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第5章 渡慶次区民の移民・出稼ぎ
第1節 戦前の移民・出稼ぎ
太平洋戦争の戦局悪化にともない、1943年(昭和18)に「絶対国防圏」が決定された。この決定に基づいて国防線の外側にいる老幼婦女子の引き揚げが命じられ、南洋群島からも多くの者が日本本土や台湾などに引き揚げた。またこの頃、移民先での現地召集も盛んに行われ、その中には渡慶次出身者も多く含まれていた。
1944年(昭和19)6月にサイパン島が初空襲を受け、南洋群島は戦場と化した。これにより南洋群島は大きな被害を受け、沖縄県出身の出稼ぎ移民からも多くの戦没者を出した。渡慶次出身者の中にも、一家全滅となってしまった家庭もある。
生き残った者は1945年(昭和20)8月の敗戦を経て、10月から送還された。前掲の引揚者給付金請求書処理表の上陸年月日の項からも、渡慶次出身者の多くが翌年の1946年(昭和21)に送還されたことが分かる。
南洋パラオでの現地召集者名簿(渡慶次出身者)
(『沖縄県史資料編17 旧南洋群島関係資料近代5』p329〜抜粋・調製)
※「役種・兵種・官等級」の二国とは第二国民兵、一補衛とは第一補充兵衛生係のこと。
在郷軍人と同じように、平時は民間人であるが戦時には兵隊として召集された。
台湾
1895年(明治28)、日清戦争後の下関条約によって、台湾は日本統治領となり、台湾総督府が設置された。その後、1900年(明治33)日本資本の台湾製糖株式会社が設立されると、巨大製糖会社の設立や工場の設置などが続いた。台湾総督府による奨励などもあり、台湾の糖業は沖縄の糖業を上回る状況が続いた。1902年(明治35)頃になると台湾ブームが起こり、沖縄の政治、経済、産業等各界の有力者が台湾視察や研修などで台湾へと渡航した。
沖縄では1920年(大正9)糖価暴落にはじまる不況などの影響で経済的にとても厳しい状態となり、海外移民や出稼ぎが奨励されていった。
引揚者給付金請求書処理表では、1922年(大正11)に読谷村から最初の台湾渡航が読み取れる。
渡慶次出身の台湾渡航者は以下の通りである。
◎[写真] 本編参照
台湾に渡った福地※※・※※夫妻
渡慶次出身の台湾渡航者
(「引揚者給付金請求書処理表」より調製)
1924年(大正13)に台湾へ渡航した福地※※は村史編集室の聞き取り調査でその体験を語っている。それによると、1920年(大正9)、日照りが続き、枯れた畑の広がる読谷山村を出て、宮古や八重山の製糖工場で働いた。しかし不況の影響で職を失い、台湾へ渡った。台湾では日本政府の鉄道会社に入社した。そのため、「芋はおやつ代わりに食べた。主食としていた沖縄とは比べられなかった」という。
太平洋戦争の激化によって、台湾も次第に戦時色を強めていった。1943年(昭和18)には「海軍特別志願兵」制が敷かれ、1944年(昭和19)には徴兵令が施行され多くの台湾人が召集された。台湾へ出稼ぎで渡航し、現地で徴兵検査を受け入隊した者もいる。
また、台湾南部にあった台南陸軍病院には、南方などで負傷した兵士たちが療養のために送られてきていたが、その中には渡慶次出身者も含まれていた。本誌戦争体験談の儀間※※の話の中で、台南陸軍病院で療養中だった兄から送られた手紙が掲載されている。
1944年(昭和19)サイパン島の日本軍玉砕を受けて、老幼婦女子が南西諸島から台湾へと疎開してきた。
沖縄での十・十空襲後に、台湾沖航空戦があり、台湾での空襲も激しさを増していった。日本軍の軍事基地や日本人居住街は集中的に攻撃目標とされたため、被害も大きかった。
