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第3章 戦前・戦中・戦後体験記
第2節 『島クトゥバで語る戦世』体験談
1992年(平成4)に発刊された楚辺誌の戦争編編集に関わった数人が中心となり「琉球弧を記録する会」が設立された。同会の活動は「琉球弧の失われつつある言語文化(方言)を沖縄戦の証言・琉球弧の祭祀・民話・民俗・風景等から捉え、音声と映像で記録する」ことを目的としており、渡慶次からも数人がその聞き取り調査の対象となり、沖縄戦前後の体験を島クトゥバ(ウチナーグチ)で語った。音声や映像の記録をもとに、数人の証言を翻字・対訳し、2003年(平成15)、『島クトゥバで語る戦世−100人の記録−War Stories Told in Sima Kutuba ナナムイ・神歌 NANAMUI KAMIUTA』が発刊された。
その中から、琉球弧を記録する会の許可を得て字渡慶次の出身者3名分を掲載することとした。
『島クトゥバで語る戦世』の渡慶次での撮影風景
掲載にあたっては、可能な限り原文を生かすように努めたが、一部修正加筆した部分もある。さらに、同会では同書発刊後も聞き取り調査を継続しており、2005年(平成17)にも、渡慶次での聞き取り調査及び音声・映像の記録が行われた。調査者として渡慶次字誌編集委員の玉城※※、山城※※が参加し、また話者として10名余が協力した。その中から3名分を翻字、要約したものを掲載する。
1 山城※※(池之畑小(イチヌハタグヮー))
1902年(明治35)生
出(ン)じてぃからー直(ス)ぐ桃原かい、彼処(アマ)からいふぃぐゎーゆーるさぐとぅ、戦来(チュー)んどーさぐとぅ山ん中(ミー)んかい上がてぃ。あんすぐとう桃原んかいあぬー空襲やあたぐとう、其処(ンマ)ぬ前(メー)んかい、桃原ぬ前(メー)んかい芋(ンム)くじーが行(ン)じ、彼処(アマ)から見(ミー)らりーねーバンナイさってぃ、私達(ワッタ)ぁ※※達(タ)ぁ妻(トゥジ)や死亡(マー)そーさ。あぬーなー、けー亡(マー)そーさ、空襲さってぃ。残(ヌク)いシンカー怪我さっとーし、うりそーしが、うれーあんさーにあぬー逃(ヒ)んぎーばーくーし、怪我そーしん居(ウ)たん。なー今(ナマ)いーねー私達(ワッタ)ぁ※※妻(トゥジ)ぇ直ぐさりやーに、其処(ンマ)んかいちゃー亡(マー)しーさぐとう。うぬしんかぬなー来(クー)んなたぐとう、死じょーんどーさぐとぅ、うぬ桃原ぬ山ぬ中んかい埋みてぃ。戦後なてぃから、高保志んかい来(チ)っからどぅ、遺骨ん取(トゥ)ってい来(チ)、墓んかいや入ったん、私達(ワッタ)ぁ※※妻(トゥジ)ぇ。
あんさーに、女(イナグ)ん子(グヮ)ぐゎーん1人連(チュイソー)とーしが、なータンカー、祖父母(ファーフジ)ん達(チャー)がる預(アジ)かとーぐとぅ、うりん桃原うてぃ亡(マー)しみてぃよ。今(ナマ)、うったん親子其処(ウヤックヮウマ)(忠魂碑)んかい載(ヌ)とーんどー。
〔訳〕
(壕から)出て直ぐに桃原に避難に(避難し)、そこに着いてしばらくして戦が寄せて来るというので、山の中に避難して行った。
桃原にいる時にも空襲を受け、芋を掘りに行って見つけられたら直ぐバンナイ攻撃され、私弟の新垣※※の妻はそこで亡くなってしまった。空襲で亡くなってしまった。残りの人達は怪我をしたのもいて、逃げようとして怪我をした人もいた。(しかし)※※の妻はそこで亡くなってしまった。他の人達が帰って来て、(※※の妻は)亡くなったという話を聞いて、桃原の山の中に葬りに行った。(だから)戦後、高志保に移動してから遺骨を取って来て墓に入れたんだよ、※※の妻は。
そうして(残された)1歳の娘は祖父母が預かっていたが、その子も桃原で亡くしてしまった。今では親子共々、そこの慰霊の塔(忠魂碑)に刻銘されているよ。
2 新垣※※(新屋花城(ミーヤーハナグスク))
1905年(明治38)生
聞き手:村山※※
新垣:下(シチャ)ぬ壕んかい入ちょーてい、オトーがる物(ムノ)ぉすがてぃ食(カ)まちえーしーしーすたしがてー、私達(ワッタ)や。自分(ドゥー)ぬ屋敷んかい壕やあたんどー、壕や有しが自分(ドゥー)ぬ屋敷んかいぬ壕やただ小(クゥ)てんぐゎーるやっさい、其処(ウマ)んかいや入らんてぇーるむん。村山:夜(ユロ)ぉ壕ぬ中や暗さいびーさに?夜(ユル)ないねー?
