続 渡慶次の歩み
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第1章 渡慶次の概況

第1節 文献に見る「渡慶次」の字名

1 『渡慶次の歩み』より

 渡慶次部落の北方、俗称ガン屋(ヤー)の北方にトゥクシジーという岩がある。今はその岩の周囲は木や雑草が生え、見るからにさびしい所であるが、昔はその周辺はきれいな芝生が生え、村人の憩う絶好の場所であり、夜は若い男女の語らいやモーアシビーの場でもあったと古老は言い伝えている。
 その岩の名をもじってトゥクシと名付けたが、時代がたって誰かトゥクシに優れた知恵者が出て「トゥクシを渡慶次に改称するようになった」と古老達は言い伝えていた。
 なお、トゥクシジーのいわれは、大地に根を下ろしたその岩が、ちょうど人間の体の重心となって体を支えているトクシ骨(ブニ)(注:背骨)にも似て、村落繁栄のために腰当(クサティ)となって下さいという神への願いからトゥクシ岩と名付けたとのことである。
 前述した話はなるほどと思われる点もあるが、実際には「五百六十年前、美里伊覇村から渡慶次主が来た」と文献にあるので、その名がそのまま渡慶次という地名になったというのが定説だといえるだろう。(※一部修正加筆した。)
 

2 『角川日本地名大辞典47 沖縄県』より

とけし 渡慶次〈読谷村〉
 方言ではトゥキシという。「おもろさうし」には「とけす」と見える。沖縄本島中部の西海岸、残波岬につながる半島状の土地の基部を占める。地名は、開拓者の名前にちなむとも、あるいは村の後方にあるトゥクシという岩にちなむともいう。
 〔近世〕渡慶次村 王府時代〜明治41年の村名。中頭方読谷山間切のうち。「高究帳」では、とけす村と見え、宇座村と併記され、高頭722石余うち田27石余・畑695石余。18世紀初頭儀間村を分村したと思われる。咸豊10年(1860)、読谷山間切渡慶次村・宇座村・高志保村・儀間村は疲弊して貢租の上納ができなかったが、宇座村山川筑登之が救済にあたって褒賞されている(球陽尚泰王13年条)。咸豊〜同治年間(1851〜74)高志保村内の水田の灌漑用水修復工事に、読谷山間切6か村民とともに渡慶次村民1人が、その費用を供出している(球陽尚泰王15年条)。拝所に渡慶次之殿があり、崎原ノロの祭祀(由来記)。拝所はほかに、グスクダキ・ボージヌメー(ウフウタキ)がある。明治12年沖縄県、同29年中頭郡に所属。屋取に大田がある(沖縄の集落研究)。明治28年読谷山尋常高等小学校の分校が置かれ、次いで同35年には独立して渡慶次尋常小学校となり、瀬名波村に移転。戸数・人口は、明治13年137・672(男358・女314)、同36年182・885(男436・女449)うち士族33・183。明治36年の民有地総反別96町余うち田1町余・畑81町余・宅地9町余・山林1町余・原野1町余(県史20)。同41年読谷山村の字となる。
 〔近代〕渡慶次 明治41〜現在の字名。はじめ読谷山村、昭和21年からは読谷村の字。第2次大戦前、旧暦6月25・26日にカタノーバル(潟野原)で、沖縄式の競馬が行われた。この競馬の走法は、どれかの足を必ず地面に着けてなければならない。競馬の由来や起源はよく分からないが、ユンタンジャカタノーウマウヰー(読谷山潟野馬追)と呼ばれ、美しく馬具を飾った馬が勢ぞろいし、中頭地方でも代表的な競馬の1つであった。戦後、各地に避難していた住民に居住許可がおりたのは、昭和22年10月16日であった(地方自治七周年記念誌)。世帯・人口は、同45年205・1,093、同52年241・1,240。現在一部は米軍の瀬名波通信施設となっている。
 とけす〈読谷村〉 「おもろさうし」に見える地名。読谷村渡慶次に当たる。巻15−68、No.1119の1首のみに次のように謡われている。
一 おざのたちよもいや
  (宇座の泰期思い〈人名〉よ)
  いちへきたちよもいや
  (意地気泰期思いよ)
  かゝみいろのすてみつよ みお
  やせ(鏡色の孵で水を奉れ)
又 おざ とけす うまた
  (宇座渡慶次の馬駄)
  しけち かめはわて
  (神酒をかめはわて)
又 おざ とけす あすた
  (宇座渡慶次の長老達)
  御さけ もちはわて
  (御酒を持ちはわて)
 「たちよもい(泰期思い)」は、「明史」洪武5年(1372)の条に見える中山王察度の使者で、察度王の弟に同定され、「おざ(宇座)」の出身とされる。優れた器量人で、中国との交易を進展させたとオモロにも謡われている(巻15−66、No.1117)。「すてみつ」は「混効験集」に「人誕生の時、明方の井川より水をとり撫さする也。其水をすで水と云也」とあるように、産水のことであるが、祭りの清めの水としても用いられる神聖な泉井の水をいう。「うまた」は直訳すれば馬の口取りたちで、対語「あすた」は直訳して父たち、時には兄たちであるが、いずれにしても村の長老たちをいう。事実、後世の祭事においても、神女であるノロの乗る馬の口を取るのは、村の頭たる人物の役目であったことからみて、ただの馬方ではないのである。「かめはわて」はその対語「もちはわて」が持っての意であるから、現在の方言でカミーンなどというように、頭上に頂いて運ぶことである。大意は、宇座の泰期様よ、鏡のように澄んだ清めの水を奉れ、宇座・渡慶次の長老達よ、神酒を頂いて、御酒を持って奉れ、である。「高究帳」にも宇座と渡慶次は両村を併せて高頭を記しており、「由来記」でも両村はともに崎原ノロの祭祀圏に入っているので、島ならばいわゆる「連れ島」に当たる密接な関係が、古くオモロ時代から近世まで続く伝統だったことが分かる。
 

