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第7章 むらづくり―各種団体の活動―
第13節 渡慶次ウラシマソフトボール愛好会
1 渡慶次ウラシマソフトボール愛好会の歴史
(1) 結成
1987年(昭和62)2月22日、待望の運動広場が完成し、落成式典及び祝賀会が盛大に開催された。もともと渡慶次は少年野球が盛んで、ソフトボールも併せて練習していた。読谷村は県内でもソフトボールのメッカであり、渡慶次も優秀な指導者及び選手を輩出してきている。しかも特別国体(海邦国体)で読谷村がソフトボールの会場に決定され、ソフトボール熱は一段と高まっていった。
このような状況の中で、同年8月12日山内※※宅を玉城※※と山城※※が訪ねた。特段用あってのことではなく、酒を酌み交わすためである。アルコールが適度に体内を回るとスポーツ好きの玉城※※が次のように切り出した。「60歳以上でソフトボールチームを作ろう」と。2人は異議無く賛同し、後半の話題はソフトボールに終始した。「三人寄れば文殊の知恵」の諺どおり、3人が呼びかけ人になってぜひ実現させようと決意を固めて酒宴は散会した。翌日から早速、先輩・同僚・後輩に呼びかけたら、すごくいい反応があり、10人ほどで発起人会を発足させることができた。
1987年(昭和62)9月19日、30名余の賛同者を得て結成総会を持った。数か月前沖縄市にシニアソフトボールチームが結成されており、県下では2番目のチーム誕生であった。年々衰える足腰を鍛え白球を追うことにより互いの融和と親睦を図ると共に、体力維持・健康保持のねらいが共感を呼び、順調に船出した。初代会長には山内※※、副会長に山城※※、書記に玉城※※、前述の火付け役があたることになった。
ユニフォームも凛々しくウラシマチーム
チーム名も会員に諮って決めることになった。渡慶次らしさ、地域らしさを出すため、潟野・獅子・残波等といろいろ出たが、平均年齢66歳のチームであり、いつまでも若々しくロマンを求め、釣り竿をバットに見立てて「ウラシマ」を取り入れ、「渡慶次ウラシマソフトボール愛好会」と命名した。
以後、読谷村内では次々にシニアソフトボールチームが結成されるが、その牽引力になったのが、渡慶次のウラシマソフトボール愛好会である。
ところが、グローブをはめてキャッチボールをし、バットを振り、球を打つという動作はほとんどの会員が初体験なので、会員だけでの活動には限界があった。玉城※※・与那覇※※・山内※※・与那覇※※・友江※※の数名にコーチを依頼したら喜んで引き受けてくれた。以後、週2回の活動日を設けて、本格的な練習に入った。
百姓衆が会員の中核であり、練習日には畑から運動広場へ直行した。トラクター・耕運機・軽トラックが駐車場に並び、作業服のままでしかも雨靴や地下足袋、麦わら帽子での練習風景も見られた。見かねたコーチ陣からの指導を受け、次第に運動着に替わっていった。
結成を記念して、婦人会と練習試合
健康保持と生きがいを求め、ボールとの出会いでライフスタイルを大きく変えたウラシマの活動は、社会的にも関心を呼び、幾度となく新聞・ラジオ・テレビ等のメディアでもその活動が報ぜられた。
(2) 活動の足跡
ねんりんピック
夢想だにしなかった晴の桧舞台、興奮と感激でわくわく、どきどき不安と胸のときめきを覚える。以来責任の重大さをかみしめて、練習も本格的に、メニューを組んで熱がこもり、忽(たちま)ち話題を呼んで部落をあげての大声援を受けた。
派遣費捻出と団旗寄贈
