続 渡慶次の歩み
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第6章 渡慶次の産業経済と基盤整備
第4節 畜産・家畜
 

肉豚保証積立金納入契約書

 
財団法人沖縄県畜産公社(以下「甲」という。)と(生産者氏名)
(以下「乙」という。)は甲の寄附行為及び業務方法書に基づき、肉豚価格の安定を図るため、肉豚価格の保証及び生産者積立金の納入について、次のとおり契約する。
(肉豚価格の保証)
第1条 甲は、県内の標準取引価格が肉豚保証基準価格を下って低落し、又は低落するおそれがあり、かつ、豚肉の需給事情及び価格事情から見て対策を講ずる必要があると理事会において議決された場合は、理事会の議決を経て理事長が指定する団体(以下「指定団体」という。)に甲が指定すると畜場(以下「指定畜場」という。)において一定数量の豚肉を保証基準価格以上で委託買上げを行わせるものとし、その委託買上げによってもなお、豚価が低落傾向にあり保証基準価格を下回ると判断される場合は指定団体に一定数量の甲が定める規格肉豚を保証基準価格で委託買上げを行わせ乙の肉豚価格を保証基準価格まで保証するものとする。
(積立金の納付)
第2条 乙は業務方法書第6条及び第8条の規定により甲の定める積立金を業務方法書第7条の規定により甲に納付するものとする。
(積立金の返戻)
第3条 積立金は返戻しないものとする。
(その他)
第4条 この契約に定めるもののほか、この契約の履行に関し必要な事項は業務方法書に定めるところによるものとし、その他の事項については評議委員会の意見を聞き、理事会の議決を経て定めるものとする。
 上記の契約の証として、契約書2通を作成し、甲、乙1通を保有するものとする。
 昭和51年11月4日

甲 財団法人沖縄県畜産公社
理事長 平良※※  印
乙 住所  (生産者)
氏名  (生産者) 印
 
 前記の契約書によって契約を交わし、県畜産公社と生産者で契約書を1通ずつ保有していたが、その控えが公民館に保存されていた。その契約書綴りより、契約が交わされた1976年(昭和51)の肉豚生産者の名簿を作成した。
 下記の生産者一覧にも名を連ねているが、子豚生産のパイオニアとして県内外で知られているのが福地※※であった。2008年(平成20)、福地※※の七回忌にあたり発刊された自伝『負けるものかの人生』より、畜産関係の活躍を概観する。
 福地※※は、1959年(昭和34)より養豚に従事し、経営の合理化や優良種豚の品種改良、資質の向上に努めた。品質の良い豚を見分ける目には定評があり、豚舎の母豚が出産を重ねたり、新しい品種の種豚が良いと判断するとすぐに切り替えるなど決断が早く確かであった。その評判を聞きつけ、他市町村からも養豚業を営む人々が多く訪れた。親豚購入のために目利きを頼む者も少なくなかった。
060366-上位入賞だった福地さん
常に上位入賞だった福地※※さん
 
財団法人沖縄県畜産公社との肉豚保証積立金納入契約者
1976年(昭和51)11月4日
住所 氏名 住所 氏名
読谷村字高志保 神谷※※ 読谷村字渡慶次 玉城※※
読谷村字高志保 国吉※※ 読谷村字渡慶次 前田※※
読谷村字渡慶次 仲村※※ 読谷村字渡慶次 金城※※
読谷村字渡慶次 玉城※※ 読谷村字渡慶次 山内※※
読谷村字高志保 福地※※ 読谷村字渡慶次 玉城※※
読谷村字渡慶次 大城※※ 読谷村字渡慶次 玉城※※
読谷村字渡慶次 儀間※※ 読谷村字渡慶次 仲村渠※※
読谷村字渡慶次 玉城※※ 読谷村字渡慶次 知花※※
読谷村字渡慶次 福地※※ 読谷村字瀬名波 川上※※
読谷村字渡慶次 宜保※※ 読谷村字渡慶次 玉城※※
読谷村字渡慶次 山内※※ 読谷村字渡慶次 大城※※
読谷村字瀬名波 福地※※ 読谷村字渡慶次 棚原※※
読谷村字渡慶次 与那覇※※ 読谷村字渡慶次 知花※※
読谷村字渡慶次 与那覇※※ 読谷村字高志保 宮城※※
読谷村字渡慶次 仲村渠※※ 読谷村字高志保 古堅※※
 