3 『人和定風水』(農村基盤総合整備事業完成記念誌)より

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『人和定風水』の表紙写真
「とけす」村あれこれ 渡久山朝章
 
○渡慶次の起こり
 昭和46(1971)年発刊の『渡慶次の歩み』によると、「今から560年前、『北谷桑江よりきたる伊礼在所根屋、美里伊覇村より来る渡慶次主』」とある。
 そのことについて、「初めて渡慶次に家屋敷を建て移り住んだのが北谷桑江村より来た伊礼子なる人であるが嗣子がなく、次に美里伊覇村から来た渡慶次主が其の跡をつぎ、今日の渡慶次村を創立したと思われる」とも書かれている。
 この『渡慶次の歩み』の記述は、慶留間知徳著『琉球千草之巻』の「琉球村々世立始古人伝記」から引用したものである。同書には、「渡慶次村 世立始 北谷桑江村より来る伊礼在所根屋 地組始 美里伊覇村より来る渡慶次主」とある。
 ところがこの「世立始古人伝記」は、どのような根拠に基づいて書かれたか、今のところ明確ではない。それは『渡慶次の歩み』にある「560年前」ということとともに今後追求されるべきことだろう。
 
○渡慶次の名
 渡慶次の名について『渡慶次の歩み』は、「トクシ岩」から来たという地元の語り伝えに対して、「渡慶次主がいたということが分からないための憶説であろう」と片付けている。
 「外部の人の記録」と「地元の語り伝え」、その解明は双方とも後学に待つしかないが、渡慶次の課題でもあろう。
 渡慶次の名が初めて記録として登場してくるのは『おもろさうし』だろう。「ふるけものろのふし」には次のようにある。
 
一 おさの、たちよもいや
  いちへき、たちよもいや
  かかみ、いろの、すてみつよ、みおやせ
又 おさとけす、うまた
  しけち、かめ、はわて
又 おざとけす、あすた、
  御さけ、もち、はわて
 
