第4章 戦後復興期
第2節 戦後の高志保居住時代
1 高志保での仮住まい
1945年(昭和20)4月1日米軍の上陸以後、我々の郷土は、米軍の基地として使用され、住民の居住は認められず住民のほとんどは、県内中北部の収容所での仮住まいとなっていた。
1946年(昭和21)8月、当時の村長知花英康は、米国軍政府に何度も陳情し、やっと高志保・波平への移住許可を得た。早速読谷山村建設隊を組織し、村民受け入れ体制の作業を始めた。建設隊員の献身的な努力により、戦災を免れ辛うじて残った民家の修復や、規格住宅(2間(けん)×3間(けん))も次々と建てられた。同年11月20日からは、第一次村民受け入れを開始、辺土名地区・田井等地区・久志地区と北の方から順次帰村を開始した。村民の居住地区は高志保と波平となっていて、字渡慶次の人はほとんどが高志保に仮住まいとなった。
行政区も3区に分けられていて、それぞれに区長が設けられていた。高志保1区は6号線と高志保中通りに挟まれた地域で、区長は玉城憲次(加那玉城・渡慶次出身)であった。高志保2区は6号線東側で1区を除いた地域で、区長は知花平七(当前門・宇座出身)、高志保3区は6号線西側で、区長は大城重輝(牛安富祖・高志保出身)であった。戦後の混乱期の中で、区長が住民と役場との調整役となり、徐々に自治業務を立ち上げていった。
1947年(昭和22)になると、次第に旧字同士の共同体意識も高まり、高志保に住みながらも字渡慶次としての組織ができていき、同年8月、字渡慶次の読谷への移動完了祝賀会を現在の高志保公民館敷地260番地で行った。当時は余興として、青年会による芝居を催し、さらに石川在住者も芝居を提供して参加、戦後はじめて区民が一堂に会する有意義な行事となった。
2 日常生活の営み
沖縄の戦後生活は衣食住に事欠き、大変困難を極めた。無料の食糧の配給はあるが、腹一杯食べる量はなく、いつも貧しい生活であった。
終戦後は、職がなく、ほとんどの人が軍作業に従事し、僅かな賃金を得て家計を支えていた。
軍作業の中でも炊事やクラブに勤めている人の家庭は、毎日の食事では恵まれていた。
米軍基地内で働く人々が多かった
また残飯も一斗缶(戦果も中に隠して)に入れて家に持ち帰り、豚の飼料としていたので、豚の売上金もあり、二重三重の収益となった。
軍作業員は、米軍や米兵が要らなくなり捨てたもの(タバコの吸い殻・木材・石鹸・歯ブラシ・剃刀・新聞紙・雑誌類・衣類・その他)を持ち帰り、生活の足しに活用した。中には勢い余って金目になるものを取って来る者もいた。米軍基地内から物資を取って来たことを誰かれとなく「戦果をあげた」と称した。ニュアンスとしては戦時中の大本営発表を捩(もじ)ったものと言える。戦果をあげるのも100%成功するとは限らず、憲兵に見つかり没収されたり、刑務所行きとなった者もいた。
売買が禁止されていた非鉄金属(薬莢・銅線)商売もあった。住民は原野から非鉄金属を探してきて仲買人に売り、生活費の足しにした。仲買人は集めた非鉄金属を正式の商社へ持ち込んだり、あるいは密貿易者に売り渡す等して儲もうけていた。
◎[図]本編参照
高志保大通りを中心に米軍作成の地図から
こうした商売で一儲けした者、または成金になりお金はドラム缶に保管しているという話もあった。しかし、この商売でも不運にして警察に捕まり刑務所行きとなった者もいた。
戦後高志保での生活が少しずつ落ち着いてくると、それぞれの技術と特技を生かし、通りに面したところに店を構える人も出てきた。雑貨商、理髪店、銭湯、書店などであった。この頃の軍作業員は、人形、絵画、指輪、首飾り、その他を基地内に持ち込み、米兵相手にタバコ等と交換しそれを雑貨商で売って稼いでいた。
さらに、衣食住に事欠き、生活を支えるこれといった職業もなく、県下では米軍相手の売春婦も多く見られた。読谷村も県道6号線沿いの高志保及び瀬名波に多く見られた。身を売らなければ食べていけない困窮の世相を物語っている。
