続 渡慶次の歩み > 第3章 戦前・戦中・戦後体験記 > 第1節 私の戦前・戦中・戦後体験記
第3章 戦前・戦中・戦後体験記
第1節 私の戦前・戦中・戦後体験記
はじめに
2004年(平成16)8月10日〜12日、沖縄国際大学総合文化学部社会文化学科・南島歴史学ゼミ(担当教員:吉浜※※、ゼミ長:伊波※※)の学生によって渡慶次の住民への調査が行われた。内容は主に沖縄戦前後の状況の聞き取りで、渡慶次区の約20人の方々が話者として本調査に関わった。
3日間に及ぶ調査1日目は、字誌編集委員長である山城幸雄が渡慶次区の歴史を講義し、その後公民館周辺の拝所や御嶽、遺跡などを案内し、午後からはグループに分かれて個人への聞き取り調査が実施された。
学生たちに説明する山城幸雄さん
学生が準備した質問事項をもとに、1人につき約1時間半の聞き取りが行われ、その後の調査や研究の成果を、2005年(平成17)3月31日に『シマの歴史第3号−読谷村字渡慶次の実習調査報告書−』として発刊した。
その報告書をもとに、編集者の許可を得て各人の証言を紹介する。掲載にあたっては、可能な限り原文を生かすように努めたが、一部修正加筆した部分もある。
公民館ホール内での分かれての聞き取り調査
3日間に及ぶ調査1日目は、字誌編集委員長である山城幸雄が渡慶次区の歴史を講義し、その後公民館周辺の拝所や御嶽、遺跡などを案内し、午後からはグループに分かれて個人への聞き取り調査が実施された。
学生たちに説明する山城幸雄さん
学生が準備した質問事項をもとに、1人につき約1時間半の聞き取りが行われ、その後の調査や研究の成果を、2005年(平成17)3月31日に『シマの歴史第3号−読谷村字渡慶次の実習調査報告書−』として発刊した。
その報告書をもとに、編集者の許可を得て各人の証言を紹介する。掲載にあたっては、可能な限り原文を生かすように努めたが、一部修正加筆した部分もある。
公民館ホール内での分かれての聞き取り調査
1 軍作業と「戦果」の時代
話者 新垣※※
1930年(昭和5)生
恐れ多い天皇陛下渡慶次小学校に通った。入学したときは尋常高等小学校だったが、3年生のときに国民学校になった。1学級35名ぐらいで1学年4学級だから、高等2年まで合わせて生徒は1千名ぐらいいた。
その頃には、天皇陛下という言葉を聞くだけでも恐れ多いということで、頭を下げる。そういう教育しか受けていない。学校の東側には、天皇陛下の御真影と教育勅語がきれいな箱に入れて収めてある奉安殿というのがあった。それを天長節、明治節などの時に校長先生がそこからうやうやしく取り出し、教育勅語を読み上げるが、読みあげている間は頭を上げてはいけないという先生方の教えに素直に従ってちゃんと守っていた。
字渡慶次には戦争で亡くなった人を祀った忠魂碑がある。それを最初に造ったのが僕らの父親たちではなかったかと思う。よく覚えてはいないが、小学校時代に武運長久を祈るような催しに1、2回行ったことがある。
家の手伝いが日課
兄弟姉妹は10名いたが今は7名しかいない。僕は6番目になる。一番上が今年88歳だから、僕と13歳離れている。下にもいるさ。戦前は「産めよ増やせよ」の時代。産まないと戦争もできないから、たくさん産みなさいということで、どこの家でも5、6名は普通だった。10名以上産んだ人は県からの表彰もあった。だから渡慶次小学校も児童が多かった。父は農業をし、さとうきびや芋を作っていた。兄弟姉妹が10名もいるもんだから、両親と共に一緒に働いた。このあたりの集落ではほとんどが農業をやっていた。
私はちょうど7歳のときに養子に行ったが、そこはおじいさんとおばあさんしかいなかった。学校では方言は使っていけなかったけど、そこのおじいさん、おばあさんは昔の方言しか分からないから、家では方言を使ったさ。
小学校時代の僕の日課は、朝は家事や風呂に使う水を共同井戸から汲んできたり、学校から帰ったら飼っていた家畜の草を刈りに行ったりしていた。ほとんどの人がそういう手伝いをしていた。そうしないと食べるものもない、自給自足の生活だったから。小学校時代には、雨が降ると学校も途中から休みになったりしたさ、農業の手伝いをしなさいって。
