続 渡慶次の歩み
ezLog 編集
続 渡慶次の歩み > 第4章 戦後復興期 > 第3節 「知花※※メモ」に見る読谷沖映での上演演目
第4章 戦後復興期

第3節 「知花※※メモ」に見る読谷沖映での上演演目

はじめに

 本稿は、題名にあるように新たに見つかった資料による読谷沖映(字波平37番地の旧役場前にあった劇場で、読谷劇場がその前身)での「上演演目」を「知花※※メモ」から紹介することを目的としている。
 本論に入る前に、終戦直後から1952年頃までの、県内でのウチナー芝居をめぐる歴史を概観しておこう。(『沖縄大百科事典』―沖縄タイムス社刊を参照)
 
1 官営劇団の創設と解散
 
 沖縄諮詢会文化部は、1946年(昭和21)初め、住民の慰安を目的に松・竹・梅の3つの官営劇団を創設し、本島各地を巡回公演させた。俳優は、戦前からの役者を中心にしたが、「沖縄民政府文化部技官」の待遇で、後に「芸能者資格審査」を合格した人々も加えられた。入場料は大人2円、小人1円(新日本円)で、どこでも大入り満員で、沖縄戦で悲嘆のどん底にあえいでいた住民の慰安と力づけに大きな役割を果たした。
 松劇団の団長は島袋※※、座員には鉢嶺※※、親泊※※、比嘉※※らがおり、後に上間※※、玉城※※、大見謝※※、真喜志※※らが加わった。沖縄本島の中頭地区を巡回公演した。
 竹劇団の団長は平良※※、副団長が宮城※※で、団員には上間※※、新垣※※、親泊※※、大宜見※※、宇根※※、小那覇※※、浜元※※らがいた。本島北部地区を担当し、名護、本部、恩納、国頭、今帰仁、金武、東、久志等の各地を巡回公演した。
 
040235-竹劇団
竹劇団の公演のことが記載されたページ
 
 梅劇団の団長は伊良波※※、団員はおよそ40余人。当初は戦前からの俳優が中心であったが、6月頃から「芸能者資格審査」にパスした者を加え、沖縄本島の島尻地区を巡回公演した。
 ところが、翌1947年4月には劇団の自由興業が認可され、民政府直営を解かれるとともに、「技官」から解任された。以後、一般劇団と同様に沖縄本島全域にわたる自由興行に移った。
 
040236-梅劇団
梅劇団の公演のことが記載されたページ
 
 その頃のことを、官営の「芸能者資格審査」を受けず「役者見習い」として芝居に出演していた真喜志康忠は、その著書『沖縄芝居50年』で次のように述べている。「そもそも役者であるか否かを、ちょっとしたテストぐらいで、幾人かの役人たちが決めるなんて、どだい間違っている」「実際の芝居では一人前の役者として使えなかった」と「芸能者資格審査」を批判し、「役者は実際に、芝居を何年もし、こなしている間に、自然に生まれる演技が大切なものである。…役者であるかどうかは、多くの見物人が決めるものであって、幾人かの役人たちが独断で決めるものではないと思う」とも述べているが、「劇団を官営にして、役者を公務員並に待遇したのは立派な考えであったといえよう」とも述べている(139、140頁)。
 
2 群雄割拠した劇団
 
 真喜志康忠は1948年(昭和23)6月に自らが座長となって「ときわ座」(常磐座)を創設した。前掲の著書の中で「終戦当時は、今と違って、大衆娯楽が皆無の時であったから『沖縄芝居』は大変人気があった。沖縄中の人々が『沖縄芝居』を見てくれたもんだから、私たち役者にとっても、芝居のやりがいがあった。
 
040236-常盤座
常盤座の公演のことが記載されたページ
 
だもんだから、沖縄一円を巡演するのも別に苦にならなかった。敗戦から4、5年の間は『沖縄芝居』にとっては実に恵まれたよき時代で、私たち役者が胸を張って芝居ができたのも、そのころだけである」(143頁)と述べている。
 また、「この頃劇団は10以上もあり、沖縄一円を巡演していたから、それこそしのぎを削って劇団同士が競争したものであった。経営には苦労した。役者の引き抜きも日常茶飯事であった。さらに常に『新作』が希望された」(160頁)と当時のことを記している。
 こうしたことからいろいろな劇団が活動していたことがわかる。それでは、「知花※※メモ」に登場する劇団名の内、前述の松・竹・梅の各劇団と「ときわ座」を除き『沖縄大百科事典』(沖縄タイムス社刊)に掲載されているものを紹介する。
・楽団「南の星」
 1947年(昭和22)又吉※※を団長とする17人で結成した楽団。こぢんまりとした管弦アンサンブルに歌手、舞踊家を加えた楽団で、終戦後の殺伐たる沖縄に大衆娯楽として新風をふきこみ、全琉をまたにかけて活躍、人々の心をいやした。米軍払い下げの楽譜を使用してのジャズ演奏のほか、当時日本本土で流行していた歌謡曲やポピュラー曲をいち早く移入するなど、ひじょうな人気を集めた。そのご数多くの楽団が誕生するにおよび1954年(昭和29)に解散した。
 
