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第3章 戦前・戦中・戦後体験記
第1節 私の戦前・戦中・戦後体験記
2 夢と希望とともに歩んだ半生
話者 大城※※
1928年(昭和3)生
海を知らなかった頃生まれは高志保。兄弟姉妹は兄1人、姉3人。姉たちはみんな小学校高等科卒だったけど、兄と末っ子の私は、甘えて上級学校に行かせてもらった。家の収入はキビ作と芋を売って現金を得る程度だった。
あの頃は食べ物はなく、履物もないし着るのも上等なものはない。ずっと間に合わせの着物(チン)グヮーを着て、裸足で渡慶次小学校に通った。給食ないから昼は持っていった芋だけ、これで午後の6時間目までヤーサして(お腹すかして)がんばったさ。今考えるとよく耐えたねえ、と思う。
それから、昭和16年12月8日太平洋戦争が始まったとき、国民学校で月曜日と金曜日の週2回あった朝会で軍歌を歌ったわけね。戦争に勝つように願いをこめて。1年生のときから歌っているからよく覚えている。でも字見て覚えているわけではないから、意味はよく分からなかったさ。
学校での遊びは、縄跳び、幅跳び、バレーやバスケットなどがあった。家に帰ったらお手玉を二つでやったり三つでやったり、五つ玉までできるようになっていた。
そういえば子どものときなんだけど、海に行ったことがなかったわけ。ここから遠いさ。だから海がどんなところか分からない。向こうの海を汽船が煙をボーボー吐いて通っていくのは見えたから「ヒーグルマー(火車)」と言っていた。おばあさんが「アレアレ、火車トゥーイセーヤー、アレ大和ンカイ行チュサ(あの火車は本土に行くんだよ)」っていうから、海に道があるのかと思ったら「エ、アンシェ、海ンカイ道アイビンナー(海に道があるのか)」と訊いたわけさ。でも、大きくなったら「海の道」から火車に乗って大和に行きたいという夢もあったさ。大和ってどこかねー、本当にあるのかねー、早く海の道歩いて行ってみたいさ、って。幼いときのことも忘れられないね。
すべて全体責任に
あの時は、方言を使ったら方言札というのを渡されて罰されるわけね。次の人が見つかるまではずっと首にぶら下げて、最後は先生に叱られる。学校で、方言札を渡された男の子が後からやってきていきなりつねられて、渡されたことがあるさ。いきなりだから「アガッ!」と言うと「方言した!」といってね。渡されたけど、自分はなかなか渡しきれない。でも、学校が終わったときに男の子が「ウリ、ヤーンカイ(はい、家に帰るよ)」と言ったわけさ。そこで「はい、あんた方言」といってやっと渡せた。先生もそれ見て笑っていたけどね。
それともうひとつ、昔は給食がなかったからお芋をティーサージグァー(てぬぐい)に包んで、学校で昼食にしていたわけ。だけどある子が、家が近いということで何も持ってこないでいつも家に帰って食べていたわけ。この子が5時間目に遅れてきたわけよ。そしたら「全体が悪い」ということで全体罰、みんな立たされて、手を竹の棒で叩かれたわけよ。手も腫れて痛い。でも「あれが悪い」といっても「あれが悪いんだったらみんなで教えなさい、そうしなかったのが悪いさ」と、あの時は家でもそういう風に言われた。
それから朝の団体登校のとき、一人だけとても遅い子がいたわけ。こっちは学校が始まるから時間気にして、この子を待たないで一人で登校したわけね。そしたら「団体登校なのに何で一緒に学校来なかったか」と叱られて、運動場を5周走らされた。あとの人達は遅刻してきたけど、何も叱られなかった。
また、小学校1年生のとき、男の子が教室の入口に鏡を置いて、「通れ、通れ」と言って女の子をいたずらしていたから、それを先生に言ったら「またか!」「全体が悪い」といって運動場を走らされた。小学校1年生でも団体の指導はとっても厳しかった。
先生にあこがれて進学
昔は先生方はきれいな服装だったから、見かけると走って行って服を触らせてもらったわけよ。上等な服はないからね。それにあこがれて、先生になりたくて師範学校を受験したわけさ。5つ上の兄が師範に受験したときは筆記試験があったけど、自分達から「口述試験」だけになった。歴代の天皇陛下と教育勅語を全部言わさせた。初代天皇から現代天皇まで頭に入れてやったけど、一緒に受験した同級生も優秀だったのにみんな通らない。結局自分は私立の女学校に進学したけど、他の人は進学しなかったさ。
学校には寄宿舎から通った。自分の夢と希望を果たすために行ったんだけど、もう勉強どころじゃない。1年生までは普通どおり授業があったけど、2年から英語の科目がカットされ、A組B組C組とあったものも1組2組3組に変わった。それからは授業らしい授業は全然ない。戦争に向けての看護訓練、高射砲陣地の構築作業など。それから空襲に備えて防火訓練でバケツリレーをやったり、木の枝葉とかアダンを校舎の屋根に被せて空から見えないようにしたり。今考えたらそうしても空から全部見えるはずなのにさ。結局戦前は全然勉強しなかった。だから勉強は頭に残っていない。