3 事業所調べ
高志保には6字の人々が住んでいたが、中でも渡慶次の人たちは進取の気性に富んでいた。1950年(昭和25)前後、その通りに店を出していた所を調べてみると、なんと42か所ある店の中で、渡慶次出身者の店が22か所と半数以上を占めていた。当時の人々の生活の知恵と生き抜こうとするパワーをつくづく思い知らされた。
1950年前後の高志保通りの事業所(調査者:玉城※※)
次の表は1950年(昭和25)前後の高志保通りの店と公共施設を調べたものである。
●:渡慶次出身者 △:公共施設 □:他字出身者
番号 | 営業所 | 経営者等 |
1 | △渡慶次字事務所 | |
2 | △儀間字事務所 | |
3 | ●儀間理髪店 | 儀間※※(東儀間) |
4 | □知花馬具店 | (儀間) |
5 | ●大城書店 | 大城※※(行雄不動小) |
6 | □大城商店 | (高志保) |
7 | 土建会社 | 株主:山城※※・神谷※※・玉城※※・与那覇※※・大城※※ ・玉城※※・川上※※・山城※※・玉城※※ |
8 | ●渡慶次共同売店 | |
9 | □上地アイスケーキ屋 | (長浜) |
10 | ●川上理髪店 | 川上※※(川上小) |
11 | □波平菓子店 | (儀間) |
12 | □屋良畳店 | (高志保) |
13 | ●大城書店(移転)、商店 | 大城※※ |
14 | □仲宗根理髪店 | (宇座) |
15 | □儀間共同売店 | (儀間) |
16 | ●玉城洋裁学校 | 玉城※※・※※(加那当下庫理) |
17 | □大衆浴場 | (高志保) |
18 | □比嘉酒造所 | (高志保) |
19 | ●与那覇※※店 | 与那覇※※(波平小) |
20 | □国吉ミシン店(縫製) | (高志保) |
21 | ●川上ソフトドリンク卸商 | 川上※※(西川上小) |
22 | □仲宗根商店 | (宇座) |
23 | ●アイスケーキ屋・食堂 | 与那覇※※(与野比小) |
24 | バスターミナル | |
25 | ●山内組及びブロック工場 | 山内※※(昌賢山内) |
26 | ●読谷タクシー | 株主:山城※※・玉城※※・宮城※※・与那覇※※・玉城※※ |
27 | ●儀間産婆屋 | 儀間※※(松儀間) |
28 | ●大城養鶏飼料店 | 大城※※(繁不動小) |
29 | □玉城商店 | (儀間) |
30 | ●神谷商店 | 神谷※※(乗慶神谷) |
31 | ●与那覇そば屋 | 与那覇※※(金細工) |
32 | □仲山時計店 | (喜名) |
33 | □コロコロ遊技場 | |
34 | □津波理髪店 | (瀬名波) |
35 | ●玉城トーフモチ粉ひき屋 | 玉城※※(ウサ小当下庫理) |
36 | □儀間自転車店 | (瀬名波) |
37 | □知花商店 | (宇座) |
38 | □亀谷茶組み立て屋 | (宇座) |
39 | ●神谷旅館 | 神谷※※(乗吉神谷) |
40 | □新垣写真館 | |
41 | □読谷共進会社及びダンスホール | |
42 | ●知花理髪店 | 知花※※(真志知花) |
43 | △食糧配給所 | |
44 | △高志保字事務所 | |
45 | ●大衆浴場 | 比嘉※※(真苅比嘉) |
46 | ●国吉履物店 | 国吉※※(眞光国吉) |
47 | ●儀間理髪店 | 儀間※※(真志儀間) |
48 | △高志保駐在所 | |
49 | ●与那覇商店及びガラス店 | 与那覇※※(勢頭) |
50 | △渡慶次小学校(アカムヤー) | |
51 | △診療所 | |
52 | △役場 | |
53 | ●読谷沖映 | 山城※※(マサ池之畑) |
54 | △郵便局 | |
55 | △読谷小学校 | |
56 | △農業協同組合 |