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第5章 渡慶次区民の移民・出稼ぎ
第1節 戦前の移民・出稼ぎ
南洋群島への出稼ぎ
南洋群島とは、現在ミクロネシアとよばれる島嶼群で、第一次世界大戦終結後の、1921年(大正10)に日本の委任統治となった。翌1922年(大正11)に南洋庁が設置された。南洋群島の開発のために多くの移民を必要としていたが、地理的にも近く、気候や甘蔗栽培などの仕事にも慣れている沖縄県出身の移民が多く受け入れられた。
読谷村から最初に南洋群島へ渡航したのは、南洋庁設置以前の1916年(大正5)であった。この時の渡航は高志保からの1家族だけであり、南洋への渡航者数が増加するのは1920年代から30年代にかけてであった。1933年(昭和8)のピークには年間渡航者数が87名に達した。この数字は「引揚者給付金請求書処理表」(敗戦にともない強制的に引き揚げさせられた世帯や個人を対象に沖縄外地引揚者協会が行った引揚者給付金請求書の処理表)による。南洋群島への移民は渡航ビザが不要であり、前述したハワイ、南米などのように旅券下付表での記録がないため、引揚者給付金請求書処理表をもとに考察されることが多い。
次表は引揚者給付金請求書処理表と、読谷村史編集室が行った「戦災実態調査」(『読谷村史第5巻資料編4・戦時記録』を編集するために村内の各家庭ごとの戦災実態を把握するため悉皆調査を行ったもの)のデータから抽出した字渡慶次出身の南洋群島への移民者一覧である。
南洋群島図
渡慶次出身の南洋群島移民者名簿
南洋群島とは、現在ミクロネシアとよばれる島嶼群で、第一次世界大戦終結後の、1921年(大正10)に日本の委任統治となった。翌1922年(大正11)に南洋庁が設置された。南洋群島の開発のために多くの移民を必要としていたが、地理的にも近く、気候や甘蔗栽培などの仕事にも慣れている沖縄県出身の移民が多く受け入れられた。
読谷村から最初に南洋群島へ渡航したのは、南洋庁設置以前の1916年(大正5)であった。この時の渡航は高志保からの1家族だけであり、南洋への渡航者数が増加するのは1920年代から30年代にかけてであった。1933年(昭和8)のピークには年間渡航者数が87名に達した。この数字は「引揚者給付金請求書処理表」(敗戦にともない強制的に引き揚げさせられた世帯や個人を対象に沖縄外地引揚者協会が行った引揚者給付金請求書の処理表)による。南洋群島への移民は渡航ビザが不要であり、前述したハワイ、南米などのように旅券下付表での記録がないため、引揚者給付金請求書処理表をもとに考察されることが多い。
次表は引揚者給付金請求書処理表と、読谷村史編集室が行った「戦災実態調査」(『読谷村史第5巻資料編4・戦時記録』を編集するために村内の各家庭ごとの戦災実態を把握するため悉皆調査を行ったもの)のデータから抽出した字渡慶次出身の南洋群島への移民者一覧である。
南洋群島図
渡慶次出身の南洋群島移民者名簿
屋号 | 氏名 | 続柄 | 生年月日 | 現住所 | 本籍地 | 在外地域 | 渡航年月日 | 本邦上陸地 | 本邦上陸年月日 | 備考 |
山内 | 山内※※ | 山内 ※※ 長男 |
大正7年 | 渡慶次 | 渡慶次 | パラオ | 昭和9年 11月26日 |
久場崎 | 昭和 21年 2月 18日 |
応召 年月日: 昭和 19年 9月 22日 |
牛当下庫理 | 玉城※※ | 玉城 ※※ 長男 |
明治38年 | 渡慶次 | 渡慶次 | パラオ | 大正12年 5月5日 |
久場崎 | 昭和 21年 1月 23日 |
応召 年月日: 昭和 19年 9月 22日 |
牛当下庫理 | 玉城※※ | ※※ 長女 |
昭和15年 | 渡慶次 | 渡慶次 | パラオ | ||||
牛当下庫理 | 玉城※※ | ※※ 妻 |
大正4年 | 渡慶次 | パラオ | 現地 にて 死亡 |
||||
仲門小 | 宮城※※ | 宮城 ※※ 長男 |
明治36年 | 渡慶次 | 渡慶次 | 南洋 | ||||
仲門小 | 宮城※※ | ※※ 長女 |
昭和9年 | 渡慶次 | 南洋 | |||||
国吉※※ | 高志保 | 渡慶次 | テニアン | 昭和 7年 5月 5日 |
久場崎 | 昭和 21年 7月 1日 |
||||
国吉※※ | 高志保 | 渡慶次 | テニアン | |||||||
