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第5章 渡慶次区民の移民・出稼ぎ
第1節 戦前の移民・出稼ぎ
日本本土では1868年(明治元)に、ハワイへの契約移民*から海外への移民が始まっていた。1871年(明治4)の廃藩置県、1879年(明治12)の沖縄県設置を経て、1899年(明治32)に沖縄県から初めての海外移民が出発した。渡航先はハワイで、「移民の父」と呼ばれる当山※※(金武村出身)らの海外移民推進活動によって実現した。以後、ハワイを中心にペルーやブラジル、アルゼンチンなどの中南米諸国、フィリピン、シンガポールなどの東南アジアやミクロネシア地域へと渡航先も広がっていった。
読谷村からは、1904年(明治37)に字大湾の冨着※※、古堅の池原※※両名のメキシコ渡航を皮切りに、翌1905年(明治38)にはハワイへ2名、ニューカレドニアへ11名が移民した。以降、ペルーやブラジルなどの南米諸国、南洋群島、「満州」(中国東北部)、台湾などにも多くの村民が雄飛した。
現在、読谷村史編集室では『読谷村史・移民編』を編集中であるが、読谷村史の研究資料や所蔵する「海外旅券下付表(以下、旅券下付表とする)」、『沖縄県史』、「引揚者給付金請求書処理表」などを参考に戦前の移民先国別の状況及び渡慶次からの移民を見ていく。
*契約移民:移民先における耕地主と前もって契約書を交わして渡航する移民(『沖縄タイムス大百科事典』)。この他に、官約移民(日本政府とハワイ政府との契約により行われた移民『広辞苑』)、自由移民(移民するにあたって前もって契約などの取り決めをせず、原則現地で自由に職を見つける移民で、親族による呼び寄せ移民が多かった『沖縄タイムス大百科事典』)がある。
ハワイ
沖縄県からのハワイ移民は1899年(明治32)に始まる。その後、県民の海外移民を推奨した当山※※の引率による第2回移民が成功すると、沖縄からの移民者は増加していった。この背景には、1898年(明治31)の全国的な物価高騰の影響による食糧難、1902年(明治35)の台風による影響など、経済的な苦しさがあった。年次別に見てみると、1906年(明治39)の移民者数が最も多く、4,467名を数えた。
1908年(明治41)に「日米紳士協約」が締結され、ハワイを含む米国への日本人の入国が制限された。こうして自由移民が制限されるようになり、家族の呼び寄せや写真結婚による花嫁の呼び寄せによる移民へと移行していった。
アメリカでの排日運動が激しくなるにつれ、1920年(大正9)には写真結婚による女性移民者の渡航が禁止され、1924年(大正13)にはついに「移民入国割当法」(いわゆる「排日移民法」)によって移民が全面禁止となった。
下は旅券下付表をもとに作成した明治、大正、昭和の読谷村出身移民者数及びハワイ移民者数の推移である。
旅券下付表によると渡慶次出身のハワイ移民者は、13名で、そのうちの11名が1906年(明治39)の自由移民による渡航で、1名は家族による呼び寄せ移民、1名は再渡航となっている。
(読谷村史研究資料8-2 No.12参照)
旅券下付表による渡慶次出身のハワイ移民者名簿
南米
『沖縄県史 第7巻 各論編6 移民』では、沖縄県からの送出移民を、移民開始年の1899年(明治32)から1945年(昭和20)までの47年間の変遷をもとに時代区分毎に分析している。第1期ハワイ移民無制限時代、第2期ハワイ移民制限・南米移民前期時代、第3期南米移民中期・南方移民前期、第4期南米移民後期・南方移民後期、第5期中絶期とそれぞれ称されている。排日法によるアメリカ(ハワイ)への渡航制限がなされると、その打開策として南米への移民が進められ、年次毎に移民者数の多少はあるものの長年にわたり行われた。
