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第9章 渡慶次農村運動広場の建設と区民運動会
第2節 渡慶次区民運動会
1 渡慶次区民運動会の歴史
第1回渡慶次区民運動会は1969年(昭和44)に渡慶次小学校運動場で開催された。当時の区長は与那覇清光で、体育部長は棚原※※であった。村陸上競技大会への選手選抜の参考にするため、区民運動会を開催しようという話はその前年からあった。
1968年(昭和43)度の区長であった福地蔡賢は次のように語っている。「体育部関係の役員をはじめ、若者の中から区民運動会を開催して、渡慶次区の体育の振興を図ってほしいと提起があった。そのことを行政委員会に諮ったところ全会一致で承認され、次年度に経費の予算措置をして与那覇清光区長に引き継いだ。」
このようにして産声をあげた区民運動会であったが、そのプログラムのほとんどは読谷村陸上競技大会に添った種目が多く、渡慶次小学校の運動場は陸上競技大会を実施するにはあまりにも狭かった。プログラムには100m競争とあったが、70m程しかコースが取れず、またトラック1周で200m ということだったが、実際には150m 程しかなかった。そのトラックも小学校の運動会や体育時に使用しているものを使い、スタートと同時にオープンコースになっていた。短距離走は転ばないのが不思議な程であった。各班ごとの得点競技とあって、判定を巡る異議申し立てやトラブルも多く、勝負に一喜一憂した区民運動会が渡慶次小学校で2か年続いた。
青年達や体育部役員から、この狭い運動場では各競技種目の記録測定が不可能であり、記録への挑戦のためにも会場を変更してほしいとの要請が出された。
1971年(昭和46)山城真秀区長はその件について行政委員会に諮り承認を得て、第3回大会から読谷小学校運動場で開催している。当時、読谷小学校の運動場は読谷村陸上競技大会場のため、毎年村の予算で拡張工事をしていた。記録の向上と競技のスムーズな運営のため4回・5回大会と連続してそこで実施された。
ところが、大会場が遠いとの理由で観客は以前に比べ減ってしまった。中でもお年寄りの不参加が目立つようになった。区民運動会は区民の参加が大事な要件なので、協議の結果、第6回大会からは再び渡慶次小学校へ会場を移し、以下13回大会までそこで実施した。
1982年(昭和57)に村営残波岬いこいの広場が完成した。これを機に再び会場変更の議題が持ち上がった。競技場設営、器具機材の運搬等多くの課題を抱えながらも永年狭い渡慶次小学校の運動場での開催を余儀なくされていたため、青年層からの強い要望があり、第14回大会から残波岬いこいの広場で実施することになった。以後第18回大会まで5か年続いた。
第18回大会にはプログラムの抜本的な見直しが行われた。それまでオープン競技だった小学校生の玉入れ競技が得点種目になり、高校生の男女混成リレーがそれぞれ男女別のリレーに変わり、小・中校生の参加率のアップにつながった。
そして1987年(昭和62)、長年待ちわびていた渡慶次農村運動広場が完成した。この年の第19回大会は記念すべき区民運動会となった。前回まで実施できなかった円盤投げややり投げが前日の土曜日、ナイターの下で実施された。さらに100m 競走も、変則的ながら、セパレートコースが設営され、この種目でスパイクの使用が認められたのは画期的だった。また、幼児から小学校の高学年の徒競走や各種団体の集団演技も取り入れられ、区民総参加の運動会として名実共に盛んになっていった。
1988年(昭和63)、区民運動会は20周年を迎えた。その記念種目として全区民による綱引きがプログラムに取り入れられた。記念タオルも配られ、節目の運動会を盛り上げた。
20周年記念のくす玉割りで運動会のスタートを