派遣費は寄附でまかなうことになり、役員は、7月11日から募金活動に乗り出した。字内の各団体や、他チームとの壮行試合も会費制で残金を寄附してもらい、それが起爆剤になり、グループからも個人からも多くの寄附金が集まるようになった。また、資金造成のためのコンペも行われた。村内の企業や団体からも連日、激励と寄附が寄せられ、三役は村外までも、関係者へ募金活動に行き、189万円余の激励金が寄せられた。
ねんりんピックでは団旗が必要との指示があり、そのことを会員に図ったら、読谷自動車整備工場(創業者与那覇※※)が寄贈することになった。1989年(平成元)8月6日、ウラシマ太郎が亀に乗り、釣竿替わりにバットをかつぐ勇壮なデザインはチームの未来を象徴して、会員から喜ばれ、旗手に選ばれた選手の行進のリハーサルが行われた。
団旗の贈呈式(区民運動会にて)
開会式典と交歓会
戦前運動会の花だった勇壮な応援合戦を彷彿させるかつての大先輩の手捌きで、三三七拍子で盛り上がった壮行会。役所、農協での激励会、村長の熱意溢れた激励の一言一言に感動が沸き上がった。空港では11種目に出場する107人の県選手団の結団式、会長の決意表明と関係者の激励を受けて意気揚々一路大分へと向かった。
役場ロビーでの激励会から
投宿先の別府市は、別府湾に臨む日本屈指の温泉郷であり、観光都市である。湯煙が立ち上がる別府の山々を仰ぎ見る自然美豊かなところで、朝のひんやりした風が頬を撫で、樹木は黄色に染まり、空は澄み切っていよいよ大舞台への登場である。ホテルのロビーは、ユニフォーム姿の各県選手団の出入りが慌ただしくなり、興奮と緊張が高まる中お互いに冗談で笑い流していた。
11月3日14時30分、各都道府県並びに政令指定都市からはせ参じた、5万の大会参加者が一堂に集い、大分県警音楽隊のオープニング演奏で、厳かに式典の通告。上空は取材のヘリが旋回し、会場中央に設置されたTVカメラの注目を浴びて全国にアピール。常陸宮殿下、同妃殿下のご臨席のもと、大会旗、都道府県旗の入場、「健やか人生きらめく生命」を大会のテーマに大分県知事、厚生大臣のあいさつ、常陸宮殿下のおことばがあり、「躍動きらめく生命」のフェスティバルで大会のフィナーレを飾り、式典を終了、感銘を新たにした。
式典終了後、各都道府県から20人ほど、およそ1,000人が特設会場でふれあい交歓会に臨んだ。これは「豊かな国だんご汁フェスタ」と称し、大分県生活改善連絡協議会特製の二重三重の珍味が色々と運ばれた。心のこもるおもてなしに酒も格段に美味しく、昼間の式典とは別世界のようにリラックスして、そのうちお酒がまわり、緊張がほぐれ、他府県のみなさんと意気投合して交流の輪は深まっていった。生き甲斐とふれあいに満ちた明るい雰囲気は、いやが上にも盛り上がり大分県の味自慢を心ゆくまで満喫した。
会場のざわめきの中、豊後くれない太鼓の賑やかなオープニング演技でセレモニーに移り、人生80年に乾杯!いよいよお国自慢大会が始まる。
出場県は岩手、静岡、沖縄、大分の4県、各県とも趣向を凝らし、地域の個性溢れる演技を披露、やんやの喝采を浴びた。お国自慢の「取り」を飾る沖縄の出し物は、なんと「カチャーシー」、一瞬会場がどよめきステージに視線が集る。カチャーシーとは「かきまぜる」の意で、島人の喜怒哀楽をかきまぜる余興の歌、舞に打ち興ずるもので、さしずめ料理でいえば「ごった煮」即ち沖縄のチャンプルーである。「では、阿波踊り、東京音頭、ツイスト、ルンバ、フラダンスをかき混ぜて、さぁ皆さん手を上げ、足を上げ躍動して下さい。」との安田※※の迷解説に「唐船ドーイ」の賑やかな三線の音が流れ、沖縄代表のモーヤー達ウラシマの手さばきは軽やかに、鮮やかに会場を魅了し場内は興奮の坩堝(るつぼ)と化した。熱気むんむん、指笛が会場を沸かし、各都道府県の仲間達も次々ステージに上がり、足の踏み場もなく自由奔放に踊りまくる。大きな拍手、歓びの限りを尽くしてウラシマは「取り」の役目をいかんなく発揮した。