日本からの南米移民は、1899年(明治32)に970名のペルー移民より始まった。沖縄県からは1906年(明治39)に初のペルー移民111名が渡航した。旅券下付表から、第1次ペルー移民111名の中には渡慶次出身者1名も含まれていたことが読み取れる。
その後、1908年(明治41)には「笠戸丸」による初のブラジル移民が渡航し、1913年(大正2)には沖縄県より初のアルゼンチン移民が渡航した。
大正中期にブラジル移民・ペルー移民が増加し、1918年(大正7)には沖縄からの移民者数がブラジル2204名、ペルー882名にのぼった。
太平洋戦争の勃発により、1941年(昭和16)の「ぶえのすあいれす丸」の神戸港出港を最後に移民の送り出しはほとんど無くなった。またその翌年の1942年(昭和17)には、ペルー、ボリビアなどの南米諸国と日本との国交が断絶された。
渡慶次からのペルー移民名簿
(「海外(外国)旅券下付表」から抜粋・調製)
フィリピン
フィリピンへの沖縄県からの初の移民は1904年(明治37)と早い時期に行われた。当山※※より委嘱を受けた大城※※の引率で、360名が、主にベンゲット州の道路工事の契約労働者として送り出された。後に、麻生産を中心とする仕事に従事するようになると、新たな移民も増加していった。
旅券下付表によると、1907年(明治40)から翌年の1908年(明治41)の2年間で読谷村からは17名がフィリピンへ渡航しているが、その中には渡慶次出身者1名も含まれている。
マニラ麻またはアバカ麻と呼ばれる商品は、船舶用のロープの原料として需要が高く、それに目をつけた日本人の経営による日本人農園が大きな利益を得ていた。ダバオの日本人農園には沖縄からの移民が多く、太平洋戦争直前には全体の約70%を占めるようになっていた。
1910年代以降、日本人移民は増加した。日本人移民社会の中で、沖縄県出身者は差別的な扱いを受けることもあったが、県人会を組織し、結束して差別的な状況に対抗した。このような同郷の会は字毎でも存在し、正月などの行事や新たに移民が来たとき、または出産時なども皆で集まって祝った。
旅券下付表をもとにした戦前(1907〜1941)の字別フィリピン渡航者数は次の通り。
◎[写真]本編参照
フィリピンはアメリカ領であったため、1941年(昭和16)日本軍により攻撃、上陸、占拠を受けた。その後アメリカ軍が再上陸したため、フィリピンにいた移民達は戦況の転換によって避難・身柄拘束・解放・避難を繰り返し経験した。本誌の戦争体験談の中でもフィリピンでの戦争体験を与那覇※※(本書175頁)が語っている。
字別フィリピン渡航者数
(『読谷村史第五巻 資料編4 戦時記録上巻』p.580参照)
読谷村からは、1904年(明治37)に字大湾の冨着※※、古堅の池原※※両名のメキシコ渡航を皮切りに、翌1905年(明治38)にはハワイへ2名、ニューカレドニアへ11名が移民した。以降、ペルーやブラジルなどの南米諸国、南洋群島、「満州」(中国東北部)、台湾などにも多くの村民が雄飛した。
現在、読谷村史編集室では『読谷村史・移民編』を編集中であるが、読谷村史の研究資料や所蔵する「海外旅券下付表(以下、旅券下付表とする)」、『沖縄県史』、「引揚者給付金請求書処理表」などを参考に戦前の移民先国別の状況及び渡慶次からの移民を見ていく。
*契約移民:移民先における耕地主と前もって契約書を交わして渡航する移民(『沖縄タイムス大百科事典』)。この他に、官約移民(日本政府とハワイ政府との契約により行われた移民『広辞苑』)、自由移民(移民するにあたって前もって契約などの取り決めをせず、原則現地で自由に職を見つける移民で、親族による呼び寄せ移民が多かった『沖縄タイムス大百科事典』)がある。
ハワイ
