人を思いやる心づくり・むらづくり

渡慶次の起こりと名前の由来

渡慶次の起こり

渡慶次の起こりは(2021年現在)未だ定かではない。渡慶次の名が初めて記録として登場するのは『おもろそうし』であり、それには進貢使の大役を果たして帰ってきた泰期を歓迎する「おもろ」の中に「とけす」と表記されている。

『おもろそうし』では、巻15-68、No.1119の1首のみに次のように謡われている。

おざのたちよもいや(宇座の泰期思い〈人名〉よ)
いちへきたちよもいや(意地気泰期思いよ)
かゝみいろのすてみつよ みおやせ(鏡色の孵で水を奉れ)
おざ とけす うまた(宇座渡慶次の馬駄)
しけち かめはわて(神酒をかめはわて)
おざ とけす あすた(宇座渡慶次の長老達)
御さけ もちはわて(御酒を持ちはわて)

1971(昭和46)年に発刊された『渡慶次の歩み』では、「今から560年前(1411年頃)、『北谷桑江よりきたる伊礼在所根屋、美里伊覇夫より来る渡慶次主』」と記載されており、そのことについて、「初めて渡慶次に家屋敷を建て移り住んだのが北谷桑江村より来た伊礼子なる人であるが嗣子がなく、次に美里伊覇村から来た渡慶次主が其の跡をつぎ、今日の渡慶次村を創立したと思われる」とも書かれている。

ただし、この『渡慶次の歩み』の記述は、慶留間知徳著『琉球千草之巻』の「琉球村々世立始古人伝記」から引用したものであるらしく、この「世立始古人伝記」は、どのような根拠に基づいて書かれたか、今のところ明確ではない。そのため、『渡慶次の歩み』にある「560年前」はどうも不確かなようであるが、『おもろそうし』22巻のうち、第1巻は1531年に編集されたことから、「490年前(2021年現在)」には確かにこの地に「とけす」は存在していたのであろう。

渡慶次の名前の由来

ガンヤヌイー写真
ガンヌヤヌイー:元ガン屋一帯

前述の『渡慶次の歩み』によると、「渡慶次部落の北方、俗称ガン屋(龕屋)の上にトゥクシ岩(ジー)という岩がある。今はその岩の周囲は木や雑草が生え、見るからにさびしい所であるが、昔はその周辺はきれいな芝生が生え、村人の憩う絶好の場所であり、夜は若い男女の語らいや毛あしびーの場でもあったと古老は言い伝えている。その岩の名をもじってトゥクシと名付けたが、時代がたって誰かトゥクシに優れた知恵者が出て『トゥクシを渡慶次に改称するようになったんだと』今は亡き東勢頭の玉城マツさんは語り伝えた。」とある。

また、「尚、トゥクシ岩(ジー)のいわれは、大地に根を下ろしたその岩が、ちょうど人間の体の重心となって体を支えているトクシ骨(ブニ)(注:背骨)にも似て、村落繁栄のために腰当(クサティ)となって下さいという神への願いからトゥクシ岩と名付けたとのことである。」とも記載されている。

ただし、続けて、「前述した説はなるほどと思われる点もあるのだが、伝説めいてあまり信はおけない。渡慶次主がいたということがわからないための憶説であろう。560年前、美里伊覇村から渡慶次主が来たと文献にあるので、その名がそのまま渡慶次になったと思われる。」と結んでおり、前述の「世立始古人伝記」の説を主張している。