交流会を見事に締めくくったカチャーシー
初陣の夜は明けて
昨夜は酒盛りをして夜更かしした者、興奮して眠れなかった者、気持の葛藤、責任の重さに翻弄され、過敏になって早起きした者、各人各様だった。時が経ち、ウラシマもユニフォームに着替えて他府県の選手団に混じって軽い運動で体をほぐす。頭は白く薄く同じ60代の爺チーム、互角の試合を期待して仲良くバスに乗り込む。
全国から46チーム、663人の選手団が勢揃いして、11月4日午前9時開会式、陸上自衛隊のバンド演奏に胸を張って各都道府県の力強い入場行進。沖縄県は与那覇※※監督を先頭に旗手の山城※※、20人の選手団が後列に続く。軍隊での行進以来実に40年ぶり「勇往邁進(ゆうおうまいしん)」県旗を翻し、大観衆の拍手喝采を浴びて郷土の栄誉を担って感慨無量、遥か沖縄からの遠征に心が躍動し、力強くグラウンドを踏みしめた。
いよいよ試合開始、予選リーグ戦の組み合わせで、ウラシマは第7パート、名古屋鯱クラブ、高松シニアとの対戦が始まった。日頃はおおらかな球友達も、初めての大試合に胸はドキドキ、膝はガクガク、募る緊張感でなかなか平常心に戻れない。第1戦、ウラシマ対鯱クラブの対戦前の始球式でマウンドに上がるのはミス大分、「バッター1番ウラシマ山内※※君」場内アナウンスが流れ、大観衆の見守る中バットは空を切りストライクのコール、大きな拍手が起こりプレイボール、主審の右手が高々と上がった。
試合はなかなか波に乗れない、心身硬直し、あがる現象は拭いきれない。
中盤焦燥感に駆り立てられたコーチ陣、代打、代走と選手交代、苦肉の策を講じたがついに実らず、最後まで一方的な試合になった。隣県のよしみで鹿児島チームから「昨夜のカチャーシーの元気を出せ」の声援も空しく、試合とは裏腹に元気いっぱいの応援団、パーランクーを叩き、声を張り上げて方言でがなりたて、場内に響く指笛も無情、嘆息がもれた。その内(うち)試合は終わり、力が抜けボーっと空を眺め、改めて全国大会のレベルの高さに目を見開いた。
大会での試合風景から
ねんりんピック(91)いわて大会
ねんりんピックおおいた大会に続いて、第4回いわて大会にも出場の機会が与えられた。あれから2年、腕もそれなりに上がり、再度桧舞台に出場することになった。
1991年(平成3)9月20日那覇空港で県選手団の結団式、尚※※副知事の激励を受け東京へと出発した。羽田から新幹線を乗り継いで午後6時盛岡に到着した。21世紀に本格化する高齢化社会を、活力に満ちた人間味あふれるものにしようとの基本理念の下に華々しく開会した式典は、長嶋茂雄の花のメッセージ、白鳥英美子の歌のプレゼントで閉式した。
ねんりんピック、ソフトボール開会式から
いよいよ大会の日、うらしまは長野・富山との対戦が決まり、ユニフォームに着替え朝食時に大会本部から、天気の都合で今日の試合は取りやめの連絡にがっかりした。順延で23日初戦で長野と対戦、息詰まるシーソーゲームを展開し6対4で惜敗、スタンドはため息がもれたが負けてさわやか、対戦相手と固い握手を交わした。
全国シニアソフトボール大会
(全国ソフトボール連盟主催)
