続 渡慶次の歩み
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第4章 戦後復興期
第5節 渡慶次集落碁盤型道路完工までの歩み

3 舗装工事

 道路拡張工事は一段落したものの、コーラルを敷き、てん圧した道路であった。台風や大雨の度に流失、決壊し、その都度区民及び青年会等の労力で補修を行っていた。決壊、補修の応急処置が幾年も続き、多くの家庭では住宅前の道路をコンクリートで固めて急場をしのぐありさまだった。
 
040259-側溝の環境悪化
側溝がないため、環境悪化につながっていた
 
 舗装道路完工に至るまでの経過を読谷村担当課より入手した資料や聞き取り調査及び『農村基盤総合整備事業完工記念誌』よりたどってみよう。
 1982年(昭和57)高志保−宇座の約3〜4kmが読谷村の事業により完備され、同年渡慶次−波平の2〜3kmが基地周辺整備資金を活用して完工している。更に渡慶次126番地から儀間65番地への道路が完工した。
 1986年(昭和61)には近所原道を字が総工費の20%を負担し、完成を見ている。それ以前にも中道側溝工事やマサ当下庫理前の側溝等を政府の失業対策事業を導入して改修している。
 舗装工事は、自治会独自の資金では不可能であった。1982年(昭和57)から読谷村担当課との協議を重ねて、総工費の50%を渡慶次区で負担すれば年に一本は竣工可能との返事を得た。即刻行政委員会や区民総会の同意を得て推進することになった。
 ところで、住宅建築やブロック塀、擁壁工事等で道路に突き出し、その度に渡慶次区と地権者が相対する事例が起きている。特に宅地の転売が行われた村に起きている。道路拡張に同意を得た箇所さえそのような事例が発生したため、渡慶次区は次のような道路管理規程を設けて問題の解決にあたった。
 
渡慶次部落内道路管理規程
 序文
 昭和20年8月15日戦争は終結し 各地に避難していた区民避難地よりきょうりに移動が開始されたが 渡慶次部落えの移動について 米軍の許可が得られず 区民は高志保や波平に仮住居を構え一日も早く旧部落に帰れるように念じた
 旧部落は米軍によって跡形もなくひきならされて 生活に欠かすことのできない道路も無くなって居た 区民は部落の再建は まず道路の整備からを合言葉に道路整備委員会を発足させ 部落内道路整備作業を開始した。
 この道路の幅員は三間から最小限二間二尺とし ゴバン型に区画整備された このことは区民の総意に基づいてなされたものである
 戦争の犠牲となって打ち砕かれたきょう土 その再建に立ち向かった我等の先ぱいはいち速く道路整備を思い立った ゴバン型に整備された部落内道路は いく多の困難をこく服し将来を見越して 子そんのために決行されたものであり 一大い業と言わなければならない
 我等はこの業績をそん重し 部落民全体が大衆の公道であることを認識し各人がちつ序ある生活を営むために ここに部落内道路管理規程を制定する。
目的
第1条 この規程は渡慶次区民の総意に基づいて区画整備された部落内道路の維持管理を目的とする。
管理委員会
第2条 前条の目的を達成するために部落内道路管理委員会を設置する
管理委員は行政委員15名を以って構成し委員長は区長を以ってこれにあてる
道路の幅員
第3条 部落内中央道路は幅員3間としその他の道路は幅員2間2尺とする。ただしその他の道路の内幅員2間2尺以上を有する道路についてはその限りにあらず
2 前項の道路の位置 及び幅員は昭和22年土地所有権認定委員会(リュウキュウ列島米国海軍軍政本部指令第121号(1946年2月28日)の規程基づいて組織された土地所有権委員会をいう)の測量によって作成された公図を基順とする。
道路内建築制限及び管理者の立合い
第4条 建築物(建築基準法昭和25年法律第201号第2条第1号に規定する建築物をいう。以下同じ)又は擁へきは道路内に 又は道路に突き出して建築し 又は建造してはならない
2 前項の工事をなさんとする者は 管理委員長の立合いを得なければならない ただし 管理委員長は事を円かつに処理するために精通者を立合わせることができる
3 前項の立合いを得ようとする者は工事に着手しようとする七日前までに文書又は口頭により管理委員長に届出なければならない
 
違反建築物に対する措置
第5条 この規程に違反し管理委員長の立合いを得ずして建築物 又は擁へきを建造し それが道路に突出ていると認めた場合は 管理委員長は撤去を命ずることができる
第6条 この規程は昭和26年4月1日(1951年)から適用される
 
 このように完成したのが、図面(本書266頁)のである。この事業は1982年(昭和57)から1988年(昭和63)間で続いている。読谷村の対応費の増減により、側溝工事のみにとどまったり、舗装を中途で打ち切り次の機会に回したりで、なかなか思う通りの進捗はできなかった。
 さらに渡慶次区は舗装率は他字よりはいいので、他地域に事業を優先したとのことで年一本の工事は厳しくなった。
 ちょうどその頃、読谷村当局の努力で出てきたのが「農村基盤総合整備事業」であった。
 1988年度(昭和63)採択に向け渡慶次区長と儀間区長連名で次のように要請書を提出している。
 
昭和61年2月14日
読谷村長 山内徳信 殿
渡慶次区長 玉城健栄 印
儀間区長 高嶺修 印
 
農村基盤総合整備事業の導入方について(要請)
 
 初春の候、貴殿には益々御健勝のこととお慶び申し上げます。
 昭和57年度の構造改善事業による渡慶次集落センターの建設及び旧儀間地域への復帰先地公共施設整備事業、西部連道、渡慶次地区の土地改良総合整備事業等、環境基盤並びに生産基盤の整備に昼夜を問わず御努力下さいまして、区民一同大変喜んでおります。
 これもひとえに、村当局及び関係機関の御努力の賜であり、衷心より厚く感謝申し上げます。現在、渡慶次部落におきましては、村からの補助を受け、予算計上を行い集落内道路整備に努力いたしておりますが、未整備の道路及び排水路が約20本、延長にして4,500mもあり現在の年1本当たりの整備状態でいくと20年経過した後に、集落内の環境整備が整う状況にあります。
 儀間部落におきましては、戦後、区民に利用されてきた公民館も老朽化し、その建設については、部落の中におきましても幾度となく審議され更に資金積立の計画もなされている所で御ざいます。以上のことから、渡慶次集落内の道路、排水路、防災安全施設、公園緑地等の早期整備と併せて、儀間地域における農業多目的集会施設の建設が実現できます様、農村基盤総合整備事業の導入による取り組みを検討下さいまして、昭和63年度採択に向けて、事業導入が実施されます様貴職の特段の御配慮を要請致します。
 
 事業は予定通り採択され、渡慶次地区では事業推進委員会を立ち上げた。
 委員は次の通り。
 
渡慶次・儀間農村基盤総合整備事業推進委員(渡慶次のみ)
役職名 氏 名
推進委員長 与那覇※※
推進委員 山城※※
山内※※
山内※※
与那覇※※
 
字渡慶次農村基盤総合整備事業推進委員 1993年(平成5)度
役職名 氏 名
区長 与那覇徳市
推進委員 玉城※※
大城※※
玉城※※
玉城※※
安田※※
儀間※※
与那覇※※
福地※※
 
 

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