 1976年(昭和51)には県の指定種豚場にもなり、定期的に出産の記録を種別ごとに報告していたが、その実績と報告書は県でも大きく評価されていた。1977年(昭和52)から2000年(平成12)まで県の家畜改良協会の理事を7期務め、1979年(昭和54)からは日本種豚登録協会の理事にも推薦され、同じく2000年(平成12)まで務めた。
 日本全国で活躍しながら、夫婦で種豚の生産を続け、字の部落共進会や渡慶次まつり、村の畜産まつり、中部地区または県の畜産共進会や産業まつり(畜産部門)では数々の賞を総なめにした。また、1975年(昭和50)全国優良畜産技術表彰、1980年(昭和55)全国養豚協会からの功労表彰、1984年(昭和59)全日本豚共進会銀賞、1988年(昭和63)日本種豚登録協会創立40周年の功労表彰、1998年(平成10)日本種豚登録協会創立50周年には感謝状及び農林水産大臣からの功労表彰、指定種豚場としての功労表彰なども受賞し、全国での活躍も顕著であった。
 このような畜産関係での活躍および、身体障害者相談員、自衛官募集相談員などの活躍が認められ、2000年(平成12)4月29日には勲五等瑞宝章を受章した。
 

2 牛

 戦前、豚や山羊等は、ほとんどが自家消費を目的として飼育されていた。しかし、牛は趣を異にし、主に換金のために飼育されていた。
 比謝矼には牛市場(ウシマチ)があり、徳之島や沖永良部島、奄美大島(『渡慶次の歩み』には鳥島の記述もある)等から帆舟や発動機船で運ばれてきた。ほとんどの人はそこから子牛を買い求め、約1か年がかりで育てあげた。『読谷村史 第四巻 民俗編上』によると、比謝矼の牛市場では小牛1頭60〜70円くらいで取引されたという。他の家畜と比べ高価であったため、やせ細った牛や何度か出産を経験した牛(ナシアガヤー)を安く買って、1年ほどで太らせ売る人もいた。村内の地域により特色があり、喜名が闘牛養成所的な飼い方で、楚辺は乳牛が主体、渡慶次、長浜を中心に読谷村の北部地域では肉牛を肥育するところが多かった。中頭郡は牛の生産頭数が少なかったが、読谷山村は唯一ともいえる生産地帯であったという。
 牛市場などで買い取った子牛を1年ほど育てた後は、仲買人に買い取られるか本土向けで売ることが多かった。その際、輸送機関がないため那覇港まで歩いて引っ張って行ったようである。牛は、農家の現金収入でサトウキビに次いで大きく、働き手のある農家ではほとんど牛を飼っていた。
 また、与那覇※※(西門(イリジョー))をはじめ牛好きの人々は良い牛を探し求め、本部や国頭方面にまで行くこともあったという。牛を買ってからの帰りは牛の足にワラジを履かせ、のろのろ歩いて3日もかかったという話もある。
 出荷用以外では、カンカー祭の時に字で1、2頭つぶしたようである。また、農耕の畜力として牛を飼育している農家でも、農閑期には娯楽として闘牛を行った。7月〜10月にかけて毎月1回日取りを決め、午後3時頃から始めて20組ほどが勝負を行った。1890年頃は、儀間製糖場南側の窪地に造られた渡慶次・儀間・宇座共同の闘牛場が利用された。後に宇座は独自の闘牛場を持つようになった。闘牛は明治から大正を経て昭和初期頃まで栄えたが、その後渡慶次からは完全に姿を消した。その闘牛場は1908年(明治41)には売却した。
 沖縄戦によって、牛もほぼ全滅状態となったが、戦後間もない頃から年輩者により飼育熱が高まり、牛購入借入金に対する村からの利息補助等によりますます飼育者は増えるようになった。
 1963年(昭和38)には、20名ほどで大家畜組合を結成し、毎月の定例日にはそれぞれが丹精込めて育てた牛や馬の話で、夜が更けるのも忘れるほど夢中になったという。組合員はほとんどが年輩者であった。
 1966年(昭和41)肥育牛飼育者は村経済課の指導を受け、共同でボーロ飛行場の荒廃地に牧草(ネピヤグラス)を植え、草刈の労力を省き飼い方の改善につとめ好成績を上げた。
 
字別飼育頭数
060365-字別飼育頭数 s
1968年(昭和43)12月(読谷村だより第135号参照)
 
 1971年(昭和46)5月、農事実行組合で東風平村の農家の肥育牛飼育法を視察した。それ以前は、牛はハエがたからないようにとの配慮から暗く閉じこめた中で飼うことが一般的であった。しかし、開け放しにした明るく風通しの良い施設で飼うことが良いということなどを学び、飼育方法も改良されていった。この頃、渡慶次では20戸で42頭が飼育されていた。
 
060369-牛の品評会
公民館広場で行われた牛の品評会
 
 1981年(昭和56)には国頭村安田の肉用牛育成センターへの産業視察も行われている。公民館及び運動場においての家畜審査なども行われ、牛の飼育者同士の研鑚も活発であった。
 

