続 渡慶次の歩み
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コラム

 
戦前の字対抗陸上競技大会における優勝記念写真
 
070110-優勝記念写真
 
 戦前の字対抗陸上競技大会(小学校区)における優勝記念写真。優勝旗には、「陸上競技大会優勝渡慶次小学校寄贈安田※※」の文字が読み取れる。
 当時は3連勝すると優勝旗がもらいきりというきまりがあった。渡慶次は宇座に2連敗し、今回はどうしても負けられないということと、優勝旗寄贈者の安田※※に申し訳ないという気持ちから青年団が一丸となって奮闘した。そして見事優勝を勝ち取った。優勝旗を掲げ字内を凱旋パレードしたのち、客馬車を利用し、嘉手納の写真館で記念撮影した。
(提供山内※※※)
 
いとも不思議な立看板
 
 会員相互の親睦と地域の活性化を旗印に同好会が発足したのは1995年(平成7)である。会則、規約もないが、年間の行事を実に淡々とこなす組織である。趣味を同じくする集団だからだろう。行事のメインは「スーブ」である。毎年12月の第2日曜日がスーブの日だ。1か月前から「山芋スーブ」の立看板が字内外に立つ。この立看板、筆致のため実に多様な捉え方が出る。
(1)山芋スープ
(2)山羊スープ
(3)山羊スーブ(山羊の格闘)
(4)山羊スーブ(山羊の美人コンテスト)等々。
『山芋勝負』と捉えたのは3割にも達しなかった。話題性を豊富にしただけでいい。痛快の極みだ。会食・年1回の研修旅行等夫婦同伴が原則であり、会食費は夫婦同伴の場合1人は免除措置になる。11月に入ると「君には負けない」とか、誰のものがいいとか激しい前哨戦が始まる。ライバルの芋あさり、芋の出来具合を確かめる偵察活動が連日繰り広げられ、本番の「スーブ」を迎える。
 
070183-名物となった看板
名物となった立看板
 
 
ウラシマソフトボール秘話
 
 還暦までキャッチボールをしたことがない会員が大半である。近距離でのキャッチボールの練習初日、ボールが顔面を直撃。グローブか視力か原因はさだかではないが翌日から自発的退部。外野に飛んだフライ捕球の不手際で脳天を直撃、これまた依願退部。久しぶりにクリーンヒットを打ち、軽やかな足取りで1塁を駆け抜け、ファールゾーンまで走り、アウトの宣告に「ウレーターガキミタガ」と不満爆発。キャッチャー捕球不能なとんでもない球にバットを出し「この悪球に・・・」と注意を促すと、次の球は打つと決めていたとの返事。
 「ライトにつけ」のコーチの指示にナイターの電柱近くまで行き、悠然と構える球友。「バッテリーは大丈夫か」の監督の声に「クヌメードゥ、ケートォールムン、新品ドゥヤル」のやりとりに目を白黒。
 ねんりんピックの試合では沖縄口がサインになる。1塁走者に「前山内(メーヤマチ)」アッケー、「西白堂(イリシロー)打って」ヒットエンドランの策に屋号を入れて効果てき面。
 
