続 渡慶次の歩み
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第9章
渡慶次農村運動広場の建設と区民運動会

第1節 渡慶次農村運動広場ができるまで

 

1 尾頓川山(ウトゥンガーヤマ)地域(米軍不発弾処理場)の返還

 渡慶次の字有地である尾頓川山地域一帯は、沖縄戦終結後から米軍の不発弾処理場として使われていた。米軍は、沖縄戦で大量の爆弾を本島及び離島各地に投下したが、米軍機から投下された爆弾は、全部が爆発したわけではなかった。爆発しないで残ったもの、あるいは日本軍が使わないで残していったものもあった。そうしたものは不発弾として処理されることになった。通常は、爆弾の先端に付いている信管(起爆装置)をゆっくり外す処理を行うが、あまりにたくさんの不発弾が残ったので、いちいち信管をはずすという処理をする余裕はなく、米軍は爆破による処理を行うことにしたのであった。
 米軍の不発弾処理場になったこの尾頓川山地域は、森林地帯であり、樹木を伐採して道を造り、その先に同じように樹木を伐採して広場を造り処理場にした。爆破時に破片が飛び散ったら危ないというので、道路の側溝を造るように土を掘り出しそこに不発弾を入れた。その後信管部分に火薬をセットして埋め戻し、爆破するという方法をとっていた。しかし、やはり破片が民間地域に飛び散った。特にひどかったのは、処理作業が最も激化した1963年(昭和38)、64年(昭和39)頃で、座喜味、長浜の一帯に頻繁に砲弾の破片が落下した。以下は1970年(昭和45)代の主な砲弾破片の落下事件である。
 
・1970年(昭和45) 長浜の黙認耕作地で農夫の足元に落下
 この時期爆発の振動で、住宅に亀裂が入るなどの被害続発(長浜の全戸数196戸のうち約100戸に被害)
・1971年(昭和46)1月26日
 座喜味の民家に破片落下、瓦3枚をぶち抜く
・1973年(昭和48)1月11日 毒ガス事件発生
 午前11時10分頃、処理作業のミスから流出した毒ガスは、折からの北東の風に乗って読谷飛行場を吹き抜け読谷高校一帯に達した。ちょうど3時間目の授業が始まったばかりで、北側と西側の校舎さらにはグラウンドに出ていた生徒と教師たちが目の痛みや鼻水、クシャミに咳といった症状を訴えた。一時、大混乱に陥ったが、しばらくして痛みもなくなり落ち着きを取り戻した。この「毒ガス事件」こそが、米軍不発弾処理場撤去の闘いの引き金になった。
 この毒ガス事件の1週間後の1月18日には、読谷村民約3000人が集結して抗議集会が催された。当時の屋良朝苗沖縄県知事はじめ、各界からいろいろな形で米軍への抗議が殺到した。すると米軍もしばらくはそこでの不発弾処理を止めていたが、それから2年後1975年(昭和50)になって、不発弾処理を再開したいと読谷村に申し出てきた。これに反対すべく山内徳信読谷村長を先頭に村民が一丸となって不発弾処理場撤去の闘いが展開され、2か年あまりの闘いを経て、ついに1978年(昭和53)3月31日返還が実現した。
 

2 尾頓川山の渡慶次字有地の有効活用をめざして
 オキハム工場の誘致へ

 尾頓川山地域は軍用地であったことから、その地料が字渡慶次の収入として積み立てられ、その中から毎年予算編成時には繰入金として収入に計上され財政面で大きな役割を果たしていた。しかし、前述の不発弾処理場の撤去闘争によって返還されたことから、その有効活用が字渡慶次にとっても緊急の課題となってきた。
 読谷村にとってもこの地域の跡地利用計画の進展は、その後の村政の命運に大きな影響を与えるものと考えられ、村づくりの大きな課題となっていた。
 当時、跡地利用計画として検討されていたのは、@儀保植物園への賃貸Aハブセンターへの賃貸B福祉病院の建設Cオキハムの工場建設の4つであった。
 字渡慶次では1980年(昭和55)10月20日の行政委員会で対策委員会を立ち上げ、その調査結果に基づき結論を出すことにした。対策委員会の会長は大城得助(区長)、副会長に大城※※、委員に山城※※、山城※※、山城※※、山内※※、山内※※、玉城※※、与那覇※※の各氏が名を連ねた。その調査結果に基づいて、最終的にオキハム誘致を決定した。
 オキハム(沖縄ハム総合食品株式会社)側にとっては、業務の拡大と流通経費の削減などを目指し、名護よりもより那覇に近い地域への工場移転を模索している時期であった。
 