 見事に進貢使の大役を果たして帰ってきた泰期を歓迎する「おもろ」だろう。逐条訳をすると、
 
宇座の泰期殿は
 意気地ある泰期殿に
鏡色の
 すで水(孵水)を参らせようぞ
宇座渡慶次馬駄(轡取り)
 御神酒肩(頭)に持ち来たり
宇座渡慶次の頭たち
 御酒持ち参じて
 渡慶次のことを「とけす」と表記しているが、どのように発音したであろうか。興味深いことだが、再現の方法はなかろう。
 『おもろさうし』22巻の内、第1巻は1531年に編集されたが、それは今年(平成6年)からさかのぼって462年前ということになる。
 もし『渡慶次の歩み』にあるように、560年前(昭和46年から)渡慶次主の名をとって渡慶次となっていたならば、その時代は『おもろ』編集よりも遙かに古い。
 ならば『おもろ』には「とけし」という確定した名で書かれるべきではなかったかという疑念もないではないが、先にも書いたように、その頃の表記と発音の関係もあっただろうし、ここでの深入りは避けたい。
 
○連れ島
 沖縄には2つの地名を連ねて呼ぶことがあり、大は宮古・八重山(ナークエーマ)という島の名から、北谷・読谷山(チャタンユンタンジャ)という村名の連称、そして湾・古堅(ワンフルギン)という集落の名に及ぶ。
 それらの2つの地は隣同士で、何かにつけて縁があるが、呼び方の順序は決して変えない。
 『おもろ』の「おざとけす」というのもそのような「連れ島」と言えるだろう。
 両者の関係は単なる呼び方だけでなく、もっと深い関係があったことを『高究帳』では見ることができる。
 1640年頃に成立しただろうとみられる『高究帳』の、読谷山間切の各村(湾村・ふるけむ村・戸口村・そへ村・城村・はひら村・たかしふ村・せなは村・ゑらきな村・喜那村・長はま村・よくた村・前田村・古読谷山村・ふつき村)の高頭(総石高)が記されているが、宇座と渡慶次に限っては、「一高頭七百弐拾弐石九斗四升九合壱勺八才 内田方弐拾七石八斗壱升五合四勺八才 畠方六百九拾五石壱斗三升三合六勺八才 とけす村おさ村」と両村を合わせて記載されている。
 また『琉球国由来記』によると両村はともに崎原巫(ノロ)の祭祀圏で、その面でも関係が深かったと言える。
 ところが近代に入ってから両字の間では互いに異常な程ライバル意識が強く、宿敵のような関係にあると聞いたことがある。
 近い者ほど愛憎の念は深い。相接し、拮抗するものたちの負けじ魂、競争心から発した両者の関係であろうか。
 「連れ島」ということでもなかろうが「イージーマ」ということもあるようで、それは渡慶次と儀間を合わせて呼ぶ時のことのようで、漢字表記では「上儀間」ということになろうか。
 十七世紀の『高究帳』以前の記録に儀間の名は見えず、中国皇帝派遣の冊封副使徐葆光の『中山伝信録』(1721)には「宜間」と書かれ、『琉球国旧記』(1731)には「儀間邑」と出ている。
 東恩納寛惇著『南島風土記』によると、「読谷山の北部を割き金武間切の西部と合して恩納間切の創設された時、儀間が新設された」とある。
 同様のことは比嘉徳著の『中頭郡誌』にも書かれているが、恩納間切の創設の年は延宝元年(1673)だから、儀間はその年にできたということになる。
 『角川日本地名大辞典』の沖縄編によると「(儀間は)おそらく18世紀初頭には渡慶次村の地内に小集落をなしていたと考えられる」とあるが、それは17世紀の誤りであろう。それはともかく儀間が渡慶次から分かれて村(字)になったことは言い伝えその他に徴してみても間違いはない。
 ところで渡慶次と儀間を総称する時、どうして「イージーマ」と言い、分かれて行った儀間の名はあるのに、なぜ渡慶次という名は呼ばずに、単に「イー」としたか、不思議ではある。
 時代はずっと下って明治28年(1895)に渡慶次の集落地内に読谷山尋常小学校の渡慶次分校ができた。それから7年後の明治35年(1902)、同分校は独立校となり瀬名波に敷地を移したが校名はそのまま渡慶次とした。
 校名を決める時、渡慶次側が瀬名波側に酒を一升出して校名を渡慶次にしてもらったとか、金を出して名前を買い取ったとか、面白い話しもあるが、真相はどうであろうか。
(※一部割愛しました。)

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