続 渡慶次の歩み
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第6章 渡慶次の産業経済と基盤整備

第5節 ボーシクマー

 

1 アダン葉帽子の製造

 1904年(明治37)、沖縄各地に自生しているアダン葉を原料として1つの産業が誕生した。アダン葉を利用して作った帽子−アダン葉帽子、また沖縄パナマ帽とも呼ばれた。この帽子は、本来エクアドル産のパナマ草を原料とするものであった。植物としてのアダン葉は東南アジアや沖縄を原産地とし、日本では、トカラ列島の口之島以南の琉球列島の各島に自生している。学名はPandanus odoratissimus L.f.*1で、和名はアダン(阿壇)でタコノキ科の亜高木である。若い時の幹はやわらかく切りやすいが、老木になるとナタの刃をはじき返すほど固くなるという。長さが1〜1.5mにもなる葉は、幅が3〜5pで先になるほど細長くなりとがっていく。太い気根は地中に斜め下方にもぐりこんで支柱根を垂らし、強い風にも倒れないので、防砂の役目もする。そのため海岸周辺に多く見られる。その葉がアダン葉帽子の原料である。
 1900年(明治33)、児玉※※が琉球商会を設立して巻煙草や手さげ鞄などの製造を開始し、その後、1904年(明治37)に岡山出身の寄留商人片山※※が児玉からヒントを得てアダンの漂白方法や帽子製造方法を開発し、特許を得た。のちに、首里出身の竹物編類の達人平安名※※によって考案され、その生産が瞬く間に沖縄県下に普及した。そしてそのアダン葉を使ったアダン葉帽子は京浜・阪神地域に移出され、さらには欧米諸国にまで輸出されるようになった。1911年(明治44)には、県下で砂糖生産約500万円、泡盛生産約100万円に次ぐ生産高(2万6888ダース、55万7160円)となり、帽子製造従事者は2〜3万人に達した。県下のいたる所で帽子編業が盛んになり、農家の婦女もそれに従事するものが多く、日雇業者等もそれに転換し、小学生まで帽子を編むこともあった。このように、帽子を編む従事者、または帽子を編む作業そのものを「ボーシクマー」と言い、ボーシクマーを専業として昼夜を問わず作業する者、学生や主婦の副業・内職として自宅で編む者、また工場に雇用された職工もおり、すべて「ボーシクマー」と呼ばれた。
 
060381-ボーシクマー
歴史民俗資料館での「ボーシクマー展」
のため、経験者を集めての説明会から

 
 その当時は読谷山一帯も泡瀬、名護と並んで帽子製造が盛んな地域であり、1909年(明治42)4月6日の沖縄毎日新聞では、行政やその他一部の人が組織した帽子会社は採算が合わず解散の恐れがあるが、その一方で、読谷山では5〜10名と個人で職工を集めた小規模な組織が成功していると報じている*2。
 

2 ゲンロー帽子への転換

 それまで使っていた自生の原料のアダンが県当局の造林奨励にも拘わらず、乱伐によって材料不足に陥り、1912年(大正元)に谷村商会が紙撚(こより)原料を開発した。(紙撚製帽子を「ゲンロー帽子」と呼んだ。)その翌年には山内※※もまた違った方法で紙撚原料を開発した。紙撚は三椏(みつまた)を原料とする純国産原紙で供給が可能かつ安価であり加工作業も比較的容易であり、無色透明の粘り気のあるコロジオンという液体の加工技術の進歩など多くの面で有利であったので急速に普及した。またこれに加えて、欧米諸国の婦人帽・子ども帽などの流行が沖縄帽子の国際需要を拡大させ、大正から昭和初期にかけて全盛期をむかえるに至った。このように、帽子編は沖縄の社会全体が沖縄戦により戦時体制に組み込まれるまでの約40年間、貴重な生産活動として沖縄経済を牽引した。
 

