続 渡慶次の歩み
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コラム

 
自慢のトイレ
 集落センターが完成し、きれいな室内や使いやすい調理場など、建設に携わった関係者にとっても、区民にとっても自慢の公民館である。
 その中でも、ホールのトイレはとてもすばらしいと評判である。ホールでのイベントなどに対応できるのはもちろんだが、渡慶次まつりなど、外でのイベントの際には、外からも入れるようになっており、室内外両方から出入りができるようになっている。このような設計の珍しさもそうだが、公共施設の屋外トイレといえば、落書きやゴミ、悪臭などの問題で衛生環境が良くないことが多い。だが、渡慶次では、このようなことを防ぐため、外での行事以外には鍵が掛けられるようになっている。必要時には開放し、外からの利用もできるようにしている。ホールへとつながっているため、利用者も丁寧に利用し、また、公民館職員が室内の清掃の際に、キレイにしているため、いつも清潔で利用しやすくなっている。
010099-自慢のトイレ
 
収容所石川市の大火災
 
 1946年(昭和21)2月21日午後9時30分頃、9区9班(宮森小学校近く)より出火した。当時の石川市の家屋は茅葺きやテント張りの質素なものだった。折からの北風に煽(あお)られ、火は瞬く間に広がりをみせた。大声をかけ合いながら、風下の家屋を壊したり、屋根に上がって木の枝で飛んでくる火の粉をたたき落とすことぐらいしかできなかった。
 米軍の消防車も1台出動したが、火の勢いを止められず、消防士も消防車を残し現場を離れたため、その隙をつき消防車の物品を盗む人さえ出る始末であったという。
 当時石川在住の渡慶次区民はほとんどこの大火災の記憶があり、うるま新報では大火の様子を次のように報じている。
 
石川市の大火
 二月廿一日午后九時三十分頃、石川市九區九班新崎※※宅より出火、米軍當局警察民間協力して消火に努めたが折柄の強風に煽られて忽ち延火。九區十區に亘って百七十三戸(茅葺。テント張り世帯数五百九十六。罹災者二千一名)を灰燼に歸し十一時頃鎮火した。
 原因は台所の火の不始末で斯る不事件を惹起したことは建設途上の石川市にとって一大損失である。尚市當局は罹災者の救済に應急の處置をとり、毛布、シャツ、洋服食糧等の配給手配をすると共に家庭の主婦に對し警告するところがあった。
(1946年2月27日発行 ウルマ新報より)
 
◎[写真](本編参照)
火事の際の写真(米兵が撮影)
 
watching the 200 houses burn that we just built (私たちが建てたばかりの200軒の家屋の延焼を見ている)
うるま市立石川歴史民俗資料館所蔵写真
 
津波(シラギナミ)避難騒ぎ
 
 戦禍をくぐり抜け、各地の避難先からやっと石川に収容された1946年(昭和21)4月2日(火)午後8時頃、大津波がくるとの情報が流れた。
 家族、親戚、縁者を連れ添い、伊波城跡の高台へ急いだ。城内及びその周辺は家族の名を互いに大声で呼び合い、居場所を確認し合う等、てんやわんやの大騒ぎだった。
 ところが、9時になっても津波襲来の気配が無く、安堵の感で我が家に戻った。戦前、戦中もそうであったように確かな情報を得るすべを失っていたための大騒ぎとなってしまった。
 後で知ったことだが、米軍の一部から流れた「エイプリルフール」とのことだった。
 石川市役所の日誌簿には次のように記されている。
 四月二日 火曜日
一、天候 晴
一、風位 東
一、事項 午後八時ニ津波ガ襲来スル豫報ガアリ
  市民ハ各自適所ニ避難ヲナセリ
  同時刻ニ至ルモ襲来セズ直チニ解除ニナリ復帰ス
(「西暦一九四六年 日誌簿 石川市役所」より)
 
