続 渡慶次の歩み
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第1章 渡慶次の概況

第3節 村屋・事務所・公民館・集落センターの変遷

村屋(ムラヤー)

 1879年(明治12)、渡慶次の最初の事務所、村屋が渡慶次・儀間2か字共同使用で蔵根小(クラニーグヮー)の敷地内の東に建てられた。
 
渡慶次公民館事務所の変遷(戦前〜終戦直後)
(1994年5月15日発行『人和定風水』p106・107掲載図をもとに作成)
◎[図] 本編参照
 
 廃藩置県後も各間切(現在の市町村)では地頭代が行政を掌り、村(現在の字)には掟(ウッチ)が置かれ行政が執行されていたが、村が建てた特定の事務所はなく、最初に建てた村屋の崩壊後は、個人の家(アサギ・はなれ)等を間借りして事務執行していた。このような不便を無くすために渡慶次と儀間が話し合い、前記の場所に共有の事務所を建て、各自の行政事務を執行し便宜を図っていた。
 渡慶次から儀間が分離した年代は不明であるが、少なくとも1609年の慶長検地の記録に儀間村とみえることから、かなり古い時代ということになる。儀間村が分かれたといっても道路1本を隔てているだけで生活環境が同じであり、農耕地も同じ地域で入り混じっている。したがって風紀の粛正や、農耕地の管理・取り締まり等、2か字の役員が一緒に協議を行う場所が必要であった。
 その後、転々と事務所を移し、金細工(カンジェークー)のアサギで事務を行ったのが個人宅を利用しての事務所(村屋)の終わりである。
 
事務所1
 1916年(大正5) 瓦葺き 15坪
 渡慶次181番地
 屋号仲西(ナカニシ)の西側に、「獅子毛(シーシモー)」という小さな広場があり、そこには石積みの獅子の納庫(獅子屋(シーシヤー))があった。この獅子屋の前の広場は子ども達の格好の遊び場でもあった。
 面積は80坪程で、周囲は個人の屋敷で、この広場だけが字の所有であり、獅子神(シーシガミ)が祀られている聖地であった。
 旧7月16日の旗スガシーや、旧8月15日(十五夜)等の祭りの時は、この獅子毛南側のガジュマルの木に旗頭が立てられ、獅子舞や棒術が演じられた。これは神への奉納と五穀豊穣の祈願でもあり、本番に出る前の試演でもあった。
 1916年(大正5)山内昌員区長(前之上地(メーヌイーチ))の時、渡慶次で初めて独自の事務所を建てることが決まった。場所としては渡慶次の中心付近の獅子毛が最適だが、敷地が狭くて事務所を建てる余地がない。何度となく有志役員会に諮って、近隣の地主に事情を話し、適当な場所を譲ってもらおうということになった。
 適地である屋号マシ知花に相談を持ちかけ、村(字)がそれほど必要であれば、北側の方から譲りましょうということになった。願いが叶えられ、早速事務所建築に取りかかり、やがて15坪の瓦葺きの建物ができあがり、獅子毛(シーシモー)と隣接する形となった。この事務所を拠点に、各種団体が活発に活動した。
 
事務所2
 1934年(昭和9) 瓦葺き 33坪
 渡慶次206番地(現ゲートボール場)
 第1回目の事務所を建ててから18年が経過した1934年(昭和9)、新垣次郎区長(三良花城(サンラーハナグシク))就任直後、事務所拡張の話が持ち上がった。当時、青年会(ニーセーズー:15歳〜37歳まで)から青年団(15歳〜25歳までの男女)が分離し、青年文庫を開設する等新たな活動を始めていた。
 各種団体の活動もめざましいものがあり、15坪の事務所では対応できなかった。そうしたことから、もっと広い事務所建設の声が上がった。
 有志役員会ではその必要性を認め、戸主会を経て、事務所建設を決定した。その場所は、「事務所1」と獅子毛(シーシモー)一帯をまとめて建設するのが望ましいとの話し合いがなされ、隣接する屋号勢頭(シール)との話し合いが行われた。勢頭としては、村(字)が必要であれば屋敷は譲りましょうということで相談はまとまった。
 村(字)の貯蓄と各戸負担金、さらに、本土及び海外出稼者にも募った資金で33坪という大きな事務所ができあがった。
 当時、読谷山(ユンタンジャ)にはこんなに大きな事務所はなく「読谷山一」と言われた。
010086-切り干し芋
戦時体制下で、日本軍に切り干し芋の供出を求められ、
村屋の前に干し芋を持参した渡慶次の区民。
これらは醗酵させアルコールになった。