3 ボーシクマーの作業場と技術の伝承

従事者
 読谷山でボーシクマーが始められたのは1907年(明治40)頃だった。家庭の事情によっては7歳頃(小学1年)から始めた人もいた。多くは小学校高学年の12歳前後に始めている。特に16歳〜23歳頃の未婚の女性が多く、県外への出稼ぎ(紡績等)や結婚を機にしばらくボーシクマーを辞めても、紡績から戻って再び従事した者や、結婚後も家の仕事を終えた後や育児の合間等に帽子を編んだ者もいた。経験者は短い人で1〜2年、長い人は15年ほどだった。男性も従事していたという話しもあるが、畑仕事や漁業など他の仕事で忙しく、従事していた期間は短かった。
作業場所
 作業場は、ボーシクミヤーまたはボーシヤーと呼ばれていたが、主に下請人の家や知人宅のメーヌヤー(離れ)等で編んでいた。最盛期には母屋も編み場所として使用していた。作業場所を提供する家がない場合や、主婦で家を空けられない人は自宅で編んだ。5〜15名ほどのグループで集り、楽しく語らいながら帽子を編んでいた。「ボーシクマー歌」*3という帽子編の様子を歌った歌があるが、今でも人々に愛唱されている。
 また当時は特に遊び集うような場所もなかったので、帽子を編むために集まった女性達のもとへ、仕事を終えた若い男性達が、想いを寄せる女性目当てに遊びに来ることもあり、帽子編の作業場が男女の出会いの場にもなっていた。
技術の伝承
 読谷山にボーシクマーが普及し始めた頃は、各字に数名の指導員がいた。しかし、ほとんどの経験者は身近にいる母親や姉・友人・先輩達が編んでいるのを見て、見よう見まねで編み方を覚えた。編み始めの頭小(アタマグヮー)は難しかったため、自分で編めず先輩方にお願いして編んでもらう人もいた。渡慶次には特定の指導者はいなかったが、渡慶次で最初に従事した真志儀間小(マシージーマグヮー)や牛玉城(ウシータマグスク)から伝え広がったと考えられている。
 

4 材料の種類と調達

アダン葉製帽子
 帽子の材料にはアダン葉を使ったアダン葉製帽子と紙撚(こより)を使った紙撚製帽子があったが、帽子が編まれ始めた頃はアダン葉のみが使用されていた。
 原料としてのアダン葉は、読谷山では喜名・長浜・楚辺にあるアダン葉製造会社で製造された。成形されたアダン葉の材料は、両端と真ん中の棘が除かれ、細い糸状のものが漂白され、乾燥した状態で片方が束ねられていた。それを嘉手納の平安名・比謝川のターリー・楚辺の後川之上(クシカーヌイー)・比謝の大屋小(ウフヤグヮー)から入手した。
紙撚(こより)製帽子
 アダン葉の材料不足から登場した紙撚製帽子(「ゲンロー帽子」)は、紙撚にセルロイドを塗ったものや、特殊な原料紙で、薄いベージュ色をしたものが多かったが、その他にも白・黒・青・赤・橙(だいだい)等の色があった。材料のほとんどは県外で作られ、それを親会社が入手し、請負人や下請人が製品を買い付けに回る時等に従事者へカナ(カセにかける前の1束にした糸)の状態で届けた。帽子編みの材料であるゲンローは、那覇在の松村製帽組が沖縄県下に卸し、特に泡瀬や名護、読谷山に帽子製造従事者が多かったということである。
 渡慶次でも、大半の人がゲンローを使って編んだ経験があり、ゲンローは切れたりほつれたりもしたが、繋ぎ合せてまた編んだという。
 また、ゲンローを使って編み始めた人の中にも、客からの要望によりアダン葉を使って編んだという人もいる。しかし、ゲンローと違い硬いアダン葉は、編む時に手が痛くなるので包帯を手に巻いて編むこともあった。
 

5 編み方の手順・各部の名称・道具

 編み方は、≪頭小→天→胴→縁→耳小→仕上げ≫の順で編まれる。
 
060381-帽子の各部の名称
 
道具
 ボーシクマーの道具には鋳型、天板、厚紙、針(傘の骨)、帽子箱、重し(レンガ・鉄の塊・石等)、木槌、艶出し用の瓶またはモーモーグヮー(宝貝)、物差し、はさみ、紐、タオルまたはサラシ、霧吹き等がある。
天板(ティンイタ):天が編みあがると天板が内側に来るように紐を通して付け、帽子箱に固定する。
厚紙:天が編みあがると天板と帽子箱の間に挟む。帽子が帽子箱に擦れて汚れたり傷ついたりするのを防ぐ。大きさは天板とほぼ同じ。
帽子箱(ボーシバク):天が編みあがると天板、厚紙を紐で取り付けて固定し、胴を編む。胴が編みあがると天板などをはずして鋳型にはめ、天を底につけるようにして縁を編む。
鋳型(イカタ・イガタ):胴まで編みあがると鋳型にはめて、形を整えながら縁を編む。大人用・子ども用など大きさがある。
針(ハーイ):葉、またはゲンロー等の材料を増やしていく時に使う。傘の骨組みなどをヤスリで尖らせて使ったりもした。
重し(レンガ等):編んでいく途中でずれないように重石として使用。
モーモーグヮー(宝貝):帽子が完成するとモーモーグヮーや瓶の底を使って帽子をこすり、艶出しをして完成度を高めた。
 鋳型は親会社から支給されたものを数名で使い回すか、個人で所有している人から借りるなどしていた。またそれぞれの字に帽子編の道具を作って売っている人がおり、渡慶次では儀間の知花※※(三良前門(サンラーメージョー))から購入していた。帽子箱が35銭、鋳型が50銭であった。その他の物は自分で工夫し、天板にレンガを使ったり、廃馬車の中から金物の四角の部品を取って天石として使ったり、針やモーモー小も家にあるものを使うなどそれぞれ工夫していた。
 