遊びは鬼ごっこ、ベースボールとか。実家のうしろの広場や道が遊び場になった。今みたいに車とか危険なものはないからね。隣近所の子供たちと一緒に5時ぐらいから1時間ぐらい遊んだ。それから家に帰ってまた手伝いしたさ。
昔は小遣いというのはなかったが、正月にお年玉はもらえた。でもこれも親にあげるわけ。だけど二十日正月(ハチカショーグァチ)はもらったお年玉のうちいくらかを親からもらって、友達同士でお金を出し合って素麺(そうめん)をゆでて食べた。小遣いに余裕があったら鯖の缶詰も入ったものになった。当時はソーミンイリチャーが一番のご馳走だったから、食べることができたのは年に1、2回で、親が家畜を売ったときと模合のときぐらいであった。
むかし読谷の風景とそばの思い出
戦前は見渡す限り、畑も青々として、集落や御願所、松林もあちこちにあって、残波岬や座喜味城趾の辺りも大きな松林があった。でも戦争のために伐採されたりして無くなってしまった。今は土地改良でだいぶ違う風景になってしまったが、昔の渡慶次の風景は、もう素晴らしいものだった。
屋敷にはフクギを植えてあった。僕の家にも5、6本ぐらいあったよ。フクギは年数が経ってくると家を立てる材木にもなったし、木の皮も織物などに使えた。絹糸の染料にするわけさ。黄色にくすんで、上等の作品になるのもあったよ。
比謝矼辺りに行くと、店も並んで賑やかだった。嘉手納には軽便鉄道の駅もあったし、そば屋もあった。だが、普段口に出来るようなものではなかった。小学校のときに、古堅小学校の運動会を友達7、8名で見に行ったわけね。親が「5銭はお菓子代、残りは客馬車で帰ってきなさい」といって10銭持たした。で、行ったらそば屋があったわけ。それで僕らは客馬車には乗らないでそばを食べることにしたわけ。歩いて帰ったら夜の10時ぐらいになっているさ、客馬車には乗って帰ってこないから、親たちも心配して集まっていて、「そば食べてきた」と言ったら叱られたさ。当時はそのくらいそばは珍しいものだった。
「もう戦争だな」
日本軍の手伝いはたくさんやった。昭和19年ぐらいには飛行場の建設にも関わった。高等1年ぐらいになってからは、戦車壕という戦車の落とし穴のようなものを造った。そのうしろに丸い塹壕(ざんごう)(たこつぼ)を掘って、そこで隠れておいて、戦車が戦車壕で立ち往生しているあいだに竹やりを持って敵をやっつけるという説明だった。あと、掩体壕や交通壕というのを造る手伝いをした。だがこれも使えなかったよ。
昭和19年の十・十空襲の前までは学校に行っていたけど、その後からは校舎が球部隊の宿舎に使われてしまったので、それからは学校に入ったこともない。僕らは野原とかサーターヤー(製糖小屋)に行って勉強した。
十・十空襲のことだけど、よく覚えているよ。空襲が始まったとき、最初のうちは何もわからなかった。担任の先生が家の前を通っていたので聞いたら「友軍が演習しているんじゃないか」という。「学校(授業)あるんですか?」と聞いたら「当たり前だよ」というので、学校に行ったら、校門前で「お家に帰りなさい」と言われて帰された。そのときに戦争というのが初めて分かった。ここはやられなかったけど、飛行場がやられた。宇座の人だけど、小学校卒業して飛行場建設に行って、爆風にやられて亡くなっている人がいるさ。僕らもそのことは忘れられない。
それからはしょっちゅう(よく)B−29爆撃機が偵察に来たり、戦闘機が機銃掃射やったりするもんだから、「戦争だなあ」ということを実感し始めたわけ。渡慶次集落の地下にはいくつもの大小の鍾乳洞があって、そこを儀間と渡慶次の人たちの防空壕にしたわけ。仲川上小(ナカカーカングヮー)というところの敷地にも入口があって、山原避難に行かなかったうちのちかくの人は皆そこに入ったわけ。空襲のときもそこに逃げたさ。
山の中の「戦争」