組踊「大川敵討−村原」
 
 渡慶次に継承されている組踊「大川敵討−村原」は多彩な登場人物、豊かな内容、琉球古典音楽の専門性などいずれをとっても、先人たちの情熱と努力が伝わってくる大作である。
 この大作がいかなる手だてで今日まで継承されてきたのだろうかと、安田※※に話を聞いた。
 沖縄戦で組踊「大川敵討−村原」の台本は焼失し、新垣※※(仲之川上(ナカヌカーカン))、福地※※(松福地(マチューフクジ))、呉屋※※(前呉屋(メーグヤ))の3名が中心になり、先輩達から聞き取りを行いまとめ上げ、神谷※※が清書したのが現存する台本である。
 沖縄全域の多くの集落で各種の組踊が継承されている。渡慶次校区の各字にも儀間の「八重瀬」、宇座の「久志の若按司」、瀬名波の「伏山敵討」、長浜の「北山敵討−本部太原」等である。
 昔はアシビトゥイケー(芸能交流会)と称し、他字と盛んに交流が行われた。この際に演じられたのが組踊であった。組踊が終了すると、シーブンとして舞踊が演じられたのである。当時は毎年旧暦八月十五日夜に行われた村芝居では舞踊や寸劇等が主であり、組踊が演じられることはほとんど無かった。
 アシビトゥイケーが行われる年になると、配役、指導者、練習等全区民挙げて取り組む一大行事となった。舞台監督兼プロデューサーが必要となるが、台詞、所作、組踊全体の流れをよく理解し、琉球古典音楽にも精通していなければ務まらなかったということで、そうした人が選ばれた。威厳があり、怖い存在だったようで、武太徳嶺(ンタートゥクンミ)のおじいもその代表的な一人であったという。
 アシビトゥイケーでは、渡慶次から100名のトゥイケーシンカが出ると、受ける側も100名の人数で対応するのが習わしであった。お互いにその経費の半分を負担しなければならなかったからだ。豚はそれぞれ1頭ずつ潰したようだが、重量(チンスー)も事前打ち合わせをして周到な準備がなされた。
 このようなアシビトゥイケーが薫り高い芸能、組踊の保存継承に役立ったのである。
 屋号与那覇(ユナハ)のおじいが村原役になり、「出様ちゃる者や・・・」と切り出したが、途中で台詞を忘れ「御無礼さびら、しばし待ちみしょり」と按司言葉と堂々たる姿で一時退場し、再入場して演技を続けたというエピソードは有名である。観衆は「渡慶次んかいどぅ、すぐりむのううっさー」と絶賛されたとのことであった。
 
エイサーウラ話
 
 戦後1958年(昭和33)、渡慶次でも青年エイサーをぜひやりたいとのことで、旧与那城村、勝連村、具志川市に行き、練習風景を見て参考にしようとのことになった。当時は交通手段が頭痛の種だった。そこへ、神谷※※(昭和10年生・屋号神谷(カマ))が営業用のトラックを運転しているとの情報が入り、本人に協力を依頼したら承諾してくれた。営業用車両なので使用許可が下りるはずはない。彼はエンジンを直結して、毎夜荷台にメンバーを乗せ運んだ。
 旧具志川市の宇堅青年会の練習風景を、人目をはばかりそれぞれが役割分担をして見学していた。
 ある時、のぞいているところを運悪く見つかってしまった。練習をしている青年たちの前に引っ張り出された。しごかれると思っていると「玉城※※じゃないか」と宇堅の金城※※芸能部長が切り出した。「彼は読谷一の地謡だよ」と紹介され、以後温かいもてなしを受け、一等席で見学することが出来た。これが縁で金城※※は渡慶次まで足を運び、直接指導もやってくれた。『芸は身を助く』のことわざどおり、玉城※※の存在なしでは当区のエイサーは語れないと与那覇※※は述懐する。
 ちなみに、玉城※※は自分の十三祝に来客のリクエストに応じて、30分余りもカチャーシーを弾きこなしたという。
 
獅子の毛繕い
 
 まつりの舞台の最初と最後に威風堂々とした姿で登場する渡慶次の獅子。それは、力強い顔立ちとふわっとした金髪の毛並みから醸し出される渡慶次獅子舞の魅力となっている。
 本文でも述べているように、1966年(昭和41)の再制作時に福地※※の提案によって船を繋ぐためのナイロンロープで作られたものである。強固ではあるが、縮れ絡むので宜保※が中心となり、演舞までに毛繕いをしている。この毛繕いは道具を使うと毛が痛んでしまうので、全て手で行っている。固いロープをほどくため、長時間続けると手が痛くなってくるが、宜保※はこの手法で何十年も続けていた。現在でもこの手法が引き継がれ、文化財保存委員会が中心となり行われている。
 1966年(昭和41)以前は、芭蕉の繊維を利用していたが、年を経るにつれ弱り、舞う度にほこりが舞って、観客にとっても獅子の中に入っている演舞者にとっても大変であった。それが、金色のきれいな獅子へと生まれ変わり、丁寧な毛繕いを受け、現在も渡慶次の守り神として崇められている。
 
110376-毛繕いを終えた獅子とともに
毛繕いを終えた獅子とともに
(左:福地※※右:宜保※
)
 
110376-毛繕いをする宜保さん
黙々と毛繕いをする宜保※さん
 
110376-文化財保存委員で毛繕い
最近では文化財保存委員の皆さんで毛繕いを
 
 

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