続 渡慶次の歩み
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第3章 戦前・戦中・戦後体験記
第1節 私の戦前・戦中・戦後体験記

17 母親が支えた戦中戦後の生活

話者 安田※※
1938年(昭和13)生
家族構成
 父親が戦争にかり出されたために母親と兄弟姉妹4人で、おじいちゃんのところに身を寄せていた。父親は戦前私が4歳の頃に亡くなっており、あまり覚えていない。
 
疎開
 疎開するときは、夜ではなく昼間馬車に荷物を載せ一家全員で、やんばるの桃原に向かったのを覚えている。そのとき食料は出発する時点では持たず、疎開先で調達して食べた。食事は米ではなく、芋のほうが多かった。芋のほかに野菜なども食べた。そのときは食べ物に困らなかった。
 疎開先である桃原の避難小屋は、床が竹でできていた。小屋は私たちが到着する以前に県を通して国頭村役場が造らせてあった。桃原には読谷の人たちが中心に疎開しに来ていた。終戦は、桃原の山の中にいるとき上空を飛んでいる飛行機から終戦を知らせるビラがばらまかれて知った。
 山から降りていく途中でアメリカ兵に出会った。そのときは、アメリカ兵に殺されると思って、おじさんがアメリカ兵としゃべっている間に、私だけ逃げた。後からは、殺されないとわかり、みんなで山を降りた。その後、おじさんが迎えに来てくれて、家族みんなで石川の収容所へ行くことになった。
 
石川
 自分たちが石川に着いたころには、もうだいぶ落ち着いていた。物資も豊富にあって、その時初めてチューインガムというものを食べた。甘くておいしかったけど、噛んでもなかなかのどに落ちないので驚いたのを覚えている。
 石川では、みんなそれぞれの生活があった。学校も行っていたし、自分で畑をしたりお金を稼いだりしていた。親父が亡くなっていたから、母親が女手一つで私たちを育てなければならなかった。そのため、石川に来てすぐ頼み込んで、軍作業の炊事の仕事についた。残飯などを、自分達のために持ち帰ってくるという生活をしていたけれど、おそらくそのことが見つかったらしく、母はほかの仕事を転々としていた。
 
学校
 印象に残っていることは、荒廃した戦後の風景であった。楽しかったことといえば、ヘリコプターから校庭にお菓子などを米兵がばらまき、それを走って拾いに行ったことである。最初に覚えた英語はギブミーだった。そのために「ギブミー民族」と言われた時代であった。
 教室は今みたいな立派な建物じゃなくて、米軍の大型テントで大体50〜60人が入った。雨が降る日には、テントの破れた隙間から水が入ってくる状態だった。そのほかに青空教室もあり、そこでも勉強をした。
 最初の学習用具は、机や椅子は松の木で作った手作りのもので、鉛筆は米軍などが使い古したものをゴミ捨て場まで拾いにいって、残っている部分を竹に差し込んで大事に使った。しばらくしてからは、学校側が用意してくれたのを覚えている。
 授業は今とあまり変わらなく、英語もやっていた。外人との接触がまったくないというわけではないから、仕方なく学んでいた。学校での授業の合間は、主にビー玉や輪ゴムなどで遊んでいた。学校が終わると、家の手伝いで山に薪をとりにいったりした。
 読谷に帰って来たのは1958年、二十歳のときだった。役場で2年ほど働いて、その後、オリオンビール工場に入社し、在庫チェックの仕事をしていた。30歳のころには電気関係の仕事についた。今やっている農業の仕事はだいぶあとになってからはじめた。
 

18 身にしみた戦争

話者 玉城※※
1932年(昭和7)生
家族構成
 家族は両親と兄弟姉妹10名で合計12人の大家族であった。子どもは女6人に男4人で、長女から四女までは出稼ぎで内地に行っていた。沖縄に残っていたのは兄弟の4人と私と妹の8人であった。
 