昭和20年の3月25日に避難命令が下って、渡慶次の壕から出て国頭に避難するように言われた。行かない人もいたが、僕らはもう行かないといけないということで、家族で国頭に避難した。
国頭へ行くときも、読谷の沖から那覇方面まで、真っ黒い米軍の軍艦がいっぱいしているように見えたね。途中、兵隊に聞いたら「日本の連合艦隊が支援で来ている」と言うから、本当と思ってウートートーして通ったよ。艦砲射撃が来ても怖いと思わなかった。艦砲射撃は昼夜やっていたよ。グラマン戦闘機も飛び回っていたけど、あれも「日本の連合艦隊」としか言わなかった。
それで夜通し歩きとおして、明くる日の晩10時ぐらいに国頭村の辺土名に着いた。着いた晩は人の家に泊まったけれども、次の日からは山奥に逃げなさいということで、それからは辺土名の山奥での生活さ。
先に疎開していた人は山の中に避難小屋を造ってあったけど、僕らにはそんなのはないから、雨が防げる程度のものを造った。それからはその日暮らし。3、4日過ごしたら移動、というのを繰り返して、そのうち安波という部落に出た。後で知ったことだが、その頃にはみんな捕虜になっていい暮らししているんだけど、僕の母は「捕虜はいつか殺されるんだ、長男も兵隊で頑張っているんだから、捕虜にはならない」と、非常に頑固でね、宜野座村の古知屋というところまで来たんだが、また山に戻っていったわけ。でも山の中は食べるのは何もないから栄養失調になるわけさ。それで母が、死ぬときに着るといって一人一人持たしていた新しい服を、古知屋の人と芋と交換してきて炊いて食べた。
その後、「みんなが死ぬんだったら一緒に死んでもいいじゃないか、生きられるだけは生きておこう」と親戚の人が母を説得して、やっと山から降りられたわけ。捕虜になってすぐにおにぎりと味噌汁を与えられて、それを口にして「生きているんだな」ということを感じたのを覚えている。忘れもしない8月13日だった。2日後に日本は降伏したわけ。
学校よりも「戦果」と軍作業
それからは食べ物は十分にあった。家族の人数分配給があるわけ。特に宜野座には米軍の司令部があったから、別の収容所より豊富にあったんじゃないかと思う。他の人の話を聞いたらこっちは何も無かった、あっちも無かったという話だからね。
僕は16歳になっていたから、軍作業の仕事が当たったわけ。それで一日一枚の食券もらうわけ。元々一人一枚の食券はあるから、働いたら二人分の配給があることになるわけさ。僕の家族はみんな働いていたから、みんな二人分の配給があった。配給には缶詰、米、乾燥じゃがいもなどがあった。仕事は住宅、学校、役所とかの建物を建てることだった。屋根に葺く茅を集めたり、木材を切ったり。僕らはただ食券一枚もらうがために喜んで一生懸命仕事をしたわけよ。
宜野座の収容所には1年ぐらいいた。その頃に遊びがてらに渡慶次に来たわけ。そこには米軍の飛行場(読谷飛行場とボーロー飛行場)があったから、食料や物資がいっぱいあって、その食料を求めてたくさんの人が来ていたよ。あの頃は食べるのも着るのも無いから、食糧や衣服とか、必要品はみんな「戦果」といって取りに行った。
戦果というのは今で言う泥棒、当時は働いても給料は少ない、子供たちを学校に行かせるにもお金が無い、畑を耕すにも土地が無いもんだから、戦果を挙げて物々交換して必要品を得たり、教育費にしたり、家を建てる人もいた。今では想像できない話だけど、そうしなければ生活できなかった。「盗んできた」という人はいない。「戦果挙げてきた」という。それが流行語のようになっていた。戦果、戦果だったね。
それで僕も渡慶次と宜野座を通っていたわけ。でもあの頃は自由に行き来できなかった。巡査に見つかると捕まってしまうから、車が来たりすると隠れたりして通っていたわけさ。そうしているうちに「あんたのおばあさん石川にいるよ」というのを聞いたわけ。宜野座には帰らないですぐ石川に行ったよ。芋を担いで。
