続 渡慶次の歩み
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第4章 戦後復興期
第1節 新発掘資料に見る渡慶次の戦後復興期
5 「1947年興隆会寄附者氏名」
 (青年会)一覧表から
 
 寄附者名簿を概観すると、全体で170の氏名(団体含む)等の記載があり、総額が5,900円となっている。170名の内、男性(または団体)が120、女性が50名であるが、石川在住者等(後述する各寄附者芳名も同じ)も含まれている。
 
◎[写真]本編参照
興隆会寄附者氏名一覧の一部
 
2度寄附した者が8名、154名が1回である。また、ウザ、ギマ、ザキミ、キナの他字の者の寄附もある。
 読谷村建設後援会寄附金額調書(1946年10月15日)によると、村全体の総額で130,299円が集められており(『村の歩み』読谷村役所発行)、割合で言えば人口比同等の村の建設後援会の約5%弱であるが、区民及び近隣の協力者の意識の高さがうかがえる。
 当時の通貨は「正規円」(旧日本銀行券、台湾銀行券及び朝鮮銀行券等)で、1946年3月26日に米軍はB円(補助軍票)を初めて発行し、同比率で交換することにした。しかし、庶民生活までB円が流通するのには時間が掛かったようで、前掲の「行政日誌」には、「1950年7月16日貨幣交換実施する(新円よりB円へ)」との記載がある。おそらく「正規円」とB円が同時流通し、やがてB円に統一することになったのであろう。
 さて、当時の1円は現在の価値でいうとどの程度であろうか。『戦後沖縄の通貨・上巻』(牧野浩隆著、ひるぎ社、1987年初版発行)によると、「正規円」とB円との交換の際に「交付されるB円現金は、世帯主100円、家族1人増すごとに50円を加えた額に制限され、それを超過する分は全額貯金として預け入れることを強制されるとともに封鎖凍結された」(39頁)とあり、100円は相当な金額であったことをうかがわせている。
 また、字渡具知の城間※※によれば、当時は3,000円あれば2間(けん)×3間(けん)の家を建てることができたという。面積からすると小さい家ながら、当時は自分の家を建てることは人々の夢であったし、2軒分の寄附金が集まっていることからしても字渡慶次復興にかける区民の情熱が感じられる。
 さて、現金収入の乏しい当時、寄附者はどのように現金を稼ぎ出したのだろうか。後に紹介する「1947年(青年会)運動会寄附者芳名」にも登場する前田※※(現小橋川※※)に聞いてみた。
 当時は軍作業以外に現金を稼ぐ手だてはなく、長兄(小橋川※※)と次兄(小橋川※※)が仲泊の前兼久にあった軍施設に働きに出ていた。父の※※は自らツーバイフォーを材料にして作った下駄の表面にアダン葉を繊維状にしたもので編んだカバーを付けたものを兄たちに持たせて、米兵相手に土産品として売らせていたという。また、※※自身は山で薪を取ってきてそれを売って小銭を稼いでいたと語っている。
 
6 新発掘資料紹介
 
 以下に各「寄附者芳名(氏名)」の概要を紹介しよう。
 
◎[写真]本編参照
各種の寄附者氏名一覧表
 
1947年(青年会)運動会寄附者芳名
 寄附者総数 124名(男女名有り)
 総額 3,270円
1947年青年会太鼓購入寄附者
(7月9日)
 寄附者総数 21名 総額 870円
1948年(青年会)校区陸上競技大会区代表選手へ寄附者芳名(9月26日)
 寄附者総数 50名 総額 2,450円
1948年8月1日(旧6月26日)
青年体育角力大会寄附者氏名
 寄附者総数 23名(セナハ区役員一同のほかウザ、ギマ、
セナハの者の寄付有り)
 総額 2,350円 他に、タバコ2ボール(準青年会)タバコ1ボール(儀間青年会)タバコ1ボール(瀬名波青年会)の記載もある。
 
◎[写真]本編参照
角力大会寄附者氏名一覧表の一部
 
1949年10月2日校区運動会選手へ寄附者芳名
 寄附者総数 67名(石川在住者一括記入で720円もある)
 総額 4,090円
1949年寄附者芳名(青年会)
 内訳
 1949年2月12日 新年宴会 玉城国安(区長・後当下庫理)200円
1949年9月20日 青年旗寄附
 福地※※(蔡助福地)
1949年9月30日 白墨寄附
 大城※※
1949年10月2日 運動会用具寄附鉢巻用テープ・砲丸 与那覇※※(マサ与那覇)ユニホーム用赤布地 儀間※※(西儀間)
1950年青年会旗頭への寄附者氏名
 寄附者総数 63名(渡慶次売店、瀬名波、儀間、宇座区長含む)
 総額 9,060円(旗頭の完成は、1951年午年 山内※※氏の彫刻)
1950年(青年会)運動会選手への寄附者氏名
 寄附者総数 28名(準青年会、婦人会含む)
 総額 3,230円
 他に、当日字より酒5升、玉城八重子 赤布ユニホーム用の記載もある。
1950年旧6月25日角力大会寄附者氏名
 寄附者総数 38名(共進工業所、字渡慶次含む)
 総額 2,750円 他に、読谷劇場 煙草1ボールの記載もある。
1951年(青年会)校区演芸コンクール当日の寄附者氏名
 寄附者総数 3名
 総額 290円
1951年10月7日運動会選手への寄附者氏名
 寄附者総数 46名(字渡慶次含む)
 総額 3,180円
 他に、氷水 与那覇※※、鉢巻 大城※※の記載もある。
1951年7月29日(旧6月25日)角力大会寄附者氏名
 寄附者総数 43名(読谷劇場、宇座区役員一同、知花※※校長含む)
 総額 3,010円
 他に、渡慶次字事務所 煙草1ボール、宇座新垣※※煙草(日本)2ボールの記載もある。
1952年旧6月25日角力大会寄附者氏名
 寄附者総数 50名
 総額 3,780円
 