040237-南の星
楽団「南の星」の公演のことが記載されたページ
 
・乙姫劇団
 
040237-乙女劇団
乙姫劇団、「泊阿嘉」の文字が確認できる
 
 1947年(昭和22)上間※※を団長に女性ばかりで結成されたユニークな劇団。踊りと歌劇を得意とし、長く人気を持ち続けた。結団当時は裏方(男性1人)を含めて20人で組織、劇団の炊事は女優が交代で担当する厳しさと、女優の身持ちのよさが好評で、その人気につながった。
・ことぶき座
 1948年(昭和23)3月、南洋帰りの俳優で「南洋デブ」と愛称された名城※※が中心となり、石垣市で旗揚げした劇団。親泊※※、儀保※※らが参加。
 1951年(昭和26)宮古巡業から那覇に進出、若手役者の剣劇で売り出す。
 
040238-ことぶき座
ことぶき座の公演のことが記載されたページ
 
宮古伝説を題材とした芝居を上演し好評だった。1952年(昭和27)12月「沖縄座」(真境名※※座長)に吸収されたが、その沖縄座も翌1953年(昭和28)解散した。
・演技座
 演技座と称する劇団は2つ掲載されている。一つは奄美の劇団で、1947年(昭和22)8月に碇山(いかりやま)※※を中心に名瀬で結成。1948年(昭和23)ごろ沖縄公演のため座員20人ほどが来沖、3か月ほど公演した。
 
040238-演技座
演技座の公演のことが記載されたページ
 
解散時期は不明だが、1948年(昭和23)かその翌年と推定。
 2つ目は、1949年(昭和24)3月、高安※※を座長に創設された劇団。劇団員は中山※※、島※※、久高※※、北島※※ら。創立当初は作家の石川※※が脚本を担当、「怪盗伝」で売り出し好評だったが、1960年(昭和35)解散。
・大伸座
 大宜見※※を座長とする劇団。
 
040238-大伸座と八重山劇団
大伸座と八重山劇団の演目が
書かれたページ

 
 1949年(昭和24)2月、南風原村(町)にあった目取真劇場で旗揚げした。座員は父※※、妻※※、妹※※のほかに具志堅※※、与那嶺※※ら。大宜見と副座長格の宇根※※のコンビによる舞踊劇「戻り駕籠」などで人気を集めた。その後「丘の一本松」「灯」「久米島情話」などの話題作を生む。1952年(昭和27)の「沖縄座」に加わるが翌年解散したため、大伸座を再結成した。
・熱風座
 奄美大島の劇団。1947年(昭和22)6月、奄美文化協会に属していた伊集田※※を責任者として名瀬で結成(のち責任者池島※※)。郷土に取材した創作劇をつぎつぎと発表、郷土演劇に新生面を開いた。1948年(昭和23)、沖縄で「隠密仕置」などを公演。
 
040239-熱風座
下段に熱風座の演目があり、
上段に17日に延期の文字も

 
当時の沖縄ではできなかった新感覚の演技が評判を呼んだ。沖縄で解散するが時期は不明。
・ともえ(巴)劇団
 1949年(昭和24)ごろに、平安山※※を座長に結成された劇団。座員には玉城※※、大見謝※※、比嘉※※、宮城※※、仲田※※らがいた。平安山の二枚目役が好評で、「仏桑華」「モーイ親方」などを上演。1955年(昭和30)ごろ解散。
 
040239-巴劇団
巴劇団の公演のことが記載されたページ
 
 これら劇団の他にも、1949年(昭和24)仲井真※※を団長に結成された「新興劇団」などもあったが、紹介した以外の「知花※※メモ」の劇団名の欄の劇団のことについてはほとんど判らない。
 
3 読谷沖映(読谷劇場)での演目
 読谷沖映での劇団の公演や映画の上映が決まると、周知のため、ポスターが張り出された。現在のような印刷技術が無かったため、ポスターはすべて手書きで描かれた。そのポスター係を務めていた知花※※(字渡慶次・新屋前門(ミーヤーメージョー))の自宅より、当時のメモが見つかった。メモには、ポスター作成に必要な上演期日、劇団名、演目等が細かく書かれている。このメモを通して、娯楽が少ない時代に読谷沖映が発信していた大衆娯楽、当時の文化や芸能の様子を垣間見ることができる。
 また、「雨天ニ付閉演」と記された日付もあり、舞台だけが屋根付きで、観客席が露天の時代のメモであることが判るが、年代を確定するほどの資料がなく年代が判明しなかったのは残念である。
 
 

沖縄県読谷村 字渡慶次 ホームへ >>

 

ezLog 編集