僕はそれから石川でおばあさんと生活していたんだが、ちょうど僕らの年代は「石川ハイスクール」に入学するように言われていた。僕のところにも区長さんが「あんたは義務教育を終えていないから、学校に出てきなさい。働かなくても食べられるように救済してあげるから」といって毎日のように来ていたよ。でもおばあさんがいるから配給や救済だけでは足りない。その後にできた「石川実業高等学校」に1、2か月ぐらい通ったこともあるが、結局軍作業に行った。高校卒業した人もたくさんいたけど、僕は勉強が嫌いだったし、軍作業に行ったり、戦果挙げに行ったら自分の好きなものを食べたり自由にできるさ。これで僕は逃げていたわけ。
石川から次は高志保に移って3年ぐらい住んでいた。高志保に住んでいたら戦果も挙げられる。それで茅葺の家も作ったよ。だけどこっちも立ち退きになってしまって、今度は比謝矼に移った。移る前におばあさんは亡くなったけど、トートーメーもあるし、結婚して新しく家も造った。それから50年余り、現在に至るわけ。
軍雇用員として
戦後はずっと軍で働いた。若いときはエンジニアとか、クラブの炊事とかいろいろやった。
僕は給料がよかった。40年前の話だが、トリイステーションで働いていたときには1か月50ドルもらった。1ドルでこっちから那覇まで行ってご飯食べてお土産まで買って帰れる時代、親の助けなしで子どもも育てられたし、家も建てた。僕の場合は経験があるということで、そこのマネージャーと相談して給料を高めにしてもらったわけ。軍作業のベテランだということで送り迎えもついた。だから運転免許は持っていない。
軍でアメリカ人を相手するときは英語さ。僕らには英語手当てというのが付いたわけ。1日4時間ぐらいの英語の講習を一週間受けて、テストに合格したら手当てが付く。僕は会話もできていたし、タイプも打っていたから講習に出なくても大丈夫だった。軍では仕事に使う英語だけ分かればいい。この品物が何であるか分かればいいわけさ。でも僕らは会話で覚えているから、一般的なものしか分からない。字を見ても分からないし、普通の会話も分からない。
米軍とのトラブルというのは、直接の関わりは無いけど、そういう話はたくさんある。上地にあった監視小屋が軍用車両から銃撃されて、巡査一人が亡くなったり、でも僕らは軍作業出ているから、トラブルというのはなるべく避けるようにしていた。生活がかかっているから、軍にもいいように見せないと。でも労働組合をバックにつけていた。
地域活動へのとりくみ
地域活動へは最初のうちは関わらなかった。だけど選挙で大湾の区長に選ばれてしまった。「僕は渡慶次の人だから大湾のことは分からない」と断ったんだが、選挙だから1期だけということでやったわけ。ところが1期では区長の職責を充分果たせなかったから結局3年することになった。
ある年、97歳のカジマヤー祝を字行事として予算も組んでやることになった。ところが、大湾ではその経験が無かったからどうやってやったらいいかと悩んでね。それで渡慶次、宇座、喜名、あちこち調べに行ったわけ。渡慶次のサンシンヒチャー(三線弾き)に歌を歌ってもらったのを録音して、婦人会、老人会、青年会で約80名集まって道ジュネーの踊りの振り付けもして、衣装もそろえて盛大にお祝いしたわけ。それが評判を呼んで、区長を3年もやることになったんだと思う。旧盆と敬老の日、生年祝いも40年続けているし、エイサーや御嶽への御願もやっている。
55歳のとき初めてこういうものに関わって、もう20年になるけど、たくさんの人と付き合って非常に勉強になったと思っている。これは大学に行ってもおそらくこれだけの勉強はできなかっただろうと思う。だから今まで部落の行事でも役員でも率先してやってきた。
一生忘れない
いままでの半生を振り返って、やっぱり去った戦争のことは忘れないでしょうね。今はこうしてみんなと話ができて平和な時代ではあるんだけども、僕らにとっては夢のようで、あのことは一生忘れない。
近所の人たちや、学校時代に鬼ごっこしたりして一緒に遊んだ先輩方もたくさん亡くなった。だからあの人たちのことを考えると、いくらどういうことがあっても戦争はさせてはいけない、やってはいけない。このことは後輩方や特に若い皆さんには肝に銘じていただきたいと思う。