 
 その後、事務所前広場を利用して幼稚園が開設され、さらに事務所の西半分を仕切って字の共同売店(行政上の呼称「購買部」)を経営するなど、その活動は村外にも知れ渡るようになった。
 この事務所は、産業、教育、文化の発展にも大きく貢献し、読谷山村の開催する原山勝負(ハルヤマスーブ)(産業共進会)では連続優勝もした。
 このように、村人達の拠点であった「事務所2」も沖縄戦の戦火により、建設より10年程で焼失した。
 
事務所3
 1948年(昭和23)4月 瓦葺き
 坪数不明 渡慶次148番地
   (戦前の馬アミシー池)
 沖縄戦終結2年後の1947年(昭和22)10月16日、渡慶次・儀間に待望の移動許可がおり、区民は我先にと準備を進め、家屋のでき次第逐次移り住んだ。
 移動許可になってから約7か月後、区民の大半が移り住んだので、活動拠点となる事務所を建てなければということになり、区民総会に諮り、事務所を建設することとなった。
 事務所敷地(現公民館広場)が米軍飛行場建設のための土砂や石等が山のように積まれていて、整地するのに多くの労力を要するので比較的平坦な字有地(渡慶次148番地)に建てることになった。材料は字有の尾頓川(ウトゥンガー)の山林より区民総出で木材を切り出し、運搬には馬車やトラックを所有している者があたった。瓦はカタノーのサーターヤー組(渡慶次509番地、福地※※養豚小屋付近)から四号サーターヤー(製糖小屋)の焼け残った瓦を寄贈してもらった。復興に燃える熱意は強く、かなり早いテンポで事務所建設は進められ、後一歩で完成というところまで来た。
 ところが、1948年(昭和23)5月12日「渡慶次・儀間は早急に立ち退きせよ」という立退命令が下り、区民はただ呆然として為す術を知らなかった。時の区長、玉城国安(後当下庫理(クシトーチャグイ))と村議の儀間玉永(西儀間(イリジーマ))は立ち退き命令の撤回を目指し軍民両政府に捨て身の折衝を行ったが聞き入れられず、ついに立ち退きせざるを得なくなった。村内他字から同情が寄せられ、家屋の取り壊しや資材・家具の運搬、食料の炊き出し等のサービスをうけ、励まされながら立ち退きを完了した。
 
事務所4
 1948年(昭和23)6月 瓦葺き
 坪数不明 高志保381番地
 渡慶次から立ち退き、高志保や波平、瀬名波等に移った戸数は107戸だった。自分の住宅の移転、建築もしながら衣食住にも事欠く生活を強いられたが、区民の事務所建築を求める声は無くならなかった。
 事務所を建てることについては、高志保部落と地主の承諾を得て、高志保381番地に建てることになった。この土地は戦車壕跡なので埋め戻して整地をした。
 事務所を建てるにあたっては、材料の不足分は尾頓川の山林から切り出し、突貫工事で作業を進め、着工してから1か月後には完成した。
 
事務所5
 1949年(昭和24)9月 茅葺き
 坪数不明 高志保381番地
 山城吾助区長時代の7月、強烈なグロリヤ台風が来襲し、風速50mという暴風で、当時のツーバイフォー作りの規格住宅はほとんどが全半壊した。松材をつぎ合わせて建てた渡慶次の事務所もこの強烈な暴風に耐えることができず、全壊してしまった。立ち退きにより渡慶次から移動し、高志保に事務所を建ててから1年2か月が経っていた。
 なんとしても事務所は必要であり、緊急役員会と戸主会を同日招集し、その対策を協議した。早急に立て直すべきだとの戸主会決議により、時を移さず翌日から事務所の建て直しに取りかかった。今度はなるべく松材を使用せず、米軍の使用済み電柱を使用し、突っ張りや支柱も入れて、頑丈な事務所に仕上げた。また、屋根には茅の代わりに当時周辺で容易に入手できたマカヤーやゲーン(ススキ)等で葺いた。
 高志保に事務所を建ててから、再び渡慶次に移転するまでの6年間、区民の戦後復興の活動拠点となった。
 