3 沖縄ハム総合食品株式会社への売却決定の理由

 「この地域の土地利用については、単なる企業立地のための土地の提供者であってはいけない」と次のような理由から沖縄ハム総合食品株式会社への土地(16,000坪)の売却を決定した。
1 食品加工においては機械化が進んではいるものの、どうしても人力に頼らざるを得ない部分が多い。したがって、会社側の雇用計画(第一次60人から70人・第二次120人から150人)にそって、村民の優先雇用が可能である。
2 原料として野菜(人参、キャベツ等)を購入してもらうことで、農家との結びつきができる。
3 ハム等の加工品の原材料として県産豚肉を利用しており、畜産農家との結びつきができる。
4 工場廃水の高度処理により、環境への悪影響を避けることができる。
 しかしながら、尾頓川山一帯の地域には、次のような歴史的経緯から売却することへの懸念も表明されていた。
 尾頓川山は明治30年代の土地所有権認定の時、字渡慶次に割り当てられたものである。以来、事務所や区民の住宅建築の際には木材を切り出したり、サーターヤー(サトウキビから黒糖を作る小屋)の釜を炊く燃料(薪)の供給地としても重要な役割を果たした。
 1921年(大正10)には字負債の返済のために売却処分をしようと24組ズリー(サーターヤー組)有志役員会で決議し、戸主会へ諮ったが、当時の青年たちの猛烈な反対運動によって、売却が断念され、長年字有財産として守りつづけられてきていた。
 さらに戦後は、軍用地料が字渡慶次に入るという形で区民の財政的負担の軽減に寄与していたのである。
 こうした経緯を踏まえながらも、企業誘致を念頭に、仮に処分するにしても、その代金で字内に代替地を求め、区民みんなが利用できるような施設を建設することで、一石二鳥の利を求めるとして、オキハムへの売却もやむなしとの判断がくだされたのであった。そして、1980年(昭和55)11月11日の行政委員会と同年11月19日の臨時総会で、代替地の購入を条件に売却が承認された。
 そして、1980年(昭和55)11月28日のオキハムと字渡慶次との交渉で売却価格5700万円(1坪あたり3,562.5円)が提示され、後に役場側も調整に入り、その提示を受け入れ売却額が決まった。
 

4 渡慶次農村運動広場の建設へ

 字渡慶次では、この売却代金をもって、青少年の健全育成、地域の社会体育の振興、将来の子や孫たちのためにもなると運動広場の建設をめざすこととなった。そして、1981年(昭和56)4月14日の行政委員会で「農村運動広場用地取得特別委員会」(当初5名で立ち上げ、のちに14名に委員を増員し体制を強化した)の設置が決定され、用地の選定と取得へ向けた動きが始められた。
 
 農村運動広場用地取得特別委員会
(昭和62年7月当時)
 委員長 与那覇正勝(区長)
 副委員長 玉城※※
 委員 山城※※
 委員 与那覇※※
 委員 玉城※※
 委員 山内※※
 委員 山城※※
 委員 玉城※※
 委員 山内※※
 委員 大城※※
 委員 大城※※
 委員 玉城※※
 委員 山内※※
 委員 与那覇※※
090272-特別委員の皆さん
農村運動広場用地取得特別委員の皆さん
 

5 農村運動広場の候補地選定

 当初農村運動広場の候補地としては、
 メースB基地の跡地(小字南風原)
 寺原
 カタノー原字有地一帯
 渡慶次地内の軍用地地域(FBIS内)
 渡慶次ガン屋前一帯
 があげられた。については農業振興地域に編入されていることと、距離の面で維持管理に困難をきたす恐れがあると思慮された。については、すでに住宅地域として宅地化が進んでおり、面積の確保が厳しいと判断された。については、字有地が700坪ほどあったが、それだけは足りず、周辺の個人有地を購入するなどの対応策が検討されたが、この地域も土地改良地域に編入されているので無理であることが判明した。については、黙認住宅が散在し、住宅地化してきていることと、通信施設との関係上共同使用手続きの困難さが予想された。
 こうした事情からの渡慶次ガン屋前一帯が最良の候補地として選定された。
 

6 渡慶次ガン屋前一帯に絞り込まれた理由

1 公民館から近く維持管理に便利である。
2 地形的に運動広場として最適である。
3 運動広場の整備に併せて村道高志保〜宇座線北側の生活廃水処理が可能になる。
 以下年表風に経過を記す。
・1981年(昭和56)10月27日 区民臨時総会
 日本復帰に伴い、本土の諸法が沖縄にも適用されるようになり、字では土地を購入することができないとのことから、村に用地費を寄付して、村で購入してもらう手続きをとることを承認。
・1981年(昭和56)11月12日 地主懇談会開催
 字側から:事業目的の説明と協力依頼
 地主側から:昔から肥沃な地域であり農地として適地であるが、字の計画なら反対できない。しかし、価格については十分に配慮してほしい(不動産鑑定士を入れて評価して欲しい)。代替地を探してほしい。一部が軍用地であるのでそこははずして欲しい、などの意見、要望が出たが、総論として賛成の意を表明していただいたので該地域に決定した。
(その後、不動産の鑑定業務を委託し、評価してもらった結果、用地価格は、坪当たり11,000円とされた。)
・1981年(昭和56)11月27日 用地交渉スタート
・1982年(昭和57)3月 農用地からの除外決定
 