終戦後の1945年(昭和20)12月より日本への引き揚げが始まり、翌年4月までにはほぼ全員の引き揚げが完了した。沖縄出身者に関しては、米国軍政府から帰還許可された1946年(昭和21)10月より引き揚げが行われた。
『読谷村史戦時記録 上巻』(p.638)には台湾で出生した山内※※の体験談も掲載されている。
「満州」
「満州」とは現在の中国東北部のことである。
1932年(昭和7)日本軍が「満州国」の建国を宣言し、実質的に日本の支配下においた。1936年(昭和11)日本政府は満州への「二十五ヶ年百万戸移民計画」を打ち出し、国民の満州移住を促進した。1939年(昭和14)には沖縄県でも「三万戸十五万人分村計画」を打ち出し、満州移民を募集した。
読谷村史編集室の調査によると、1945年(昭和20)の終戦までに128名の読谷村民が満州に移住したという。読谷から満州へ就職先を求めて渡った20人前後の中には渡慶次出身者も含まれていた。
就職のため渡満した渡慶次出身者
(『読谷村史第五巻 資料編4 戦時記録上巻』p.660より調製)
また、家族で開拓団として渡航したり、満蒙開拓青少年義勇軍に応募して満州へ渡った者もいる。下表の2名は『読谷村史 戦時記録 上巻』でその体験を語っている。
義勇軍は、志のある青少年を募り、訓練を受けさせてから満州に送り出し、満州においても現地訓練所で訓練を重ねてから義勇隊開拓団へと移行する流れになっていた。またこの義勇隊開拓団が満州で定着していくために、「大陸の花嫁」の募集も行われ、沖縄県でも女子拓殖指導者講習会が開かれている。渡慶次からも玉城※※が参加しており、『読谷村史 第五巻 戦時記録上巻』の中でその体験を語っている。
戦況が悪化するにつれ、ソ連国境を守備していた関東軍が南方へと次々転用され、満州では「根こそぎ動員」により開拓団、義勇軍の男性達が兵力として召集されていった。召集を受けた者及び軍属としてソ連と満州の国境付近に配属された者の中には、終戦後もソ連に捕虜としてシベリアに抑留された者も多かった。読谷村史編集室の調査では26名の抑留体験者がいるが、この中には3名の渡慶次出身者当間※※、国吉※※、玉城※※が含まれている。
「満州」での体験を語った2人
(「引揚者給付金請求書処理表」より調製)
渡慶次出身の満蒙開拓青少年義勇軍
(『読谷村史第五巻 資料編4 戦時記録上巻』p.666より調製)
右が※※さん(19歳)
1944年(昭和19)6月にサイパン島が初空襲を受け、南洋群島は戦場と化した。これにより南洋群島は大きな被害を受け、沖縄県出身の出稼ぎ移民からも多くの戦没者を出した。渡慶次出身者の中にも、一家全滅となってしまった家庭もある。
生き残った者は1945年(昭和20)8月の敗戦を経て、10月から送還された。前掲の引揚者給付金請求書処理表の上陸年月日の項からも、渡慶次出身者の多くが翌年の1946年(昭和21)に送還されたことが分かる。
南洋パラオでの現地召集者名簿(渡慶次出身者)
氏名 | 生年月日 | 本籍地 | 応召年月日 | 役種・兵種・ 官等級 |
応召部落名 | 摘要 |
玉城※※ | 明治38年 | 沖縄県中頭郡 読谷山村 字渡慶次 |
昭和19年 9月22日 |
二国 | 七七八〇 | |
棚原※※ | 明治41年 | 沖縄県中頭郡 読谷山村 字渡慶次 |
昭和19年 9月22日 |
二国 | 七七八〇 | |
知花※※ | 明治39年 | 沖縄県中頭郡 読谷山村 字渡慶次 |
昭和19年 9月15日 |
二国 | 一四六五八 | |
知花※※ | 明治34年 | 沖縄県中頭郡 読谷山村 字渡慶次 |