学校と手伝い
 戦前の学校は、瓦葺で1クラスは40名程度。1組は男子だけ、2組は女子だけ、3組は男女共学の組に分けられていた。
 渡慶次では昭和19年の十・十空襲以降、球部隊が駐屯するようになった。宿泊は渡慶次国民学校が主で、民家への宿泊は少なかった。他に忠魂碑の北隣と儀間のサーターヤーにテントを張って駐屯していた。
 安田※※宅には、長野県出身の井上大尉が宿泊していた。そこには五右衛門風呂があり、当番兵2人がいて、午後1時になると風呂を沸かしに来た。一般兵は勢頭(シール)の前のサーターヤーでドラム缶風呂だった。友利(トモリ)では兵隊の食事をつくっていたが、加那玉城(カナータマグスク)にも兵隊が来てシンメーナービ(大きな鍋)に飯を炊き、学校へ運んで行ったという。
 学校が終わっての手伝いは1、2年生までは下の子の子守りをしていた。その上の学年はソテツの葉などを薪にしていたので、それを集めに行ったり、家の畑を手伝っていた。
 農家は、日の出ている時に仕事をし、日が沈んだら仕事は終わりであった。だから何時に仕事が始まって何時に仕事が終わるなどは決まっていなかった。学校が終わると子守りをしながら友だちと遊んでいた。親たちが夜も仕事をしていたため、夜になっても子守りをしながら遊ぶことがあった。鬼が頭から着物をかぶって誰かを捕まえ、鬼は捕まえた子が誰であるか当てるという遊びなどをしていた。
 
十・十空襲
 母は、親戚にあかちゃんができたということで那覇まで手伝いに出かけて行った。嘉手納まで客馬車で行って、嘉手納からは軽便鉄道で行った。母は、那覇からの帰りに十・十空襲にあって、命からがら帰ってきた。空襲の時私たちは、空襲の音が聞こえたのですぐに母が事前に準備してあった黒砂糖を持って壕の中に入った。
 
避難命令
 12歳のとき避難しなさいとの命令が出て、荷物を持てるだけ持って辺土名に向かった。さらに辺土名から桃原に行った。米軍が上陸したときは、私たちはすでに桃原にいたが、「どこに行っても同じだよ」と渡慶次に残っている人たちもいたという。
 周りの大人たちは「アメリカ兵は、『ヒージャーミー』(山羊の目)みたいに青い目をしているから、夜は見えないはずだと信じていた。それでアメリカ兵の見えない夜に行動をしよう」と言っていた。だから、昼は山の中に一時的に避難していて、夜になると村まで降りて生活をしていた。
 しかし、まもなくして山の中に避難しなさいということで、夜も山に避難した。そこでは山火事にあったり、食料が不足して苦しい生活が続いた。みんなが山から下りて捕虜になっている中、母が長男も兵隊に行ってがんばっているんだから簡単には下りられないと言っていた。しかし、食料も底をつき、生活できなくなったため山を下りた。収容所では同じ部落の人たちが集まっていた。
 
復興の様子
 戦後復興時には、私は成人していたので共同作業で畑を耕したり、家を建てるときなどは、ユイマール精神をもってみんなで手伝い合っていた。渡慶次では、班ごとに助け合い模合をして生活を支えていた。
 

