続 渡慶次の歩み
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第6章 渡慶次の産業経済と基盤整備
第1節 土地改良事業
 (3)原状回復費
 「原状回復」とは、地主側にとっては自分の土地を元の状態に戻すことであると主張したが、国側は国の返還土地損失補償額査定基準に基づいて、一面の広大な土地と見なして機械を駆使した作業補償方式で算出された額を金銭で補償して原状回復費としたいと主張した。しかし、地主個々の土地は限られた小面積であり、一面の広大な土地と見なして機械を駆使した作業補償方式で算出された額では受け入れられないと地主側は反論した。
 このような基本的考え方の相違に対して、地主会では県の土地利用対策課、基地渉外課、土地調査事務局、県軍用地主等連合会の各関係者を招いて勉強会を開いた。そこでも補償問題についてはそれぞれの立場からいろいろな意見が出た。地主側は、地籍調査を先行して、筆毎のカードを作り被害状況調査の内容を記入して補償する方法が最も望ましいと主張した。しかし施設局は筆毎の補償調査は不可能であり、前述したような方法で補償額を算出し、地主代表に代理人委任をして補償金を支払うという主張を繰り返した。
 土地建物賃貸借契約書第15条には乙(国)が甲(地主)から原状回復費の請求があったときは、原状回復に要する費用は返還時の価格に基づき甲に補償することになっている。地主会では県の関係部局等の指導助言を受けて請求書を作成し、正式に代表者から那覇防衛施設局長宛に文書で復元補償費を請求しようとした。ところが請求額と施設局の補償額に差額が生じた時、問題がさらに複雑化することを懸念して、予め国に算定方法や補償額の提示を求め、次に述べる各項目毎にチェックして修正妥協する方法が賢明であるとの意見が出され、当初計画の防衛施設局長宛の請求文書は取り下げることにした。
 施設局によると、原状回復費(復元補償額)は、雑草繁茂地、ギンネム繁茂地、コーラル敷込地、コーラル採取跡地、表土剥取地、滅失地等形質別に区分され、農地の原形復旧の場合、穴、溝の埋戻し、被覆物の除去、客土、荒起し、砕土の順で積算されるという。例えば、コーラル敷込地の場合60p厚さのコーラルを除去し、60pの客土をすることになる。その土は多幸山から運搬することにすると、その距離は4qで算出される。こうした方法が施設局の基準であるとのことで、地主も譲歩しやむを得ず認めた。
 ところが、多幸山の土壌は酸性の赤土で客土には不適当であり、その上森林保護の制約もあって4q以内には土取場はないことが判明した。さらに60pの客土も転圧歩増を考慮して1mにすべきであると、双方の対応の主張が異なった。それから除去されたコーラルは発生材とみるべきとの施設局側の意見に、地主会は返還されたら土地の附属物で土地と一体であり、経済的取引価値があっても地主に帰属するのが立前であるとして、結局発生材扱いでなくその代り運搬距離を1qに設定して合意した。
 こうした合意の裏で、活躍した人物がいた。それは、当時の県職員サトウキビ栽培の専門官として勤務していた長浜の新垣※※であった。客土の厚みを当初40pと主張していた施設局職員に、客土はあればあるほどいいのだと、できるだけ土は深い方がいいのだと技術的な指導を行い、上記の条件で落ち着いたのであった。
 最後まで意見がかみ合わなかったのが波平からメースB基地に通ずる進入道路の件であった。この道路は海や畑への生活道路として地域の人々に長年なじまれているので当分そのままにして、近傍類似と同種同様な方法で補償せよと地主側は要請したが、施設局は譲らず、道路として使用するなら補償対象外で、その上敷設されたアスファルトの部分は国有財産であり撤去すると主張してきた。どうも無駄なように思えたが、国の制度なら致し方なく、アスファルト費用分を差し引いた形で補償に応じた。
 このように色々な問題点を克服しながらも合意に達した。施設局はこの補償金は昨年度からの繰越であり、2年にまたがる繰越はできないから早く受領するように促してきた。地主会も早く結着をつけて生産活動に結びつく跡地利用対策を講ずるのが今後の得策であると判断し、その補償金を受け取ることにしたが、次のような方法をとってもらった。
 補償金は会長が代理人で受領する事も有効であり、その時点で施設局側の業務は終了することになる。そうなると、施設局は法的責任がなくなるので、地主会が配分要領(基本的には畑であろうとコーラル敷地であろうと一律にするなど)を決定し、それによって施設局が個人個人の支払明細書を作成することを約束して受領することにした。
様々な課題、問題点を一つ一つ解決していく中で、1976年(昭和51)3月の年度末に入って大詰を迎え、全評議委員(地主会)と施設局との交渉が何回となく繰り返され、同年3月15日双方が和解条件を譲り合って妥結した。
 