1992年(平成4)第24回大会からは55歳以上の400mリレーが各班対抗の得点種目になり、話題性を高めた。
1993年(平成5)第25回大会からは各種スポーツで渡慶次出身の全国大会・九州大会への派遣選手を昼食時に激励している。また、第27回大会からは開会式への参加人数も得点に加えられ、第28回大会からは「俵かつぎリレー」が採点種目になり、現在でも人気種目の1つになっている。
1998年(平成10)、30周年を迎え、区民全員が何かの種目に参加できるよう、創意工夫が図られた。記念大会は朝から小雨がちらついたが開会式には多くの区民が参加し、その中でくす玉が割られ、みんなで30周年の記念の大会を盛り上げた。閉会式では鏡割りも行われ、大会後の反省会において各班のテントに祝い酒が配られた。なお、30周年を記念して、『知られざる栄光―渡慶次区民スポーツ史概論―』が1999年(平成11)2月1日発刊され、祝賀会が催された。
『知られざる栄光』表紙
第31回大会には、それまで前日実施していたやり投げ、円盤投げが廃止され、運動会はもとの1日制になった。
当初は各家庭で弁当を持参し、昼食時も和やかな雰囲気をかもし出した区民運動会であったが、しだいに食事も各々自宅に戻ってとるようになり、昼食時を利用して行われていた派遣選手激励会を見る人が少なくなっていった。しかも、午後の種目も予定通り進行せず、それを解消するために第33回大会からは婦人会(与那覇※※会長)がカレーライスの炊き出しをするようになった。婦人会員の熱意と精力的な協力で、おいしいカレーライスを全員に配り、以後、カレーパーティのような雰囲気となって、プログラムの進行もスムーズになり、今日に至っている。
恒例になった婦人会手作りの昼食
継続は最大の力である。区民運動会を立ち上げてから1回も途絶えることなく今日まで継承されたのは、区長(大会長)をはじめ体育振興会の役員、各班の班長、補助役員、各組織の役員、さらには渡慶次区全区民の理解と協力に裏打ちされた結果である。いかなる困難があろうと、それを克服し前進する姿勢は渡慶次の区民性でもある。渡慶次農村運動広場の完成と継続・実施してきた区民運動会が励みとなり、渡慶次から多くの優れた選手を輩出している。
以下、会場、特徴、激励選手、順位など、年度別に列挙する。
1968年(昭和43)度の区長であった福地蔡賢は次のように語っている。「体育部関係の役員をはじめ、若者の中から区民運動会を開催して、渡慶次区の体育の振興を図ってほしいと提起があった。そのことを行政委員会に諮ったところ全会一致で承認され、次年度に経費の予算措置をして与那覇清光区長に引き継いだ。」
このようにして産声をあげた区民運動会であったが、そのプログラムのほとんどは読谷村陸上競技大会に添った種目が多く、渡慶次小学校の運動場は陸上競技大会を実施するにはあまりにも狭かった。プログラムには100m競争とあったが、70m程しかコースが取れず、またトラック1周で200m ということだったが、実際には150m 程しかなかった。そのトラックも小学校の運動会や体育時に使用しているものを使い、スタートと同時にオープンコースになっていた。短距離走は転ばないのが不思議な程であった。各班ごとの得点競技とあって、判定を巡る異議申し立てやトラブルも多く、勝負に一喜一憂した区民運動会が渡慶次小学校で2か年続いた。
青年達や体育部役員から、この狭い運動場では各競技種目の記録測定が不可能であり、記録への挑戦のためにも会場を変更してほしいとの要請が出された。
1971年(昭和46)山城真秀区長はその件について行政委員会に諮り承認を得て、第3回大会から読谷小学校運動場で開催している。当時、読谷小学校の運動場は読谷村陸上競技大会場のため、毎年村の予算で拡張工事をしていた。記録の向上と競技のスムーズな運営のため4回・5回大会と連続してそこで実施された。
