続 渡慶次の歩み
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第3章 戦前・戦中・戦後体験記

第4節 「玉城憲次メモ」に見る山原避難の様子

 
 1945年(昭和20)より始まる国頭への疎開(避難)の状況や収容所での渡慶次出身者に関するメモが見つかった。これは、1944年(昭和19)度の区長玉城憲次が記したものである。箇条書きされた内容に憲次の長男である玉城※※が説明文を付けた。
 1945年(昭和20)2月末、渡慶次から国頭村桃原へ最初の集団疎開者として、9家族が15台の荷馬車に生活必需品を積んで移動した。桃原までは片道約24時間かかり、荷馬車賃は20円であった。
 
〔疎開者および荷馬車の割当〕
疎開者 荷馬車担当
加那玉城 東勢頭
巡査ヌ屋 金細工
西勢頭 西勢頭
蒲白堂小
加那当下庫理 松前当小
神谷
盛島 盛島
牛池之畑 牛呉屋
西門
前之川上 前之川上
マサ池之畑
徳元
蔵根 蔵根
不動小
栄郎徳嶺 三良花城
 
030200-残されたメモ帳
残されたメモ帳が貴重な記録となった
 
 途中、羽地初等学校に宿泊し、地元の有志からおにぎりが配られた。
 同年4月15日、国頭村桃原の山中で、その後の疎開者も含めて、荷馬車賃を玉城憲次が以下のように立て替え払いした。
 
屋号 台数 代金(円.銭)
武太徳嶺 2台 40.00
マサ池之畑 2台 40.00
マサ当下庫理 2台 40.00
西門 2台 40.00
東勢頭 1台 20.00
 
 3月になると山原でも空襲が激しくなり、4月の初旬、米軍上陸の報を受け、国頭村字桃原の山中への避難を余儀なくされた。山中では、玉城憲次が桃原の山城区長と相談し、避難民用として事務所に保管されていたお米を譲り受けることとなった。夜間、お米運びには渡慶次出身の大人全員が参加した。昼間は米軍車両が頻繁に通る道路(現在の国道58号)を越えていかなければならず、決死の覚悟が必要であった。運び上げられたお米は玉城区長指示のもと、平等に配られた。
 どの家庭でも配給された米を戦争長期化の備えとして大切に保存していた。幼児へのお粥や病人食として非常時のみ利用し、日常の生活は毎夜畑で探してくる芋や食べられる草、茎類などがほとんどであった。家庭によっては、下山して収容所に行くまでこの米を大切に持っていたというところもある。
 
〔国頭村の山中での米の配給〕
屋号 家族数 麻袋 米代金(円.銭)
後城間小 4 1 12.20
マサ川上 2 1 6.10
新屋仲宗根 6 1 18.30
西勢頭 8 1 24.40
西門 4 1 12.20
牛池之畑 8 2 24.40
蔵根 7 1 19.35
宜保 4 1 12.20
武太徳嶺 6 1 18.30
マカル比嘉 5 1 15.25
当下庫理 7 1 19.35
加那当下庫理 10 1 30.50
後当下庫理 5   15.25
宮里 2   6.10
加那玉城 9   27.45
 
屋号 家族数 麻袋 米代金(円.銭)
東勢頭 7   19.35
新屋儀間 7   19.35
万久白堂 2   6.10
松前当小 7   19.35
マサ池之畑 10   30.50
前之川上 14 1 38.70
盛島 11 1 33.55
玉城小 3   9.15
新屋当下庫理 7 1 19.35
栄郎徳嶺 5   15.25
金城 2   6.10
伊保 7 1 19.35
栄昌大嶺 2 1 6.10
マサ当下庫理 12 1 36.60
 
1升当たりの米代金は61銭、人員173名、合計576.15(うち36円は麻袋代、米540.15)。
(注:家族数7、14のところに数字の誤りがあるが、メモを尊重してそのとおり掲載した。)
 
下山して難民収容所へ
 山中へ避難していた人々は、戦況の悪化や食糧難のため、申し合わせて一斉に山を下り投降した。
 下山して間もない頃の国頭村字桃原に収容されていた人々は次の通りである。
戸主名 人数 戸主名 人数
玉城※※ 8 川上※※ 6
玉城※※ 9 玉城※※ 7
山城※※ 8 与那覇※※ 5
棚原※※ 6 国吉※※ 5
棚原※※ 6 国吉※※ 4
玉城※※ 6  
(儀間出身者)
玉城※※ 7
玉城※※ 12 戸主名 人数
安田※※ 14 玉城※※ 6
福地※※ 4 玉城※※ 5
儀間※※ 7 山内※※ 5
盛島※※ 5 山内※※ 5
与那覇※※ 5 山内※※ 6
玉城※※ 5 山城※※ 5
山内※※ 8 山城※※ 10
玉城※※ 5 大嶺※※ 12
 
〔字別人数〕
人数
渡慶次 142
儀間 54
宇座 11
喜名 6
大木 7
楚辺 5
古堅 8
合計 233
 
030200-収容所_円グラフ
 
桃原に収容されていた字渡慶次以外の読谷村出身者の人数の記録もある。
 国頭では、米軍からの食糧品の配給がほとんど無く、食べるものがないので、避難民は次々と自分の生まれ故郷に近い方へと移動し、残っている者はわずかだった。渡慶次出身者も話し合って移動をすることになった。
 11月20日、収容所移動を前に、避難民として大変お世話になったお礼として、字桃原の役員へ魚とたこ18斤半、270円分を贈った。
 前当下庫理、牛池之畑、加那玉城、東勢頭、西門、後当下庫理、マサ川上、新屋国吉、西与久田が1世帯あたり30円を出し合って購入。
 12月、字桃原の役員の計らいで、美里村出身者と偽り、不法手続きで食糧運搬用トラックに乗り込み、石川市へ移動した。そこでは、米軍からの食糧品の配給も豊富で、食べ物の面では楽になった。
 
 

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