続 渡慶次の歩み
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第6章 渡慶次の産業経済と基盤整備

第1節 土地改良事業

はじめに

 
 ボーロ飛行場及び残波岬一帯は1945年(昭和20)4月1日の米軍の沖縄本島上陸と共に接収され、特にボーロ飛行場は本土攻撃のための大型機の離発着場としてすぐに建設が進められた。
 
◎[写真]本編参照
海岸線にボーロ飛行場が造られた
 
戦時中は大型の爆撃機や輸送機などが実際に離発着したが、村民の帰村が許された1946年(昭和21)8月以降は、そこからの離発着を目撃した区民はいない。帰村した渡慶次の人びとの印象としては、ボーロ飛行場跡地は、「放置軍用地」のような形になっていて、漁をするために海に出かけるにも自由に滑走路跡を横切ったという。また大家畜組合などが、滑走路の跡地を耕して牧草を植えたりしていた。
 また、安田※※によると時期は不明だが(帰村直後のことなのかも知れない)、少しの期間、弾薬庫の整理のためか、滑走路に弾薬や爆弾、ガソリンが入ったドラム缶などが集積されていたことがあった。周囲の人たちは、米軍に気づかれないようにツルハシを持って行ってはドラム缶に穴を開けガソリンを抜き取って、そのドラム缶でトイレを造ったりしたという。これも何年頃だったか覚えていないが、芋掘りに行ったら落下傘演習をしていたのを見たことがあったという。
 ベトナム戦争が始まった頃からか、この地域は戦車の演習場、野営訓練場などとしても使用されたが、1976年(昭和51)9月30日をもって全域の返還が確定した。
 

1 西部連道土地改良事業

 
 (1)軍用地の返還と地主会の結成
 1974年(昭和49)1月15日の日米合同委員会で、ボーロポイント飛行場を近いうちに返還することに合意したとの情報を地主たちが新聞で知り、同年5月、返還後の諸問題に対処すべく同地域の渡慶次・儀間・高志保・波平の地主を網羅したボーロポイント返還軍用地地主会設立発起人会を発足させた。代表者に山城※※を選出して、1974年(昭和49)6月30日午後6時から村中央公民館で設立総会を開いた。
 当日は778人の地主中、本人出席393人、委任状出席130人と多くの関係者が出席した。財産権と軍用地の跡地利用に係わる重要なことであることから、その関心度は高く、会場は活気に満ちていた。
 発起人山城※※から設立経過の報告があった後、儀間※※を議長に選出して議案審議に入った。第1号会則案の審議、第2号予算案の審議、第3号事業計画案の審議、第4号役員選出と全議案を満場一致で可決した。なお、選出された役員は次のとおりである。
 
会長:安田※※
副会長:山城※※・上地※※
評議員:知花※※・知花※※・比嘉※※・上地※※・池原※※・松田※※
  ・大城※※・比嘉※※・国吉※※・大城※※・安田※※・玉城※※
  ・山内※※・山城※※・儀間※※・上地※※・町田※※・上地※※
  ・玉城※※
監事:松田※※・知花※※
 
 当初、日本航空開発株式会社によるゴルフ場建設という案が跡地利用の一つとして考えられたため、1976年(昭和51)5月19日に村長、安田会長及び役場の担当課長であった新垣※※が東京の事務所まで出張し、開発計画の有無を確認した。しかし、日本航空開発側は経済的な理由等からその計画はないと明言した。その後、村の計画指導もあり、土地改良事業を導入していこうとの計画が認められ、事業採択へ向けた動きが出てきたのであった。
 こうしたことからボーロポイント返還軍用地地主会としては、まず手始めに地籍調査、復元補償、管理費補償並びに土地改良事業に関する問題の早期解決を図るという作業に着手することになった。
 1974年(昭和49)8月15日に那覇防衛施設局の財産返還説明会後、ボーロポイント飛行場FAC6221の南側1,841,527m2(2,028筆、地主数778人)が返還された。同地域は沖縄戦によって接収され、その後の長期間に及ぶ米軍基地としての使用により、雑草木が生い茂り、さらにコーラルが敷き詰められ著しく形質が変化していた。このように荒廃した土地が戦後30年目にして地主に返還されたが、国は土地建物賃貸借契約書第15条により返還時の補償義務を負い、また沖縄県は公用地の暫定使用に関する法律第4条の原状回復の義務を負って、後述の事務経過(報告)のような過程を踏まえて土地の返還事業は完了した。
 問題解決にあたっては、1974年(昭和49)10月21日に読谷村返還軍用地対策協議会が設立され、会長に山内徳信(村長)、副会長に安田※※(前記の地主会会長)を選び、また1975年(昭和50)1月には同協議会が返還軍用地のしおりを作成した。そのスローガンでは
△返還軍用地地主会の力を結集して適正な復元補償を実現させよう。
△返還軍用地の地籍問題の解決に全地主が積極的に取り組もう。
△地籍調査完了までの管理費確保を実現させよう。
を掲げて、意志統一を図ると共に、行政当局の適切な指導助言を受けながら那覇防衛施設局と調整を進めてきた。
 
