続 渡慶次の歩み
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第6章 渡慶次の産業経済と基盤整備

第3節 漁 業

 

 (1)戦前の様子

 戦前、渡慶次浜と呼ばれる一帯には、アダンが生い茂り、美しい白い砂浜が広がっていた。道路の整備されていない時代はくり舟(大きな丸太をくりぬいて作られた舟)で那覇や山原まで移動することもあり、また、山原からの木材を運ぶ大きな船「山原船」も渡慶次浜へ出入港していた。
 自然が美しいこの海は、浅瀬ではアーサ(ひとえ草)やガチチャー(ウニ)、二枚貝や巻き貝、カニ、エビ類やたこ、少し沖に出るとイカやスク小(アイゴ)など海の幸と言われる食物の宝庫であった。戦前より戦後間もない頃まで、15名ほどの人員で網を仕掛けて魚を追い込む、いわゆる「追い込み漁」も盛んに行われた。旧暦の5月27日、6月27日、7月27日には、それぞれ一週間の間にスクの大群が回遊してきて、群れを見つけて網をかけるとくり舟いっぱい獲れたこともあったという。大漁を得たウミンチュ(漁師)の中には、獲れたばかりのスクを買い付けに来る商人に売ったり、また塩漬け(カラスグヮー)にして売り出し、生活を潤わせた者もいた。海の魚は海辺に林や緑の多いところに回遊してくると言われており、緑豊かな戦前の渡慶次浜は漁場としても最適な場所であった。
 1920年(大正9)、日本政府に対し漁業権の区域間設定認可申請が行われた。これは、他地域から来た者が薬品や爆発物を使って漁を行うことが増えてきたため、このまま放っておくと海が破壊されてしまうということで行われたものである。その結果、渡慶次、儀間、宇座の3漁業組合共有の漁業権が交付された。南は高志保の北側のカチチグチから、北は瀬名波ガーの北側の境界であった。岩には手オノで彫られた境界の刻印もあった。この海域では他地域者は婦女子であっても魚介類を採集することは禁止された。ただし、カチチグチだけは、都屋漁民に年間20円で貸していた。この3漁業組合の免許取得年月日は1913年(大正2)12月12日で免許番号は5054、残存期間は1947年(昭和22)1月31日までの20年間となっていた。
 
060347-網の手入れ
網の手入れをする玉城※※さん(ボーシヤー)
 
海岸線の地域区分
060347-海岸線の地域区分 s
 
その漁業の種類は、「1やまとみづん狩込網 2建干 3蝦歩行曳網 4磯魚刺網 5すずめだい狩抄網6あいなめ狩抄網 7投網 8籠漬 9鉾突 10あをうみがめ 11うに 12たかせ貝 13ひろせ貝 14こやす貝 15しゃこ介 16さざえ 17まくり 18ほんだわら」となっていた。
 1922年(大正11)の「漁業組合及同連合会状況調」によると、渡慶次儀間宇座漁業組合の組合員数は141人となっており、村内の漁業組合の中でもずば抜けて多かった。(渡具知漁業組合:45人、楚辺漁業組合:40人、波平漁業組合:13人、長浜漁業組合:10人)
 海岸線沿いにはアダンに囲まれるようにして10軒ほどの渡慶次の人たちが屋敷を構え、半農半漁の生活を送っていた。
 
060349-ミーカガンを手にする
ミーカガンを手にする
玉城※※さん(ボーシヤー)

 
この住居が建ち並ぶ辺りは下原屋取(シチャバルヤードゥイ)と呼ばれていたが、その中でも、三良福地(サンルーフクジ)は20艘ほどあったくり舟の保護監視なども行っており、舟の所有者から感謝されていたという。
 戦前まで渡慶次では松の木をくりぬいた「マーチブニ(松舟)」が主流で、マーチブニは琉球松の大木をくりぬいて造られ、防虫・防蝕のために仕上げに舟の周辺を焼いてあった。また杉板で造られたサバニ(ハギ船)もあり、戦後の一時期まで、渡慶次では国吉※※(通称:※※、大正6年生)らが製作していた。
 

 (2)戦後の様子

 自然が多く、漁場としても栄えていた渡慶次浜も、沖縄戦により著しく破壊された。その後はボーロ飛行場などの米軍用地として接収され、トラックや戦車の演習場として利用されたため、自由に出漁することが出来なかった。
 砂は持ち去られ、岩や石がごろごろした状態であったが、返還後は海水浴場としても利用され、休日には多くの人でにぎわうようになってきた。
 1964年(昭和39)の旧暦の5月には海友会主催、渡慶次区の後援で「渡慶次ハーリー」と称されたハーリー大会が開催された。1966年(昭和41)に健青会と海友会の合同主催で第1回の海人祭が開催され、翌年には子どもたちの海水浴場としてもハーリー会場としても二本松周辺が最適との判断から、二本松周辺の整地作業が20年ぶりに行われた。荒れ放題になっていた二本松南側は、健青会と海友会によって整地され、その後儀間区により舟の上げ下ろし場が施設され、ハーリー会場として多くの人で賑わった。1969年(昭和44)からは字主催で行われるようになった。
 