6 値段・販売

 編み上げた帽子は1週間に1度下請人や請負人が集め、値段を付けに持って行った。その際に編目の粗さや細かさ、丁寧さなどで等級が付けられ値段が決まった(1等50銭、2等40銭、3等30銭、4等20銭)。中でも帽子編を専門としている人は朝8時から夜10時頃まで編み続け、綺麗に細かく編まれた物(クマバー:細編目帽)を1週間に2つないし1つの割合で編み上げたので、特別に50〜70銭の値段がついたという。粗く編む(アラバー:粗編目帽)は1日から1日半で1つ編み上がり、20〜30銭であったが、確実な現金収入になるので編む人も多かった。クマバーは編み上げるのに技術と時間が要るため値段は高くつくが編む人は少なかった。畑仕事等の片手間に編む人には1週間に1つがやっとだった。縁(つば)の長さや胴の高さによっても値段が変わり、また手垢などの汚れが付くとペキ(ペケ)と言って値段が全く付かなかったが、下請人はその商品も持っていった。
 下請人や請負人に集められた帽子は那覇にある親会社へ納品され、黒いリボンが付けられ完成となった。その後、京浜、阪神へ渡り、その大半が貿易商の手を経て欧米に輸出された。1913年(大正2)2月3日の新聞によると、那覇港から輸出される貨物の15%がアダン葉帽子であった(琉球新聞)。しかし、実際に帽子を編んでいる従事者にとっては、那覇にも1年に1度行けるかどうかという時代であったため、自分達が作った帽子が外国に輸出されているとは思いもよらなかった。
 

7 製品の受注と発注

下請人と請負人
 請負人とボーシクマーの間を取り持つ下請人として、「会社小」等と呼ばれる作業場所の提供をする人、ボーシアチミヤー(帽子集め屋)と呼ばれる帽子を回収する人がおり、また編んだ帽子を請負人へ取り次いでもらうため納める「取次所」等があった。
 下請人の仕事は帽子に等級をつけて値段を決め、買い取って請負人へ納品したり、原料の配布もした。また、帽子のサイズや色等の細かい注文を指定することもあったので「帽子監督」と呼ばれる人もいた。下請人は手数料として、帽子1つに付き5銭ほどの収入があった。
 那覇の親会社と契約を結ぶ請負人の仕事は、ゲンローを仕入れて下請人に渡し、受取った帽子を工場へ納めた。当時の読谷山には以下の請負人がいた。
・ニシデ、ニシダイ(嘉手納在)
・平安名(嘉手納在)
・クラントージーマ(嘉手納在)
・イリントーの当山(コザ在)
・銘苅(嘉手納在)
・仲本(字古堅在)
・新垣(嘉手納在)
・喜友名※※(字喜名在)→合名会社共三組の読谷山地区の請負人
・平安名※※(字比謝矼在)
 渡慶次には読谷山出身の平安名、銘苅、クラントーの3名が帽子商人として帽子を買い集めに来て、等級に沿った代金を支払っていた。
帽子会社・工場
 親会社と呼ばれる帽子会社は、ほとんどが那覇にあったが、読谷山に関する工場を以下に記す。
・読谷山帽子製造株式会社(読谷山間切楚辺):1906年(明治39)創立、1908年(明治41)解散
・岩城製帽所(那覇区泉崎):読谷山間切喜名村第五分工場 アダン葉帽子を製造
・合名会社共三組(那覇区松山町):読谷山喜名の喜友名※※さんが読谷山地区の請負人
・松村製帽組(那覇区):1916年(大正5)1月16日付の琉球新報に「製編させて居る範囲は沖縄一円といってよいが、泡瀬や読谷山や名護が多い」と掲載
・中頭郡帽子加工工場:比謝矼の平安名※※さんが読谷営業所の責任者
○ 製品の受注と納品
 
060381-製品の受注と納品
 

8 渡慶次での帽子生産

 
060381-読谷村の帽子編下請人等分布図 s
 
 読谷山では、銃後農村女子の労力利用奨励のため、ボーシクマー競技会なども行い、ボーシクマーが非常に盛んだった。その中でも、前頁の帽子編下請人等分布図にあるように、渡慶次は特に多くのボーシクマーがおり、1939年(昭和14)の競技会において当字出身の仲村渠※※(旧姓与那覇:西白堂(イリシロー))が3等に入賞している。
 