 (2)地籍調査
 返還軍用地の跡地利用を進める上で、最優先されるべき事業は地籍の明確化であった。どこからどこまでが誰の所有であるのか、面積は、用地の境界は、といった基本的な地籍図があって初めて跡地利用の計画が立てられるからである。
 戦前の名残を全くとどめない返還地域の中で、地主自身が自分の土地を推測して現地に杭打ちする作業はたちまち壁にぶつかったため、多くの地主は動揺した。さらに、戦前の物証調査の困難性や海没地、潰地の問題、公簿漏れ、居住不明、共有地の取り扱い、終戦後の土地調査の誤謬、脱漏が多い上に所有権者の利害関係もからんで複雑な問題を内包していた。
 こうしたなか、地籍調査については、国はそれ相当額の予算措置を講じ、金銭補償が原則だからと村長が代理人となって受領し、調査事業の実施主体になってもらいたいとの基本方針を示してきた。しかしながら村当局は、法的根拠のないままに地籍調査をすることは困難なことであり、提示された予算額と査定額や実施費との差額、役場の執行体制の未整備などの問題があるため、那覇防衛施設局が直接実施し、そのための執行体制を確立して業者に発注すべきであるとの見解を示した。
 これに対し、施設局は地籍調査の官庁ではなく、登記をする権限もないという法制度上の問題があることを理由に実施主体になることを拒んだ。その解決策として、村が主体となることで、予算額外の予期せぬ経費が生じたときは事務委託費や見舞金の形で村に支出することも可能であるとの見解を示した。
 一方、県の土地調査事務局では、集団和解によって筆界を設定することは境界の創設につながるので、その作業成果を国土調査法によって登記することが可能かは疑問である。現行法では、あくまで物的証拠がある確認主義でなければならず、国土調査法の場合、先ず現況調査、そして基礎調査、境界モデル調査、地籍調査の順序で進めており、同法によると役場が実施主体になると作業成果が認められるが、地主会でそれをやっても成果の処理が難しいとの見解だった。
 また、読谷村から総合事務局の境界不明土地対策現地連絡協議会を機能させて検討すべきであるとの提案で、1975年(昭和50)9月16日同局の会議室で総合事務局、那覇防衛施設局、県土地調査事務局、具志川市長、読谷村長等が出席して会議が開かれた。この会議に、安田※※地主会長はオブザーバーとして参加している。
 総合事務局は、この協議会は事業の実施主体をどこにすべきか基本方針を決める機関ではなく、どのような方法で仕事を進め、具体的にどのようにするか意思の疎通を図る場であると、極めて具体性のない一般的な考え方を述べてきた。また、県からは実施主体になれない問題点について制度の問題は国で詰められないか、復帰時点に軍事基地をアメリカに提供する際境界設定を考慮すべきではなかったか、国土調査法と不動産登記法に区分してやれる所を示してもらいたいとの要望や意見が出された。
 那覇防衛施設局は現行図面で賃貸借契約を結んでおり、そのまま踏襲し復元補償しても問題はない。しかしながら、現行図面は現実にそぐわないし無謀と思われるので原状回復の一端として地籍調査を実施するが、元来の分掌事務ではない。したがって施設局が地籍調査を実施することについては法的根拠がなく、金銭補償をして仮に経費の補てん等が生じた時は市町村長が代理人になった方が望ましいとの意見が出された。
 このように、国・県・市町村それぞれの立場を主張するだけで、意見の一致をみるに至らなかった。これを抜本的に解決するには国は法律および財政上の特別措置を講ずるべきで、県でも知事の諮問機関として地籍問題対策協議会が設置され、その解決の方策を研究し戦後処理の一環として、国がやるべきとの意見書が出された。しかし、那覇防衛施設局は制度上不可能だと譲らず、村(市)長が発注者になれば作業の協力態勢は全面的に責任を負い、図面を現地に投影して不動産登記法第81条で実施可能との判断を示したが、法務省の表記登記専門官はこの調査は不動産登記法になじまないとの見解であった。
 こうしたことから施設局は1944年(昭和19)の米軍撮影の航空写真をワシントンから入手し、4千分の1のネガから4百分の1の地形図をつくるという図化作業を進めると共に地籍確定の資料づくりのため5億円の予算措置をしてくれた。1976年(昭和51)6月までにはその準備を完了し、本庁や国土庁にも和解調書は認めるとの合意をとりつけて、地主の協力を求め地主の意思確認をし、あくまで集団和解ができるように事前に念書をとり、地籍調査費受領のため村長、地主会長が共同代理人の委任状をとりつけることにし、沖縄県土地調査事務局が実施している作業工程と同様な方法で実施することになった。