新垣:あぬーただ壕ぬ中や濡(ヒ)ったてぃ水(ミジ)ぐゎーんはいんどー、ただ其処(ウマ)ぬ側辺(スバヒラ)ぬムイんかい水(ミジ)ぬ溜まらなん所(トゥクマ)かい、片端(カタハラ)ぐゎーんかいるちん曲がてい居(ヲゥ)たんでー。明かりん無(ネー)んらたんでー。
村山:無(ネー)びらんたん?真っ暗闇るそーびーさに?昼やていん、あっぴなーぬ壕やぐとぅ。
新垣:ちゃーそーたがやー、明かれーあたがやー分からん。※※ぉ抱ちん子(クヮ)るやぐとう、おとーが壕から出(ン)じてぃ、山前門(ヤマーメージョー)ぬあながーうてぃ、おしめ洗てぃ干(フー)ちぇー持(ム)ち来(チェー)ういぐゎーし。なー私達(ワッタ)ぁ壕んかいちゃー入(イー)。おとーや物(ムン)持(ム)っち来(チ)っ食(カ)まちゃい、おしめ洗たい、全部(ムル)おとーがるすたる。
〔訳〕
新垣:下の壕に(避難していたので)、夫が食事を作ったりして食べていた。自分の屋敷にも壕は掘ってあったが、そこの壕は小さかったので、そこには入らなかったよ。
村山:夜は壕の中は暗いでしょう?夜になると?
新垣:壕の中は湿っていて水もあったよ、(だから)水が溜まらないような片隅に、(皆で)固まって居たんだよ。明かりもなかった。
村山:なかったんですか?真っ暗闇でしょう?昼でも、あんな大きな壕だから。
新垣:どうしていたのかな、明かりはあったのか分からない。※※はまだ産まれて間もなかったから、夫が壕から出て山前門の溜め池でオシメを洗って干してきたりしていた。私達はずっと壕に入って(避難していた)。夫が食べ物を持って来てくれたり、オムツを洗ったり、全部夫がやってくれた。
3 山内※※(昌敏山内(ショウビンヤマチ))
1921年(大正10)生
宇良という所に着(チ)ちゃぐとう、うりから戦が来(チュー)んどー来(チュー)んどー、アメリカーが来(チュー)んどー来(チュー)んどーさぐとう、山ぬ上(イー)んかいあがてぃ避難家ぐゎー造(チュク)てぃ。※※とぅ私(ワン)とぅ祖父さんしーじー芋掘(ンムフ)いが下(ウ)りたぐとぅ、辺土名んかい陣地があるばーてー、其処(ウマ)から照明弾が上がいねーパタパタパターし機銃が来(チャ)ぐとぅ。うりんかい渡慶次(トゥキシ)ん人(チュ)、何名がらーよ、機銃当たてぃてー。※※ぉ又此処膝(クマチンシ)んかい機銃当たやーいよ、アメリカーが喜如嘉ぬ病院かい連(ソー)てぃはいたんどーさぐとう。叔母さんのー自分(ドゥー)ぬ子(クヮ)るあたらーささい、なー殺(クル)さってぃんしむぐとぅ、あり探(カメー)いが喜如嘉んかい行(ン)じゃーに、※※連(ソー)てい来(チ)ぃ。薪(タムン)取いがん行ちゅい、畑(ハル)かいりち、皆(ンナ)ー食(カミ)み物(ムン)探(カメー)いがてーな、チーパッパーぬ葉ん何(ヌー)ん探(カメー)いが行じ。其処(ウマ)んじまたマラリア罹(カカ)てぃ。マラリア罹てぃガタガターそーてぃんなー物(ムン)食(カ)むんなー、皆(ンナ)なー生活あんしるそーぐとぅ。