事務所6(公民館1)
 1954年(昭和29) 茅葺き
 坪数不明 渡慶次206番地
   (現ゲートボール場)
 1952年(昭和27)時の玉城源助区長(牛当下庫理(ウシートーチャグイ))に米軍通訳官後藤(日本人二世)から、渡慶次への再移動許可が伝えられた。これを受けて逐次移動を開始し、部落の大半が移動した1954年(昭和29)知花奈平区長(山前門(ヤマーメージョー))の時、高志保にある事務所を渡慶次に早急に移築すべきとの話が持ち上がった。
 青年会長大城※※(正次不動小(セイジフルーグヮー))の提案で、まずは敷地の拡張と整地から、と区民に働きかけ、前勢頭(メーシール)屋敷を買い受け、マシ知花屋敷(180番地)は字有地(148番地)と交換して敷地の拡張を行った。埋立てと整地についてはブルドーザーを投入、整地作業は青年会員や各戸主が労務提供して手作業で仕上げた。
010089-字事務所
公民館とも呼ばれるようになったころの字事務所が、
写真の後方に写っている

 
 高志保にあった事務所を解体して骨組みだけを残し、それを区民総出で担いで移動させ、1954年(昭和29)、現在のゲートボール場に建てた。
 1955年(昭和30)、与那覇清区長(西白堂(イリシロー))の時、今までの字事務所に加え、社会教育法に基づく公民館とも呼ばれるようになり、区長も区長兼公民館長となった。
 
公民館2
 1956年(昭和31)11月
 鉄筋コンクリート造 55坪
 渡慶次180番地
 1956年(昭和31)山内昌善区長(前山内(メーヤマチ))のとき、終戦直後高志保で仮事務所開設当時、部落への移動を前提として企画された碁盤型道路も九分通り開通した。元の事務所敷地も整備拡張され、いよいよ本格的な公民館建設の計画が立てられた。
 建築主任に山内※※(昌賢山内)、副主任に国吉※※(国吉(クニシ))、建築委員に山城※※(牛池之畑(ウシーイチヌハタ))、玉城※※(牛当下庫理(ウシートーチャグイ))、玉城※※(加那玉城(カナータマグスク))3名と特別会計に川上※※(仲川上小(ナカカーカングヮー))、書記に大城※※(正次不動小(セイジフルーグヮー))と7名を委嘱した。
 建築資金は部落の積立金と寄付金等、さらに青年会から10万円を出してもらい、瓦葺きの公民館を建てる計画を立てた。
 しかし、この計画は途中2つの面で変更せざるを得ない状況に立ち至った。
 1つは、従来の公民館敷地は軍用地であり、瀬名波にある通信隊FBISの電波障害になるので電気の使用を許可できないから、そこに公民館を建てることは罷(まか)り成らぬという通達が出されたことである。代表を立て、村長も伴って折衝したがどうにもならなかった。結局、振り出しに戻り有志役員で検討した結果、東の方の玉城※※(加那当下庫理(カナートーチャグイ))の土地(現在の集落センター敷地)を購入することになった。しかし、ここでまた購入資金はどう工面するかということになった。結論として、銀行より借りる以外に方法はないということになった。
 この件について、次の有志役員会に問題提起がなされた。どうせ銀行から借りるということであれば、コンクリート・スラブ造りの公民館を建てる方が得策だと、瓦葺きからコンクリート・スラブ造りへと、敷地変更に続く2つ目の変更が提議された。
 瓦葺きの公民館はこれまでも台風の影響で幾度か倒壊しており、今後も倒壊・再建となれば区民の二重の負担になるのは明らかである。コンクリート・スラブ造りへの変更の提案は有志役員会で採択され、銀行からは瓦葺きよりも頑丈なコンクリート・スラブ造りの公民館が建てられるだけの資金を借りることに決定された。
 その後、借入については、有志役員、建設委員を交えて話し合い、字の財産を担保にしての借入は難しいということで、他にどのような方法が良いかと検討がなされた。すると、山城※※・玉城※※・玉城※※の3名の建築委員から、さし当たって自分たちの個人財産を担保にして借りてはどうか、という申し出があった。その気持ちに対し、有志役員みんなが感謝し、お礼を述べ、返済は尾頓川の賃貸料で支払う約束で戸主会の承認を得て借入の話は決まった。
 敷地も購入し、公民館設計も変更して建設は円滑に進行し、すべてが順調に渉った。各班交代で労力の提供をしたが、その中でも青年会の公民館建設に対する意欲は非常に高く際立つものがあった。また、棟上やスラブ打ち等は区民が総出で行い、これまでにない公民館が完成した。
 