1992年(平成4)5月9日・10日・11日の3日間、福岡市雁ノ巣で行われた第10回全国大会に出場。全国から68チームが参加した開会式は圧巻で、各チームの団旗がはためき、ユニフォーム姿で勢揃いした選手団は胸を張って年齢を感じさせないものであった。連盟会長は「輝かしく勝利して獲得した『長寿』を心ゆくまでエンジョイし、全国の仲間と肩を叩き、励まし合う大会にしよう」と挨拶をした。
第1戦は徳島の桑野体協シニアと対戦、7対7の同スコアになり大会規程で9人のくじ。クジ運も悪く、6対3で敗退、大会2日目は福岡筑前クラブに14対5、力量不足はいかんせん、3度負けを喫したが、思い出に残る素晴しい試合だった。全国の壁は厚く重くのしかかり、勝利の女神は後輩諸君の今後に委ねたい。
10周年記念祝賀会
1996年(平成8)、ウラシマの誕生から10年、記念誌の発刊と祝賀会を開催した。紅白試合後、元球友や字内各団体の役員及び村内外の関係者を招待して公民館ホールで行われた、ウラシマの更なる発展を祈願しての祝賀の宴は楽しく過ぎた。
読谷村社会教育研究大会での表彰とスミセイ表彰
「渡慶次ウラシマソフトボール愛好会」の地道な活動が認められ、1996年(平成8)に読谷村社会教育研究大会で表彰を受け、さらに翌年1997年(平成9)スミセイより、表彰状と賞金が贈られた。字内の関係者を招き運動広場の駐車場に宴会場を設け、祝賀会を催した。
スミセイ表彰状
1987年(昭和62)2月22日、待望の運動広場が完成し、落成式典及び祝賀会が盛大に開催された。もともと渡慶次は少年野球が盛んで、ソフトボールも併せて練習していた。読谷村は県内でもソフトボールのメッカであり、渡慶次も優秀な指導者及び選手を輩出してきている。しかも特別国体(海邦国体)で読谷村がソフトボールの会場に決定され、ソフトボール熱は一段と高まっていった。
このような状況の中で、同年8月12日山内※※宅を玉城※※と山城※※が訪ねた。特段用あってのことではなく、酒を酌み交わすためである。アルコールが適度に体内を回るとスポーツ好きの玉城※※が次のように切り出した。「60歳以上でソフトボールチームを作ろう」と。2人は異議無く賛同し、後半の話題はソフトボールに終始した。「三人寄れば文殊の知恵」の諺どおり、3人が呼びかけ人になってぜひ実現させようと決意を固めて酒宴は散会した。翌日から早速、先輩・同僚・後輩に呼びかけたら、すごくいい反応があり、10人ほどで発起人会を発足させることができた。
1987年(昭和62)9月19日、30名余の賛同者を得て結成総会を持った。数か月前沖縄市にシニアソフトボールチームが結成されており、県下では2番目のチーム誕生であった。年々衰える足腰を鍛え白球を追うことにより互いの融和と親睦を図ると共に、体力維持・健康保持のねらいが共感を呼び、順調に船出した。初代会長には山内※※、副会長に山城※※、書記に玉城※※、前述の火付け役があたることになった。
ユニフォームも凛々しくウラシマチーム
チーム名も会員に諮って決めることになった。渡慶次らしさ、地域らしさを出すため、潟野・獅子・残波等といろいろ出たが、平均年齢66歳のチームであり、いつまでも若々しくロマンを求め、釣り竿をバットに見立てて「ウラシマ」を取り入れ、「渡慶次ウラシマソフトボール愛好会」と命名した。
以後、読谷村内では次々にシニアソフトボールチームが結成されるが、その牽引力になったのが、渡慶次のウラシマソフトボール愛好会である。
ところが、グローブをはめてキャッチボールをし、バットを振り、球を打つという動作はほとんどの会員が初体験なので、会員だけでの活動には限界があった。玉城※※・与那覇※※・山内※※・与那覇※※・友江※※の数名にコーチを依頼したら喜んで引き受けてくれた。以後、週2回の活動日を設けて、本格的な練習に入った。
