続 渡慶次の歩み > 第12章 年表「渡慶次の歩み」 > 渡慶次の歩み(年表)
第12章 年表「渡慶次の歩み」
渡慶次の歩み(年表)
西暦 (和暦) |
月日 | 事項 | 読谷・琉球・沖縄・その他 |
1187年 (文治3) |
舜天即位。この頃、初めて暦が用いられる。 | ||
1260年 (文応1) |
英祖王中山王に即位。 | ||
1264年 (文永1) |
久米・慶良間・伊平屋の各島初めて中山に入貢。 | ||
1266年 (文永3) |
奄美大島諸島、中山に入貢。 | ||
1309年 (延慶2) |
英慈即位。 | ||
1314年 (正和3) |
玉城即位。このころから三山対立。 | ||
1350年 (正平5) |
察度即位。 | ||
1372年 (文中1) |
中山王察度、泰期等明へ派遣。尚巴志生まれる。 | ||
1376年 (天授2) |
泰期等明へ進貢。 | ||
1384年 (元中1) |
中山・山南・山北、明に進貢。 | ||
1390年 (元中7) |
宮古・八重山諸島初めて中山に入貢。 中山・山北、明へ進貢。 |
||
1422年 (応永29) |
尚巴志中山王に即位。 | ||
1430年 (永享2) |
中山王、明に三山統一を告げ勅語賜る。 | ||
1454年 (享徳3) |
尚泰久即位。 |
西暦 (和暦) |
月日 | 事項 | 読谷・琉球・沖縄・その他 |
1458年 (長禄2) |
「護佐丸、阿麻和利の変」により両氏没する。 万国津梁の鐘を首里城正殿にかける。 |
||
1461年 (寛正1) |
尚徳即位。 | ||
1470年 (文明2) |
金丸即位(尚円)。第二尚氏王統始まる。 | ||
1477年 (文明9) |
尚宣威王位につくが、数か月で尚真に王位を譲る。 | ||
1480年 (文明12) |
室町幕府、島津を介して琉球の来貢を催促。 | ||
1492年 (明応1) |
円覚寺建立。 | ||
1519年 (永正16) |
園比屋武御嶽石門・弁ヶ嶽石垣石門創建。 | ||
1524年 (大永4) |
日秀上人、浦添に石碑、那覇に夷堂、波之上に大日石堂を建立。 | ||
1527年 (大永7) |
尚清即位。崇元寺下馬碑建立。 | ||
1531年 (享禄4) |
『おもろさうし』第1巻編集。以後約90年間で全22巻完成。 | ||
1556年 (弘治2) |
尚元即位。 | ||
1557年 (弘治3) |
儀間真常生まれる。 | ||
1573年 (天正1) |
尚永即位。 | ||
1579年 (天正7) |
首里門に「守礼之邦」の額掲げる。 |
西暦 (和暦) |
月日 | 事項 | 読谷・琉球・沖縄・その他 |
1589年 (天正17) |
尚寧即位。 | ||
1592年 (文禄1) |
謝名一族の反乱。 亀井茲矩、琉球征服を図るが秀吉これを禁ずる。 |
||
1605年 (慶長10) |
野國総管福州より甘藷を持ち帰る。 | ||
1606年 (慶長11) |
島津家久、琉球征討を許される。 | ||
1609年 (慶長14) |
慶長の役。薩摩軍、琉球に攻め入り尚寧王降伏。王制を維持したまま薩摩の支配下に入り、対明貿易も薩摩に把握される。 | ||
1611年 (慶長16) |
奄美大島・喜界・徳之島・沖永良部・与論が薩摩の直轄になる。 | ||
1618年 (元和4) |
首里に慈眼院を建立し、観音像を安置する。 | ||
1621年 (元和7) |
尚豊即位。(以後、王の即位に島津氏の承認を得る慣例となる。) | ||
1637年 (寛永14) |
渡慶次浜に南蛮人(宣教師ゴンザレス)漂着する。日本への布教のための船旅で座礁したため。 | ||
1641年 (寛永18) |
尚賢即位。 | ||
1643年 (寛永20) |
渡慶次親雲上道治(庚氏2世渡慶次家)渡慶次村の地頭となる。(1673年まで) | ||
1646年 (正保3) |
砂糖・ウコン初めて薩摩に輸出。 |
