続 渡慶次の歩み
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第6章 渡慶次の産業経済と基盤整備

第4節 畜産・家畜

 
 県内の家畜の飼養頭数が記録されるようになったのは、廃藩置県以後のことである。1937年(昭和12)の『沖縄県統計書』によると、読谷山村では畜産を専業とする者はいなかった。しかし、農家戸数2,982戸のうち約97%にあたる2,891戸が有畜農家で、農業を専業とするかたわら屋敷内で家畜を飼っていた。
 畜舎には牛馬や山羊、ウヮーフール(便所)には豚、そして庭には鶏が飼われているのが一般的な農家で、養蚕を行っているところもあった。
 
◎[写真]本編参照
ウヮーフール
 
字別家畜頭数
大正15年5月末日
 
渡慶次 170 69 59
長 浜 144 99 31
宇 座 101 49 28
瀬名波 105 61 53
儀 間 54 35 33
高志保 135 107 32
波 平 312 194 119
上 地 13 10 2
座喜味 280 125 104
親 志 25 3 6
喜 名 230 74 122
伊良皆 132 67 78
長 田 20 10 5
楚 辺 203 190 105
渡具知 50 20 24
古 堅 95 23 36
大 木 15 14 21
比 謝 39 20 23
大 湾 135 46 37
合 計 2,258 1,216 918
(『読谷村史第四巻民俗編上』p.393参照)
 
字別家畜頭数(グラフ)
060359-字別家畜頭数 s
 
読谷村年次別家畜飼養頭数の推移
1950〜1975年
  山羊
1950年 811 54 53 803 906
1951年 1,386 79 61 1,244 1,233
1952年 2,940 94 61 1,659 1,585
1953年 2,783 91 66 1,631 1,362
1954年 2,611 172 70 1,714 4,213
1955年 3,218 181 76 1,879 4,154
1956年 3,864 154 138 1,864 4,980
1957年 4,393 121 182 2,438 8,873
1958年 7,321 90 180 2,246 7,461
1959年 5,935 83 200 2,317 5,207
1960年 7,160 110 241 2,595 14,185
1961年 8,435 155 282 2,055 15,208
1962年 5,294 151 304 1,478 19,332
1963年 5,251 158 278 1,675 29,607
1964年 8,759 164 262 1,710 34,732
1965年 9,914 152 226 1,497 33,670
1966年 10,815 212 209 1,067 35,648
1967年 9,143 257 219 808 42,169
1968年 7,946 264 183 784 32,420
1969年 11,059 221 150 775 30,822
1970年 12,682 187 131 614 49,720
1971年 9,334 217 128 942 33,525
1972年 6,665 191 121 998 39,176
1973年 7,111 198 90 1,258 35,370
1975年 6,138 194 62 1,420 46,411
(1950〜1956:『村の歩み』、1957〜1967:『読谷村誌』、
1968〜1972:「第1回読谷村畜産まつり」、1973〜1975:「農協のあらまし」)

 
上表のグラフ
060359-上表のグラフ s
 
 第2次世界大戦・太平洋戦争が始まり、沖縄へ日本軍が駐留するようになると、食糧や労力として家畜の供出なども強いられ、県内の家畜数は激減していった。
 戦後は、戦禍により家畜は全滅の状態となったが、米国本土や日本本土、またハワイ移民者からの援助や贈呈により、再び家畜を飼う者が増えていった。
 前頁表の推移を見てみると、年次別に若干の増減はあるものの、相当数の家畜が飼育されていたことがわかる。その後、復帰に伴い環境衛生法や都市計画法の変更により、屋敷内での飼養や屠殺が禁止されると一般の家庭で家畜を飼うことはなくなり、畜産団地などで専門的に飼われるようになった。
 読谷村では、村民の食糧増産や所得向上のために畜産業を奨励し、肥育牛展示会と養豚まつりを1970年(昭和45)より開催した。1973年(昭和48)にはこれら2つを合わせ畜産まつりとして開催し、今日にいたっている。
 次表は、1971年(昭和46)6月現在の字渡慶次の種類別家畜頭数である。
 
渡慶次の種類別家畜頭数
肉用牛 山羊
戸数 頭数 戸数 頭数 戸数 頭数 戸数 頭数 戸数 羽数
105 755 16 29 12 12 15 48 6 384
(『渡慶次の歩み』p.139参照)
 

1 豚

 豚は琉球の大交易時代に中国から輸入され、中国や琉球の一部高官の食用に供されたが、時代が経つにつれ全琉に広がり、食用として全農家で飼育されるようになったといわれている。
 戦前の豚の繁殖は特定の農家がやっていて、一般の農家は子豚生産者か子豚市から1、2頭の子豚を買ってきて正月用として1年がかりで200斤(約120s)前後まで育てた。旧正月になると1戸で1頭をつぶし、正月料理に使って、余った分の肉は年間の祝祭日に使用するものとして塩漬けにし、樽や壺に詰めて保存した。脂肪は鍋で炒めて脂(ウヮーアンダ:ラード)にして壺に詰め、家庭の約1か年分の食油とした。太らせた豚ほど脂が多くとれたため、豚の話になると、脂肪が多い程自慢であった。
 豚に与えるえさはほとんどが廃物利用であったため成長は非常に遅かった。幅5尺(約152p)、縦7尺(約212p)の石囲いでできたフールは豚舎であると同時に便所でもあった。人間の排泄物とともに、食事の残りや食器の洗水等に芋の皮を混ぜ合わせて与え、約1か年で成豚に育てた。
 沖縄戦により県内の豚も壊滅的打撃を受け、1946年(昭和21)には戦前の約10%(10,400頭)の状態にあった。
 1948年(昭和23)、ハワイ在住県民から、500頭あまりの豚が送られ、琉球政府によって各地域の養豚農家へと割り当てられた。渡慶次では神谷※※が受領したという記録がある。
 
