続 渡慶次の歩み
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第4章 戦後復興期

第5節 渡慶次集落碁盤型道路完工までの歩み

 

1 碁盤型道路の発意

 沖縄戦避難のため、各地に点在していた渡慶次区民は1946年(昭和21)11月以降に読谷山村高志保へ移住した。
 渡慶次集落の東側はわずかながら戦前の面影をとどめていたものの中道(公民館西側道路)から西側はブルドーザーで敷きならされ、ほとんど原形を留めない荒廃地と化してしまっていた。
 
◎[写真]本編参照
ブルドーザーで敷きならされた渡慶次の中心部
 
 集落への復帰に備え渡慶次の有志は郷土再建の話し合いを仮住まいの高志保で頻繁に持った。
宅地及び道路の確定作業が急務であり、平行して道路の拡張問題が議題にあがった。
 戦後初代区長山内昌正(昌正山内)の後を継ぎ、1947年(昭和22)大城清徳(不動(フルー))が区長に選出され「興隆会」と称して、やや組織的な自治会活動が展開された。書記や用務員もおかれ、特に青年会の立ち上げは早く、その活動は活発であった。
 前述の集落内地籍確定のため測量も本格的に始動し、そのための組織化もなされている。班長に大城※※(徳不動小(トゥカフルーグヮー))、庶務に玉城※※(玉城小(タマグスクグヮー))、測量班に山城※※(池之畑(イチヌハタ))、大城※※(不動(フルー))、大城※※(不動小(マサーフルーグヮー))、川上※※(川上小(カーカングヮー))の6名があたった。
 測量班は連日集落に行き、確定作業を行っているが、けん縄での測量のため、遅々として作業は進まず、大変苦労したと当時の庶務担当の玉城※※は述懐している。用務員は県道6号をはさんで東西に分け、2人制で、玉城※※(加那玉城(カナータマグスク)、旧姓新垣)と儀間※※(西儀間(イリジーマ))が選ばれ、地籍確定作業班の食事などの接待に尽力していた。
 さて、協議を積み重ねる中でメイン道路の幅は3間(けん)(5.45m)他は2間(けん)2尺(しゃく)(4.42m)とし、可能な限り直線に近付ける努力をしようとの結論に達した。区民等しく負担しようとの配慮がなされた。これが碁盤型道路の発意である。
 

2 同意取り付け作業

 「地域の発展は道路の整備から」を合言葉に当時の区長大城清徳は有志役員とともに各戸に足を運び同意取り付けのために連日奮闘した。集落内でも即座に賛同する区民、反対する区民、時間的余裕を与えてほしいと即答を避ける者、3通りに分かれた。その後、同意取り付け作業は次年度の役員へと引き継がれることになる。役員の献身的な努力により、徐々に賛同者が増えていったが、大きな課題が残った。石川在住者への同意形成である。
 第20代区長玉城国安(後当下庫理(クシトーチャグイ))は役員を伴って道路拡張工事の趣旨説明と同意取り付けのため、石川市に赴き説明会を開催した。しかし地権者からは反対の意向が非常に強く、しばらく時間をおくことになった。
 ところが、8か年経過した第27代与那覇清(西白堂(イリシロー))区長の時、有志役員をはじめ各種団体長の合同会議を開催し、早急に解決すべきであるとの結論に達し、議決を得た。すかさず、石川市へ行き地権者への再度の同意取り付けの説明会を開いた。その経過を裏付ける貴重な資料が今回発掘されたので、以下に紹介する。
 
◎[写真]本編参照
渡慶次集落を北側から望む(1964年撮影)
 
注:陳情書の原文には、旧漢字や難解な表現、誤字脱字等があることから、当時の人々の思いを生かしながら、現代風に読み下した文書にした。
 (第1回)陳情書
 文化の向上産業の振興その他万般にわたる進歩発展は道路からということはわれわれもよく承知しております。今般渡慶次部落の当役の方々が部落内道路の開削かいさく拡張工事をする決意をしておられるということは、われわれも誠に時期を得た御計画であることを信じ諸手を上げて同調したいのでありますが、しかし戦前とは環境が全然異なり、敗戦後の沖縄の現状を眺め、殊にわが読谷村の実情から考えてみた場合賛同しかねるのであります。渡慶次出身石川在住のわれわれが痛切に感ずることは、
一、当読谷村の農耕地のほとんどが軍用地に接収され現在の読谷村人口の二、三十パーセントが自給自足のできない狭小な余剰地しかないのであります。また、それ故に八重山方面その他への移住者も続出しているのであります。土地に親しんできたお互いは一坪の土地でも血のにじむような思いで渇望し、欲しがっているのが当読谷村の現実でありましょう。また、急いでやるべき問題としては、宅地内に幾分たりとも余地さえあれは換金作物の菜園花園にも利用することでしょう。桑樹の栽培、養蚕、養鶏家畜の飼育といったような換金策も講ずることでしょう。宅地なり農耕地を接収したり潰してまでも道路の開削拡張工事をせねばならぬ必要に迫られているでしょうか。
二、部落内の道路を拡張開削するからには先祖代々において築造したり、せっかく育て上げた生垣や石塀を取り壊したり、植木や立木を伐り除くことも必然的に考えられますが、我が沖縄は戦災で灰燼に帰し焼け野原となりそのためにも「木を植えましょう」「緑化しましょう」と政府当局は声を枯らして植林週間、植林運動を展開しているたてまえからして当字当役の方々の御気構えはいかがなものでしょうか。
三、渡慶次部落内の戦前の道路は諸車の通行やその他何等支障をきたすことなく、利用価値は充分であったことを記憶しています。字波平の部落や高志保、瀬名波の各部落のように戦争には負けたが旧態依然とした姿には頭が下がり、かえって祖先の有り難さが偲ばれ何となく落ち着いた気持ちになると聞かされることもあります。何も渡慶次の部落だけ敗戦したからといって先祖の遺物まで取壊したり潰したりして道路にする必要がありますでしょうか。出来ることなら先祖の遺した物をそのままにしておいて後世の参考資料とか子孫に見せることも一つの得策ではないでしょうか。
四、道路拡張工事のために宅地や農耕地を接収されたり、生垣、石垣等を取壊されたり、植木立木を伐採されたりして被害をこうむる者も相当出るでしょう。その被害を受けた方々には損害補償が支払われるはずですが、いくら程度を限度として計上されておりますか。
五、我々の同胞伊江島、伊佐浜の住民が軍から住家の立退き、農耕地を接収され、生きんがため、食わんがために身命を賭けてまで悲痛歎願の闘争を持続している現実は何を意味し、何を物語っているでしょう。もちろん各自の持分の土地、愛着のある宅地が潰れたり接収されたりしたためではないでしょうか。
六、地代なり損害補償は、ただいまアメリカに行っている使節の方々が帰ってからその結果によって決定の上支払うのが当然であるからには、その間お互いに検討して万全を期した上、道路の開削工事に着手しても決して時期を逸することはないと考えられますがいかがでしょう。
以上申し述べまして当役の方々におかれましてもわれわれの気持ちを御斟酌しんしゃく下され、御高慮御賢察の上、沖縄の実情をとくと御反省なさるようお願い申し上げます。
 
追伸
石川在住者のわれわれはその日々の生活戦線に追いまわされております故に、全部多数が遠方の渡慶次部落総会に臨むことが不可能でありますから当役の方々が石川まで出張されて御懇談を兼ね、部落内の実情や道路拡張工事計画の経過報告や法の根拠等御説明下さったら幸甚と考えております。
 

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