百姓衆が会員の中核であり、練習日には畑から運動広場へ直行した。トラクター・耕運機・軽トラックが駐車場に並び、作業服のままでしかも雨靴や地下足袋、麦わら帽子での練習風景も見られた。見かねたコーチ陣からの指導を受け、次第に運動着に替わっていった。
結成を記念して、婦人会と練習試合
健康保持と生きがいを求め、ボールとの出会いでライフスタイルを大きく変えたウラシマの活動は、社会的にも関心を呼び、幾度となく新聞・ラジオ・テレビ等のメディアでもその活動が報ぜられた。
(2) 活動の足跡
ねんりんピック
(89)大分大会への参加
「ウラシマ」結成から2年、日頃の練習も板につき、そろそろルールに技に磨きのかかった1989年(平成元)11月、沖縄県長寿社会振興財団から全国健康福祉祭(ねんりんピック)第2回おおいた大会に、県代表として推薦を受けた。全国大会に出るにはあまりにも技量不足、練習不足で多少躊躇(ちゅうちょ)したが、この大会は技の競い合いより全国の高齢者の相互交流を図るのがねらいということで、与えられた機会を受諾することにした。夢想だにしなかった晴の桧舞台、興奮と感激でわくわく、どきどき不安と胸のときめきを覚える。以来責任の重大さをかみしめて、練習も本格的に、メニューを組んで熱がこもり、忽(たちま)ち話題を呼んで部落をあげての大声援を受けた。
派遣費捻出と団旗寄贈
派遣費は寄附でまかなうことになり、役員は、7月11日から募金活動に乗り出した。字内の各団体や、他チームとの壮行試合も会費制で残金を寄附してもらい、それが起爆剤になり、グループからも個人からも多くの寄附金が集まるようになった。また、資金造成のためのコンペも行われた。村内の企業や団体からも連日、激励と寄附が寄せられ、三役は村外までも、関係者へ募金活動に行き、189万円余の激励金が寄せられた。
ねんりんピックでは団旗が必要との指示があり、そのことを会員に図ったら、読谷自動車整備工場(創業者与那覇※※)が寄贈することになった。1989年(平成元)8月6日、ウラシマ太郎が亀に乗り、釣竿替わりにバットをかつぐ勇壮なデザインはチームの未来を象徴して、会員から喜ばれ、旗手に選ばれた選手の行進のリハーサルが行われた。
団旗の贈呈式(区民運動会にて)
開会式典と交歓会
戦前運動会の花だった勇壮な応援合戦を彷彿させるかつての大先輩の手捌きで、三三七拍子で盛り上がった壮行会。役所、農協での激励会、村長の熱意溢れた激励の一言一言に感動が沸き上がった。空港では11種目に出場する107人の県選手団の結団式、会長の決意表明と関係者の激励を受けて意気揚々一路大分へと向かった。
役場ロビーでの激励会から
投宿先の別府市は、別府湾に臨む日本屈指の温泉郷であり、観光都市である。湯煙が立ち上がる別府の山々を仰ぎ見る自然美豊かなところで、朝のひんやりした風が頬を撫で、樹木は黄色に染まり、空は澄み切っていよいよ大舞台への登場である。ホテルのロビーは、ユニフォーム姿の各県選手団の出入りが慌ただしくなり、興奮と緊張が高まる中お互いに冗談で笑い流していた。
11月3日14時30分、各都道府県並びに政令指定都市からはせ参じた、5万の大会参加者が一堂に集い、大分県警音楽隊のオープニング演奏で、厳かに式典の通告。上空は取材のヘリが旋回し、会場中央に設置されたTVカメラの注目を浴びて全国にアピール。常陸宮殿下、同妃殿下のご臨席のもと、大会旗、都道府県旗の入場、「健やか人生きらめく生命」を大会のテーマに大分県知事、厚生大臣のあいさつ、常陸宮殿下のおことばがあり、「躍動きらめく生命」のフェスティバルで大会のフィナーレを飾り、式典を終了、感銘を新たにした。
