続 渡慶次の歩み
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第3章 戦前・戦中・戦後体験記
第1節 私の戦前・戦中・戦後体験記

3 時代の変わりのなかで

話者 新垣※※
1945年(昭和20)生
自給自足の生活
 戦争中の昭和20年1月に生まれたので、沖縄戦のことは何も知らない。父は地域の防衛隊だったが、生まれて1か月のときに面会に来たというが、その後は分からない。父は20歳で戦死しているので、弟妹はいない。
 戦時中は国頭村の奥間や桃原に避難していたという。戦後、幼稚園生くらいのときになってから、戦時中避難していたときにお世話になったところへお礼に行った。そのときはバスも無く、同じ部落の人がトラックを持っていたのでそれに荷物も積んで乗って行った。
 戦後、母は軍でハウスメイドとして働いており、15〜20ドルくらいもらっていた。それで私を高校に進学させるのは、大変な苦労だったと思う。
 家では自給自足の生活。家族で一生懸命がんばらないといけないから、小学校のときから畑に行って手伝いをし、ニラやネギ、ゴーヤーや瓜類など日ごろ食べる野菜を作って、日常での食事に役立てた。それから豚も飼っていたが、豚肉が食べられるのはめったになく、正月や二十日正月の料理に使うぐらいだった。
 豚をつぶす家には、部落の役人が何人かで前日に縛りに来た。この人たちはお礼としていくらかお金をもらっていた。翌日には家の人たちが豚をさばいて、兄弟や親戚の人に少しずつ分けていた。
 当時の家というのは、住宅自体がもろいし、茅葺きや瓦葺きだったから、台風なんかの時の被害というのは相当大きいものだった。そういう台風のことを考えて、周りに垣根を作ったりしていた。
 
子どものときのこと
 通ったのは渡慶次小学校。私の同級生は1クラスに35名ぐらいで2クラスあった。自分たちより2、3歳下の世代は数が多く、5クラスある学年もあった。全校児童合わせて600人ぐらいいた。
 学校では行事として、運動会と学芸会があった。学芸会といっても、学芸会に出られるのはできる子だけ。先生に選ばれた子が役を決められて、役に選ばれなかった子たちは見ているだけだった。今はそうではなく、全員参加して役ができるようになっているので、それだけでも時代は変わったように思える。昔の教室は、教室を仕切っている戸を外せばつなげられたから、教室の中に舞台を作って劇をやった。地域の人たちも見に来ていた。
 また、当時は先生方が持ち上がりで1年生から4年生まで同じ担任の先生という場合もあった。今は先生方も多く、人事異動もあるが、あの頃は10年以上も同じ学校にいることもあったので、学級の持ち上りは普通だった。
 当時は、ギッチョー、縄跳び、お手玉、ムートゥー(石取り遊び)など、素朴でいろんな遊びが沢山あった。広場や学校に自然に人が集まって遊んだ。夕方になるとホタルがたくさん飛んでいたから、ホタルを捕まえてびんに入れたりした。びんに集めたら、暗い中でもホタルの光で本当に字が読めた。
 
基地の中の読谷
 戦後、読谷村は総面積の約80%を米軍基地としてとられたので、住民は残った土地しか使えなかった。だから、まるで基地の中に集落があるような感じだった。その中、米軍のパラシュート訓練で、落下してきたトレーラーに隆子ちゃんという女の子が下敷きになって亡くなった事件(1965年6月11日)、残波岬で米軍が気球や無人飛行機を飛ばしてそれを小型ミサイルで撃ち落とす訓練をしているときに、発射したミサイルが途中で爆発して集落内に破片が落ちたりする事件もあった。
 
◎[写真] 本編参照
1965年6月11日 隆子ちゃん圧殺事件
 
 軍用地も近いから、夜でも米軍が演習していたし、米兵が畑の中を歩いたり、戦車で通ったりするから結局畑もできなくなる。今ではおそらく許されないことだが、当時は何も言えず、泣き寝入りする状態だった。だから、読谷村は村をあげて基地の返還を訴えてきた。
 
仕事のこと
 昔は内地では沖縄の人というだけで嫌われたり、差別されていた。私は沖縄が日本復帰する前の、パスポートの時代に内地へいった。中部農林高校3年生のとき神奈川に行き、農家に宿泊して研修を受けたときには、沖縄の人は英語を使うと思われていたらしく、沖縄も日本語であることを知って驚いていた。また、お店に行くと、「沖縄の人は入店お断り」の張り紙があった。
 研修から帰って警察官になったが、警察を辞めてハワイに農業研修に行った。帰ってからは農協に就職した。最初はアルバイトでやるつもりが本採用になり、退職後、現在では村議会議員をしている。
 
文化を大事にする
 座喜味城跡が世界遺産に登録され、多くの観光客が来るようになった。また、村内には人間国宝に指定され方が3名もいる。読谷村は文化を大事にするという考えを持っている。
 字渡慶次の獅子舞は約250年の歴史を持つとされている。戦後初の獅子頭は山内※※がつくった。今の獅子舞は3代目で、デイゴの木でできている。部落行事の余興では最初と最後は獅子舞と決まっており、必ずお祈りしてから
 
獅子屋から出し入れしている。
 自分達の踊りを他地区と交換するという、「ウドゥイトゥイケー」という舞踊や組踊の交流会もあった。また渡慶次のエイサーは今の70代ぐらいの人々が中心となって、現在のうるま市宇堅のエイサーを手本にして作った。以前は夜の12時頃まで字内のほとんどの家を回った。
 
同じような日はない
 今の世代ははっきりしているからいいと思うが、自分の思ったことははっきりとものを言わないといけない。意見や主張をはっきり述べることが大切である。自分の人生に対して悔いはない。毎日同じような日はないと思って生きている。
 
 

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