昭和19年 9月15日 |
二国 | 六一五二 | 昭和19年 12月19日 戦病死 |
當間※※ | 大正13年 | 沖縄県中頭郡 読谷山村 字渡慶次 |
昭和19年 7月31日 |
二国 | 三九六五 | |
當間※※ | 昭和2年 | 沖縄県中頭郡 読谷山村 字渡慶次 |
昭和19年 9月15日 |
二国 | 一四六五八 | |
比嘉※※ | 大正6年 | 沖縄県中頭郡 読谷山村 字渡慶次 |
昭和19年 7月10日 |
二国 | 三九六五 | |
福地※※ | 大正6年 | 沖縄県中頭郡 読谷山村 字渡慶次 |
昭和19年 8月22日 |
二国 | 七七五七 | 昭和20年 4月11日 戦病死 |
山内※※ | 大正7年 | 沖縄県中頭郡 読谷山村 字渡慶次 |
昭和19年 7月30日 |
二国 | 一四六五八 | |
山内※※ | 大正6年 | 沖縄県中頭郡 読谷山村 字渡慶次 |
昭和19年 7月10日 |
一補衛 | 三九六五 | |
与那覇※※ | 大正3年 | 沖縄県中頭郡 読谷山村 字渡慶次 |
昭和19年 9月22日 |
二国 | 一四六六一 |
※「役種・兵種・官等級」の二国とは第二国民兵、一補衛とは第一補充兵衛生係のこと。
在郷軍人と同じように、平時は民間人であるが戦時には兵隊として召集された。
台湾
1895年(明治28)、日清戦争後の下関条約によって、台湾は日本統治領となり、台湾総督府が設置された。その後、1900年(明治33)日本資本の台湾製糖株式会社が設立されると、巨大製糖会社の設立や工場の設置などが続いた。台湾総督府による奨励などもあり、台湾の糖業は沖縄の糖業を上回る状況が続いた。1902年(明治35)頃になると台湾ブームが起こり、沖縄の政治、経済、産業等各界の有力者が台湾視察や研修などで台湾へと渡航した。
沖縄では1920年(大正9)糖価暴落にはじまる不況などの影響で経済的にとても厳しい状態となり、海外移民や出稼ぎが奨励されていった。
引揚者給付金請求書処理表では、1922年(大正11)に読谷村から最初の台湾渡航が読み取れる。
渡慶次出身の台湾渡航者は以下の通りである。
◎[写真] 本編参照
台湾に渡った福地※※・※※夫妻
渡慶次出身の台湾渡航者
氏名 | 人数 | 現住所 | 本籍地 | 渡航 年月日 |
上陸 年月日 |
本邦 上陸地 |
福地※※ | 渡慶次 | 高志保 | 二国 | 七七八〇 | ||
福地※※ | 渡慶次 | 高志保 | 二国 | 七七八〇 | ||
福地※※ | 渡慶次 | 高志保 | 二国 | 一四六五八 | ||
福地※※ | 4 | 渡慶次 | 高志保 | 出生 | 1946年 (昭和21) 11月20日 |
久場崎 |
福地※※ | 4 | 瀬名波 | 渡慶次 | 1924年 (大正13) 5月15日 |
1946年 (昭和21) 11月20日 |
久場崎 |
福地※※ | 瀬名波 | 渡慶次 | 二国 | 一四六五八 | ||
福地※※ | 瀬名波 | 渡慶次 | 二国 | 三九六五 | ||
福地※※ | 瀬名波 | 渡慶次 | 二国 | 七七五七 | 昭和20年 4月11日 戦病死 |
|
福地※※ | 1 | 瀬名波 | 渡慶次 | 1944年 (昭和19) 1月27日 |
1946年 (昭和21) 11月20日 |
久場崎 |
1924年(大正13)に台湾へ渡航した福地※※は村史編集室の聞き取り調査でその体験を語っている。それによると、1920年(大正9)、日照りが続き、枯れた畑の広がる読谷山村を出て、宮古や八重山の製糖工場で働いた。しかし不況の影響で職を失い、台湾へ渡った。台湾では日本政府の鉄道会社に入社した。そのため、「芋はおやつ代わりに食べた。主食としていた沖縄とは比べられなかった」という。
