当時エイサーの先進地であったうるま市具志川の赤野・屋慶名・平敷屋等のエイサーを見て研究するようになった。そこはパーランクーを使ったエイサーが多かったが、渡慶次は角力大会等で集めた資金で、大太鼓2個、小太鼓10個を既に購入していたのでそれが生かせるように大太鼓・小太鼓を使ったエイサーをしている所を探して各地を廻った。
最初は習いに行くという気持ちではなく本当に「見に」行くだけのつもりであったということで、ガジュマルの影や草むらの方からこっそりと見ていた。
この時行ったメンバーは、運転手に神谷※※(現在安慶名在住)と車にぎりぎり乗る儀間※※・棚原※※・儀間※※・与那覇※※・与那覇※※・玉城※※の7名であった。
そして、宇堅のエイサーを見ている時に金城※※に見つかり、そこのエイサー団の円の中に呼ばれた。そこで与那覇※※が一緒に来ていた玉城※※のことを「読谷一の三線弾きですごいよ!」と切り出し、宇堅の青年団と渡慶次青年会との勝負のような形になってしまった。しかし、玉城※※は名が知られるほど三線の腕前が有名だったということと、玉城と金城※※が軍作業での知り合いだったこともあり、宇堅エイサーを教えてもらうことになった。
見学に行ったメンバーでそれぞれの分野に分かれて踊りの手を習った。
与那覇※※・神谷※※→大太鼓
棚原※※→締太鼓
儀間※※→女踊り
儀間※※・与那覇※※→男踊り
玉城※※→三線
3日間宇堅に習いに通った後、金城※※が読谷まで指導に来てくれることになり、予算の中から謝礼を払っていたが、3、4日間のみの指導であった。
ある程度踊りの手や振り付けが出来てくると、習った振り付けに自らアレンジして全体の構成を行った。全体構成には与那覇※※があたり、曲の1番、3番は宇堅で習った手で、2番、4番を渡慶次のオリジナルで組み立てた。その一番分かり易い例が「あやぐ節」である。構成としては今のものとほとんど同じである。
そして遂に第1回目のエイサーを4、5曲で実施することになり、玉城※※と※※の兄である玉城※※他8人が地謡を務めた。
当時エイサーは青年会独自で実施し、集めた寄付金を運動会や陸上競技大会等の経費に充てることがねらいだった。朝儀から始まり他字に居住している渡慶次区の各家庭を廻って再び渡慶次に戻るという行程だった。
最盛期には参加人数も多く、渡慶次集落内では二手に分かれて実施したこともあった。特に新築や改築をした家庭は必ずエイサー団を招き、「カリー」をつけてもらうのが慣わしだった。
現在のように公民館広場でやぐらを建て、その周りで踊るようになったのは1960年(昭和35)頃からである。婦人会の音頭舞踊を取り入れ、全区民で楽しみたいとの移行に賛同してのことであった。
字楚辺では生まれ年の青年層が大太鼓を叩くという慣わしがあるようだが、昔は渡慶次でも同じ事が行われていたという。大太鼓は迫力があり、団員のリーダーで憧れの的だったことは今も昔も変わりない。現在では適材適所で決めているのが実情のようだ。
また当時非協力的な会員には罰金を科す仕組みになっており、仕事等で参加できない会員は率先して寄付行為をしていた。学校や役場職員及び青年会のOBは交通整理や誘導係を務めたり、地謡の応援をしてサポートしていた。
衣装は、太鼓と地謡はクンジーを着け、踊り手は男女共に浴衣だった。その後男性の踊り手と太鼓打ちはウッチャキになった。1973年(昭和48)に開かれた若夏国体の開会式の集団演技に参加した際には、男子は全員ウッチャキに統一していた。
上記の若夏国体へは実行委員からの推薦で本島中部から読谷は渡慶次、楚辺、長浜、沖縄市は中之町のエイサーが参加した。会場は奥武山陸上競技場で各地のエイサーは統一された曲でそれぞれの地域の特色を生かした振り付けや衣装で踊った。80名余の人数が必要なため婦人会、健青会にも応援を依頼し、合同練習も数多くもたれた。大太鼓のリーダーが発する出だしの大声は太鼓の息を合わせるためのもので、若夏国体以降重要視されたようだ。当時社会教育に携わっていた宮城※※、仲本※※が中頭の婦人会の群舞やエイサーの演出にあたり、迫力あるアトラクションは今でもはっきりと関係者の脳裏に残っている。
3 現在の渡慶次エイサー
現在のエイサーも、当時と同じように公民館を出発し朝儀(アサギ)へ行く。朝儀から忠魂碑、高志保大通りそして公民館へと帰ってくる。その間で家々や商店を廻り、カリーをつけ、祝儀をもらって帰る。時間の都合で、今では2日に分けて集落内や企業などを廻っている。