国吉※※ | 高志保 | 渡慶次 | テニアン | |||||||
国吉※※ | 高志保 | 渡慶次 | テニアン | |||||||
国吉※※ | 高志保 | 渡慶次 | テニアン | |||||||
国吉※※ | 高志保 | 渡慶次 | テニアン | |||||||
国吉※※ | 高志保 | 渡慶次 | テニアン | |||||||
山前門 | 知花※※ | 知花※※ 二男 |
明治39年 | 渡慶次 | 渡慶次 | パラオ | 昭和 8年 8月 11日 |
久場崎 | 昭和 21年 2月 20日 |
応召 年月日: 昭和 19年 9月 15日 |
屋号 | 氏名 | 続柄 | 生年 月日 |
現住所 | 本籍地 | 在外 地域 |
渡航 年月日 |
本邦 上陸地 |
本邦上陸 年月日 |
備考 |
山前門 | 知花 ※※ |
※※ 妻 |
明治 41年 |
渡慶次 | 渡慶次 | パラオ | ||||
山前門 | 知花 ※※ |
※※ 長女 |
昭和 9年 |
渡慶次 | 渡慶次 | パラオ | ||||
山前門 | 知花 ※※ |
※※ 三男 |
昭和 14年 |
渡慶次 | 渡慶次 | パラオ | ||||
山前門 | 知花 ※※ |
※※ 四男 |
昭和 16年 |
渡慶次 | 渡慶次 | パラオ | ||||
山前門 | 知花 ※※ |
※※ 五男 |
昭和 19年 |
渡慶次 | 渡慶次 | パラオ | ||||
山前門 | 知花 ※※ |
※※ 二男 |
昭和 11年 |
渡慶次 | パラオ | |||||
山前門 | 知花 ※※ |
※※ 長男 |
昭和 7年 |
渡慶次 | パラオ | |||||
山前門 | 知花 ※※ |
知花 ※※ 三男 |
明治 41年 |
高志保 | 渡慶次 | パラオ | 昭和9年 6月 |
久場崎 | 昭和21年 2月 |
|
知花 ※※ |
高志保 | パラオ | ||||||||
當間 ※※ |
渡慶次 | 渡慶次 | パラオ コロール |
大正11年 5月20日 |
久場崎 | 昭和21年 2月16日 |
||||
當間 ※※ |
渡慶次 | パラオ コロール |
||||||||
當間 ※※ |
渡慶次 | パラオ コロール |
応召 年月日: 昭和19年 9月15日 |
|||||||
當間 ※※ |
渡慶次 | パラオ コロール |
||||||||
當間 ※※ |
渡慶次 | パラオ コロール |
||||||||
當間 ※※ |
渡慶次 | パラオ コロール |
屋号 | 氏名 | 続柄 | 生年 月日 |
現住所 | 本籍地 | 在外 地域 |
渡航年 月日 |
本邦 上陸地 |
本邦 上陸 年月 日 |
備考 |
知花 ※※ |
渡慶次 | 渡慶次 | パラオ | 昭和 12年 3月 |
久場崎 | 昭和 21年 2月 13日 |
||||
与那覇 ※※ |
高志保 | 渡慶次 | パラオ | 昭和 11年 11月 |
久場崎 | 昭和 21年 2月 22日 |
||||
与那覇 ※※ |
高志保 | パラオ | ||||||||
与那覇 ※※ |
高志保 | パラオ | ||||||||
前ヌ 上地 |
山内 ※※ |
明治 34年 |
渡慶次 | 南洋 | 現地にて 死亡 |
|||||
前ヌ 上地 |
山内 ※※ |
※※ 養女 |
大正 14年 |
渡慶次 | 南洋 | |||||
福地 ※※ |
渡慶次 | 渡慶次 | パラオ | 出生 | 久場崎 | 昭和 21年 2月 |
||||
城間屋 | 与那覇 ※※ |
与那覇 ※※ 二男 |
大正 5年 |
渡慶次 | 渡慶次 | ポナペ | 昭和 12年 5月 |
久場崎 | 昭和2 1年 4月 |
|
當間 ※※ |
渡慶次 | 渡慶次 | パラオ | 出生: 大正 11年 5月20日 |
久場崎 | 昭和 21年 2月 |
応召 年月日: 昭和 19年 7月 31日 |
|||
玉城 ※※ |
高志保 | 渡慶次 | ポナペ | 昭和 6年 12月 |
呉 | 昭和 20年 12月 12日 |
||||
福地 ※※ |
渡慶次 | 渡慶次 | パラオ | 昭和 6年 10月 |
久場崎 | 昭和 21年 4月 |
||||
後波平 | 与那覇 ※※ |
与那覇 ※※ 長男 |
明治 42年 |
瀬名波 | 渡慶次 | パラオ | 昭和 12年 4月 |
久場崎 | 昭和 21年 3月 |