太平洋戦争の激化によって、台湾も次第に戦時色を強めていった。1943年(昭和18)には「海軍特別志願兵」制が敷かれ、1944年(昭和19)には徴兵令が施行され多くの台湾人が召集された。台湾へ出稼ぎで渡航し、現地で徴兵検査を受け入隊した者もいる。
また、台湾南部にあった台南陸軍病院には、南方などで負傷した兵士たちが療養のために送られてきていたが、その中には渡慶次出身者も含まれていた。本誌戦争体験談の儀間※※の話の中で、台南陸軍病院で療養中だった兄から送られた手紙が掲載されている。
1944年(昭和19)サイパン島の日本軍玉砕を受けて、老幼婦女子が南西諸島から台湾へと疎開してきた。
沖縄での十・十空襲後に、台湾沖航空戦があり、台湾での空襲も激しさを増していった。日本軍の軍事基地や日本人居住街は集中的に攻撃目標とされたため、被害も大きかった。
終戦後の1945年(昭和20)12月より日本への引き揚げが始まり、翌年4月までにはほぼ全員の引き揚げが完了した。沖縄出身者に関しては、米国軍政府から帰還許可された1946年(昭和21)10月より引き揚げが行われた。
『読谷村史戦時記録 上巻』(p.638)には台湾で出生した山内※※の体験談も掲載されている。
「満州」
「満州」とは現在の中国東北部のことである。
1932年(昭和7)日本軍が「満州国」の建国を宣言し、実質的に日本の支配下においた。1936年(昭和11)日本政府は満州への「二十五ヶ年百万戸移民計画」を打ち出し、国民の満州移住を促進した。1939年(昭和14)には沖縄県でも「三万戸十五万人分村計画」を打ち出し、満州移民を募集した。
読谷村史編集室の調査によると、1945年(昭和20)の終戦までに128名の読谷村民が満州に移住したという。読谷から満州へ就職先を求めて渡った20人前後の中には渡慶次出身者も含まれていた。
就職のため渡満した渡慶次出身者
名前 | 生年 | 入植地及び移動先 |
玉城※※ | 大正14年生 | 吉林省新京→東安省虎林→シベリア |
また、家族で開拓団として渡航したり、満蒙開拓青少年義勇軍に応募して満州へ渡った者もいる。下表の2名は『読谷村史 戦時記録 上巻』でその体験を語っている。
義勇軍は、志のある青少年を募り、訓練を受けさせてから満州に送り出し、満州においても現地訓練所で訓練を重ねてから義勇隊開拓団へと移行する流れになっていた。またこの義勇隊開拓団が満州で定着していくために、「大陸の花嫁」の募集も行われ、沖縄県でも女子拓殖指導者講習会が開かれている。渡慶次からも玉城※※が参加しており、『読谷村史 第五巻 戦時記録上巻』の中でその体験を語っている。
戦況が悪化するにつれ、ソ連国境を守備していた関東軍が南方へと次々転用され、満州では「根こそぎ動員」により開拓団、義勇軍の男性達が兵力として召集されていった。召集を受けた者及び軍属としてソ連と満州の国境付近に配属された者の中には、終戦後もソ連に捕虜としてシベリアに抑留された者も多かった。読谷村史編集室の調査では26名の抑留体験者がいるが、この中には3名の渡慶次出身者当間※※、国吉※※、玉城※※が含まれている。
「満州」での体験を語った2人
氏名 | 人数 | 現住所 | 本籍地 | 渡航年月日 | 外地出発地 | 上陸年月日 | 本邦上陸地 | 認定番号 |
儀間※※ | 1 | 渡慶次 | 渡慶次 | 1943年 (昭和18) 2月 |
コロ島 | 1947年 (昭和22) 3月 |
博多 | 22799 |