西暦 (和暦) |
月日 | 事項 | 読谷・琉球・沖縄・その他 |
1648年 (慶安1) |
尚質即位。初めて芭蕉当職を設ける。 | ||
1657年 (明暦3) |
この頃、歌人吉屋チル身売り。「恨む比謝橋や…」の琉歌を詠んだとされる。 | ||
1659年 (万治2) |
宮古・八重山の貢租は人数とは無関係に村位、頭位によって数量を決定。(貢布賦課法) | ||
1666年 (寛文6) |
羽地朝秀摂政となる。 | ||
1669年 (寛文9) |
尚貞即位。諸士、百姓願い次第仕明許可。 | ||
1673年 (延宝1) |
ここから渡慶次村から儀間村分かれたが、地域共同体はつづく。 渡慶次親雲上賀幸(薛氏5世比嘉家)渡慶次村の地頭となる。(1698年・元禄11年まで) |
羽地朝秀摂政を辞す。 羽地仕置成立。恩納間切開設。 |
|
1682年 (天和2) |
陶工牧志村の南(壺屋)に集住させられる。 | ||
1705年 (宝永2) |
琉球より日本へ甘藷渡る。 | ||
1708年 (宝永5) |
蔡温進貢使として渡清し、地理を学ぶ。真玉橋を石橋に改修。 | ||
1710年 (宝永7) |
尚益即位。 | ||
1713年 (正徳3) |
尚敬即位。蔡温、国師職を授かる。 | ||
1715年 (正徳5) |
玉城朝薫踊奉行となる。 |
西暦 (和暦) |
月日 | 事項 | 読谷・琉球・沖縄・その他 |
1716年 (享保1) |
比謝橋石橋二座新設。(翌3月完工) | ||
1717年 (享保2) |
比謝橋碑文建立。 | ||
1718年 (享保3) |
玉城朝薫組踊を作る。 | ||
1728年 (享保13) |
蔡温三司官になり、国師兼務。以後25年間務める。 程順則名護間切総地頭となる。 |
||
1734年 (享保19) |
鄭秉哲古波蔵親方(久米・鄭氏13世)渡慶次村の地頭となる。(1739年・元文4まで) | 平敷屋朝敏・友寄安乗ら処刑される。 蔡温『農務帳』公布。 |
|
1735年 (享保20) |
蔡温、羽地川治水にあたる。山林保護育成政策として植林を奨励。(「蔡温松」) | ||
1739年 (元文4) |
渡慶次親雲上朝直(向氏6世仲村家)渡慶次村の地頭となる。(1744年・延享1まで) | ||
1750年 (寛延3) |
渡慶次、儀間、宇座合同で龕(ガン)の建造。その当時獅子も建造されたと推定される。 | ||
1752年 (宝暦2) |
尚穆即位。 | ||
1756年 (宝暦6) |
渡慶次親方地頭真本(麻氏11世西原家)渡慶次村の地頭となる(1771年・明和8まで)。 | ||
1771年 (明和8) |
棚原親方真厚(麻氏12世)渡慶次村の地頭となる。(1790年・寛政2) | ||
1785年 (天明5) |
古典音楽安冨祖流の祖、安冨祖正元生まれる。 |
西暦 (和暦) |
月日 | 事項 | 読谷・琉球・沖縄・その他 |
1786年 (天明6) |
沖縄初の刑法典(琉球科律)制定。 | ||
1790年 (寛政2) |
渡慶次親雲上盛栄(毛氏12世松田家)渡慶次村の地頭となる。(1811年・文化8まで) | ||
1795年 (寛政7) |
尚温即位(12歳)。 | ||
1800年 (寛政12) |
獅子の改造(高志保の喜瀬氏の彫刻による)。 | ||
1803年 (享和3) |
尚成即位(4歳)。 | ||
1804年 (文化1) |
尚灝(しょうこう)即位。 | ||
1812年 (文化9) |
渡慶次親雲上幸本(習氏)渡慶次村の地頭となる。(1820年代頃まで) | ||
1835年 (天保6) |
尚育即位。 | ||
1844年 (弘化1) |
帰唐船(中国から戻ってきた進貢船)風向きの関係で渡慶次村沖に停泊する。 | ||
1848年 (嘉永1) |
尚泰即位(6歳)。 | ||
1853年 (嘉永6) |
米海軍ペリー提督来琉。 | ||
1857年 (安政4) |