ところが、大会場が遠いとの理由で観客は以前に比べ減ってしまった。中でもお年寄りの不参加が目立つようになった。区民運動会は区民の参加が大事な要件なので、協議の結果、第6回大会からは再び渡慶次小学校へ会場を移し、以下13回大会までそこで実施した。
1982年(昭和57)に村営残波岬いこいの広場が完成した。これを機に再び会場変更の議題が持ち上がった。競技場設営、器具機材の運搬等多くの課題を抱えながらも永年狭い渡慶次小学校の運動場での開催を余儀なくされていたため、青年層からの強い要望があり、第14回大会から残波岬いこいの広場で実施することになった。以後第18回大会まで5か年続いた。
第18回大会にはプログラムの抜本的な見直しが行われた。それまでオープン競技だった小学校生の玉入れ競技が得点種目になり、高校生の男女混成リレーがそれぞれ男女別のリレーに変わり、小・中校生の参加率のアップにつながった。
そして1987年(昭和62)、長年待ちわびていた渡慶次農村運動広場が完成した。この年の第19回大会は記念すべき区民運動会となった。前回まで実施できなかった円盤投げややり投げが前日の土曜日、ナイターの下で実施された。さらに100m 競走も、変則的ながら、セパレートコースが設営され、この種目でスパイクの使用が認められたのは画期的だった。また、幼児から小学校の高学年の徒競走や各種団体の集団演技も取り入れられ、区民総参加の運動会として名実共に盛んになっていった。
1988年(昭和63)、区民運動会は20周年を迎えた。その記念種目として全区民による綱引きがプログラムに取り入れられた。記念タオルも配られ、節目の運動会を盛り上げた。
20周年記念のくす玉割りで運動会のスタートを
1992年(平成4)第24回大会からは55歳以上の400mリレーが各班対抗の得点種目になり、話題性を高めた。
1993年(平成5)第25回大会からは各種スポーツで渡慶次出身の全国大会・九州大会への派遣選手を昼食時に激励している。また、第27回大会からは開会式への参加人数も得点に加えられ、第28回大会からは「俵かつぎリレー」が採点種目になり、現在でも人気種目の1つになっている。
1998年(平成10)、30周年を迎え、区民全員が何かの種目に参加できるよう、創意工夫が図られた。記念大会は朝から小雨がちらついたが開会式には多くの区民が参加し、その中でくす玉が割られ、みんなで30周年の記念の大会を盛り上げた。閉会式では鏡割りも行われ、大会後の反省会において各班のテントに祝い酒が配られた。なお、30周年を記念して、『知られざる栄光―渡慶次区民スポーツ史概論―』が1999年(平成11)2月1日発刊され、祝賀会が催された。
『知られざる栄光』表紙
第31回大会には、それまで前日実施していたやり投げ、円盤投げが廃止され、運動会はもとの1日制になった。
当初は各家庭で弁当を持参し、昼食時も和やかな雰囲気をかもし出した区民運動会であったが、しだいに食事も各々自宅に戻ってとるようになり、昼食時を利用して行われていた派遣選手激励会を見る人が少なくなっていった。しかも、午後の種目も予定通り進行せず、それを解消するために第33回大会からは婦人会(与那覇※※会長)がカレーライスの炊き出しをするようになった。婦人会員の熱意と精力的な協力で、おいしいカレーライスを全員に配り、以後、カレーパーティのような雰囲気となって、プログラムの進行もスムーズになり、今日に至っている。
恒例になった婦人会手作りの昼食
