続 渡慶次の歩み
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第4章 戦後復興期
第2節 戦後の高志保居住時代

4 事業の拡大と各事業主の言葉

(特別寄稿)
 
(1)高志保通りでの開業、創業から今日までの思い
やまびこ薬局
母:山内※※〜息子:山内※※
 昔々のことで、静かに考えながら振り返ってみると、感慨深い数々の思い出が浮かんできます。年月の流れの速さに改めて人生の刻みを感じさせられます。
 県道6号線を前に挟みいろいろなお店がありました。理髪店・銀行・バスターミナル・バス会社事務所・雑貨店・食堂・農協・郵便局・役場・劇場など、読谷では高志保が中心でした。
 終戦まもなく嫁いできた私には、仕事らしい仕事もなく、家庭をみながら副収入を得ることはなかなか難しいものがありました。主人1人の収入では毎月赤字となり、月末になると口げんかをすることもありました。
 その頃、本土から鶏のヒナを取り寄せて成鶏にし、卵を産ませ販売するための講習会が農協でありました。その講習を受け、50羽のヒナを購入し、250羽までに増やしました。ヒナを育てるのは大変で、途中でやめようかと思ったこともたびたびでした。そんな時、農協の指導員だった大城※※にいろいろと教えていただき、本当に勉強になり助かりました。鶏は毎日150個くらいの卵を産み、それが集まったゲージからカゴに取り集めていく嬉しさは何とも言えない感激で、新鮮な卵が毎日食卓の上をにぎわすような楽しみは初めてでした。また、150個の卵を販売するために、古堅の米人住宅を1軒ずつ廻りました。10個で1$でしたが、新鮮な卵ですので売りやすく、大変助かりました。養鶏のおかげで家計も少しは楽になりました。それよりも子ども達が日曜日の鶏糞の片付け(鶏糞をヘラでおこして箱に詰めて畑に担いで行って干す)を担当してくれ、※※おばあがとても喜んでくれました。子ども達も、始めの頃はぶつぶつ兄妹げんかをしながらも、おばあの喜ぶ姿を見ることで家族の一員として役割を果たし、満足していた笑顔が未だに忘れられません。
 養鶏も落ち着いてきたので、バス会社の職員向けに軽食屋を開き、そばやまんじゅう、飲み物などを販売していました。まんじゅうは毎朝石川までバスに乗り買い出しに行きました。お店に出した売れ残りはおみやげとして持ち帰るため、子ども達もとても楽しみにしていたようです。また、渡慶次の青年達もよくお店を訪れ、「イチカ払イサ」とつけで利用してくれていたのを思い出します。
 さて、話は母から引き継いで私(※※)が書くことにします。
 父は家が貧しく、幼い頃は年季奉公などに行き、また渡慶次小学校の「小使い」として勤めるなどもしていました。出征前の青年学校での勉強や本土で働きながら夜学に通うなどの自分の経験から、「学問は財産(宝)」が口癖でした。私達も小さい頃からそう言い聞かされておりました。
 私が大学の薬学科を卒業する頃、生活環境改善などの推進により屋敷内で家畜が飼えなくなり、家業としての養鶏業はやめることになりました。そして、父母の長年の願いでもあった薬局を、高志保大通りの現在の場所で、村内では初めて開設することになりました。
 私は、石川の薬局で管理薬剤師として2年勤めた経験もありましたが、自分が中心になっての対面販売は、地域の方々との会話や病状についての相談などで悪戦苦闘の毎日でした。何しろ私は20代前半の青年だったので、女性客との会話は特に苦手で、何度赤面したことでしょう。
 あれから40年余り、その間中部病院の看護師だった妻に出会い結婚、3男2女にも恵まれました。渡慶次魂の強かった祖父母の願いもあって、子ども達も皆高志保から渡慶次まで通学し、5名とも渡慶次小学校を卒業することができ、とても嬉しく学校や地域の皆さんに感謝しています。
 子どもの成長と共に教育費がかさみ、妻も私のアシスタントとして働きたいと申し出てくれました。その後医薬品販売業(薬種商)の資格を取り、2人で薬局を営むことになりました。現在では、3名の息子達も私の後継者として薬剤師となり、調剤薬局の管理薬剤師として働いております。
 以前は賑わっていた高志保大通りも、時代と共に人々の往来が減り、昔日の思いを残すのみになりました。エイサー天国で青年達が躍動する8月のように、またいつの日かこの高志保大通りに人々がいっぱい集まる楽しい街にしたいものです。そしてそこで息子と共に調剤薬局を開設し、地域の老若男女が楽しく集い健康談議に花咲く「ゆんたく道場」を持つのが私の夢であります。
 