 (4)事業採択と設立認可
 事業採択に至るまで次項のフローチャートの過程を経て、1978年(昭和53)4月1日にボーロポイント土地利用推進協議会が発足した。同事業は申請主義を原則とするために、1978年(昭和53)中には全地主の仮同意を取り付けることを役員会で決定した。
 村では沖縄の自然条件を生かした生産性の高い亜熱帯農業を確立し、活力ある農村社会を建設するために農業生産の基礎的条件整備、とりわけ土地改良事業を強力に推進しており、1976年(昭和51)に本村座喜味地区農村基盤総合整備事業が実施されて以来、返還軍用地跡の土地改良事業にむけて、役場の課設置条例の一部改正をして農地改良課を新設、具体的取組がなされた。推進協議会では村との連携を深めるとともに、県とのヒヤリングを数多くもって事業採択にこぎつけ、次の県指令(沖縄指令農第182号)の通り認可された。
 
060326-農業基盤事業説明会
農村基盤総合整備事業の説明会から
 
 (5)事業着手から竣工までの経過
 ※フローチャート
ボーロポイント南地区の軍用地返還
1974年(昭和49)8月15日
 ↓
地籍調査業務の開始
1976年(昭和51)7月27日(自)
1977年(昭和52)11月4日(至)
 ↓
ボーロポイント土地利用推進協議会発足
1978年(昭和53)4月1日
 ↓
西部連道土地改良区推進協議会に名称変更
1979年(昭和54)2月6日
 ↓
土地改良事業に向けての調査設計開始
1979年(昭和54)5月23日
 ↓
土地改良区設立認可申請書
1980年(昭和55)4月14日
 ↓
設立認可 沖縄県指令農第1430号
認可番号99号
1980年(昭和55)12月25日
 ↓
1980年度(昭和55)事業指令
(沖縄指令農第182号)
1981年(昭和56)2月20日
 ↓
調査・測量・設計・試験事業着手
1981年(昭和56)2月21日
 ↓
1990年(平成2)3月竣工
 
 (6)事業概要
1.総面積−89.8ha
2.地主数−464人
3.事業費−867,000千円
  純工事−747,000千円
  基幹農道−65,300千円
  区画整理−681,700千円
4.筆数−871筆(従前)
     493筆工事後(換地後)
5.負担率
  国−75% 県−12.5%
  村−8.75% 地主会−3.75%
6.事業量
  幹線農道工−L=2,127m
  整地工−A=77.8h
  排水路工−L=12,183m
  支線農道工−L=13,020m
 