継続は最大の力である。区民運動会を立ち上げてから1回も途絶えることなく今日まで継承されたのは、区長(大会長)をはじめ体育振興会の役員、各班の班長、補助役員、各組織の役員、さらには渡慶次区全区民の理解と協力に裏打ちされた結果である。いかなる困難があろうと、それを克服し前進する姿勢は渡慶次の区民性でもある。渡慶次農村運動広場の完成と継続・実施してきた区民運動会が励みとなり、渡慶次から多くの優れた選手を輩出している。
以下、会場、特徴、激励選手、順位など、年度別に列挙する。
回 | 開催 年月日 |
体育部長及び 体育振興会長 |
区長 | 特徴 | 激励 | 順位 |
第 1 回 |
1969年 (昭和44) 8月 |
体育部長: 棚原※※ |
与那覇清光 | 場所:渡慶次小学校 運動場 主催:渡慶次区 |
1位4班 | |
第 2 回 |
1970年 (昭和45) 8月 |
玉城※※ | 玉城国市 | 場所:渡慶次小学校 運動場 主催:渡慶次区 |
||
第 3 回 |
1971年 (昭和46) 8月22日 |
玉城※※ | 山城真秀 | 場所:読谷小学校 運動場 主催:渡慶次区 |
1位4班 2位1班 |
|
第 4 回 |
1972年 (昭和47) 8月27日 |
仲村渠※※ | 新垣喜正 | 場所:読谷小学校 運動場 主催:渡慶次区 |
1位6・7班 連合チーム |
|
第 5 回 |
1973年 (昭和48) 9月9日 |
与那覇※※ | 儀間信助 | 場所:読谷小学校 運動場 主催:渡慶次区 |
1位2班 2位1班 |
|
第 6 回 |
1974年 (昭和49) 8月 |
大城※※ | 儀間信助 | 場所:渡慶次小学校 運動場 主催:渡慶次区 |
||
第 7 回 |
1975年 (昭和50) 8月10日 |
川上※※ | 玉城義次 | 場所:渡慶次小学校 運動場 主催:渡慶次区 |
1位2班 | |
第 8 回 |
1976年 (昭和51) 8月15日 |
川上※※ | 玉城義次 | 場所:渡慶次小学校 運動場 主催:渡慶次区 |
||
第 9 回 |
1977年 (昭和52) 9月11日 |
山内※※ | 与那覇真一 | 場所:渡慶次小学校 運動場 主催:渡慶次区 |
1位5班 2位1班 3位2班 4位3班 5位 6・7班 6位4班 |
|
第 10 回 |
1978年 (昭和53) 7月23日 |
仲村渠※※ | 与那覇真一 | 場所:渡慶次小学校 運動場 主催:渡慶次区 |
||
第 11 回 |
1979年 (昭和54) 7月22日 |
大城※※ | 与那覇真一 | 場所:渡慶次小学校 運動場 主催:渡慶次区 *この年班の編成 替えを行い、現在の ような班編成となる |
1位6班 2位3班 3位4班 4位5班 5位1班 6位2班 7位7班 |
回 | 開催 年月日 |
体育部長及び 体育振興会長 |
区長 | 特徴 | 激励 | 順位 |
第 12 回 |
1980年 (昭和55) 8月3日 |
玉城※※ | 大城得助 | 場所:渡慶次小学校 運動場 主催:渡慶次区 |
1位3班 | |
第 13 回 |
1981年 (昭和56) 8月2日 |
体育振興 会長: 玉城※※ |
玉城義次 | 場所:渡慶次小学校 運動場 *この年から主催が 渡慶次体育振興会 になる |
1位3班 | |
第 14 回 |
1982年 (昭和57) 8月7日 |
玉城※※ | 玉城義次 | 場所:残波岬いこいの 広場 主催:渡慶次体育 振興会 |
||
第 15 回 |
1983年 (昭和58) 8月7日 |
玉城※※ | 玉城義次 | 場所:残波岬いこいの 広場 主催:渡慶次体育 振興会 |
1位4班 2位3班 3位5班 4位1班 5位7班 6位6班 7位2班 |
|
第 16 回 |
1984年 (昭和59) 8月5日 |