 2008年(平成20)沖縄県平和祈念資料館職員の平田※は、この津波避難騒ぎを同館の特別企画展「カンポーヌクェーヌクサー」で、「エイプリルフール」の笑い話的なコラムを意図して展示を企画していた。ところが、後に「津波警報」がほぼ事実と思われたためまじめな解説になり困ってしまったとのことである。
 この事実の根拠を字誌編集委員会で照会すると、池宮城秀意著『沖縄の戦場に生きた人たち』(サイマル出版会)の「憂愁の群れ」の文中に次の記述があることを指摘してくれた。
抜粋
(前略)
 平穏な日がつづいて、アメリカ軍上陸からちょうど1年たった4月2日の宵のことであった。夕食をすましてむだ話をたのしんでいるところに「警報」が飛んだ。
 「津波が襲ってくる。すぐ避難せよ」というのである。ハワイを襲った津波が、今夜沖縄方面にやってくるとの予想であった。アメリカ軍からの通報だった。海岸ぞいのアメリカ軍部隊も丘の上に避難している。ジープやトラックが飛び回っている。病人も女子供もいるのだから、早く高い丘の上に待避せよ、というのであった。(略)
 暗くて東の海面もよくみえない。津波は暗い夜でも真っ白い波頭を立てて襲ってくるものだそうだ、とよく知りもしない津波の話をしているものもいた。しかし、何時間たっても白い波頭は見えなかった。警報がアメリカ軍から解除になるまでは避難体制を解いてはならないと布令(ふれ)がまわされていたので、眠いのを我慢していなければならなかった。
 周辺の丘には付近の人たちがいっぱい待避していて、遠く近く声は聞こえるが、暗い中で姿は見えない。男女の嬌声もときたま響いてくる。津波を幸いに野合をしているものたちもいるのであろう。もう飛んでくる艦砲もなく、夜空には星だけがかがやいていた。津波のことさえ忘れたら、祝福された春の宵であった。
 義父は毛布をかぶっていびきを立てて眠っていた。私は義弟が家から持ってきてくれた毛布にくるまって、うつらうつらしたり、あたりのもの音に目をさましたりしているうちに東の方が白んできた。
 津波は襲ってこなかった。ハワイからの途中、太平洋の中で消えてしまったのであろう。
 沖縄の村や町には、ホノルル市やヒロ市その他ハワイに親類縁者がいるものが多かった。ハワイが津波におそわれたということで、その人たちのことを心配するものもいたが、詳しいことは知りようもなかった。(後略)
 
 当字誌でも米軍の情報に振り回された「エイプリルフール」と扱う予定だったが、 60余年経った今日、それが事実であることが判明し、いささか困惑の状態である。歴史の記述の怖さを思い知らされた感を強くするものである。
 
集落道路に名称を
 
 渡慶次集落道路に名前をつけたらどうかという話題がよく持ち上がる。これだけの歴史の重みのある碁盤型道路であるからであろう。
 村内外からの訪問者が「渡慶次の道は何度通っても分かりにくい」「数年前に友人宅に行ったが、皆目見当がつかない」とよく言う。渡慶次区民でさえ迷ってしまうほどである。
 理由は明白である。碁盤型に完備されているからだ。戦前からの田舎集落でこのような生活道が完備されているのは他字に類を見ないし、区民の宝であり誇りである。
 訪問者が道に迷うという現実に鑑み、道路沿いに花木を植え、道路案内板を立ててはどうかとかいろいろな意見が出される。道路名を公募するのも先人達への恩返しになるのかもしれない。
 
カッペンでの奇食−猿・ヘビ・コウモリ
カッペン移民第3次 山内※※
 
 新移民としてカッペンに入植してから、料理が振る舞われた。当時の日本では食べたこともないほどたくさんの肉料理をおいしく、腹いっぱい食べた。ところが、翌朝裏庭に行くと、山ほど積まれた鳥の羽の下になんと猿の手足、頭がのぞいているではないか。気分が悪くなった。料理人が、「昨日の夕食は山鳥と猿の肉のチャンポン料理だったけど新移民の青年たちは猿の肉が大好物だな」と笑いとばされたのである。ブラジルの山鳥(ムツトン)は、15sまでも成長するといわれている。肉は赤肉で猿の肉を混ぜても見分けがつかない。生臭さやクセはないが、猿の肉汁は、夜の石油ランプの下で食べる時、汁をおはしでかき回すとまるで都会のネオンのごとく、色とりどりの奇妙な光を放つ。油と光の現象だと思う。気持ち悪いので夕食はから揚げにし、肉汁は昼食にしたら美味しく食べる事ができた。
 当時、カッペン植民地は、吸血コウモリがあまりにも多く、豚、鶏が育たなかったので、コウモリを手当たりしだい食べた。
 また、「ブラジルの川うなぎは、皮が厚く固いので皮をはぎ取ってから料理すると美味しいものだ」とは料理人の話である。これまたから揚げ料理であった。美味しく食わされた後、実は、ジボイヤ(へび)のから揚げだと言われてまたまた気持ち悪くなったが、頭部を切り落とし、皮をはぎとって、小切りにしてしまうと誰でも分かるはずがない。あまりにも美味しいヘビの味が忘れられず、自分でヘビを捕まえて食べることもあった。周知のように、ヘビは頭部に毒袋を持っており、頭部を捧で打って殺したのでは体中に毒がまわってしまうので食ってはならない。しかし、猛毒のヘビの肉ほど味が良いと納得いくまで食ったものである。「陸のフグ」と言っても過言ではないと私は思う。
 猿とヘビの料理、毒ぬきまでして食ってきたのだから、私も「料理の達人」と言えそうですな。そんな珍食体験も今は遠い昔の語り草である。
(『ブラジル読谷村人会のあゆみ』
第W部忘れ得ぬ人々・思い出の記
 「カッペン移民苦難を乗り越えて」)
 