沖縄県からのハワイ移民は1899年(明治32)に始まる。その後、県民の海外移民を推奨した当山※※の引率による第2回移民が成功すると、沖縄からの移民者は増加していった。この背景には、1898年(明治31)の全国的な物価高騰の影響による食糧難、1902年(明治35)の台風による影響など、経済的な苦しさがあった。年次別に見てみると、1906年(明治39)の移民者数が最も多く、4,467名を数えた。
1908年(明治41)に「日米紳士協約」が締結され、ハワイを含む米国への日本人の入国が制限された。こうして自由移民が制限されるようになり、家族の呼び寄せや写真結婚による花嫁の呼び寄せによる移民へと移行していった。
アメリカでの排日運動が激しくなるにつれ、1920年(大正9)には写真結婚による女性移民者の渡航が禁止され、1924年(大正13)にはついに「移民入国割当法」(いわゆる「排日移民法」)によって移民が全面禁止となった。
下は旅券下付表をもとに作成した明治、大正、昭和の読谷村出身移民者数及びハワイ移民者数の推移である。
旅券下付表によると渡慶次出身のハワイ移民者は、13名で、そのうちの11名が1906年(明治39)の自由移民による渡航で、1名は家族による呼び寄せ移民、1名は再渡航となっている。
(読谷村史研究資料8-2 No.12参照)
旅券下付表による渡慶次出身のハワイ移民者名簿
年次 | 氏名 | 本籍地 | 身分 | 年齢 (生年月日) |
保証人 取扱人 |
旅行目的 | 下付月日 |
1906年 (明治39) |
棚原 ※※ |
中頭郡読谷山 間切渡慶次村 |
戸主 ※※長男 |
明治 20年生 |
仙台移民 合資会社 |
自由移民 | 3月8日 |
1906年 (明治39) |
福地 ※※ |
中頭郡読谷山 間切渡慶次村 |
戸主 ※※孫 |
明治 14年生 |
中国殖民 合資会社 |
自由移民 | 9月26日 |
1906年 (明治39) |
國吉 ※※ |
中頭郡読谷山 間切渡慶次村 |
戸主 ※※二男 |
明治 18年生 |
中國移民 合資会社 |
自由移民 | 9月26日 |
1906年 (明治39) |
國吉 ※※ |
中頭郡読谷山 間切渡慶次村 |
戸主 ※※長男 |
明治 8年生 |
中國移民 合資会社 |
自由移民 | 9月26日 |
1906年 (明治39) |
池原 ※※ |
中頭郡読谷山 間切渡慶次村 |
戸主 ※※長男 |
明治 21年生 |
中國移民 合資会社 |
自由移民 | 9月26日 |
1906年 (明治39) |
比嘉 ※※ |
中頭郡読谷山 間切渡慶次村 |
戸主 ※※二男 |
明治 15年生 |
日本殖民 株式会社 |
自由移民 | 9月3日 |
1906年 (明治39) |
與那覇 ※※ |
中頭郡読谷山 間切渡慶次村 |
戸主 | 明治 11年生 |
日本殖民 株式会社 |
自由移民 | 9月3日 |
1906年 (明治39) |
與那覇 ※※ |
中頭郡読谷山 間切渡慶次村 |
戸主 ※※長男 |
明治 23年生 |
中國移民 合資会社 |
自由移民 | 9月26日 |
1906年 (明治39) |
山内 ※※ |
中頭郡読谷山 間切渡慶次村 |
戸主 ※※二男 |
明治 22年生 |
中國移民 合資会社 |
自由移民 | 9月26日 |
1906年 (明治39) |
川上 ※※ |
中頭郡読谷山 間切渡慶次村 |
戸主 ※※三男 |
明治 16年生 |
山陽移民 合資会社 |
自由移民 | 8月4日 |
1906年 (明治39) |
玉城 ※※ |
中頭郡読谷山 間切渡慶次村 |
戸主 ※※長男 |
明治 22年生 |
中國移民 合資会社 |
自由移民 | 9月25日 |
1921年 (大正10) |
與那覇 ※※ |
読谷山村字 渡慶次 |
戸主 ※※長男 |
明治17年 | 父ノ呼寄 | 10月27日 | |
1928年 (昭和3) |
久場 ※※ |
読谷山村字 渡慶次 |