(2)「大城書店」を引き継いで
大城書店 大城※※
 字誌編集委員会より「大城書店」起業のエピソード等について寄稿依頼を受けました。もちろん、創業当初の様子については知る由もないので、もの心ついてから父母から断片的に聞いた話を書き下しました。
 
◎[写真]本編参照
右から2番目の子どもが※※さん
 
 終戦当時の混乱期に父※※は家族の衣食住を満たすために、いろいろ創意工夫を凝らしたようです。
 仮住まいの高志保に必要最小限の日用雑貨品を取り扱う「大城商店」を立ち上げ、祖母がそこを店番して生活の足しにしていました。細々と生活を支えながら、渡慶次区の先輩達にかわいがられ、青年会活動、健青会活動にも本腰を入れるようになったということでした。また、字の書記や区長にも選出され、諸々の職務を遂行するかたわら、那覇市開南通りで、小中学生向けの文房具類の販売を手がけていました。これが後の「大城書房」立ち上げの契機になったということです。
 手始めに、高志保(現高志保103−3番地)で文房具類の販売の店を構え、徐々に雑誌等も仕入れるようになり、次第に書店らしい形に変わっていきました。
 移転を繰り返した後に、現在の高志保1305番地に「大城書店」を開店しました。月刊誌の個人販売や階下での印刷業の経営など、それぞれ工夫を凝らしていました。
 一方、幼稚園、小・中学校のPTAの役員に選任され、読谷村PTA連合会などの社会教育活動にも深い関心を示し、公私にわたり幅広く活動していました。さらに、渡慶次区民からの要請に応えて、読谷村議会議員にも当選し、その職務を果たしました。
 そんな父も、志半ばで病魔に襲われ他界しましたが、私が父の跡を継ぎ、「大城書店」も今年で創業54年を迎えております。現在では伊良皆・都屋マックスバリュー・石川・嘉手納にも支店を持つことができ、父の志をいくらかでも継承しようと奮闘しているところです。
 戦後生きるために始めた書店が、現在も商いを続けさせていただいているのは、多くのお客さんをはじめ、公的にも私的にも渡慶次の皆さんからの温かい指導と激励のおかげだと思っています。地域の底力に感嘆すると同時に、どのような形で地域にお返しができるのか、それは父が私に与えた宿題のような気がする今日この頃です。
 
(3)「読谷沖映」の経営に携わって
話者:山城※※ 知花※※
(平成17年7月)
山城※※(平成19年)
聞き手:玉城※※(平成17年7月)
山城※※ 福地※※
(平成19年)
 読谷共進が経営していた「読谷劇場」を山内※※の計らいで、渡慶次の若い皆様で引き継いでくれないかとの要請があった。即刻、渡慶次区の次の方々を集めて相談した。同席したのは私を含めて、山城※※、山内※※、山内※※、玉城※※、大城※※、与那覇※※、与那覇※※、山内※※、新垣※※、与那覇※※、山内※※、玉城※※、与那覇※※の14名であった。衣食住に事欠く時勢で、このような大事業が可能か、という反対意見も続出したが、軌道に乗るまでは、読谷共進も積極的に後押しするとの山内※※の力添えもあり、賛同することになった。
 ところが、上記の者のほとんどは軍作業に従事して日々の生活を支えていたので、私と数名で切り盛りせざるを得なくなった。
 当初は読谷共進社敷地内(現大協建設社屋)にあり、大衆娯楽場としては不便で不適地であるため、当時の読谷村役所向かい(現読谷保育所駐車場)に土地を求め移転することになった。劇場移転の話が持ち上がると、時の学校長達から教育上好ましくないので断念して欲しいとの要請を受けた。幾度となく話し合いを重ねた結果、ようやく理解してもらった。時の村長にも了承してもらい、いよいよ移転に向けて動き出した。
 しかし、そこは松林で西側へゆるやかな傾斜をなし、西へ行くにつれターブックヮ(湿地帯)になっていた。山野の樹木の伐採や地均しが大きな壁になっていたが、当時の沖縄には重機らしきものは皆無であった。楚辺に駐留している知り合いの米兵に頼み、彼を介して米軍のブルドーザーを使用できないか頼んでみた。するとその友人は1週間ほど待って欲しいとのことだった。その後、音沙汰が無くあきらめかけた頃、9日目にその友人が来て、明日からブルドーザーと隊員が来て作業に入るとの朗報を得た。不可能なことと思いつつも依頼したことが実現し、大きな感動を覚えた。その友人は戦地へ行くと言ってそれっきり消息不明となった。翌日からの米軍による整地作業は順調に進み、完成時のこけら落としには部隊長も招き、謝意を表した。
 