玉城※※ | 玉城健栄 | 場所:残波岬いこいの 広場 主催:渡慶次体育 振興会 フィールドの部、 砲丸投げで30代と 40代が交互になり、 次の種目を追加 三段跳び(一般男子) 円盤投げ(一般男子・ 一般女子・30代) やり投げ(一般 男子・一般女子) |
1位5班 2位4班 3位3班 4位1班 5位6班 6位7班 7位2班 |
|
第 17 回 |
1985年 (昭和60) 8月4日 |
与那覇※※ | 玉城健栄 | 場所:残波岬いこいの 広場 主催:渡慶次体育 振興会 3000mが開始第1 種目として登場 |
1位5班 2位4班 3位3班 4位1班 5位7班 6位6班 7位2班 |
回 | 開催 年月日 |
体育部長及び 体育振興会長 |
区長 | 特徴 | 激励 | 順位 |
第 18 回 |
1986年 (昭和61) 8月10日 |
新垣※※ | 与那覇正勝 | 場所:残波岬いこいの 広場 主催:渡慶次体育 振興会 初めて「玉入れ」が 登場(不得点競技) 高校生の「男女混成 リレー」を高校女子 400mRと高校 男子800mRに分離 |
1位5班 2位3班 3位4班 4位1班 5位2班 6位6班 7位7班 |
|
第 19 回 |
1987年 (昭和62) 8月1日 ・2日 |
当間※※ | 与那覇正勝 | 場所:渡慶次運動 広場 主催:渡慶次体育 振興会 *渡慶次運動広場 開設記念大会 大会が2日間になり、 前日土曜日の夜に 円盤投げとやり投げ が行われる お昼休み前に「徒歩」 が園児に、「徒競争」が 小中学生と分離 「綱引き」がなく なる 表紙タイトルで 「渡慶次運動広場 開設記念」とうた われる |
1位5班 2位4班 3位3班 4位1班 5位2班 6位7班 7位6班 |
|
第 20 回 |
1988年 (昭和63) 8月6日 ・7日 |
福地※※ | 安田慶敏 | 場所:渡慶次運動 広場 主催:渡慶次体育 振興会 *第20回記念大会 前回同様2日間開催 (以降同じ)になる 20周年を記念して 「新種目」と「記念種目」 がプログラムに 見える 新しく取り入れ られたのは、小学生男女 と高校生男女の100mの 4種目で、前年になくなった 「綱引き」が記念種目 として復活 |
1位5班 2位3班 3位4班 4位2班 5位1班 6位6班 7位7班 |
回 | 開催 年月日 |
体育部長及び 体育振興会長 |
区長 | 特徴 | 激励 | 順位 |
第 21 回 |
1989年 (平成1) 8月5日 ・6日 |
大城※※ | 安田慶敏 | 場所:渡慶次運動 広場 主催:渡慶次体育 振興会 特に変化は無く、 「綱引き」が通常の 余興としてある 「徒競争」に園児も 含まれる |
1位5班 2位3班 3位4班 4位1班 5位7班 6位2班 7位6班 |
|
第 22 回 |
1990年 (平成2) 8月11日 ・12日 |
与那覇※※ | 安田慶敏 | 場所:渡慶次運動 広場 主催:渡慶次体育 振興会 |
1位5班 2位4班 3位1班 4位3班 5位7班 6位6班 7位2班 |
|
第 23 回 |
1991年 (平成3) 8月3日 ・4日 |
仲村渠※※ | 儀間重雄 | 場所:渡慶次運動 広場 主催:渡慶次体育 振興会 不得点競技ながら 55歳以上200mRが 登場 |
1位4班 2位3班 3位5班 4位1班 5位7班 6位2班 7位6班 |
|
第 24 回 |
1992年 (平成4) 8月1日 ・2日 |
福地※※ | 与那覇徳市 | 場所:渡慶次運動 広場 主催:渡慶次体育 振興会 55歳以上200mRが 得点競技になる 宜保※※君(沖縄 尚学高校)の甲子園 出場激励会がプロ グラムの中に位置 付けられる |
*甲子園出場 ・沖縄尚学高校 宜保※※ |
1位4班 2位3班 3位5班 4位1班 5位2班 6位6班 7位7班 |
第 25 回 |
1993年 (平成5) 8月14日 ・15日 |