 (7)工事を終えて
 464人の地主への換地配分が終了し、この日のための10年の歳月は、地主一人ひとりのために大きな役割を果し、あれこれ忙しい思いをした甲斐があった。返還まもない頃、年老いた地主等がくるま座になって戦前を回想し、「私共が健在のうちに元の畑に戻るだろうか」と想像をめぐらせ懐かしがっていたのが印象的で、そのうちの何人かは完成を見ないで他界した。
 今、ウフカーの上から一望できる90haの大地、そこではサトウキビの穂が揺れ、青々とした野菜畑とそれぞれ工夫をこらしたビニールハウスが立ち並び、直線に伸びる幹線道路と100mピッチの支線農道のコントラストが映える。野鳥がさえずり青い海を背景にした光景に戦争の痛みは取れ、かつてのボーロポイントの荒涼たる姿はすっかり消失し、平野が広がる。土地を愛し、自然の恵みを受けて農業一筋に生きてきた我々の先人達の、貧しくも心豊かな暮しに思いを馳(は)せ、再び西部連道の地に平和な情景が甦り、新しい歴史を刻んでいる。
 現場に集まった地主の一時利用地指定の土地を案内して、自分の土地を確認して満足顔で帰る人、家族ぐるみでサトウキビの刈入れをしている畑の中から、さりげなく声がかかり手を上げて合図する人もいる。芋掘りのおばあさんが手を休め、とりたての生の野菜をいっぱいくれた。また90歳の深いしわのおじいさんが「お蔭で道路もきれいになり、まだまだこのように頑張っているよ」と、相好を崩すほほえましい顔に思わず過去の苦労がふっとぶ。
 軍用地返還から土地改良事業の完工まで、それぞれに歳を重ねた役員、地主の脳裏をよぎる思い出と感激、よくぞここまでみんなの協力で頑張ってこられたものだと思う。
 沖縄の農業はサトウキビ買上価格の引き下げ、パインの輸入自由化等で厳しい状況におかれているが、前述のように土地改良事業を契機に、個性ある地域農業の拠点づくりに視点をおいて複合経営を進め、農家にうるおいとゆとりを与える魅力的な農業を展開していきたい。
 地主たちにとって土地改良事業は画期的な事だった。延々と伸びる幹線道路、果てしなく広がる大平野にかつての基地の面影は微塵もない。サトウキビをはじめ、作物の実りをなでるように風にゆられて背後の大海原へと波打つ姿は壮観そのものである。けれどもここに至るまでには多難な局面に逼迫したこともあった。それらを克服し微力を尽くして使命を果たした役員面々は完工報告に村長と同行して、県農水部長、同次長、農政課、耕地課、中部農林土木事務所、県土地改良事業団体連合会の各機関を訪ね、今日までの絶大な協力と支援に深く感謝を申し上げた。
 土改連の比嘉※専務理事は事業採択時、主管の耕地課長で、諸々の困難な問題が内包する中で適切な指導と問題解決の施策を展開する等積極的に取り組んでいただいた。そのお陰で採択後の工事は万端順調に進んだ。
 西部連道地区を取りまく環境は厳しく、苦難の連続であった。あの時代を共に生き、共に乗り越えた日々を思いつつ、多くの関係者に謝意を表したい。
 
 (8)大地悠遠
 記念碑と概要書
 1987年度(昭和62)の年度中途で1億円余の国庫債務負担行為分の補助金が追加交付され、補正予算を編成してそれに見合う事業費の計上と、工事雑費を補正して記念碑の建立と概要書「大地悠遠」を作成した。
 概要書には航空撮影した圃場全景、昔の風情を彷彿させる鳥瞰図、1945年(昭和20)のボーロポイント飛行場、1974年(昭和49)返還時の風景、そして年度別の事業概況が施工前、施工中、施工後に大別して写真にまとめられ、作業の過程が一目瞭然となっている。
 かつて雑草木が生い茂るわびしい光景がみるみるうちに整備され、雄大な生産の平野に変っていく圃場、西部連道に新しい農業の息吹きがもどり、生産体制の礎が出来上った。工期は10年の長い年月を要し、可酷な時代を乗り越え、苦難な歴史の爪跡を刻んだボーロポイント。このゆかりの地が未来永劫に豊穣平和な大地として発展することを願い「大地悠遠」の碑を1990年(平成2)3月20日に建立した。
 
◎[写真]本編参照
「大地悠遠」の碑
 
 (9)西部連道土地改良区役員
区分 氏名 字別 役職名
理事 安田※※ 渡慶次 理事長
山城※※ 換地委員長
与那覇※※ 会計担当
山内※※ 評価委員長
上地※※ 儀間 工事担当
町田※※  
新垣※※  
大城※※ 高志保  
大城※※  
比嘉※※  
比嘉※※ 波平 事務担当
比嘉※※  
比嘉※※  
監事 知花※※ 高志保  
上地※※ 波平  
 
 (10)西部連道土地改良区支部別組合
  組合員 面積 備考
波平支部 67人 102,384m2 村外1人
高志保支部 143人 256,159m2 村外13人
儀間支部 124人 187,525m2 村外37人
渡慶次支部 130人 228,636m2 村外20人
合計 464人 774,636m2 村外71人
 
 

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