十・十空襲と二つのおにぎり
十・十空襲もよく覚えている。機銃の弾が自分のすぐ横をピューッて飛んできたわけさ。耳はあるかねと触って確かめた。あの時は那覇にいた。朝8時前、那覇の泊の橋のところを通ったら空襲が始まっているわけ。友軍の演習だと思って、手をたたいて見ていたら憲兵が来て「おい!お前達、あれは米軍だぞ!大変だよ!はやく壕に入れ!」と、友達と2人近くの防空壕に入った。夕方まで空襲は止まない、その間に泊港の船はやられるし、垣花の燃料タンクも燃えているし、もう町全部が火の海。ほとんど焼かれて無くなった。
◎[写真] 本編参照
十・十空襲 (宮平※※画)
その後は夜9時から翌朝7時まで、夜通しで女学校の同級生と一緒に読谷に帰った。他に国頭に帰る人とかもいたね。何も食べていないからひもじかったけど、親も大丈夫かなという心配もあった。
そしたら途中で婦人会のボランティアの人がおにぎり作って配っていたわけさ。「昨日からひもじい思いして大変だったでしょう」と、ひとつくれたわけ。そのときのおにぎりの美味しかったこと。「このおにぎり美味しかったです」といったら、こっそりもうひとつくれた。
あの時とっても感動した。「ボランティアというのはこんなに喜ばれるんだね、自分もやらないといけない」と思ったさ。戦後は自分が教職員として子どもたちに与えて、教職卒業したら民生・児童委員として地域のおじいさんやおばあさんの面倒みたり、相談にのったりというようなボランティアもしてきた。今はそれも卒業して、公民館でおじいさんおばあさんと集まって楽しく遊んでいる。人生はこれだけ(笑)。
「親と逃げなさい」
十・十空襲が終わったあとも学校に通ったけど、看護婦の訓練だけさ。戦争が近くなったので、女学生は軍隊に配置するということで首里城に集合になった。あの時は天皇陛下万歳といって死ぬのが誇りだったので、行かなくてはならなかった。怖くはなかった。
そしたら「おーい」と一人の兵隊が呼ぶわけ。自分はこの兵隊は見たことなかったけど、私の家で世話になったことがある軍曹で、親と知り合いであったわけ。私の兄は支那で戦死して、自分まで従軍看護婦で戦争に行くといっているから、「どうにか止めてほしい」と親から相談を受けていたわけ。自分はそんなことは知らないで、荷物も全部準備してあったのに、「戦争中は親と一緒に行動しなさい」と兵隊が言うわけね。「なんてこと言うね、行かなかったら死刑になるさ」と言ったら、「戦争に勝って死刑にする馬鹿がいるか、早くお父さんお母さんと国頭に逃げなさい、待っているはずだから」と言われた。下の名は教えなかったけど、北海道出身の山本という人で、大学も出たと言っていた。「兵隊さんの言うことだから」ということで家に帰って、その夜親と荷馬車に乗って西海岸から国頭の奥間というところに避難した。戦争中はそこで過ごして、戦争が終わったら久志(現在の名護市)に移って、それから読谷に戻ってきたけど、渡慶次には移動できなかったから、しばらく高志保にいたさ。
平和の礎に行ったから、北海道のところに見に行った。そしたらそこに山本さんの名前があるわけさ。涙を流して「おかげ様でこうして今元気でがんばっています。ありがとうね」って、手を合わした。この山本さんに会わなかったら、自分も戦争で死んでいたはずよ。同級生も先輩も後輩も多く亡くなっている。戦前の同級生を訪ねてまわったけど、少なかった。同級生の男の子も小学校高等科卒業して防衛隊に行ったりして、68名いたのが25名しか生き残っていない。兄も師範学校を卒業して1年間学校の先生をしたけど、戦争に行って中国で亡くなっている。父も戦争で亡くなったさ。
何もない小さなテントの学校
戦後は高校に通った後、1948年に教職についた。それから36年間、小学校1年生と特殊学級を受け持った。あの頃は戦争で教育者が多く亡くなったため、代用教員として採用された。
その頃の学校は教室もテント張り、机も腰掛けもないから、米軍のちり捨て場で拾ってきた包み紙を地面に敷いて座った。ノートもないからこれもちり捨て場で紙を拾ってくる。小学校1年生に字を教えるときには、白紙だと書けないから、1.5cmのます目を引いて作るんだけど、一人1枚で1クラス50人分さ、作るのに夜中の2時までかかった。黒板もないからベニヤ板に黒いペンキを塗って使い、チョークも拾ってきた。黒板消しもないから濡れた布巾で拭くけど、乾くまでは書けないから、その間はおしゃべり。鉛筆も小さいのを竹で足してすれすれになるまで使った。教えるのは、職員朝会で校長先生が「これこれ教えようね」と言ったことを教えた。