渡慶次親雲上全包(袁氏5世渡慶次家)渡慶次村の地頭となる。(1863年・文久3まで) | ||
1863年 (文久3) |
渡慶次筑登之全行(袁氏6世)渡慶次村の地頭となる。(退任不詳) | ||
1869年 (明治2) |
野村安趙による『欽定工工四』(琉球古典音楽楽譜)完成。 |
西暦 (和暦) |
月日 | 事項 | 読谷・琉球・沖縄・その他 |
1872年 (明治5) |
琉球王国は琉球藩となる。 「学制」公布(下等小学校4年、上等小学校4年) |
||
1873年 (明治6) |
獅子の改造(国吉※※の彫刻、白堂の西に住んでいた人)。 | ||
1878年 (明治11) |
渡慶次で饒平名という人が学問を教える。 | ||
1879年 (明治12) |
渡慶次の最初の事務所「村屋」が儀間と2か字共同で建てられる。 | 琉球藩を廃し沖縄県になる。 | |
1880年 (明治13) |
旗頭建造(宇座の山内※※の彫刻)。 | ||
1881年 (明治14) |
渡慶次村25番地新垣姜汪よりの三反帆商船新造願の件許可される。 | ユタ禁止令出る。 | |
1882年 (明治15) |
喜名番所を校舎として使用し初の学校(読谷山小学校)が開校される。 | ||
1888年 (明治21) |
読谷山尋常小学校となる。 | ||
1889年 (明治22) |
大日本帝国憲法発布。 | ||
1890年 (明治23) |
渡慶次、儀間、宇座合同の闘牛場が儀間の製糖場南側の窪地に造られる。 | 教育勅語発布。 | |
1891年 (明治24) |
渡慶次、儀間の戸籍が初めて作られる。作者次良安田の安田※※で当時の役職は総頭。 | ||
1893年 (明治26) |
三良福地前の儀保小屋跡に闘牛場が移転、宇座は独自の闘牛場を持つ。その後、神谷小の西に闘牛場を移転、年代不明。 |
西暦 (和暦) |
月日 | 事項 | 読谷・琉球・沖縄・その他 |
1894年 (明治27) |
龕(ガン)の再建(山田の呉屋小という人)。 | 日清戦争始まる。 | |
1895年 (明治28) |
綱引きのお辞儀騒動(負け組は、勝ち組に土下座してお辞儀をすることになっていたが、しなかったため騒動になった)。 読谷山尋常小学校渡慶次分校として、渡慶次集落の民家を使い設立する。4年制の2学級。学区域は高志保、渡慶次、儀間、宇座、瀬名波、長浜の6区。 |
||
1897年 (明治30) |
土地所有権認定に伴い尾頓川山が渡慶次に割り当てられる。 渡慶次分校の敷地を瀬名波原に定め、土間教室2教室と職員室と便所を建築する。 |
||
1898年 (明治31) |
読谷山尋常小学校に高等科併置。 男子断髪励行。 |
||
1899年 (明治32) |
間切・島番所を役場と改称。 | ||
1900年 (明治33) |
松明(タイマツ)で夜間行っていた綱引を昼綱に改める。 | 美里間切泡瀬で断髪流行。 県立中学学友会「校内ニテ一切方言使用セザル事」を申し合わす。 義務教育4年 |
|
1902年 (明治35) |
4月1日 | 渡慶次尋常小学校として独立する。現在の場所に創立する。初代校長に(鹿児島県出身)指宿良右衛門が就任。学区域は高志保、渡慶次、儀間、宇座、瀬名波、長浜とする。 | |
1903年 (明治36) |
宇座が龕を放棄し渡慶次、儀間の所有となる。現校地に渡慶次尋常小学校校舎落成する。現在の三郎神谷屋敷より移る。 | 渡慶次尋常小学校が第1回卒業式を挙行する。 | |
1904年 (明治37) |
日露戦争始まる。 |
西暦 (和暦) |
月日 | 事項 | 読谷・琉球・沖縄・その他 |
1905年 (明治38) |
4月6日 | 3月中の児童出席奨励旗授与式を挙行。 1等99.79%高志保村 2等99.69%長浜村 3等99.55%儀間村 4等99.28%宇座村 5等98.64%瀬名波村 6等98.42%渡慶次村 |
|
1906年 (明治39) |
2等分制であった龕(ガン)の経費を渡慶次3分の2、儀間3分の1に改める。 | ||