朝儀での奉納エイサー
このように渡慶次のエイサーは戦前に一度途絶えたものの戦後青年会により再び創作され、現在まで引き継がれているのである。
当時の人からすると昔と比べ、今の踊りは簡略化されているため、踊りの深みが無いように感じられることもあるようだが、引き継がれていく中で踊りの手が今風にアレンジされていくことについては、肯定的な意見もある。それは、ほとんどゼロの状態からエイサーを創作していった当時を知る者にとって、自分たちで創作する喜びや、時代時代により踊りに関する意見・見方の違いがあることも知っているからである。エイサーが復興した当時の青年たちの熱い思いが今後も、渡慶次エイサーを担う青年たちへ伝わっていくことを願う。
――エイサーの曲順――
秋の踊り(出羽、歌ムチ)
久高節
仲順(チュンジュン)流り
スーリ東(アガリ)
前ン田(メーンター)節
イチュビ小(グヮー)節
バーキ節
あやぐ節
スラマンザイ節
与那国ヌ猫小(ユナグニヌマヤーグヮー)節
唐船ドーイ節
※ケーヒットリ節:昔はあったが今はなくなっている。
〔注〕
*1カリー:嘉例・吉例 めでたいこと 縁起のよいこと(国立国語研究所編『沖縄語辞典』1980.1.10.大蔵省印刷局)
*2アシビトゥイケー:「アシビ」は村芝居などを意味し、「トゥイケー」は交換や交流をすることである。部落同士がご馳走を食べながら、それぞれの歌や踊り、芸能を披露しながら交流すること。相手方は経済的に同規模の部落が選ばれ、ほぼ同人数での交流会を年に1回催すのが常であった。
アシビトゥイケーの日取りが決まると、青年たちは10日ほど前から松の木を切り、薪の準備をしたり、接待用の食料の手配など、その手はずを整えるために大忙しであった。当日は豚を3頭つぶし、豆腐や天ぷらなどで盛大にもてなすのである。
その日のスケジュールは、まず午前10時頃部落の入口に旗やのぼりを立てて相手方を迎えた。その後、双方が合流して行列(スネーイ)を行い、部落内に招き入れ、ご馳走でもてなす。夕方から踊りや芝居などが始まり深夜まで続いた。翌年は、相手方が同様に迎えるのである。(『読谷村史第4巻資料編3 読谷の民俗 下』p.218参照)
朝儀での奉納エイサー
このように渡慶次のエイサーは戦前に一度途絶えたものの戦後青年会により再び創作され、現在まで引き継がれているのである。
当時の人からすると昔と比べ、今の踊りは簡略化されているため、踊りの深みが無いように感じられることもあるようだが、引き継がれていく中で踊りの手が今風にアレンジされていくことについては、肯定的な意見もある。それは、ほとんどゼロの状態からエイサーを創作していった当時を知る者にとって、自分たちで創作する喜びや、時代時代により踊りに関する意見・見方の違いがあることも知っているからである。エイサーが復興した当時の青年たちの熱い思いが今後も、渡慶次エイサーを担う青年たちへ伝わっていくことを願う。
――エイサーの曲順――
秋の踊り(出羽、歌ムチ)
久高節
仲順(チュンジュン)流り
スーリ東(アガリ)
前ン田(メーンター)節
イチュビ小(グヮー)節
バーキ節
あやぐ節
スラマンザイ節
与那国ヌ猫小(ユナグニヌマヤーグヮー)節
唐船ドーイ節
※ケーヒットリ節:昔はあったが今はなくなっている。
〔注〕
*1カリー:嘉例・吉例 めでたいこと 縁起のよいこと(国立国語研究所編『沖縄語辞典』1980.1.10.大蔵省印刷局)
*2アシビトゥイケー:「アシビ」は村芝居などを意味し、「トゥイケー」は交換や交流をすることである。部落同士がご馳走を食べながら、それぞれの歌や踊り、芸能を披露しながら交流すること。相手方は経済的に同規模の部落が選ばれ、ほぼ同人数での交流会を年に1回催すのが常であった。
アシビトゥイケーの日取りが決まると、青年たちは10日ほど前から松の木を切り、薪の準備をしたり、接待用の食料の手配など、その手はずを整えるために大忙しであった。当日は豚を3頭つぶし、豆腐や天ぷらなどで盛大にもてなすのである。
その日のスケジュールは、まず午前10時頃部落の入口に旗やのぼりを立てて相手方を迎えた。その後、双方が合流して行列(スネーイ)を行い、部落内に招き入れ、ご馳走でもてなす。夕方から踊りや芝居などが始まり深夜まで続いた。翌年は、相手方が同様に迎えるのである。(『読谷村史第4巻資料編3 読谷の民俗 下』p.218参照)