住所 氏名 耳標番号 種別
渡慶次区 神谷※※ 1384 チェスターホワイト
性別 毛色 配布当時の斤数 配布年月日
125 1948年10月16日
(『村の歩み』p.119)
 
 戦前、豚の品種はほとんどアグーで毛色は黒と決まっていたが、戦後輸入されてきた豚が白いのには皆が珍しがった。戦後、字で輸入飼育されたのがチェスターホワイト、ハンプシャー、バークシャー等の種であった。1960年(昭和35)頃から肉質が良く、その上飼料効率が良く、成長が早いということでランドレースが急速に普及し、ほとんどがこの種となった。
 品種が変わったことで、戦前に比べ豚の成長は早くなったが、中でも米軍のメスホール(食堂)に働く人が飼う豚は成長が早かった。豚の飼料用に廃棄残飯を持ち帰ることができたため豚も大きく成長し、他の養豚者の羨望の的であった。終戦後15年ほどして業者が残飯を買い取るようになると持ち帰りはできなくなった。
 戦前各家で当たり前のように行われた屠殺は、戦後には許可を得る必要があった。知花※※(新屋前門(ミーヤーメージョー))が残したメモに、屠殺の許可願いの請願書のメモが残されているので以下に紹介する。
 これによると、読谷村の衛生課に屠殺する豚の詳細や日時、場所、理由などを詳しく届け出る必要があったことが読み取れる。
 
自家用屠殺願
一、豚1頭、雑種、黒毛、牝
一、生体斤数 130斤
一、屠殺年月日 1952年3月16日
  午後2時
一、屠殺場所 渡慶次区1班
一、屠殺理由 肥満ノタメ飼育不能
一、用途 親類の油用並ニ彼岸祭用
 右様許可相成度く御願ひ致します
1952年3月16日
  渡慶次1班 氏名 印
読谷村衛生課長
  知花※※殿
 
 1962年(昭和37)、琉球民政府の援助で玉城※※宅においてサイレージ(乳酸発酵させた飼料)の仕込み講習会を開き、各区区長や村内の養豚関係者多数が参加した。しかし、地下タンク施設や仕込み労働、飼料成績等がかんばしくなく一般に普及もされないまま1年余りで止められた。
 1963年(昭和38)には、大城※※が日本政府援助によるモデル養豚場の指定を受け、2か年間係官がつきっきりで指導にあたった。方法は生芋をチョッパーにかけ細かくしたものと単味飼料(バラカス:大豆を潰したもの)を約半々に混ぜ合わせて与えたが、この方法は字内外の多頭飼育者に普及された。ビール粕やパインの皮等も飼料にしたこともあったが長続きしなかった。一部の養豚農家は完全配合飼料を使っているが、ほとんどがドブ飼い(芋の皮や残飯にフラン草等を入れ水などとともに炊き込んだえさで育てること)であった。
 また、同年に母豚を飼育する農家で母豚組合が組織された。品種の改良、飼育法の改善及び多頭飼育を目指し、政府や村経済課の指導助言を受けたり、優秀養豚農家の視察研修や専門家を招いての講習会の開催などで養豚に対する知識を高めた。これが功を奏して生産が大幅に伸びたが、諸般の事情により、1966年(昭和41)には母豚組合を解散した。
 1965年(昭和40)から1969年(昭和44)頃まで子豚は飛ぶように売れ、肉豚も1斤(600g)あたり40¢(セント)内外だった。豚舎の改築や増築等多頭飼育者が増え最盛期には渡慶次で1,700頭あまりになることもあった。読谷村でも産業振興策の一環として養豚業へさらに力を入れるようになっていた。
 
字別飼育頭数
060359-字別飼育頭数 s
1968年(昭和43)12月(読谷村だより第135号参照)
 
 しかし、1970年(昭和45)肉豚の急激な値下がりに伴って子豚の値段も急落した。それにより、飼育頭数も約半数に減り、豚舎も空になっているところが多く転業した者もいた。そこで、当時の玉城国市区長が主体となり、養豚組合を結成、初代組合長に山内※※が選任された。その後、養豚組合と役所、農協等が連携して豚価安定を図るために、同年7月に那覇ミート株式会社と子豚の出荷契約を締結した。それからは子豚も順調に販売され、少しずつ活気を取り戻すようになった。また、ライヨークという品種が勧められるようになった。
 その後、1971年(昭和46)7月より急に豚価が上昇し、8月末には1斤あたり50¢(セント)という高値にはねあがった。それと同時に子豚の価格も30斤ぐらいで20$(ドル)という高値を呼ぶようになった。
 このような豚価価格の不安定を無くすため、生産者と財団法人沖縄県畜産公社との間では、「肉豚保証積立金納入契約」が交わされた。契約書の内容は次のとおりである。
 
◎[写真]本編参照
読谷沖映での産業共進会から
 
◎[写真]本編参照
ブラスバンド演奏付きの産業共進会表彰式
 
 

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