畑(ハル)んじガタガターし、にじとーてぃん畑(ハル)さい何(ヌー)さいてぇー。畑(ハル)ぐゎーんじ直ぐちん曲がてぃや、うんとぅーぬ生活。栄養不良なてぃてー、おじぃさんぬんでーフラフラーしよー、今考(ナマカンゲー)いねーなーブチクンナラナラやてーんでー。着替えん無(ネー)んしぇー、川原(カーラ)ぬ側(スバ)んじ家(ヤー)や造(チュク)てぇーぐとう避難家うてぃ、洗てぇーしーしーぐわーし着(チ)ちゃしが。〔訳〕
宇良という所に着いて、それから戦が攻め寄せ、アメリカーが(上陸して)来るということで、山の上に避難家を造った。(ある日)※※と私とおじいさんと一緒に芋掘りに下りて行った。辺土名に陣地があって、そこから照明弾が上がるとパタパタパター(音を立て)機銃攻撃が始った。その機銃に渡慶次の人、何名もやられてしまった。※※は膝に機銃があたり、アメリカーに喜如嘉の病院に連れて行かれた。
(それで)叔母さんは自分の子が可愛くて、もう殺されてもいいからと、息子を探しに行って、※※を連れて来てあったよ。薪取りにも行くし、畑に食べ物を探しにも行くし、つわぶきの葉等何でも(食べられる物は)取って来た。そこでまたマラリアに罹ってしまった。マラリアに罹りガタガタ震えていても、物は食べないと生活(生きていけない)できないでしょう。畑でガタガタ震えても我慢しながら畑作業をしたりしていた。(マラリアの震えが来ると)、畑で縮こもりながらも作業をするような生活だった。(全部)栄養不良で、おじいさん等はフラフラして、今考えたらもう今にも気を失って倒れそうだったよ。着替えもなく、川原の側に避難家を造ってあったから、そこで洗ったりして着けていた。
4 与那覇※※(又助金細工(マタスケカンジェーク))
1913年(大正2)生
聞き手:村山※※、玉城※※
山城※※
村山:おばあや、いちぐるフィリピンかいめんそうちゃが。与那覇:昭和9年
村山:家族(ヤーニンジュ)全員(ムル)一緒(マジョーイ)なーさい。
与那覇:ううん。呼び出し。うぬ場合や、渡慶次から新屋儀間の※※一緒(マジュー)んやたん。
村山:あま渡慶次しんかまんどうびてぃ。
与那覇:うん、初めーまんどうたんどう。
村山:あまうてぃぬ仕事(シクチェ)やぬーやいびーたが。
与那覇:麻栽培。山ぬ中どぅやっさい、くまうてー長くや暮らさらんさ。儲きじくやならんさぁーでぃ思たんよー。
村山:フィリピンうてぃぬ戦でぃーせー何年ぐるから。
与那覇:昭和16年ぐれーからやたるはじろう。あんしから日本軍が上陸し、18年ぐるからーアメリカ軍かい占拠さっとーん。20年ね終(ウワ)とーせーや。
村山:戦世やちゃぬふーじーやいびーたが。
与那覇:毎日避難、避難どやたんどう。
村山:何処(マーンカイ)避難さびたが。
与那覇:はじめー学校やたん。男(イキガ)や全員(ムル)兵隊かい召集さって、童(ワラビ)と女びけーじやたんよーやー。
玉城:山ぬ中(ミー)うてーん避難屋んでいいしんあいびーたんな?