戸主 ※※孫 |
明治18年 | 再ビ | 10月10日 |
南米
『沖縄県史 第7巻 各論編6 移民』では、沖縄県からの送出移民を、移民開始年の1899年(明治32)から1945年(昭和20)までの47年間の変遷をもとに時代区分毎に分析している。第1期ハワイ移民無制限時代、第2期ハワイ移民制限・南米移民前期時代、第3期南米移民中期・南方移民前期、第4期南米移民後期・南方移民後期、第5期中絶期とそれぞれ称されている。排日法によるアメリカ(ハワイ)への渡航制限がなされると、その打開策として南米への移民が進められ、年次毎に移民者数の多少はあるものの長年にわたり行われた。
日本からの南米移民は、1899年(明治32)に970名のペルー移民より始まった。沖縄県からは1906年(明治39)に初のペルー移民111名が渡航した。旅券下付表から、第1次ペルー移民111名の中には渡慶次出身者1名も含まれていたことが読み取れる。
その後、1908年(明治41)には「笠戸丸」による初のブラジル移民が渡航し、1913年(大正2)には沖縄県より初のアルゼンチン移民が渡航した。
大正中期にブラジル移民・ペルー移民が増加し、1918年(大正7)には沖縄からの移民者数がブラジル2204名、ペルー882名にのぼった。
太平洋戦争の勃発により、1941年(昭和16)の「ぶえのすあいれす丸」の神戸港出港を最後に移民の送り出しはほとんど無くなった。またその翌年の1942年(昭和17)には、ペルー、ボリビアなどの南米諸国と日本との国交が断絶された。
渡慶次からのペルー移民名簿
年次 | 氏名 | 本籍地 | 身分 | 年齢 (生年月日) |
保証人 取扱人 |
旅行目的 | 下付月日 |
1906年 (明治39) |
玉城 ※※ |
読谷山間切 渡慶次村 |
戸主 ※※弟 |
明治 22年生 |
明治植民 合資会社 |
契約移民 | 12月25日 |
1930年 (昭和5) |
神谷 ※※ |
読谷山村字 渡慶次 |
戸主 ※※ノ孫 |
18年 | 屋嘉 ※※同件 (再ビ) |
5月8日 |
フィリピン
フィリピンへの沖縄県からの初の移民は1904年(明治37)と早い時期に行われた。当山※※より委嘱を受けた大城※※の引率で、360名が、主にベンゲット州の道路工事の契約労働者として送り出された。後に、麻生産を中心とする仕事に従事するようになると、新たな移民も増加していった。
旅券下付表によると、1907年(明治40)から翌年の1908年(明治41)の2年間で読谷村からは17名がフィリピンへ渡航しているが、その中には渡慶次出身者1名も含まれている。
マニラ麻またはアバカ麻と呼ばれる商品は、船舶用のロープの原料として需要が高く、それに目をつけた日本人の経営による日本人農園が大きな利益を得ていた。ダバオの日本人農園には沖縄からの移民が多く、太平洋戦争直前には全体の約70%を占めるようになっていた。
1910年代以降、日本人移民は増加した。日本人移民社会の中で、沖縄県出身者は差別的な扱いを受けることもあったが、県人会を組織し、結束して差別的な状況に対抗した。このような同郷の会は字毎でも存在し、正月などの行事や新たに移民が来たとき、または出産時なども皆で集まって祝った。
旅券下付表をもとにした戦前(1907〜1941)の字別フィリピン渡航者数は次の通り。
◎[写真]本編参照
フィリピンはアメリカ領であったため、1941年(昭和16)日本軍により攻撃、上陸、占拠を受けた。その後アメリカ軍が再上陸したため、フィリピンにいた移民達は戦況の転換によって避難・身柄拘束・解放・避難を繰り返し経験した。本誌の戦争体験談の中でもフィリピンでの戦争体験を与那覇※※(本書175頁)が語っている。
字別フィリピン渡航者数
(『読谷村史第五巻 資料編4 戦時記録上巻』p.580参照)