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第3章 戦前・戦中・戦後体験記
第3節 渡慶次福祉いぶし銀会戦争体験談
5 山内※※(蔵根小(クラニーグヮー))
家族はみんな辺土名に先に行っていたが、私は若いから家にいておきなさいと父に言われ、家にいた。後で迎えにくるという相談ではあったが、戦が激しくなると、1日でも早く山原に来なさいということになり、瀬名波ガーから3月28日に向かった。2日がかりで辺土名まで行ったが、私が行ったことで家族は本当に喜んでいた。弟は足にけがをしていたので、行った翌日から私が背負って山を歩いた。弟はおんぶされていても足の痛みがあるので「えー姉さん、私はここに捨てて行きなさい」と言ったりしていた。食糧は馬車にたくさん積んでいったので食べものには困らなかったが、山の中を弟を背負いながら歩くというのは本当に大変なことだった。
儀間の※※と※※(前上門)と山で出会ったら、「えーなー戦よ、負きとーたんてーまん、勝っちぇーせーさんどー。手上げて行ちゅねーちゃーんねーんさー」と言われた。でも「あんたは若いから、行くときには、やーにんじゅ前(メー)になしやーま出(ン)じりよーや」と言われたので、私はその通りにした。
それで収容されて、惣慶に来た。うちのおばあちゃんは惣慶で亡くなった。
それからは自分1人で妹達の先頭に立っていろいろやらなくてはいけなくなった。
儀間の※※と※※(前上門)と山で出会ったら、「えーなー戦よ、負きとーたんてーまん、勝っちぇーせーさんどー。手上げて行ちゅねーちゃーんねーんさー」と言われた。でも「あんたは若いから、行くときには、やーにんじゅ前(メー)になしやーま出(ン)じりよーや」と言われたので、私はその通りにした。
それで収容されて、惣慶に来た。うちのおばあちゃんは惣慶で亡くなった。
それからは自分1人で妹達の先頭に立っていろいろやらなくてはいけなくなった。
6 山内※※(山内(ヤマチ))
十・十空襲の時、私は朝早く起きて芋掘りに行っていた。見たら、演習ではないねーと思って1人るまんぎて、畑から近かった宇座のがっこーじーの防空壕に逃げ込んだ。家族はもうみんな山内の壕に入っていた。あのときのことは絶対忘れられないね。
海を見たら、那覇から軍艦がつないでいるように見えた。やーにんじゅーすぐ荷物ん持ち、辺土名に行った。辺土名には1日もいないで、山の中に逃げた。連れていった馬もつぶして、足とあばらは売った。肉は乾燥させて、それを噛んで9人家族なんとか飢えをしのいだ。遠くの高江新川まで行って、そこで収容された。
父はフルマギーでがんじゅーだったので、そんなに苦労しないで、うっさぬやーにんじゅ助かった。みんな父のおかげだと思う。亡くなってからよけいにそう思う。
7 山城※※(池之畑(イチヌハタ))
主人は出征し、私の家は男手がなかったので、防空壕をどこに掘っていいのかも分からなかった。掘ろうとする場所は後勢頭の東側で、雨が降ると、そこに水が流れ込むと祖父から聞いていた。金細工の方にも尋ねてみると、水が流れ込むということはガマじゃないかとのことだった。隣近所や親戚に頼んで掘ってみると、やはり洞窟があり、10家族ぐらい収容できる広さの壕が完成した。
十・十空襲後は、国頭に避難するようにとの知らせがあった。私は壕があるので行かなくてもいいんじゃないかと思ったが、勧められて避難することにした。
80歳になる舅と姑が一緒に生活していたので「国頭に避難しようね」と誘ったが「あまんじん ゆぬむんどぅやる」と断られ、私は2歳になる子をおぶって先に行くことにした。
辺土名に着くと1日1回の配給しかなく、少しのお米で親子2人なんとか暮らしていた。しばらくして、瀬名波の宮城(ナーグシク)のおじが、おじいとおばあを連れてきた。おじも一緒に避難生活をするのかと思ったら、2人を預け、そら豆を1袋だけ置いて行ってしまった。私は不安が募った。それからすぐ、おじいは寝たきりになってしまい、持ってきた食糧を節約しながら食べさせた。それも底をつきそうになったので、芋掘りに出かけたが、その間も3人の安否が気が気でならなかった。