玉城※※ | 1 | 長浜 | 渡慶次 | 1942年 (昭和17) 5月 |
コロ島 | 1946年 (昭和21) 3月 |
博多 | 22913 |
渡慶次出身の満蒙開拓青少年義勇軍
氏名 | 生年月日 | 場所 | 所属 |
玉木※※ | 大正11年生 | 錦州省錦州県盤山県伊和生 | 第二次伊和生義勇隊開拓団(野上中隊) |
右が※※さん(19歳)
また、取り残された女性や子供たちの状況も過酷であった。着の身着のままで開拓村を追われた者も多く、帰国の途につく前に命を落としてしまった者もいた。中には、残留婦人、残留孤児として帰国できなかった者も少なくない。
その他
旅券下付表を見てみると、少数ではあるが、前述した地域以外にも海を越えて渡った渡慶次出身者がいる。
大洋島は南洋にある島で現在はバナバ島またはオーシャン島と呼ばれているキリバス共和国の島である。ここはイギリス領であったため、旅券が必要であり、旅券下付表に記述があると考えられる。大洋島へは福地※※が2度渡航したことがうかがえる。
儀間※※が渡航した蘭領東印度爪哇は現在のインドネシア、ジャワ島のことである。日本からオランダ領東インドへの初期の渡航者は女性がほとんどだったが、その後、商業従事者、水産漁業関係者が増えていったという。太平洋戦争の開戦前は、渡航した県出身者の多くが水産漁業に従事し、各地で追込網漁業を行っていた。儀間※※も渡航目的が漁業となっているが、旅券下付表の原本を見ると、同日に糸満出身者2人、国頭村出身者1人にもインドネシア渡航用の旅券が下付されている。そこから、儀間※※を含む4名が漁業を目的としたグループとして渡航したと考えられる。
渡慶次出身で大洋島とインドネシアに渡航した者
(「海外(外国)旅券下付表」から抜粋・調製)
その他
旅券下付表を見てみると、少数ではあるが、前述した地域以外にも海を越えて渡った渡慶次出身者がいる。
大洋島は南洋にある島で現在はバナバ島またはオーシャン島と呼ばれているキリバス共和国の島である。ここはイギリス領であったため、旅券が必要であり、旅券下付表に記述があると考えられる。大洋島へは福地※※が2度渡航したことがうかがえる。
儀間※※が渡航した蘭領東印度爪哇は現在のインドネシア、ジャワ島のことである。日本からオランダ領東インドへの初期の渡航者は女性がほとんどだったが、その後、商業従事者、水産漁業関係者が増えていったという。太平洋戦争の開戦前は、渡航した県出身者の多くが水産漁業に従事し、各地で追込網漁業を行っていた。儀間※※も渡航目的が漁業となっているが、旅券下付表の原本を見ると、同日に糸満出身者2人、国頭村出身者1人にもインドネシア渡航用の旅券が下付されている。そこから、儀間※※を含む4名が漁業を目的としたグループとして渡航したと考えられる。
渡慶次出身で大洋島とインドネシアに渡航した者
年次 | 下付 月日 |
氏名 | 本籍地 | 身分 | 年齢 (生年 月日) |
保証人・ 取扱人 |
旅行 目的 |
旅行 地名 |
現行 地名 |
1908年 (明治41) |
5月 5日 |
福地 ※※ |
読谷山村 字渡慶次 |
戸主 ※※ 六男 |
明治 18年生 |
日本殖民 合資会社 |
契約 移民 |
英領 大洋島 |
|
1911年 (明治44) |
□月 □日 |
福地 ※※ |
読谷山村 字渡慶次 |
戸主 ※※ 六男 |
明治 18年生 |
□□ | 英領 大洋島 |
||
1928年 (昭和3) |
10月 9日 |
儀間 ※※ |
読谷山村 字渡慶次 |
戸主 ※※ 甥 |
18年 | 漁業 | 蘭領東 印度爪哇 |
インド ネシア |