続 渡慶次の歩み
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第3章 戦前・戦中・戦後体験記

第3節 渡慶次福祉いぶし銀会戦争体験談

 
 戦後60周年にあたる2005年(平成17)6月23日の慰霊の日に向けて、渡慶次福祉いぶし銀会では、60年前の戦争で会員1人1人がどんな体験をしたのか語ってもらうことを企画した。
 
030193-体験談
 
 6月14日、28日の2回の活動日に語られた体験談の一部を以下要約し紹介する。
 

1 神谷※※(乗信神谷(ジョウシンカマ))

 
 私は戦前の国民学校高等科2年を3月に卒業して、4月からは志願兵として台湾に派遣された。沖縄戦の経験はないので、内容は分からなかった。
 1953年(昭和28)12月に復員してきて、読谷村で初めて遺族会を結成した。今次大戦で亡くなられた方のご家族に集まっていただいたが、読谷劇場の2階までいっぱいだった。日本本土からは徳永※※(元の衆議院議長、当時日本遺族会の事務局長)が来られ、各市町村をまわり、遺族会の立ち上げをしていた。読谷では、喜友名正謹村長が会長になり、副会長には遺族から渡慶次の儀間※※、宇座の新垣※※が推薦を受け結成された。翌年宇座の新垣※※が体調を崩したため、私が引き受けることとなった。
 伊波俊昭村長の時代に、多忙な村長職のため会合に参加することもできないので、遺族会の中から会長を出してくれ、ということになった。儀間※※が会長になり、私はそのまま副会長として続けることとなった。
 1988年(昭和63)から私は県遺族会の事務局長として6か年務めてきたが、橋本龍太郎厚生大臣が就任してすぐに厚生省から「国民の祝祭日、休日に関する法律の改正で沖縄の慰霊の日というのが廃止されるが、その心構えはあるか」と電話で聞かれた。初耳だと伝えると、「今国会で成立した場合は慰霊の日が無くなる」と告げられた。
 それから私は各市町村を回り、署名運動を行い、1週間で3万7千余りの署名を集めた。当時の西銘知事と県会議長に集めた署名を持って陳情に行った。するとそのまま厚生省まで行きなさいということになり、署名用紙を持って東京まで行くことになった。向こうでは厚生大臣や総理大臣と会い、交渉したら「長崎や広島の原爆の日も同じように制定しないといけない」と言われた。最悪の地上戦で沖縄は犠牲になったのだと主張し、陳情を行ってきた。
 1989年(平成元)の国会審議の中にその件も盛り込まれ、もんでもまれて、1990年(平成2)に制定に至った。しかしその内容は、6月23日は沖縄戦が終結したので慰霊の日とするが、国で定める公休日ではなく、県に一任するということであった。その通達をうけて、県に遺族会から陳情して、公務員と学校関係はこの日を休日にして慰霊の日と設定することとなった。これまでは公休日となっていたが、慰霊の日は沖縄県だけの休日となっている。それ以降、犠牲になった人々を弔い、恒久平和を願う日として慰霊の日が存続している。
 毎年、遺族会では、糸満の小学校から摩文仁の平和公園までの10kmの道のりを平和行進している。もともとは那覇の黒潮会館からのスタートだったが、遺族の方々も年を取られているので、現在は糸満小学校の校庭で大会を持って、そこから12時10分前までに摩文仁の会場に入るように平和行進を続けている。
 渡慶次からも、今年は、山内※※と新垣※※、新垣※※などが参加した。私は体調を崩してから行っていないが、向こうまで行けなくても字内の慰霊祭では生き残った皆さんが亡くなった人々を弔い、平和を願う意味でも多くの区民が参加されるように私からもお願い申し上げます。
 

2 山内※※(昌正山内(ショウセイヤマチ))

 
 私は沖縄戦当時、今帰仁にいた。家の近くには海軍の白石部隊という特攻部隊がいた。
 1人ずつが乗り込む時には「お母さんサヨナラ」といっているのが聞こえた。
 そのころは民間などから野菜を集めて持って行くなどしていたので、私も持って行ったことがあった。その時、どうせ死ぬからと言って、散々いじめられてきた上官の食事に悪さをしていたなどといったことを聞いた。私も上官が動物みたいに部下をパシパシ叩いているのも見たのでびっくりした。
 終戦後は名護にいたが、読谷出身の方がいっぱいいた。1番印象に残っているのは、神谷※※さんが巡査をしていた姿だった。大きな棒を持ってヘルメットをかぶり道に立っていた。あのときは、子どもたちが袋を持って(収容所の外へ)芋や野菜などを取りに行ったりしていた。他の巡査に見つかると捕まるけど、※※さんは「おじいが見ーらんうちに早く行けー行けー」と逃がしてくれた。この人はいい人だなと思った。
 私が読谷に嫁いできてから、この話をする機会があったが、どこでも優しくしていると印象に残るものだと思った。
 

3 儀間※※(西儀間小(イリジーマグヮー))

 
 私たちは山原に逃げるために馬車に荷物を積んで行った。新屋山内のおばあさんとも一緒だったが、川平(カービラ)(瀬名波)の方までくると、80歳あまりで寝たきりだったおばあさんは、「いったーや若さぐとぅ わんねーうまんかいうっち 早ーく逃ひんぎてぃ行けー」と言った。そうしたら私の親が「おばあを置いて行くくらいなら 山原には行かんけー」と言ってまた渡慶次に戻ってきた。戻ってきてからも新屋山内のおばあは「わんねーちゃーんならんさ。いったーや早ーく行けー」と言ったので、もう一度山原に行こうとしたが、結局は行けずにまた戻ってきた。そこからは私と母は防空壕に隠れていた。
 防空壕から食糧調達するために芋とかを取りに行った。そしたら照明弾が上がって、家にも艦砲射撃があった。壕から出ておばあにご飯をあげに行ったら、家は爆弾でやられていた。おばあは飛行機が行くのを見ていたようだった。台所も分からないほどやられていたけど、おばあは爆弾にも当たらず助かっていた。
 おばあは私達が壕から出て収容されてから3日で亡くなってしまったけど、おばあのおかげで私たちは山原に行かないで助かったんだと思う。
 

4 与那覇※※(加那大城(カナーウフグスク))

 
 私と姉の※※とその息子※※と3人で夜通し歩いて辺土名に疎開した。向こうで牛池之畑のおじいさんおばあさんと一緒に2〜3日は暮らした。私の父母(前当下庫理)も疎開してきたので、そこでいったん一緒に暮らした。
 父は辺土名のエーキ家(金持ちの家)で手伝いをするようになり、米やみそなどをもらってきたので食べ物に苦労はしなかった。父母と私と姉と※※は山の中で5人暮らした。
 それから山を下りていったけど、その時は前白堂(メーシロー)の※※も一緒で、屋号仲地というところで一緒に暮らした。
 一番印象に残っているのはマラリア。その時は病院もないので、毎日がたがたーして、私が治ったかと思えば父や姉が罹ってしまって、大変だった思い出がある。
 
 

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