式典終了後、各都道府県から20人ほど、およそ1,000人が特設会場でふれあい交歓会に臨んだ。これは「豊かな国だんご汁フェスタ」と称し、大分県生活改善連絡協議会特製の二重三重の珍味が色々と運ばれた。心のこもるおもてなしに酒も格段に美味しく、昼間の式典とは別世界のようにリラックスして、そのうちお酒がまわり、緊張がほぐれ、他府県のみなさんと意気投合して交流の輪は深まっていった。生き甲斐とふれあいに満ちた明るい雰囲気は、いやが上にも盛り上がり大分県の味自慢を心ゆくまで満喫した。
会場のざわめきの中、豊後くれない太鼓の賑やかなオープニング演技でセレモニーに移り、人生80年に乾杯!いよいよお国自慢大会が始まる。
出場県は岩手、静岡、沖縄、大分の4県、各県とも趣向を凝らし、地域の個性溢れる演技を披露、やんやの喝采を浴びた。お国自慢の「取り」を飾る沖縄の出し物は、なんと「カチャーシー」、一瞬会場がどよめきステージに視線が集る。カチャーシーとは「かきまぜる」の意で、島人の喜怒哀楽をかきまぜる余興の歌、舞に打ち興ずるもので、さしずめ料理でいえば「ごった煮」即ち沖縄のチャンプルーである。「では、阿波踊り、東京音頭、ツイスト、ルンバ、フラダンスをかき混ぜて、さぁ皆さん手を上げ、足を上げ躍動して下さい。」との安田※※の迷解説に「唐船ドーイ」の賑やかな三線の音が流れ、沖縄代表のモーヤー達ウラシマの手さばきは軽やかに、鮮やかに会場を魅了し場内は興奮の坩堝(るつぼ)と化した。熱気むんむん、指笛が会場を沸かし、各都道府県の仲間達も次々ステージに上がり、足の踏み場もなく自由奔放に踊りまくる。大きな拍手、歓びの限りを尽くしてウラシマは「取り」の役目をいかんなく発揮した。
交流会を見事に締めくくったカチャーシー
初陣の夜は明けて
昨夜は酒盛りをして夜更かしした者、興奮して眠れなかった者、気持の葛藤、責任の重さに翻弄され、過敏になって早起きした者、各人各様だった。時が経ち、ウラシマもユニフォームに着替えて他府県の選手団に混じって軽い運動で体をほぐす。頭は白く薄く同じ60代の爺チーム、互角の試合を期待して仲良くバスに乗り込む。
全国から46チーム、663人の選手団が勢揃いして、11月4日午前9時開会式、陸上自衛隊のバンド演奏に胸を張って各都道府県の力強い入場行進。沖縄県は与那覇※※監督を先頭に旗手の山城※※、20人の選手団が後列に続く。軍隊での行進以来実に40年ぶり「勇往邁進(ゆうおうまいしん)」県旗を翻し、大観衆の拍手喝采を浴びて郷土の栄誉を担って感慨無量、遥か沖縄からの遠征に心が躍動し、力強くグラウンドを踏みしめた。
いよいよ試合開始、予選リーグ戦の組み合わせで、ウラシマは第7パート、名古屋鯱クラブ、高松シニアとの対戦が始まった。日頃はおおらかな球友達も、初めての大試合に胸はドキドキ、膝はガクガク、募る緊張感でなかなか平常心に戻れない。第1戦、ウラシマ対鯱クラブの対戦前の始球式でマウンドに上がるのはミス大分、「バッター1番ウラシマ山内※※君」場内アナウンスが流れ、大観衆の見守る中バットは空を切りストライクのコール、大きな拍手が起こりプレイボール、主審の右手が高々と上がった。
試合はなかなか波に乗れない、心身硬直し、あがる現象は拭いきれない。
中盤焦燥感に駆り立てられたコーチ陣、代打、代走と選手交代、苦肉の策を講じたがついに実らず、最後まで一方的な試合になった。隣県のよしみで鹿児島チームから「昨夜のカチャーシーの元気を出せ」の声援も空しく、試合とは裏腹に元気いっぱいの応援団、パーランクーを叩き、声を張り上げて方言でがなりたて、場内に響く指笛も無情、嘆息がもれた。その内(うち)試合は終わり、力が抜けボーっと空を眺め、改めて全国大会のレベルの高さに目を見開いた。