○帽子編み競技会の新聞記事
 1939年(昭和14)6月2日付、琉球新報で帽子編の競技会の記事*5から紹介する。
 
 帽子編の競技会/読谷山で盛況
 銃後農村婦女子の家庭副業並に余般労力利用奨励の目的で五月三十一日午前十時から読谷山村役場養蚕室に於て帽子編競技会を開催した。
 競技出場者は各字の技術優秀なる者一〜二名宛選抜出場せしめたが競技者は始めから終わりまで一生懸命競技に従事し午后六時盛会裏に終了した。
 採点は能率点五、技術点五を以つて入賞者を決定した。
 一等字長浜  山内※※
 二等字座喜味 當山※※
 同 字比謝矼 大城※※
 三等字上地  新城※※
 同 字波平  比嘉※※
 同 字渡慶次 与那覇※※
 
○渡慶次のボーシクマー屋
屋号 ヨミガナ 住所
牛当下庫理 ウシートーチャグイ 渡慶次
蔡和福地 サイワフクジ 渡慶次
牛玉城 ウシータマグスク 渡慶次
新屋前門 ミーヤーメージョー 渡慶次
マサ山内 マサーヤマチ 渡慶次
真志儀間小 マシージーマグヮー 渡慶次
前山内 メーヤマチ 渡慶次
三良花城 サンラーハナグシク 渡慶次
真苅比嘉 マカルヒジャ 渡慶次
前当下庫理 メートーチャグイ 渡慶次
西川上小 イリーカーカングヮー 渡慶次
三良前門 サンラーメージョー 渡慶次
蔡成福地 サイセイフクジ 渡慶次
牛池之畑 ウシーイチヌハタ 渡慶次
ミー小当下庫理 ミーグヮートーチャグイ 渡慶次
ナカミチ福地小 ナカミチフクジグヮー 渡慶次
 
 ほとんどの家庭が自給自足の生活を送っていた当時において、ボーシクマーは1週間に1度現金収入を得ることができる貴重な手段であった。当時学校に通いながらボーシクマーをした子ども達は、家計を助け、多くの帽子を仕上げた。帽子を編むことは一見魅力的な仕事であったが、夜通し起きて仕上げるなどの苦労もあった。学校に通いながらボーシクマーをしていた人の中には、収入で石鹸やクリーム等の購入のほか、文房具や学費に充てる人や和裁道具を買う人もいた。
 砂糖、泡盛に次ぐ生産量まで上り詰めた帽子製造も、日本が戦時体制に組み込まれていく中で次第に衰退していった。
 

〔参考資料〕

・『読谷村立歴史民俗資料館紀要 第28号』「読谷村におけるボーシクマー調査概要」
・読谷村立歴史民俗資料館 企画展資料 「読谷山のボーシクマーたち展」
・『読谷村史第二巻 資料編1 戦前新聞集成 上巻』読谷村役場
・『読谷村史第二巻 資料編1 戦前新聞集成 下巻』読谷村役場
・池原直樹著『沖縄植物 野外活用図鑑 第4巻 海辺の植物とシダ植物』1979年 新星図書出版
〔注〕
*1池原直樹著『沖縄植物 野外活用図鑑 第4巻 海辺の植物とシダ植物』1979年 新星図書出版
*2『読谷村史 第二巻 資料編1 戦前新聞集成上』p.286(1919年(明治42)4月6日 沖縄毎日新聞)
*3ボーシクマー歌(抜粋)
女 あたま小(グヮー)や造(チュク)て ぬちさぐや知らん かなし思里(ウミサトウ)に 習(ナラ)いぶさぬ サ、ミナウリサンセイ
男 てん止(トゥ)みてぃ呉(クィ)りば 我が妻(トゥジ)になゆみ
女 くみあぎて呉(クィ)てん 妻(トゥジ)やならん
男 サ、にんぐる小(グヮー)どすんな
女 天や我がたまし やまだきやうんじゅ 縁(イン)なりば里前(サトウメー) 二人(タイ)しくまや サ、ミナウリサンセイ
男 一本ばや押(ウ)すて 二本取(トゥ)てなぎて いちがくみあぎて 耳抜(ミミヌ)ちゅら サ 天小(ティングヮー) 胴小(ドォーグヮー) 縁小(エングヮー) 耳小(ミミグヮー)
男 ボーシクマー哀(アワ)り
女 くまんしが知ゆみ 勘定前(カンジョーメー)になりば さら夜明(ユア)かち サ さら夜明(ユア)かち
*4『読谷村立歴史民俗資料館紀要 第28号』「読谷村におけるボーシクマー調査概要」p.21参照
*5『読谷村史 第二巻 資料編1 戦前新聞集成下』p.267
 
 

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