 作業期間中の管理監督、工程審査等に全面的に支援協力することで、1976年(昭和51)3月23日那覇防衛施設局で施設部長、読谷村長、地主会長三者で読谷村の返還軍用地の地籍確定に関する覚書を交わして、地籍調査費を受領、実施にふみきった。
 先ず境界設定事業執行計画を立て、地籍調査費61,732,681円中測量会社の見積委託費52,740,000円は村長が管理運営し、その差額(8,992,681円)が地主会の土地調査実施委員会費に充当され、地主会が予算措置をして運営にあたった。作業に入る前に雑草木が繁茂しておりハブの問題、測量時のポールの見通し、物証捜し、危険物の投棄等があって事前に雑草木の伐採、焼払いの作業が全地域に及び、予測しなかった作業のために村から重機費用の補助を受けると共に、地主会でもその対応費を独自に捻出して地籍調査が安全かつスムーズにできるように対処した。
 調査の委託契約は渡慶次・儀間地区が大洋土木コンサルタント(代表者当山※※)、波平・高志保地区が第一計算コンサルタント(代表者宮城※※)と締結し、部落の古老や役員の記憶をたどり、わずかな物証を手掛りに配列していき、形質変更の著しい所は比例配分による集団和解方式で処理された。
 調査前に今後いかなることがあってもこれに関して一切争いません、との境界設定合意書に押印してから始め、何回となく集会をもって詳しく説明したつもりであったが、地主のほとんどが高齢者のため充分な理解が得られず、いざ自分の土地がどの辺か杭打ちの段階になると、60万坪余に及ぶ広大な地域で右往左往するだけで皆目見当がつかない状況に陥ってしまった。予め地主の合意に基づいて作成した配列図を現地にはめこんで承認する方法を取ったが、ある地主は位置が全然違う、面積も減少しているとなかなか承諾してくれない者もいた。調べてみるとこの人は、所有権を元の地主から譲り受けた人で、戦前はおろか終戦当時の状態を知らない戦後派で無責任な発言であることがわかった。また、自分の土地が公簿漏れになっているからこの際是非復活しろと役員に執拗に迫る地主もいたが、配列図の中で近傍周辺の立証者が無くて認められず、それ以来罪もない役員が憎まれ者にされてしまったりした。隣の畑まで昔のままの畦あぜが残っているのに、次の畑から敷き均されて杭を打ったらずいぶんずれていると主張する人もいた。この地主は昔、畦は自分の畑まで真っ直ぐ続いていたと主張するが、隣接地主の記憶も定かではなかった。
 このように主張の通らなかった地主は折にふれ、酒の勢いで役員への苦情は絶えなかった。また、昔のまま残っている畑が著しく面積が減少したと抗議に来た地主がいた。それではと本人に杭打ちをさせたがやはり間違いないことがわかり、結局前の図面ミスでこれまで余計に軍用地料を貰って得したのはあなただと役員の一人が説明したら、納得して帰って行った。合意調書押印のために役員が入れ替り立ち替り足しげく通っても一向に応じない村外居住の地主には、その人の縁故者、友人に説得して貰いやっとの思いで押印してもらったこともあった。何よりも一件落着してから物証が現われ、やり直しの羽目にあった時は本当に気落ちしてこれまでの苦労が水の泡と、茫然自失の経験をした役員もいた。戦争を知らない若者に戦災を被った当時の状況説明に多くの時間を要したり、地籍調査の法的制度を理解できない地主を相手に説明をするがほとんど聞き入れてもらえないなど、この作業は終始目に見えない苦労がつきまとった。
 地積の減少や正方形の畑が長方形に変形したり、位置が地主の思惑と大きくずれたりして自分の財産確保に顔を紅潮させ、納得できないと不平不満を浴びせる地主の傍らで、問題点をつかもうとじっと聞き入っている測量士たちがいた。むきにならずに時には笑みを浮べ、作業は停滞することもしばしばあったが、そのような中で役員が仲裁に入り地主相互の理解、譲歩、和解と関係者の絶大な協力によって地籍調査は完了した。完了に伴い、1977年(昭和52)5月18日に制定された「沖縄県の区域内における位置境界不明地域内の各筆の土地の位置境界の明確化等に関する特別措置法」により、その成果は認証されることとなったのである。
 そして1977年(昭和52)11月4日、読谷村中央公民館に於いて地籍調査の一大事業を完成させた皆さんごくろうさんでしたと「測量成果納品受領式」が関係者の出席のもと盛大に催された。
 
 

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