大会での試合風景から
ねんりんピック(91)いわて大会
ねんりんピックおおいた大会に続いて、第4回いわて大会にも出場の機会が与えられた。あれから2年、腕もそれなりに上がり、再度桧舞台に出場することになった。
1991年(平成3)9月20日那覇空港で県選手団の結団式、尚※※副知事の激励を受け東京へと出発した。羽田から新幹線を乗り継いで午後6時盛岡に到着した。21世紀に本格化する高齢化社会を、活力に満ちた人間味あふれるものにしようとの基本理念の下に華々しく開会した式典は、長嶋茂雄の花のメッセージ、白鳥英美子の歌のプレゼントで閉式した。
ねんりんピック、ソフトボール開会式から
いよいよ大会の日、うらしまは長野・富山との対戦が決まり、ユニフォームに着替え朝食時に大会本部から、天気の都合で今日の試合は取りやめの連絡にがっかりした。順延で23日初戦で長野と対戦、息詰まるシーソーゲームを展開し6対4で惜敗、スタンドはため息がもれたが負けてさわやか、対戦相手と固い握手を交わした。
全国シニアソフトボール大会
(全国ソフトボール連盟主催)
1992年(平成4)5月9日・10日・11日の3日間、福岡市雁ノ巣で行われた第10回全国大会に出場。全国から68チームが参加した開会式は圧巻で、各チームの団旗がはためき、ユニフォーム姿で勢揃いした選手団は胸を張って年齢を感じさせないものであった。連盟会長は「輝かしく勝利して獲得した『長寿』を心ゆくまでエンジョイし、全国の仲間と肩を叩き、励まし合う大会にしよう」と挨拶をした。
第1戦は徳島の桑野体協シニアと対戦、7対7の同スコアになり大会規程で9人のくじ。クジ運も悪く、6対3で敗退、大会2日目は福岡筑前クラブに14対5、力量不足はいかんせん、3度負けを喫したが、思い出に残る素晴しい試合だった。全国の壁は厚く重くのしかかり、勝利の女神は後輩諸君の今後に委ねたい。
10周年記念祝賀会
1996年(平成8)、ウラシマの誕生から10年、記念誌の発刊と祝賀会を開催した。紅白試合後、元球友や字内各団体の役員及び村内外の関係者を招待して公民館ホールで行われた、ウラシマの更なる発展を祈願しての祝賀の宴は楽しく過ぎた。
読谷村社会教育研究大会での表彰とスミセイ表彰
「渡慶次ウラシマソフトボール愛好会」の地道な活動が認められ、1996年(平成8)に読谷村社会教育研究大会で表彰を受け、さらに翌年1997年(平成9)スミセイより、表彰状と賞金が贈られた。字内の関係者を招き運動広場の駐車場に宴会場を設け、祝賀会を催した。
スミセイ表彰状
2 歴代役員年表
本編参照
渡慶次ウラシマソフトボール愛好会会則
第1条 本会は会員相互の親睦と融和をはかり、併せて体力の維持増進を図ることを目的とする。
第2条 本会は、渡慶次ウラシマソフトボール愛好会と称し、事務所を公民館に置く。
第3条 本会は60歳以上を以て組織する。但し58歳より准会員として加入することが出来る。
第4条 本会の目的のため下記の事業を行う。
(1) 会員相互の親睦及び懇話会
(2) 定期ソフトボール大会
(3) その他目的達成に必要な事項
第5条 本会に次の役員を置く
(1) 会長1名 (2) 副会長1名
(3) 書記1名
(但し書記は会計を兼ねる)
2 会長は、総会で選任しその他の役員は会長が任命する。
3 会長は、チームの主将となる。