3 馬

 明治から大正にかけて沖縄本島で飼われていた馬は、島尻馬をはじめ、ナークー(宮古産)、クミー(久米島産)、イージマー(伊江島産)、キカイー(喜界島産)など各々生産地名で呼ばれた在来馬であった。現在の馬に比べ体も小さかった。粗食と重労働を強いられ、農耕や製糖時期の甘蔗運搬、圧搾、黒糖運搬などの役馬として飼育されていた。
 渡慶次でも数戸の農家が飼っていたが、同じ大家畜でも牛に比べると少なかった。
 大正の初期頃、嘉手納製糖工場までのキビ運搬に荷馬車として使用されるようになると飼育する農家も増え、1940年(昭和15)前後には50数頭となった。
 また、1922年(大正11)に、那覇−嘉手納間に軽便鉄道が開通すると、嘉手納駅までの交通手段として客馬車(乗合馬車)がよく利用されるようになった。渡慶次小学校前から出発する客馬車は1日数回往復し、乗車代金は15銭ほどであったという。客馬車営業を行うためには、読谷山村に路線運行許可を得て、警察に乗り合い馬車の鑑札を出してもらい、そのためには獣医の検査を受けなければならなかった。許可を得た者は「客馬車ムッチャー」と呼ばれた。
 
◎[写真]本編参照
馬車証
 
 沖縄戦で北部への避難命令が出る頃になると、区民の疎開(避難)の際にも利用され、移動後は山中での食料にしたことも本誌の戦争体験談の中で語られている。
 『読谷村だより』(第135号)によると、1968年(昭和43)12月の読谷村内の飼育頭数は183頭、渡慶次では10頭が飼育されていた。
 やがてトラックなどの自動車が普及し、馬車や役馬としての利用も少なくなり、馬を飼育する者はいなくなった。
 
060370-馬車
 

4 山羊

 山羊は雑草を何でも食べるので、簡単に育つことから気軽に飼育されていた。牛、馬に比べ安価なこともあり、戦前はほとんどの農家が4、5頭程飼育していた。エサの草刈は学校から帰った子ども達の日課となっていた。また、子ども達の中には13歳のお祝いにもらった祝儀などを貯めて山羊を購入する者もいた。これは「ワタクシヒージャ小」といい、その山羊を大きく育て繁殖させ、それを売り、学用品や家族の生活用品購入に充てた。中には、そのお金を元金(ムトシン)として牛を購入できるほどになる者もいた。
 山羊は郷土料理としては最高のもので、あらゆる行事やお祝い等に好んで利用された。戦前は隣近所5、6家族で1頭をつぶして分け合って食べ、栄養をつけた。そのことを「ヒージャーグスイ」と称していた。
 戦争が近づくにつれて、山羊も軍需山羊皮として供出されたことが1939年(昭和14)の新聞からも読み取れる(『読谷村史 第2巻』参照:沖縄日報7/19)。また、読谷北飛行場建設の際、渡慶次の人に便宜を図ってくれた設営隊の井澤曹長を招待して山羊料理をご馳走したこともあったという(『読谷村史 第5巻』p.164)。
 
渡慶次でのララ(アジア救済連盟)からの山羊の受領者
飼育者氏名 番号 性別 毛色 配布時の生体斤数 配布年月日
国吉※※ 881 黒褐色 42 1949年5月18日
与那覇※※ 1,282 褐色 45 1949年5月18日
(『村の歩み』p.120)
 
 戦争により山羊も全滅状態となり、山羊を飼う農家も減った。
 そんな中、1949年(昭和24)にララ(アジア救済連盟)から山羊が寄贈され、渡慶次でも前頁の表の2名が受領した。
 戦前の生体1斤あたりの値段は、肉豚よりも安かったが、飼育者が減り、生産不足となったことから、1970年(昭和45)頃には1斤あたり1$(ドル)でも容易に手に入らない状態となった。
 山羊の値段は上がっても山羊料理の愛好者は多く、また栄養価も高いため、スタミナ料理として陸上競技大会の選手の栄養会などで「ヒージャーグスイ」として喜ばれた。
 
060371-山羊
 
 山羊は普通初産では1子、二産以降は2〜3子を産む傾向があり、4頭以上の出産例があると、多産山羊として新聞などで報道されたという。『家畜百話』の著者渡嘉敷綏宝は、1983年(昭和58)〜1988年(昭和63)の間に沖縄タイムスと琉球新報両紙で多産山羊の事例を紹介している。その中で、1988年(昭和63)に渡慶次の福地※※の飼う山羊の紹介もあり、3度目の出産時に5頭を産んだとされている。
 