040233-露天の読谷劇場
客席が露天のころの読谷劇場
 
 観客席は、傾斜を利用した露天劇場ではあったが何とか営業にこぎつけた。
一番困ることは、雨天の時だった。ところが、観客は心得たもので、敷物と合羽や傘を自分で準備して舞台の熱演に打ち興じていた。当初は演劇(沖縄芝居)が大半を占めていた。劇団は夫婦や子どもたちも一緒で、劇場控え室で生活するので寝床の取り合いでもめ事が多かった。内輪もめはいいが、炊き出しのための薪として壁の板や保存していた木材を使うのには閉口した。団員の生活も苦しく風呂に行っても銭湯代も払えず、裏口から無賃で入ったと後で知ったが、あまり苦情も言われなかった。
 映画の上演に際しては、戦友の伊礼※※(元三和銀行頭取)に映写機の話を持ちかけたところ、金は工面するから新しい映写機を買えとの色よい返事が返ってきた。さっそく映写機を購入して映画と演劇を組み合わせて興行することができるようになった。映写機操作の技師は当時人がうらやむほどの職種であった。知花※※を筆頭に、その甥っ子の※※、与那覇※※、玉城※※、安田※※、安田※※、山城※※等渡慶次の若い青年たちが映写技師として働いてくれたし、他字の青年たちも操作を教えて欲しいと訪ねてきた。
 無声映画もあり、弁士が見事に台詞をこなす話術は観客に大きな感動を与えた。
 いつまでも露天劇場では観客も納得しないので、本格的な映画館づくりを思いついた。屋根にはスレートという素材を使い、柱や全体に使う木材は山内※※が考案して、屋根付きの映画館が完成した。それにより沖映本館のチェーン店として営業を開始することになった。
 
◎[写真]本編参照
旧役場(波平37番地・写真下の部分)の向かいが屋根付きになった読谷沖映
 
 楚辺のリサイクル店に行き、発電機2機を購入して自家発電も備えることができた。送迎バスも2台手に入れ、喜名行きと長浜行きの2路線を運行させた。
 当時は村内にホールらしいものがないため、青年会、婦人会、農業協同組合の総会など村内各種のイベントも読谷沖映を利用していたが、無償で貸し出した。
 
◎[写真]本編参照
会場を埋め尽くした渡慶次校区青年会の総会
 
 1番頭を痛めたのがヌギバイ(人目を盗んで映画館に入り無賃鑑賞する人のこと)対策と税金対策だった。周辺どこからでも入り込むことが可能な施設であり、輪番でその防止に努めるが、ヌギバイする人のジンブン(知恵)には勝てなかった。時々私も裏手に回って大声で怒鳴り散らすなどした。すると子どもたちが一斉に田んぼに逃げ込んだ。そこは深い沼地なので、ことがあってはいけないと安全に逃げたかどうかを確かめたものであった。従業員だけではヌギバイの防止に限度があるため、知花※※の提案で、周辺に配線をし、電気を流すことにしたが、雨の日にはその電線から電流が漏れ、観客の一部に感電して大騒ぎになってしまった。それ以来それも取りやめた。税金対策も大変だった。税務署員が1人単独で来る場合は話もしやすいが、2人の場合はチケット売り場に待機し、当日の売上金の半分を現金で持って行くのである。娯楽施設には特に税率が高く課せられたので、名護、コザ、糸満の沖映関係者と共に、初めて飛行機に乗り東京まで税率の引き下げ陳情に赴いたものだった。
 時代の変化とテレビの普及で一世を風靡した映画業界も次第に衰退の一途を辿り廃業へ追い込まれた。
 思えば大衆娯楽である読谷沖映を経営することができたのも、多くの渡慶次の先輩、同僚、後輩に支えられ渡慶次魂が根底にあったからである。特に会計を担当した山城※※、山内※※、映写技師やフィルム借用のため精一杯がんばった知花※※、リサイクル店を共に動き回ったアイスケーキ屋の与那覇※※等、今でも記憶から離れない。
 
 

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