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第3章 戦前・戦中・戦後体験記
第6節 一枚の写真が語る戦中戦後
一枚の写真が多くを語ることはよくあることである。この写真の裏には次のような記載がある。
「昭和17年9月15日/軍需用供出干甘藷/荷造り現況/農事実行組合長/玉城※※」
後ろの建物は、戦災で焼失してしまう前の渡慶次の字事務所であり、それだけでも貴重な写真である。字事務所の屋根の一部には「渡慶次実行組合共同販売店」の看板もある。
この写真は裏書きの通り、多くの区民が切り干しイモを軍への供出用に持ち寄り、荷造りしている様子である。まさに戦時下に入ろうとする渡慶次の現実を映し出していて貴重である。
この写真はどうして現存するのか、その数奇な運命を提供者である新垣※※(儀間、タケーシ小)から聞いた。
当時熊本に在住していた玉城※※(新屋玉城(ミーヤータマグスク))が熊本第六師団に入隊し、1940年(昭和15)12月に中国戦線へ派遣されることになった。中国にいる※※に古里渡慶次の様子をどうにか伝えようと、親戚の者がこの写真を誰からか手に入れ手紙とともに中国の※※のもとへ送った。※※が写真を手にしたのは1942年(昭和17)の暮れ頃のことであったという。
その後、※※は、戦闘でケガをして月日は不明だが1945年(昭和20)に本国送りとなった。最初に広島の病院に入院した。その後、元々熊本の第六師団所属であったことから熊本の病院で治療することが決まり、広島を出たのが7月の末であった。「あと10日も広島にいたら、私も原爆で死んでいた」と※※はよく口にしていたという。
熊本での医師の懸命な治療と看護婦の優しい手当のおかげで、彼は元気を取り戻した。熊本の病院で彼の看護にあたっていたのが、後に※※の妻となる女性であった。沖縄は「玉砕」したと聞いていたので、彼女の元に婿入りし、松尾姓を名乗った。時が過ぎ、次第に状況が伝わると、沖縄へも行き来するようになるが、彼は沖縄に帰ることはなく一生を熊本で過ごした。
その間に、この写真は自分が持っているより、沖縄にいる弟の玉城※※に託そうと彼は思うようになった。そして伊良皆に住む弟へ送った。その後、玉城※※の近くに住み、親戚でもある新垣※※に託された。
渡慶次で新たな字誌を作ろうという動きがあることを知った新垣※※は字の役員をしていた玉城※※に写真を提供した。10年ほど前のことであった。
字誌編集への動きはそのころまだ具体化しておらず、玉城※※は公民館で保管しているとどこに行ってしまうかわからなくなるので、写真撮影当時の農事実行組合長玉城※※の息子、玉城※※にこの写真を手渡し、保管してもらうことにした。
この写真は、1942年(昭和17)に撮影され、中国戦線へ送られ、持ち主がケガをしたことで本国に戻り、原爆が落とされる直前に広島から熊本へ逃れ、持ち主が沖縄と熊本を行き来する間に、弟に託され、写真に写った玉城※※が縁で玉城※※家で大切に保管され、今回の字誌編集を機会に、私たちが目にすることができるようになった。
もし中国戦線でこれを受け取った彼が死んでしまっていたら、広島で原爆に遭っていたら、そして彼自身が、この写真は沖縄にあったほうがいいと思わなければ、その存在すら私たちは知ることはなかった。希有な運命を背負った写真であると思うと同時に、戦後60年余の時の流れを感じさせる1枚である。