5 鶏

 戦前、鶏はほとんどの家で飼っていて採卵が目的だった。囲いの中で飼うように定められていたが、大多数の人が放し飼いの状態で、飼料等を買って与えるということはなく、虫やその他の落物をあさって「ルーアガチ(自らエサを探してついばむこと)」であったので何の手間もかからなかった。
 そのため屋敷内外が鶏の糞だらけになることもあり、衛生的にも悪く、また隣近所まで歩き回り、干してあった穀物や家庭菜園で育てた野菜を食い荒らすなどして苦情を言われることもあった。放し飼いになっている鶏を取り締まるため、時々青年達によって不意打ちで鶏狩りが行われた。これを「トゥイバット(鶏法度)」といっていた。鶏を取られた主は理屈をこねて抗議をする者もいたが、青年達は規則に従ってやったことだといって一切受け付けなかった。捕らえてきた鶏は事務所に集め、飼い主が来たら科料をとって鶏を返し、飼い主が現れなければ入札に附した。ほとんどの者は科料を支払ってまで取り返すようなことはなく、鶏はそのまま入札にかけられた。集まったお金は字の諸行事の経費や青年基金、その他に使われた。
 戦前、繁殖の方法は自然孵化でその数も少なかった。卵も売って小遣いにしたので、食べるということはごくまれだった。たまには病人のいる家庭へお見舞いとして持って行くなど、交際用としても重宝であった。食肉用になったのは卵を産まなくなった廃鶏が主で、それも病後や産後のスタミナをつけるために料理して食べさせるくらいであった。
 戦後は人工孵化で、各家庭でも規模が大きくなった。農協などでは成鶏にして卵を産ませ販売するための講習会が開かれた。農協の指導員だった大城※※の勧めで講習会を受けた山内※※は、50羽のヒナから250羽まで増やし、毎日150個ほどの卵が採れたと語る。採れた卵は古堅にある米人住宅に持って行き、10個1$(ドル)で販売した。(高志保居住時代の事業主からの寄稿「やまびこ薬局」本書229頁参照)
 大規模な養鶏場も現れるようになり、1957年(昭和32)頃から1967年(昭和42)頃にかけて安田※※、玉城※※、山内※※等が手広く養鶏をしていた。しかし、飼料の値上がりやその他のことで採算が取れず、下火になり転業した者もいた。
 1971年(昭和46)8月現在の養鶏戸数は6戸で、384羽が飼養されていたが現在はない。
 

6 養蚕

 沖縄の養蚕は大正末期から昭和10年代にかけて県が積極的に養蚕事業を振興した。
 『読谷村史 民俗編』によると、中頭郡で養蚕が行われるようになったのは、1897年(明治30)以降のことだという。1906年(明治39)の琉球新報によると、読谷山村において養蚕が行われていたという記述があるが、その数は少なかった。
 読谷山村での養蚕が盛んになったのは、1933年(昭和8)頃からで、沖縄県振興計画の一環として蚕糸業が奨励され、蚕業技師が各地域に配置されてからであった。渡慶次、宇座、座喜味、波平、大湾、古堅などにも各々小組合があり、蚕の餌である桑園の栽培講習や品評会などが活発に行われた。
 1939年(昭和14)12月11日の琉球新報では次のような記事が掲載されている。
 

読谷山村の桑園品評会

 読谷山村養蚕実行組合では去る六日午前十時から第二回桑園品評会褒賞授与式を挙行した。発育状況、中耕除草、整枝剪定、病虫害駆除其他管理(間作の適否、植え付け法の適否)等に付審査したが其の成績は次の通りである。
 一等字座喜味小組合△二等字宇座小組合△三等字大湾小組合△四等字渡慶次小組合△五等字古堅小組合
 
 蚕が卵を産みつけた種紙を小組合で買い付けたり、養蚕技師に世話してもらうなどして手に入れ、それを孵化させ、繭になるまで大事に育てた。繭になると、養蚕試験場が等級をつけて買い上げたり、製糸会社などに納入した。また自宅で糸を紡ぎ、自家用にする者も多かった。
 1942年(昭和17)に小禄にあった蚕業試験場に入学した安次嶺※※(渡具知)の体験記(『読谷村史 第5巻下』p.729)を見てみると、同期で入学した34名のうち、渡慶次出身の玉城※※も含まれていたとある。蚕業試験場は、試験に合格すると県で費用を負担してくれた。講習を受けた後、県外でも講習を受けることになっていたが、戦争が近づき、県外に行くことができなかったため、すぐに地域の蚕業指導員となり、地域の養蚕農家を巡回指導した。当時の読谷山村役場の敷地内には養蚕室があり、数名の指導員がいた。その中には渡慶次の与那覇※※もいたという。
※1尺=約30.3p、1斤=600gで計算した。
 
 

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