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第3章 戦前・戦中・戦後体験記
第5節 儀間※※(松儀間(マチュージーマ))「兄からの葉書」
聞き手:福地※※
家族構成
1922年(大正11)、儀間※※・※※の三女として※※は誕生した。※※は※※のすぐ上の兄であり、儀間※※の二男である。兄弟姉妹は9名で、男5名、女4名である。
1922年(大正11)、儀間※※・※※の三女として※※は誕生した。※※は※※のすぐ上の兄であり、儀間※※の二男である。兄弟姉妹は9名で、男5名、女4名である。
兄※※について
※※は渡慶次尋常高等小学校の高等科を卒業して、17、8歳には、運転免許を取った。19歳の時京都に行き、大型タクシーの運転手をしていた。21歳になると徴兵検査を受けるため、沖縄に帰ってきた。
徴兵検査では、甲乙丙と各種決められ、甲種合格者は健康で優秀な人で、乙丙種での合格者も召集令状が届くとすぐに出征しなければならなかった。
兄も、召集令状が届くと、すぐに出征した。以前は日の丸の小旗などで見送りしてもらっていたが、兄が出征するときには、戦も激しくなり、大げさにはできなかった。どこに配属されるか等も軍事機密ということで、出征の日も嘉手納までしか見送りに行けなかった。嘉手納からは兄1人で軽便鉄道に乗って那覇まで行ったが、那覇から何時、どこに出るということも全て機密ということで家族にも知らされてなかった。
出征した儀間※※さん
兄は、運転免許を持っていたので、すぐ南方に派遣されたようだった。南方から「健康で働いているから安心してください」と便りが届いたこともあった。そこで私は、少し血をたらした日の丸の旗と千人針、それに写真をはさんで兄の元へ送ってあげた。兄は「千人針をいつも腹に巻いているから、心配するな」「国のため、私はもう戻るつもりはないから、父母や弟たちを頼む」などと手紙にしたためて送って来ることもあった。
特攻隊に志願した兄※※
兄が出征してしばらくしてから、家に陸軍の憲兵が父に話があるということで数人でやって来た。偉い人は馬に乗って来て、父以外の家族はみんな屋敷の外に出された。話の内容がもれないように、家の周りを憲兵が取り囲んでいたのを覚えている。後で聞かされたのだが、それは兄が特別な攻撃任務に志願し、出発するという話だったという。
兄※※からの最後の葉書
家に憲兵が来てから数日が経った頃、兄から葉書と写真が届いた。南方で負傷し、台湾の台南陸軍病院で療養中だが、再び南方へ向かうので家には帰れないという内容の最後の葉書だった。
葉書が届いてから半年も経たないうちに、戦死者の公報が届いた。それを見て、家族中が沈痛な気持ちになった。
米軍が沖縄本島に上陸したとき、私達家族は山原へ疎開(避難)はせず、渡慶次の地下の壕に入っていた。
届いた葉書の文面
米軍の呼びかけで壕から出され、金武に連れて行かれ、そこから宜野座に移った。宜野座から帰村が許され、ようやく読谷に帰ってきたが、母は、戦中も、兄が戦地へ向かう前に母に渡したマッチ箱を帯の中に大事にしまって持ち歩いていた。このマッチ箱は、出征前の兄が自分の爪や髪の毛を切って入れてあり、白い布で包んであった。
◎[写真]本編参照
弟※※へ宛てた葉書
他の家の戦死者には遺骨が届けられることもあったが、私の家には「戦死した」という通知しか来なかった。そこで、戦後、渡慶次に戻ってきて落ち着いてから、このマッチ箱を遺骨代わりにお墓に納めた。戦時中や戦後すぐはお葬式をしてあげることもできなかった。
兄の思い
兄※※から最後の葉書が届いたとき、長兄の※※がフィリピン、すぐ下の弟※※も佐世保に行っていたし、※※・※※は小さかったので、私がその葉書と写真を額縁の裏にしまっておいた。
戦中からの長い間、そのことを忘れていたが、今年の盆にふと思い出して、額の裏を1つ1つ探して見つけ出すことができた。葉書も写真もキレイに残っていた。葉書を読み返してみると、死を覚悟をした兄の気持ちや父母や家族への思いに胸が締め付けられるようで、涙が出てきて読めなかった。盆に出てきたこの葉書と写真は、まるで兄が生きていたこと、戦争のために死んでいったことを知って欲しいと訴えているようであった。