玉城※※ | 与那覇徳市 | 場所:渡慶次運動 広場 *この年から主催が 渡慶次区民運動会 実行委員会になる 3000mが種目から なくなり、開始第 1種目目に30代1500m をもってくる |
*読谷中学校全国 大会出場激励会 ・第15回中学校全国 ソフトボール大会 出場 山城※※(3年) 与那覇※※(3年) 与那覇※※(2年) 大城※※(2年) 与那覇※※(2年) |
1位3班 2位4班 3位5班 4位1班 5位2班 6位6班 7位7班 |
回 | 開催 年月日 |
体育部長及び 体育振興会長 |
区長 | 特徴 | 激励 | 順位 |
第 25 回 |
55歳以上200mRを 400mRに変更 各種団体役員リレー も無くなる |
・第20回全国中学校 テニス大会 山城※※(2年)、 嘉数※※(3年) ・第24回全国中学校 柔道大会出場 仲村渠※※(2年) |
||||
第 26 回 |
1994年 (平成6) 8月6日 ・7日 |
山内※※ | 福地一男 | 場所:渡慶次運動 広場 主催:渡慶次区民 運動会実行委員会 |
*全国大会出場 激励会 ・読谷高校男子 ソフトボール部 玉城※※、田原※※、 玉城※※ ・読谷高校放送部 山内※※ ・読谷高校ダンス部 村吉※※、福地※※ ・浦添商業高校 (商業実務) 山城※※ ・読谷中学校 (女子柔道) 仲村渠※※ *九州大会出場 (読谷中学校) ・男子ソフトボール 山城※※、山城※※、 大城※※、与那覇※※、 与那覇※※、新垣※※、 国吉※※、知花※※ ・女子ソフトボール部 玉城※※、仲村※※、 仲村※※、玉城※※ |
|
第 27 回 |
1995年 (平成7) 8月5日 ・6日 |
大城※※ | 福地一男 | 場所:渡慶次運動 広場 主催:渡慶次区民 運動会実行委員会 婦人の二人三脚リレー と一般男女のスティック リレーが初めて得点 競技として登場 |
*全国大会出場 激励会 ・読谷高校男子 ソフトボール部 新垣※※、玉城※※、 大城※※ ・那覇西高校柔道 仲村渠※※ |
回 | 開催 年月日 |
体育部長及び 体育振興会長 |
区長 | 特徴 | 激励 | 順位 |
第 27 回 |
開会式に参加する 選手等の人数に よって多い方 から順位を つけ、競技得点に 加算する方式を 取り入れる(1位 14点から2点下がり で7位2点まで) 各種団体リレーが 復活 |
・読谷中学校野球部 当山※※、喜友名※※ *九州大会出場 (読谷中学校) ・男子ソフトボール部 知花※※、新垣※※、 与那覇※※、棚原※※、 儀間※※、古堅※※、 山城※※ |
||||
第 28 回 |
1996年 (平成8) 8月3日 ・4日 |
大城※※ | 福地一男 | 場所:渡慶次運動 広場 主催:渡慶次区民 運動会実行委員会 俵かつぎリレーは 「20代、20代、30代、 50代の順でリレー」 年齢別リレーは 「30代、40代、50代、 60代の順で リレーする」と記述 あり |
*全国大会出場激励会 ・第31回全日本男女 ソフトボール選手権 大会(沖縄国際大学) 田原※※、玉城※※、 新垣※※ ・読谷高校男子 ソフトボール 大城※※、与那覇※※、 山城※※ ・読谷高校ダンス部 村吉※※ ・那覇西高校柔道 仲村渠※※ *九州大会出場 激励会 ・読谷中学校男子 ソフトボール 与那覇※※、棚原※※、 小橋川※※、玉城※※ ・渡慶次小学校 音楽クラブ 仲村※※、古堅※※、 仲村渠※※、友江※※、 古謝※※、小橋川※※、 大城※※、与那覇※※、 知花※※、与那覇※※、 古堅※※ ・読谷エルベス (少年野球) 大城※※、新垣※※、 儀間※※、与那覇※※、 山内※※、小橋川※※ |
1位6班 2位5班 3位4班 4位3班 5位1班 6位2班 7位7班 |