テントには50人余りいるわけさ。テントは狭いからその中で気の弱い子は追い出される。泣いているその子を中に連れてきて、また追い出されての繰り返し。それで1時間をあっという間に過ごしたわけね。何を教えたか、分からないさ。でもあれでよかったわけ。みんな精一杯生きるというのがあった。
それから2か年後に、現在の渡慶次小学校に戻った。校舎が無かったもんだから地域の父兄らが山から松を切ってきて、仮小屋を建てて、そのときに初めてベニヤ板で机と椅子を組み立てた。各学校学年に文教局から1冊の本が配られたわけ。今度はそれを夜遅くまでかけて写本して、翌日授業に使う。写すときも電気は無いから、石油の入った缶にひもを入れて明かりにするわけ。今考えると、これで学校の教師といって恥ずかしい思いもしないでできたね、と思うさ。
◎[写真] 本編参照
渡慶次小学校に初めて引かれた
簡易水道から水を出す子どもたち
教育目標は、自分の物と他人の物、その区別をしっかりする、挨拶ができる、人に迷惑をかけない、これだけ。でも生徒たちは今もそのことを覚えていて、自分のいい人生の糧になったと言ってる。ある生徒から「おかげで県議会議員になったよ」ってこの前も言われた。嬉しかったよ。紙も書くのも無い、おしゃべりだけのモノのない時代さあね、ます目の紙をもらったのが思い出になっているってさ。楽しい思い出がいっぱい残っている。これが財産。
大きい泥棒
転勤して1年目の4月の2週目ぐらいの頃だったはず。朝の会で、遊んだことや家であった事を発表させていたら、「昨日は友達と一緒に買い食いした」という発表があったわけ。びっくりして聞いたら「お金持ってきて、あっちのお店こっちのお店と行ってたくさん買って、お土産までもらったよ」というわけ。その日の授業が終わって、「お金はどこからもらったの」と聞いたら、「うん、お家の引き出しにいっぱいある」って。この子は自分の家のお金だからということで、悪い事したと思っていないわけさ。とりあえず、今までに取った回数と金額を書かせたら、用紙表裏にいっぱい書いた。幼稚園のときからずっと取っていたという。
その日の夜、その子の家に行って、「実はですね、見てください」って、取った回数を書いた紙を見せたわけ。給料袋は引き出しに入れてあって、減っていても両親お互いに取っていると思って、子どもが取っているとは思っていない。自分の子どもを信用しているわけさ。「少しは管理してください、友達と食べて遊んでまわっているんですよ」と言ったら「よく見つけてくれた」って言っていたよ。
この子もイタリアで出世して、子供も5名いる。ずっと手紙が来るよ。「先生があの時見つけて、僕に注意してくれなかったら、大きな泥棒になっていたはずね」と書いていたさ。
ユイマール
老後の生活を楽しんでもらうために始めたおじいさん、おばあさんが集まるユイマールが公民館であるわけさ。おばあさんたちが7名いるけど、とっても元気である。始めて15年になるけど、「あんたが誘ってくれたから、おかげで88歳までも遊ぶことができたよ」とおばあさんに喜ばれている。
このおばあさんの忘れられない言葉がある。「家の嫁はよその娘、自分の娘もよその嫁、死水取るのは自分の嫁、だから嫁を粗末にしてはいけませんよ」と。どんな嫁でも自分が生んだ子供のようにやっていけばうまくいきますよというわけ。このおばあさん88歳になるけど自転車乗って来るわけ。ゲートボールもしているし、新聞の切り抜きもきれいにする。「上等ですね」って言ったら、これもあんたが教えたからだよ」と言うわけさ。切抜きしておいてまた読んだら、新しい勉強になるからと教えたことがあるわけ。だからあんなに元気。おばあさんに「97歳のパレードは自転車でやりましょうね」といったら、「うんうん、いい考えさ」と言っていた。
幸せも平和も家族から
渡慶次には結婚してから移ってきた。旦那は役場に勤めていた。子どもは男の子3名と女の子1名、それぞれ家庭持っている。孫もいるし、ひ孫も7名、大きいおばあ(曾祖母)になっているよ。ひ孫とはいつも遊んでいる。やがて1歳になる子だけども、声聞いたら「ふうん?」て、這って探してくるわけ。家の人が「はい、ばあちゃんと行こう」て言ったら「うんうんうん」て来るさ。上の子も幼稚園生だけど、「おばあちゃんからあれ習った、これ習った」って、よく自慢しているって。ピアノで遊んだら喜んでいた。
幸せは家族から。平和も家族から。家族が幸せだったら、地域も国も幸せになる、家族一緒に食事しながら、学校の事を話したり。ここから家族の幸せは生まれる。
小さいときから夢と希望をもつことが大事。それを達成することは難しいけどね、自分は夢と希望を果たすことができたさ。教え子達もたくさんできて、財産にもなって。それが幸せだね、と思う。夢と希望は捨ててはいけない、それに向かって一生懸命がんばる。それが一番上等。