 以下に残されている「名簿」名だけを紹介する。
1953年運動会寄附者氏名(青年会)
1953年角力大会寄附者氏名(青年会)
1954年7月25日(旧6月25日)
   角力大会
1954年度運動会選手への寄附者氏名(青年会)
 スパイク1足 儀間※※・与那覇※※
 砲丸(12ポンド)与那覇※※(後波平)
 スパイク1足 国吉※※(三男西国吉)の現物寄附の記載もある。
 
◎[写真]本編参照
運動会選手への寄附者一覧表の一部
 
1955年度運動会寄附者名簿(青年会)
1956年度陸上競技大会寄附者(青年会)
1956年旧7月16日エイサー寄附者名簿(青年会)
1956年度角力大会寄附者名簿(青年会)
1957年度角力大会寄附者芳名(青年会)
             7月21日
1957年旧7月エイサー寄附者芳名
        (青年会)8月11日
1957年度陸上競技大会寄附者芳名
        (青年会)10月13日
1958年旧7月16日エイサー寄附者芳名
        (青年会)8月16日
などがある。
 
7 戦後復興期を考える
 
 敗戦後の読谷村内への帰村状況(村民の移動状況)と字渡慶次の移動状況とはいくつかの点で共通するところがある。まず一つ目は、いったん移動(居住)許可が下りて後、立退命令を受け、そして再移動が実現している点である。二つ目は、読谷山村建設隊にはバックアップ組織としての読谷村建設後援会があり、字渡慶次の復興には「興隆会」が組織され、募金活動が展開された点である。
 また、前述の各種寄附者名簿が青年会の諸活動への募金であることでも判るように、字復興に携わる当時の青年会(準青年層含む)への活躍に期待を寄せていたことは自明である。新しい時代の創造に、気概ある青壮年の力は最も重要なものであり、人々を奮い立たせる存在であった(内容詳細は、下巻103頁青年会の項を参照)。この点も共通点として上げることができるのかもしれない。
 そして何より、巨大な権力を持った米軍に対峙する時、字が一致団結して立ち向かわなければならない社会情勢もまた共同体意識を強く育てたとも言えよう。ひとりで米軍に立ち向かい、自分の土地に帰ると言ってもすぐに跳ね返されるだけである。それぞれの字が一つにまとまり、みんなが団結して事に当たる、そうした方法しか、自らの意思を表する手段はなかったと思われる。渡慶次だけに限らず、読谷村内の各字の共同体意識は現在に至るまでかなり強固である。その背景に復興期を生きた人々の、それぞれの気概が今に生きているとも言えよう。残された各種資料は、そのことを後世へ伝えようとしたのではないだろうか。
 
おわりに
 
 字誌、市町村史など歴史に関わる者のあいだでよく言われることに「記憶より記録」というのがある。今回の新資料発掘は正にそのことを証明して見せたように思う。その一例を紹介して結びに代えたいと思う。
 「元帳」と書かれた厚さ2センチ
 
040222-元帳
厚みが2pもある「元帳」背表紙
 
総頁数200の糸綴じ上製本のノートがある。記載があるのはたった6つの頁だけである。その中の「建築物」と題された頁(111頁)には、
1956年11月 公民館建築
   55坪 $5728.00
1959年 農業用倉庫
   8坪 $1047.00
1961年 図書館建築
   23坪 $2450.00
1962年 台所改築15坪 $1240.00
1964年 ブロックへイ $200.00
1965年6月 事ム室前軒工事
   18坪 $419.00
1966年8月 事ム室内部改築
   7.5坪 $600.00
040223-建築記述部分
111頁の「建築物」の記述部分
 
とあり、「道路」と題された頁(121頁)には、
1956年 近所道元レール道 前原
   750m
1958年 寺原農道改修 $1000.00
   20%負担 政府補助 430m
1959年 中道側溝改修失対事業
   300m
1961年 寺原・南風原農道改修
   $400.00
   20%負担 政府補助 150m
1963年 正当下グリ前道路側溝改修失対事業
   320m
1965年 前当下グリ前道路側溝改修
   $2210.00 50%負担 村補助
とあった。
 
040223-道路記述部分
121頁の「道路」の記述部分
 
 この2つの頁が私たちの疑問を一気に解決してくれたのだ。「図書館は何時造られたのか、面積は」と疑問が出てくると、記憶では「横がだいたいここからこのへん、長さがここからあそこあたりまで」という議論になることがあった。また、「50%補助や80%補助で農道を改修したが何時だったかな」ということになると記憶をたぐり寄せ、「あのときの区長は誰だったから、明日尋ねてみよう」という具合になる。正に、記録の持つ力が発揮された瞬間であった。われわれは資料を整理する際にこの「元帳」に「重要元帳」(永久保存)と名称をつけファイルすることにした。
 それにしても、誰がこの記録を残してくれたのだろう。調査の結果、編集委員でもあり、1965年に書記をして1966年には区長をした玉城秀昭であることが判った。だが、本人は記憶がないと言う。でも文字を見ながらやはり自分の字だと確認した。1965年の与那覇柳英区長が購入し書記に記録させたというのが真相のようだ。それにしてもなんともこのノート、内容とともにずしりと重い。
 
 

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