1907年 (明治40) |
義務教育6年。 | ||
1908年 (明治41) |
初代区長儀間玉節(蒲儀間)就任。 部落で初めて掘り抜きの井戸が波平小にでき、その後も仲門小の西、儀間の仲上地の前に設置。渡慶次・儀間で祝賀会を催す。 闘牛場売却し渡慶次の闘牛が廃止となる。 |
沖縄県及び島嶼町村制施行により、間切時代からの村制が市町村に移行され部落も区長制度が施かれる。 間切・島および村(ムラ)を村(そん)・字(あざ)と改称。 |
|
1909年 (明治42) |
渡慶次に共同井戸9か所設置される。場所:金細工、池原小の西、白堂の前、万久川上、野国、牛池之畑の東、戸賀前与之比、昌助山内、仲山内の前。 | ||
1911年 (明治44) |
渡慶次では棒術が大変盛んでありスーマチ棒(うず巻棒)等が行われる。 | (株)嘉手納製糖工場竣工。 | |
1912年 (明治45・ 大正元) |
エイサーの廃止。 | ||
1913年 (大正2) |
10月 12月2日 |
忠魂碑の建立(在郷軍人会30余名で建造)。渡慶次、儀間、宇座の3漁業組合共有の漁業権取得。(1947年1月31日まで) | |
1914年 (大正3) |
渡慶次青年会結成。(対象:18歳から48歳までの男女) | 第1次世界大戦勃発。読谷山村婦人会発足。 | |
1916年 (大正5) |
字事務所の新築、当時蔵根小の屋敷内東に字事務所はあったが、渡慶次、儀間2か部落の所有で合同集会の時だけ使用し日頃は個人の家を借りて事務を執る。 |
西暦 (和暦) |
月日 | 事項 | 読谷・琉球・沖縄・その他 |
1916年 (大正5) |
1890年頃、森原に渡慶次の井戸を設置。その後部落内に沢山井戸が出来たため遠くて不便であり井戸敷地をこの年白堂に売却する。 瓦葺き字事務所(15坪)を渡慶次181番地に建築。 |
||
1918年 (大正7) |
4月1日 | 棒術はスーマチ棒、三尺棒がなくなり六尺棒だけとなる。 | 渡慶次尋常小学校に高等科が併置される。 |
12月 | 渡慶次青年団発足(青年会より青年団、婦人会が分離して発足する。当初婦人会長は与那覇蒲区長兼任)。 | ||
1919年 (大正8) |
婦人会初代会長山内※※(前之上地)。 渡慶次共同売店開店(次良白堂の家を借りて開店、売店主任大城※※)。 |
||
1920年 (大正9) |
渡慶次産業組合発足。 村芝居復活。 漁業権の認可申請。 |
||
1922年 (大正11) |
学事奨励会発足。 男子は青年団、女子は処女団(未婚女性)と呼ばれるようになる。 青年文庫開設。 |
軽便鉄道が那覇−嘉手納間開通。 | |
1923年 (大正12) |
9月 | 関東大震災起こる。 | |
1924年 (大正13) |
関東大震災への救援活動、救援物資を送る。 | ||
1925年 (大正14) |
鯨捕物騒動。 | ||
1925・26年 (大正14・15) |
愛国婦人会加入(安田※※:前之川上、山内※※:前之上地) | ||
1927年 (昭和2) |
12月10日 | 1927年12月10日から1947年1月31日迄の20年間の漁業権の認可なる。 | |
1929年 (昭和4) |
10月 | 忠魂碑の改築(台風で倒れ改築)施工者:池原※※。 |
西暦 (和暦) |
月日 | 事項 | 読谷・琉球・沖縄・その他 |
1930年 (昭和5) |
村婦人会主催の養蚕業がさかんになり、会員も積極的に参加す。 | ||
1931年 (昭和6) |
1号、3号の溜池改修。出荷組合の設立。 | 「満州事変」勃発 | |
1932年 (昭和7) |
国防婦人会に役員のみ加入。 | ||
1933年 (昭和8) |
青年団を15歳以上25歳までの男女で再編成する。この頃、歌劇「悪魔狂」が初めて上演される。 | ||
1934年 (昭和9) |
事務所の新築(旧大池の南・現ゲートボール場)。33坪、206番地。 婦人会(玉城※※会長)によって「かまど改善」が推進される。 |