060350-渡慶次浜ハーリー
渡慶次浜でのハーリー
 
 ハーリー当日には弁当持参の家族連れで溢れ、他字からも多数の観覧者が訪れた。アイスケーキや駄菓子売りなどの屋台も建ち並び、水着ではしゃぐ子どもたちの声やスピーカーの声などが入り交じって、お祭りのようであった。
 ペンキで色とりどりに装飾されたくり舟が水面に並ぶと、大漁祈願をしてから御願バーリーが行われた。その後各種団体の競漕、エンジン付き舟の競漕もあり、他字からの参加者も含め、大盛況であった。全日程を終了すると祝宴に移るが、そこでは青年達や海友会が獲ってきた新鮮な海の幸が振る舞われた。二本松の岩の上から眺める美しい景色、それと共に食す新鮮なイラブチャーの刺身などは格別であった。
 読谷村主催のハーリーが行われるようになると、字主催のハーリーは選手選抜も兼ねて行われるようになり、各選手達が村大会出場をかけて競技に励むなど、ハーリーは字の一大行事の観を呈してきた。
 1970年(昭和45)11月25日、海の保護と講和前補償問題解決のため、区民全体で構成する「読谷漁業組合渡慶次支部」が結成され、結成大会が行われた。
 
・1972年(昭和47)5月10日:漁業組合の株を字より個人に移す。
・1972年6月4日:渡慶次の漁業権者11名の集会。各自50$(ドル)を出し漁業権取得。
 
 海は生活を支えるのに必要な漁も行うが、危険も多い。遭難者も後を絶たず、事故の際などにはウミンチュや近隣の住民は救援活動にかり出され、またその労を惜しまなかった。
 1920年(大正9)の台湾から日本本土に向かう途中、大口西付近で座礁沈没した蘇州丸の事故では、山のように大きな波で荒れ狂う海に飛び込み、遭難者を救助する勇敢な人もいた。残念ながら救助できず、亡くなってしまった人々は高地口の海岸に埋葬された。
 さらに、1951年(昭和26)奄美大島航路「ふくいち丸」が残波岬沖(通称コウリザンパ)でエンジン故障で、折からの高波を受け転覆するという大きな海難事故があった。
 当時、徳之島や奄美大島から、米軍基地関係の職を求めて多くの人々が沖縄本島内で働いていた。正月(旧正月)を古里で過ごそうと、多くの出稼ぎ者が乗船していたという。
 浅瀬を渡ったり、物につかまったり、あるいは泳いで多くの遭難者が宇座浜に辿り着いた。渡慶次、儀間、瀬名波、宇座などの青年団員や漁師が懸命の救助活動を行ったという。福地※※や※※、宜保※※等の海人が中心となって指示を出し、海岸では木材を集め火を炊き、寒さにかじかむ遭難者に暖を与えた。またマッサージなどで刺激を与えたり、衣服を取り替えるなどして元気になった者を瀬名波の公民館に運ぶ等、夜を徹しての救助活動に多くの人々が協力した。
 約20名の死亡者、行方不明者が出たが、現在のような救助体制がとれていれば、犠牲者をもっと減らすことができたのに、と現場で活動した渡慶次の先輩は今でも残念そうに話している。
 また、徳之島に牛を買い付けに行くために乗船していた石川市在住の某氏はかろうじて浜に泳ぎ着き、一目散に石川まで駆けて、家族や市民に遭難事故を知らせたというエピソードもあり、翌日石川市からも救助に駆け付けたとの話もあった。
 
060351-うるま新報記事
うるま新報 1951年1月22日
 
 この他にも、1968年(昭和43)度の福地蔡賢区長の区長日誌には次のように記されている。
 
8月24日 土
午後8時30分海友会、行政委員が集まって海の講和前補償は部落皆のものであると話し合った結果決定した
午後11:30頃嘉手納警察署より人命救助してくれと協力願いがあったので、早速役員会で人選して送り、船は安田※※氏のつり船を出動させて三人男を助け無事上陸させた
当日海上注意報が出て(こうり残波)に船をつけるのは困難であった
なお当日協力者氏名  与那覇※※ 山城※※ 福地※※ 大城※※ 玉城※※ 安田※※ 玉城※※ 山内※※ 私 以上の9名であった
 
8月29日 木 晴れ
嘉手納署で表彰式に海友会から福地※※、玉城※※、行政委員から山城※※、玉城※※、安田※※5人が出席して午前11時30分杉原署長から感謝状と記念品が贈られた
同日公民館に帰り 残波岬において事故発生救助願いがあり、安田※※、福地※※二人の船に分乗して残波岬に向かい、午後1時水深20米の地点に死体となって発見され 午後4時長浜海岸に死体を上げた
死者長浜
 冨着※※ 当時34才
当日協力者は宜保※※ 玉城※※ 安田※※ 仲村※※ 玉城※※六人※であった
(※注:※※本人を加えて計6名という意味)
 
 

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