そのうち辺土名も敵が攻めてくるとの情報が流れ、山奥に避難するよう言われた。子どもをおんぶし、おじいに自分の腰の方を掴まえさせ、おばあも連れて山奥に向かった。
しばらくは山小屋での避難生活となるのだが、国頭現地の男の方々が山を下り、食糧を取りに行くという話を聞き「私も連れていって」と頼んだ。「やー女童(イナグワラビ)ぬ、行ったら帰って来れないんだよ」と言われた。それでも私は泣いてすがって、行くことになった。途中まで降りていったら、山の上の方から見知らぬおばあさんが「待って待って」と近寄ってきた。「あんた子どもいるか?」と聞かれたので「2歳の子どもと80歳になる親が2人います」と答えると「あんたもう帰りなさい、昨日も女が殺されているから」と言われた。男の方々も「やー言ちゃせー、なー帰れー」と強く促され、一緒に行けなかった。それで私はチーパッパー(つわぶき)を探して帰った。
私の実家の家族も山小屋に避難していたので、そこへ身を寄せることになった。しかし、そこも危ないからさらに山奥へ避難するように言われた。「この世は親も子もなーめーめーだから、私達を気にしないで逃げてください。私達は運命に任せます」と言って先に行かせた。年老いた舅と姑、幼い子どもと4人、ここでこのまま死んでしまうのかと思ってとても惨めな思いがした。
私達がいた所からはみんな避難したと思っていたが、近くの小屋に明かりが見えた。のぞいてみると、私の儀間のおじが1人でいた。突然の再会に驚き2人で抱き合って泣いた。おじさんは「みんな山奥へ行き私1人だよ。明日どうなるか分からないけど、今日生きているからいいさー。そこにお米が少しあるからおじい、おばあにもあげなさい」と言われ、それを炊いてあげた。
すると後日、おじと妹2人が迎えに来てくれた。言葉もなくただ泣き崩れるばかりであった。その日は大雨で、実家の家族が避難した壕に一緒に入ったが、そこはとても狭くて、全員は入りきれなかったので、私は体半分は雨に打たれながら一夜を過ごした。
翌日から実家の父が娘達にかまを1つずつ持たせて、私も一緒に芋を取りに行った。
そんなある日、避難民がまだ手を付けていない畑があるという情報を聞いた。その字の青年団で組織する夜警団が見回りをしているという話もあったが、飢えには勝てず、他の男の方々と一緒に連れていってもらうことにした。
そこには、話の通り夜警団がおり、畑に入ろうとしたところを見つかってしまった。みんな一目散に逃げたが、私は畑の畦に落ちてしまった。もうこれまでか、ここで死ぬのかと思うと残してきた3人のことが頭をよぎった。息を殺してじっとしていると、そのうちに彼らも立ち去り、私はフラフラになりながらもなんとか立ち上がり、山に向かった。
途中、人の話し声が聞こえた。夜道は避難小屋への方向も分からなくなるほど真っ暗なので、その声を頼りに行ってみようと思った。そしてその声の主に近づいてみると、私に年老いた両親を預けた宮城(ナーグシク)のおじだった。私は声も出せずただ泣いた。翌日お米を持ってくるというので居場所を教えた。
翌日約束通りお米は持ってきてくれた。しかしおじは米を置いて帰ろうとしたので「あなたの親だから、私達も連れて行って」と言い張りようやく一緒に行くことになった。
それからは持っていた着物とお米を交換しながら読谷の方向を目指して進んでいった。
私が食糧を探しに行っている間に宮城のおじと姑がケンカしてしまい、別行動になったが、名護から熱田まで来たところで米兵に捕まり収容された。捕まったら大変な目に合わされると思っていたのに、缶詰などの食料をたくさん持ってきてくれた。はじめは誰も手を付けなかったが、人を疑うことを知らないおじいさんが先に食べた。そこへ2世が来て毒も入っていないから安心するように言われ、みんな食べた。
それから石川の収容所に連れて行かれ、なんとか一命を取り留めた。