||
1935年 (昭和10) |
青年学級開設。 儀間※※、大城※※両名が改良竈(かまど)の講習を受け普及する。5か年計画で模合を開き全家庭に普及。 |
||
旧6月14日 | 戦前最後の大綱引き行なわれる。 | ||
1936・37年 (昭和11・12) |
婦人会、女子青年会が自主的に慰問袋、千人針を作って出征兵士に送る。 | ||
1937年 (昭和12) |
非常時につき男子は国民服、女子はモンペの標準服の普及。 | ||
1938年 (昭和13) |
4月 | 切り干し芋の出荷始まる。 出征兵士の祈願祭始まる(毎月1回、残波岬にて)。 |
「国家総動員法」公布。 |
1939年 (昭和14) |
マシ知花屋敷に馬専用の溜池を新築する。原山勝負で教育、産業、納税の総合優勝を果たす。 女子青年会が小那覇舞天から共通語劇を習い、女として初めて村芝居に参加。 |
||
1940年 (昭和15) |
名高い潟野馬場の行事も国家非常時のため中止となる。 南京陥落、漢口陥落を祝して渡慶次でも旗行列、チョウチン行列を行う。 |
南京陥落、漢口陥落 |
西暦 (和暦) |
月日 | 事項 | 読谷・琉球・沖縄・その他 |
1940年 (昭和15) |
戦時下、軍籍を有する家庭に慰安や奉仕作業等を行う。 | 渡久地政功校長によって渡慶次尋常高等小学校校歌「作詞、作曲」。 | |
1941年 (昭和16) |
4月 | 事務所の半分を借り共同売店を開く。 | 勅令第148号により渡慶次国民学校と改称(在籍千余人、学級25級)。 |
12月 | 太平洋戦争勃発、防空訓練始まる。 | ||
1942年 (昭和17) |
渡慶次字事務所の広場を活用して保育所(幼稚園)開設、保母玉城※※、安田※※、福地※※の3人。 | ||
1944年 (昭和19) |
軍への物資の供出と労力の奉仕。 | ||
1945年 (昭和20) |
3月 | 第2次世界大戦も激烈をきわめ区民は2月より国頭へ避難が始まり、3月に軍司令部より立ち退き命令が出る。 | 太平洋戦争のため渡慶次国民学校校舎を兵舎に徴発される。その後、戦火を浴び焼失。臨時休校となる。 |
4月1日 | 米軍読谷一帯の海岸線より上陸。 | ||
4月2日 | チビチリガマ「集団自決」起こる。 | ||
4月下旬 | 米軍、ボーローポイント飛行場建設。 | ||
5月24日 | 義烈空挺隊が強行着陸し米軍機等を破壊する。 | ||
6月23日 | 日本軍の組織的戦闘終わる。 | ||
8月14日 | ポツダム宣言受諾(日本の無条件降伏)。 「玉音放送」は15日。 |
||
9月7日 | 沖縄の日本軍無条件降伏文書に調印。 | ||
9月20日 | 婦人の選挙権認める。 |
西暦 (和暦) |
月日 | 事項 | 読谷・琉球・沖縄・その他 |
1946年 (昭和21) |
4月15日 | 旧日本円をB円に変換。 | |
4月27日 | ひめゆりの塔建立。 | ||
8月6日 | 読谷山村民、字波平と高志保、長浜の一部地域へ居住許可下りる。 | ||
8月12日 | 読谷山村建設隊を組織し村建設に着手。 | ||
8月17日 | 最初の引揚者が久場崎収容所に到着(本土疎開者)。 | ||
8月31日 | 村民移動中止命令、建設隊引き上げ。 | ||
9月11日 | 移動中止命令解除。 | ||
9月16日 | 再度建設隊作業を始める。 | ||
11月20日 | 第一次村民帰村。 | ||
11月 | 将来の渡慶次部落への移動計画に資するため、碁盤型部落内道路整備計画を作成。 | ||
12月1日 | 読谷村役所を設置。 | ||
12月16日 | 読谷山村を読谷村へ改称。 | ||
12月20日 | 読谷初等学校(波平)、渡慶次分校(高志保・アカムヤー)開校式。 | ||
1947年 (昭和22) |
1月 | 農耕地の分配。 この年、渡慶次興隆会組織される。 |
|
3月 | 第1回渡慶次分校修了式並に終業式。 |