010090-コンクリート公民館
初のコンクリート・スラブ造の公民館
 
 さて、公民館は完成し落成祝となったが、残念ながら落成祝当日は朝から雨が降り、招待客が来る頃は大変な豪雨となり、案内係も客もずぶぬれになった。客は公民館からあふれ、急きょ隣近所の家を5軒ほど借りて何とか祝賀会を催した。しまいには、靴がない人、傘がない人、入り乱れて手の施しようが無いほどであった。
 
公民館建築の決算は下記の通り(B円)
収入 建築資金 182,215円
   畜産資金 40,632円
   青年会資金 100,000円
   土地賃貸料 36,245円
   旧事務所売上金 6,938円
   雑収入 35,596円
   祝賀会残金 122,233円50銭
   借入金 200,000円
   合計 723,859円50銭
   総工費 687,457円50銭
   差し引き残高 36,402円
 
公民館図書館・親子ラジオ室
 1961年(昭和36)
 1階図書館 2階親子ラジオ室
   鉄筋コンクリート造
 1階23坪・2階約3坪
   渡慶次180番地
 
 1960年(昭和35)、玉城信昭区長(玉城小(タマグスクグヮー))の時、公民館建築に要した負債支払いのめどがついたので、1階を図書館、2階を親子ラジオ室に充てる2階建ての増築が計画された。1961年(昭和36)、建物は2450ドルで完成し、5月6日には落成祝賀会が行われた。
 
010093-図書館と親子ラジオ室
手前が増築した図書館と親子ラジオ室
 
 図書館については、図書係1名を採用するなど、活発に運営された。蔵書は年次計画に基づき、児童図書・一般用図書と、毎年その蔵書を増やしていった。しかし、1964年(昭和39)頃からは利用者が減り、図書館への経費投入について話し合われ、1966年(昭和41)から公民館の書記が図書係を兼ねて運営するようになった。
 学校図書館等の充実により、次第に公民館図書館の利用者が減り、閉館され、その後は会議室等として使われていった。
 親子ラジオは、1958年(昭和33)に、当時ほとんどの家庭に入っていた中山有線放送社(中山※※・旧役場前)と読谷有線放送社(儀間※※・高志保在)があった。字内各家庭への伝達事項等の目的のため公民ラジオとして読谷有線放送社から19万円(B円)で買い受けた。そして、7月1日から「渡慶次公民ラジオ」として放送が開始されていった。
 「親子ラジオ」という名称は、放送元となるラジオを“親”、そこから発信される電波を受信する側を“子”とし、親子ラジオと呼ばれた。青年会の協力を得て機具の移転や据え付け工事、電柱立てが完了すると、字内の各家庭へ伝達事項や民謡が流され、特に、お年寄りや家庭の主婦から喜ばれていた。
 1960年(昭和35)に親子ラジオ室が完成すると、機材置き場と作業をする4畳程の場所でラジオ係がその職務にあたった。聴取料として1か月100ドルを支払うようになってからは、各家庭から30セントを徴収し、それがラジオ係の給料やその他の維持管理費に充てられた。
 1965年(昭和40)4月には事業を拡張し、字儀間の約100戸にも放送が開始された。また、戦後より高志保にも渡慶次出身の人々が約70戸住んでおり、架線工事には電柱や架線に多くの費用や労力がかかった。架線には米軍払い下げの野線用電話線を使用した。強い暴風が来るとずたずたになったが、その復旧作業は応援を頼み全力を挙げて取り組まれ、1日でも早く放送を再開できるよう努められた。
 しかし、1966年(昭和41)1月、政府の電波管理課から有線放送事業法の改正指令が出て、施設改善が必要になった。電柱は現在使用しているものよりも長く、上部の直径も大きなものを使用し、架線も「銅芯入PVC屋外線」を使用、資材の質や架線方法等も指示されており、施設修繕に多額の資金が必要とされた。この施設修繕については行政委員会で審議されたが、その頃からはテレビやラジオが普及し、親子ラジオのボリュームをしぼっている実情では、多額の資金をかけて存続させる価値がないだろうとの意見が多数出た。そして、親子ラジオを廃止し、代わりに公民館屋上にスピーカーを設置することで伝達事項を伝えるとのことで結論に達した。戸主会で事情を説明し、承認を得て、儀間にも了解を求め、2月末日に8か年間区民に親しまれてきた親子ラジオの放送は打ち切られた。
 その他の増改築について以下に記す。
($=ドル)
 台所改築 1962年(昭和37)
  15坪 $1240.00
 ブロック塀 1964年(昭和39)
  $200.00
 事務室前軒 1965年(昭和40)
  6月 18坪 $419.00
 事務室内部改築 1966年(昭和41)
  8月 7.5坪 $600.00
 
 

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