ハブも出没
 
 土地改良作業の最初の仕事は、一面に繁茂したギンネムやススキその他の草木を伐採することである。これらを重機で伐採する作業中に、ニョロニョロとハブが出てくることが度々あった。周囲で見ている地主らはビックリ仰天するが、重機オペレーターはなれたものでびくともせず、素早く素手で掴んで用意した袋に捕獲した。作業終了後恩納村山田の琉球村へ持って行き、一匹約5000円で販売し、役員のサキグヮーデー(酒代)に回すなど、思いがけない副収入となっていた。
 
イシグーヌスルー(コーラル盗人)
 
 ボーロポイント返還軍用地地主会は、伐採作業が終ったあと、滑走路や誘導路になっていたところに50〜60cmの厚みに敷き詰められたコーラルの除去作業を森岡コーリー社と契約を結び作業を進めていた。そこへ突然イシグーヌスルが現れ、50〜60cm厚みのコーラルを採るだけでなく、周辺一面を深く掘り下げて採るので、大きなイシグー穴にしてしまっていた。これはもう大変と、土地改良事業にも支障を来すおそれが出てきたと役員らは驚いた。
 この件で理事役員は昼夜の別なく、幾度となく非常呼集をかけて現場へ急行した。そしてその場で抗議をするが、相手は弁護士を立てて、不法採掘ではないと主張し、引き下がろうとはしなかった。
 地主会は役場の担当課とも連携をしながら、夜間に投光器を使用してのコーラルの不法採掘現場へ急行した。嘉手納署にも連絡し、警察にも来てもらったが、あまり関心を示さなかった。
 中部農林土木事務所にも連絡を入れ、現場を確認するよう求めても、職員が来る度に、現場では重機は撤去され、コーラルの上には土を覆い被せてカムフラージュしてあり、コーラルの不法採掘は確認できない状態にされていた。
 理事役員が昼夜の別なく、コーラルの不法採掘阻止行動にがんばったおかげで、イシグーヌスルは後日引き上げていき、一件落着とはなったが、理事役員はこのイシグーヌスルにかき回されて大変だった。
 
石工(イシジェーク)
 
 池原※(池原小(イチバルグヮー))明治21年生
 池原※は石工として渡慶次区のみならず村内外でも名の知れわたった人である。
 石垣や墓づくりではよく棟梁として腕を振るい、特に墓の入口の石材はターチミー、ティーチミーとか、隙間無くとか色々注文があったようだが、それにきちんと応えたという。
 石には形や質によってミートゥンダ(夫婦)やウヤックヮ(親子)があり、それを組み合わせることにより頑丈ですばらしい石造建築物ができると娘の国吉※※はよく聞かされたという。
 村外からの依頼も多く、特に北谷や大山まで行って何か月も住み込みで工事をしたという。
 池原※が造った墓が精巧すぎて開けられないというときや、屋敷の石垣の一部を取り壊すのに苦労し、急遽呼び出されたりもした。そこに赴いては要石に目をつけ、それを取り除くことが大事だと指導したとのことである。
 1929年(昭和4)、渡慶次御嶽に建立されている忠魂碑が暴風の被害に遭い、全面的な改修を余儀なくされた。
 彼はその際にも石工としての技術を駆使し、二度と倒壊することがないよう鏡を埋め込む等※₁、後世への細かい配慮もしたという。
 沖縄県の重要文化財に指定されている崇元寺の石垣の修繕工事にも携わった。
 さらに、戦後、渡慶次小学校南側に当時の渡慶次校区青年会が今次大戦の戦没者慰霊のために「鎮守(しずもり)之塔」を建立したが、それも池原※が棟梁になり完工した。
 
060391-石工について
石工、父池原※について語る国吉※※さん
 
※₁ 昔より「鏡には霊力が宿る」と信じられていた。井戸や池を埋める際にも水の神様への感謝の思いを込めて鏡を埋めたとされる。こうしたことから碑が倒壊することがないようにとの思いを込めて埋め込まれたと思われる。
 
 

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