|
棚原 ※※ |
石川市 石川 |
渡慶次 | パラオ | 昭和 14年 7月 1日 |
久場崎 | 昭和 21年 2月 25日 |
応召 年月日: 昭和 19年 9月 22日 |
|||
マサ 金細工 |
玉城 ※※ |
与那覇 ※※ 長男 |
大正 5年 |
渡慶次 | ポナペ | 戦前は 「与那覇」、 戦後改姓 |
屋号 | 氏名 | 続柄 | 生年 月日 |
現住所 | 本籍地 | 在外 地域 |
渡航 年 月日 |
本邦 上陸 地 |
本邦 上陸年 月日 |
備考 |
マサ金 細工 |
玉城 ※※ |
※※ 長女 |
昭和 17年 |
渡慶次 | ポナペ | 現地にて 死亡 戦前は 「与那覇」、 戦後 改姓 |
||||
マサ金 細工 |
玉城 ※※ |
※※ 二女 |
昭和 20年 |
渡慶次 | ポナペ | 戦前は 「与那覇」、 戦後 改姓 |
||||
マサ金 細工 |
玉城 ※※ |
与那覇 ※※ 二男 |
大正 7年 |
渡慶次 | ポナペ | 現地 にて 死亡 戦前は 「与那覇」、 戦後 改姓 |
||||
マサ金 細工 |
玉城 ※※ |
※※ 妻 |
大正 15年 |
渡慶次 | ポナペ | 戦前は 「与那覇」、 戦後改姓 |
||||
マサ金 細工 |
玉城 ※※ |
※※ 長男 |
昭和 16年 |
渡慶次 | ポナペ | 戦前は 「与那覇」、 戦後改姓 |
||||
マサ金 細工 |
玉城 ※※ |
与那覇 ※※ 長女 |
大正 14年 |
渡慶次 | ポナペ | 戦前は 「与那覇」、 戦後 改姓 |
||||
マサ金 細工 |
玉城 ※※ |
与那覇 ※※ 二女 |
昭和 8年 |
渡慶次 | ポナペ | 戦前は 「与那覇」、 戦後 改姓 |
||||
マサ金 細工 |
玉城 ※※ |
与那覇 ※※ 三男 |
昭和 11年 |
渡慶次 | ポナペ | 戦前は 「与那覇」、 戦後 改姓 |
||||
マサ金 細工 |
玉城 ※※ |
与那覇 ※※ 四男 |
昭和 13年 |
渡慶次 | ポナペ | 戦前は 「与那覇」、 戦後 改姓 |
||||
昌正 山内 |
山内 ※※ |
山内 ※※ 二男 |
大正 7年 |
高志保 | 渡慶次 | パラオ | 昭和 13年 4月 |
久場崎 | 1946年 (昭和21) 2月 |
応召 年月日: 昭和19年 7月10日 |
昌正 山内 |
山内 ※※ |
※※ 妻 |
大正 8年 |
高志保 | 渡慶次 | 南洋 |
屋号 | 氏名 | 続柄 | 生年月日 | 現住所 | 本籍地 | 在外地域 | 渡航年月日 | 本邦上陸地 | 本邦上陸年月日 | 備考 |
昌正 山内 |
山内 ※※ |
※※ 長男 |
昭和 13年 |
高志保 | 渡慶次 | 南洋 | ||||
比嘉※※ | 高志保 | 渡慶次 | パラオ | 応召 年月日: 昭和19年 7月10日 |
||||||
波平※※ | 渡慶次 | 長浜 | パラオ | |||||||
仲宗根※※ | 渡慶次 | 儀間 | パラオ | |||||||
亀城 間小 |
与那覇 ※※ |
与那覇 ※※の 二女 婿養子 |
明治44年 | 渡慶次 | 南洋 | |||||
蒲当 下庫 理小 |
玉城 ※※ |
玉城 ※※ |
明治8年 | 渡慶次 | 南洋 | |||||
仲西 | 儀間※※ | 儀間 ※※ 二男 |
大正3年 | 渡慶次 | 南洋 | |||||
与野 比小 |
大城 ※※ |
大城※※弟 | 昭和3年 | 渡慶次 | 南洋 | |||||
加那 不動小 |
棚原 ※※ |
不詳 | パラオ | 加那不 動小の 婿養子 であった ため、 戦前は 大城姓 を名乗って いた。 戦後再婚。 |
||||||
加那 不動小 |
棚原 ※※ |
※※ 妻 |
不詳 | パラオ | 現地にて死亡 | |||||
加那 不動小 |
棚原 ※※ |
※※ 長女 |
不詳 | パラオ | ||||||
加那 不動小 |
棚原 ※※ |
※※ 二女 |
不詳 | パラオ | 現地 にて 死亡 |
|||||
加那 不動小 |
棚原 ※※ |
※※ 三女 |
不詳 | パラオ | 現地 にて 死亡 |
|||||
加那 不動小 |
棚原 ※※ |
※※ 長男 |
不詳 | パラオ | 現地 にて 死亡 |
|||||
加那 不動小 |
棚原 ※※ |
※※ 二男 |
不詳 | パラオ |