与那覇:戦が激しくないねーあまひんぎ、くまひんぎ。うぬ度に造くたんよ。山福地の※※さんと、朝儀ぬ婿(ムーク)。あったーん一緒(マジョー)んやたん。あんすしが、後からむる散り散りばらばら。
玉城:食糧やちゃーそうびーたが?
与那覇:米(クミ)やいひ小(グヮー)持(ム)っちょうてぇーぐと、童ちゃーにかいやお粥し食(クィ)たんよ。うりから、4キロ下(シチャ)んかい下りてぃ行じゃしが、飛行機ん飛でぃ、弾やぐゎんないぐゎんないさったーい。わったー童、がたがたーっし、うどぅるちょーたんどー。
村山:避難壕んあいびーてー。
与那覇:男達が居ぬ時、屋敷かい掘てたしが、一回ん使(チカ)らんたん。童達(ワラビンチャー)そうてちゃー逃(ヒン)ぎどやぐとぅ。
村山:童達(ワラビンチャー)や何歳(イクチ)なとういびーたが?
与那覇:※※が2歳やたるはじろう。あと6か月ぐれーの赤ん子(グヮ)。※※やちゃーひっぱらりーるやぐとぅ痛(ヤ)むんどうし、ちゃー泣ちどぅやたんどう。男(イキガ)んちゃーん一緒(マジョーン)やれ、しむてーんてー。逃(ヒン)ぎーしびけーじぇあらん、食物(ムン)とぅめーりわるやさいや。山の中ぬ木ぬ若芽、食(カ)まりぎさーぬ芋小や、全部(ムル)食(カ)ろーんどう。
村山:避難や一所(チュトゥクマ)かいるどやいびーてぃ?また何か月くらい?
与那覇:一所(チュトゥクマ)やあらん。ちゃー移動移動。ある場合ね、湿地帯かい入やーい、動(イジ)ちしんでー、足取らって、やがて沈みるすたんどー。逃(ヒ)んぎ回(マア)いや6か月余いやたんどー。
山城:お父たーや、何処に行かさっとうびーたが?
与那覇:フィリピンかい。一回はよ、見舞(ミーメー)しーがちょーたんど。
山城:麻ぬ栽培や順調にいんじょーぬ時期んあいびーてぃ?
与那覇:最初、順調やたんどう。戦かい、うゎーぎらたぐとぅるあわりそーる。電気りちん無(ネー)らんランプ小(グヮー)生活どやっさいや。
山城:まーぬ家チ庭ネーんむるゆぬむん。
与那覇:女(イナグ)びけーじ残(ヌク)さってぃ、じょうい暮らし方ならんどーや。前不動小(メーフルーグヮー)の※※よ、あれー足小(ヒサグヮー)かなーん一人残(ヌク)とーたんどー。
山城:童達(ワラビンチャー)三人(ミッチャイ)連(ソー)て、大変(デージ)哀りしみそうち、うぬ童達や全員(ムル)元気で?
与那覇:引き揚げの時、鹿児島から大分に渡てぃ、次男のー大分でうらんなたん。
山城:鹿児島、大分んかい何年ぐらいういびーたが?
与那覇:鹿児島んかい2か月ぐらい。大分やゆかい居たるはじろう。※※やあまとーてぃ学校あっちょーん。
村山:戦世から60年余い経っちょーびーしが、一番頭(チブル)んかい残とうせー何(ヌー)やいびーが?
与那覇:うびんじゃしーね、胸(ムニ)がふとぅふとぅどする。近頃なんじゅ考えらんぐぅとそーん。山の中うてぃ「助きらちきみそーり」りち毎日うりる念願さる。
玉城:最近戦世(ユー)ぬくとぅん考(カンゲー)てぃ寝床んかい入ーねー「あー、こんな幸せな世の中んあるや」んでぃ、考えやびんどう。
与那覇:いん。くんなげーやよ、ぬーん思(ウマー)んたしがよ、年取(トゥシトゥ)たぐとぅ、子孫ちゃ顔小見じいね自然に考えるよ。
村山:今(ナマ)からんがんじゅーしみそーりよー。大変ありがとうございました。
〔訳〕
村山:おばあは、いつ頃フィリピンへ行ったのですか?