7 沖縄農業構造改善モデル地区整備事業特別事業の導入へ

 当初計画では農村運動広場の用地購入から造成まですべて字渡慶次で行うこととしていたが、造成費に莫大な資金が要るため、字単独では財政上困難であることがわかった。そこで村当局、国県の補助事業を取り入れて実現できないかと調整の結果、沖縄農業構造改善モデル地区整備事業特別対策事業を導入することになった。
 この間、用地取得委員会では懸命に地主との交渉にあたり1985年(昭和60)7月現在で全体の32%の同意取り付けに成功していた。しかし、代替地の要求、坪単価のアップ要求など、かなり厳しい現状を踏まえ、同年5月17日には、用地取得の方法を見直そうと小委員会を設置していた。小委員会のメンバーは、大城※※、玉城※※、与那覇※※の3名であった。いろいろと知恵を出し合い、懸命に交渉に取り組んだが遅々として進展しなかった。
 これを受けて、農村運動広場用地取得特別委員会では、更なる譲歩案と代替地の交渉を図り、少しずつ進むようになった。
 

8 農村運動広場の完成

 一部の用地交渉が難航する中、農村運動広場の工事は1986年(昭和61)8月16日に着工した。起工式には村長はじめ関係機関、用地取得委員、行政顧問、行政委員らが参列し、盛大に執り行われた。そして翌1987年(昭和62)1月26日に竣工検査を合格し、完成をみたのである。
090274-造成工事中の様子
造成工事中の様子
 
工事内訳
 〔補助事業分〕
 農村運動広場工事  25,500,000円
 便所及び用具庫    5,500,000円
 −−−−−−−−−−−−−−−
 合 計        31,000,000円
 
〔補助対象外〕―自主事業―
 用地費       30,559,000円
 記念誌        750,000円
 記念碑        650,000円
 測量及び工事費  29,246,000円
 諸経費        4,014,000円
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  合計        65,219,000円
 ※補助対象外事業資金の一部に、尾頓川山一帯の売却金が充てられた。
090274-農村運動広場竣工記念碑
農村運動広場竣工記念碑
 
 農村運動広場の完成祝賀会は、1987年(昭和62)2月22日に行われた。小雨の降る肌寒い中、村三役、村議会議長、議員、役場各課長、各字区長ほか多くの区民が参加した。読中バンド部(指導者山城※※、部員30名)が演奏する中、山内徳信村長、与那覇正勝区長、伊波※※議長、當間※※(体育振興会長)、宜保※※(児童生徒代表)がテープカットを行い、続いてバンド部を先頭に参加者全員が広場を一周し式典に移った。
 
090275-完成を祝して広場を一周する
完成を祝して広場を一周する
 
 式典では、経過報告、村長の式辞、議長、教育長、村体協長の祝辞があり、その後、公民館に会場を移して盛大な祝宴が執り行われ、余興とともに遅くまで盛り上がった。
 

9 協力いただいた地主

 棚原※※、玉城※※、与那覇※※、山内※※、与那覇※※、川上※※、山内※※、新垣※※、新垣※※、儀間※※、大城※※、玉城※※、友寄※※
 
◎[写真] 本編参照
地主の刻銘碑
 

10 むすび

 用地の一部を省き移転登記が完了したのは1987年(昭和62)2月20日であった。そして、同2月28日に特別委員会は解散した。しかしながら、用地の一部でまだ未解決部分を残しており業務が終了していたわけではなかった。その後も曲折を経ながら、用地問題の全面解決が成ったのは同年6月22日であった。明治以来の字渡慶次の人々の「字有財産を守る」の精神は、地主各位の深い理解と協力のもと引き継がれた。
 また、農村運動広場の管理権については村当局と覚書を交わし、字渡慶次が持ち、区民及び地域の人々による積極的な活用で社会体育の振興に大きく寄与している。
 渡慶次の歴史の中で、これほど困難を極め、難渋に難渋を重ねた事業は他に例がない、と当時の関係者は等しくその感想を語る。であればこそ、渡慶次の歴史の重要な1ページとなったことに違いはない。
 運動広場に広がる歓声の裏で、悩み、多くの壁にぶつかりながらも、それを乗り越えてきた人々がいたことを私たちは忘れてはならない。それが字渡慶次の共同体の基礎を築き上げている、そのことを心に刻みたい。
 
参考資料
・「渡慶次字有(尾頓川)における企業誘致について調査報告書」
 (1980年、渡慶次公民館蔵)
・『復帰後の読谷村民の闘い』
 (1983年、読谷村職員労働組合発行)
 
 

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