第6条 本会にコーチを若干名置くことができる。コーチは会長が推薦し総会で承認を得る。
第7条 会長は、本会を代表し会務を掌理する。副会長は会長を補佐し、会長事故ある時は、これを代行する。書記は、本会の庶務並びに会計に関する一切を行う。
第8条 本会の役員の任期は1年とし4月の定期総会までとする。役員は再選することができる。但し補欠により選任された者は前任者の在任期間とする。
第9条 総会は毎年4月に行い、会長が招集する。但し、会長が必要と認めた場合は臨時総会を招集することができる。
2 総会は次の事項を決議する
(1) 会則の改廃
(2) 事業報告及び事業計画承認
(3) 決算報告及び予算の承認
(4) 役員の選任
(5) その他必要事項
3 総会の議長は会長があたる。
4 総会は、過半数の出席を以て成立し、議事の決定は出席者の過半数の賛成により決する。但し、賛否同数の場合は議長が決する。
第10条 本会の事業年度は、4月1日より3月31日までとする。
第11条 本会の経費は、会費、寄付金及びその他の収入を以て充てる。
第12条 本会に次の帳簿を置く。
(1) 会員名簿 (2) 会計簿
(3) 記録簿 (4) 備品台帳
(5) 公文書綴り (6) 諸規程綴り
(7) その他
附則
本会則は、1987年(昭和62)9月19日より施行する。
本会則は、1989年(平成元)6月29日一部改正し、同日施行する。
本会則は、1990年(平成2)3月25日一部改正し、同日施行する。
第2条 本会は、渡慶次ウラシマソフトボール愛好会と称し、事務所を公民館に置く。
第3条 本会は60歳以上を以て組織する。但し58歳より准会員として加入することが出来る。
第4条 本会の目的のため下記の事業を行う。
(1) 会員相互の親睦及び懇話会
(2) 定期ソフトボール大会
(3) その他目的達成に必要な事項
第5条 本会に次の役員を置く
(1) 会長1名 (2) 副会長1名
(3) 書記1名
(但し書記は会計を兼ねる)
2 会長は、総会で選任しその他の役員は会長が任命する。
3 会長は、チームの主将となる。
第6条 本会にコーチを若干名置くことができる。コーチは会長が推薦し総会で承認を得る。
第7条 会長は、本会を代表し会務を掌理する。副会長は会長を補佐し、会長事故ある時は、これを代行する。書記は、本会の庶務並びに会計に関する一切を行う。
第8条 本会の役員の任期は1年とし4月の定期総会までとする。役員は再選することができる。但し補欠により選任された者は前任者の在任期間とする。
第9条 総会は毎年4月に行い、会長が招集する。但し、会長が必要と認めた場合は臨時総会を招集することができる。
2 総会は次の事項を決議する
(1) 会則の改廃
(2) 事業報告及び事業計画承認
(3) 決算報告及び予算の承認
(4) 役員の選任
(5) その他必要事項
3 総会の議長は会長があたる。
4 総会は、過半数の出席を以て成立し、議事の決定は出席者の過半数の賛成により決する。但し、賛否同数の場合は議長が決する。
第10条 本会の事業年度は、4月1日より3月31日までとする。
第11条 本会の経費は、会費、寄付金及びその他の収入を以て充てる。
第12条 本会に次の帳簿を置く。
(1) 会員名簿 (2) 会計簿
(3) 記録簿 (4) 備品台帳
(5) 公文書綴り (6) 諸規程綴り
(7) その他
附則
本会則は、1987年(昭和62)9月19日より施行する。
本会則は、1989年(平成元)6月29日一部改正し、同日施行する。
本会則は、1990年(平成2)3月25日一部改正し、同日施行する。