与那覇:昭和9年。
村山:家族全員でです?
与那覇:いえ、呼び出しで行った。この時、渡慶次からは新屋儀間の※※さんも一緒だった。
村山:向こうでは渡慶次出身者は多かったですか?
与那覇:はい、はじめは大勢いたよ。
村山:仕事はどんなことをしていましたか?
与那覇:麻栽培をしていた。山の中なので、長くここで暮らすのは儲けにもならないし無理だと思ったよ。
村山:フィリピンで戦局が悪化したのは何年頃からですか?
与那覇:昭和16年頃からだったと思う。それから日本軍が上陸しているから。18年頃はアメリカ軍に占拠されていたよ。20年には戦争が終わっているね。
村山:フィリピンでの戦争はどうでしたか?
与那覇:毎日避難のくり返しだった。
村山:どこに避難したんですか?
与那覇:はじめは学校の校舎に。男性は全員兵隊として召集されていたので、女性と子どもだけが残っていた。
玉城:山の中では避難小屋などはありましたか?
与那覇:戦況が悪化してくると移動しながら逃げ回ったので、その度に避難小屋を造った。山福地の※※さんと朝儀の婿が一緒だった。でも、後ではぐれてしまった。
玉城:食糧はどうしていたんですか?
与那覇:米は少し持ってきていたので、子どもたちにはお粥にして少しずつ食べさせた。それから、山の4キロ下の方へ下りていったが、飛行機や弾がどんどん飛んできた。子どもたちも恐怖で震えていたよ。
村山:避難壕はありましたか?
与那覇:男性が召集される前に屋敷内に掘ってあったが、一回も使わなかった。子どもたちを連れて逃げ回るのに必死だったので。
村山:子どもたちは何歳くらいだったんですか?
与那覇:※※が2歳くらいだったと思う。6か月くらいの赤ちゃんもいた。※※はずっと手を引きながら歩いていたので、足が痛いと泣いていた。
男性が一緒ならよかったが、逃げるだけでなく食べ物も探さないといけないので。山の中の木の若芽や食べられそうな小さな芋など何でも食べたよ。
村山:ずっと一か所に避難していたのですか?そこには何か月くらいいたのですか?
与那覇:一か所ではなかった。ずっと移動をくり返していたから。ある時には湿地帯に入ってしまい足が取られて動けなくなったこともあった。もう少しで沈んでしまうところだった。そうやって逃げ回ったのは6か月余りだったよ。
山城:お父さん達はどこにいたのですか?
与那覇:フィリピンに(別の島の方)。一度見舞いにきたこともある。
山城:麻栽培は順調な時期もあったのですか?
与那覇:最初は順調だった。戦争が始まったので、大変な思いをしたが。電気もないランプでの生活だった。
山城:どの家でも同じような境遇ですよね。
与那覇:女性だけが残され、暮らしは本当に大変だった。前不動小(メーフルーグヮー)の※※さんは、足が悪いとのことで、一人兵隊に取られず残っていた。
山城:子どもたちを3人も連れて、大変でしたね。その子達はみんな元気ですか?
与那覇:フィリピンから引き揚げの時に、鹿児島に着き、そこから大分に移動したが、その時に次男は亡くなってしまった。
山城:鹿児島や大分には何年ぐらいいたんですか?
与那覇:鹿児島には2か月ぐらい。大分にはもっといたと思う。※※は向こうで学校にも通った。
村山:戦世から60年余り経ちましたが、一番印象深かったことは何ですか?
与那覇:今思い出してもとても怖い。最近は余り考えないようにしているけど、山の中では「どうか助けてください」と毎日願っていたよ。
玉城:最近は戦世のことを考えてから寝床に入ると、「あー、こんなに幸せな事もあるんだな」と、思うことがありますが。
与那覇:そうだね。これまでは特に思ったことはないけど、年を取って子や孫達の顔を見ていると(幸せだと)自然に思えるようになった。
村山:これからも元気でいて下さいね。今日は本当にありがとうございました。