19 渡慶次に嫁いで来て

話者 山内※※
1942年(昭和17)生
幼い頃の思い出
 私の家族は祖母と両親、4男3女の7名兄弟姉妹で、私は三女で10名家族の中、久米島で育った。家が農家だったので、日曜日に家でゆっくりしたことや友達と遊んだ記憶はない。朝食を済ませると馬に肥料を積んで父の後を追うようにして野良仕事に出かけた。
 夏休みは落花生の収穫に明け暮れた。私たちは父親が掘り起こした土の塊から落花生を取って袋に入れる作業を日暮れまでずっとやらされた。土はとても固く、幼い私の手からは血が出るくらいだった。夜は乾燥させてあった落花生の殻を取る作業をした。それを売って学用品購入の足しにもした。
 あの頃は稲作も盛んで、機械はないので苗を一つずつ手で植えていった。1番大変だったのは、苗を植えた後の雑草取りで、さぼっていないかを父がずっと見張っていて、休んでいるところを見られると怒られたりした。そんな時は「農家になんかなるものか!」と幼心に思った。私たちの田畑は山の方にあったので、昼頃になり、東シナ海の方角に目をやると、母が大きなザルを頭にのせてくるのが見えた。母の姿がだんだん近づき、お昼ご飯となり、みそ汁、芋、豆腐を口にしたときには、ほっと一息、幸せを感じた。
 学校では、先生の教えをよく聞きなさいと言われていた。小学校4年生の時の先生が家庭学習をとても大事にするする人で、毎日漢字を書くように言われ、その時から漢字が好きになった。
 父母は口癖のように「にこにこしなさい」「あいさつをしなさい」と言っていた。この2つがわかればどんな時代でも生きていけるよと。今でもこれが私の人生の指針になっている。
 
戦争のこと
 戦争については、まだ2歳半で幼かったので、少ししか覚えていない。
 戦争が激しくなった頃、普段住む家とは別に田畑の近くに「ハルヤー」と呼ばれる茅葺きの家があり、農機具や家財道具、炊事用具が置いてあったので、生活が出来た。その近くに照明弾が落ち、外にある大きな水瓶から水をかけていた。米兵がハルヤーに入ってきて、タンスを開け、「日本の旗、日本の旗」と言って旗を捜していた様子が記憶に残っている。
 
渡慶次に来た経緯
 久米島には高校を卒業するまでいた。卒業後、沖縄本島中部の琉球政府立コザ看護学校で3年間学び、コザ病院(現在の中部病院)に勤めた後、24歳に結婚した。夫が渡慶次出身だったので字渡慶次に加入し、住まいは高志保にある。
 渡慶次の人たちの最初の印象は、とても大らかであるということと、率直にものを言って、言葉に飾りを付けないことだった。私にはわかりやすくて、とてもいい印象だった。
 
婦人会活動
 渡慶次に来てから地域の活動に参加するようになった。子どもが成長し、地域との関わりが大事になってくると考え、長女が幼稚園に通うようになると参加した。3男2女とも渡慶次小学校に通学させたのもとてもよかったと思う。
 婦人会は、年中何らかの行事を行っているので、他の地域よりも活動的でいいと思う。婦人会ができて80年経つので記念碑も建立した。区民から碑文を募集し、山城※※のものが採用された。婦人会活動するようになってよかったのは、渡慶次の先輩方が子育てや人生、生活についてアドバイスしてくれたことが非常に助かったことである。
 
これまでに印象深かったこと
 みどり丸の海難事故で両親を亡くしたこと。その時は看護学校の学生であり、とても悲しかったということもあるが、頼る人がいなくなって「自立しなければ」ということを強く思った。兄弟、姉に助けてもらい卒業したときはとても嬉しかった。あのときの気持ちがあるので育児と併行しながら薬種商の資格が取れたと思う。それに向けての勉強はとても厳しく夫や夫の母が家事等助けてくれた事も大きい。その資格で薬局を開設し、それを拠点に地域でボランティア活動が出来てよかった。
 

20 「私と沖縄戦」

話者 福地※※
1925年(大正14)生
与那原で「十・十空襲」に遭遇
 私は古堅尋常高等小学校の高等科を卒業して、看護婦見習いで喜瀬医院に勤め、その後兄の友人の比嘉眼科を経て与那原の嵩原医院(外科)へ移ることになりました。そこで「十・十空襲」に遭遇したのです。ちょうどその頃山原船が中城湾に入港していて、米軍の偵察機は白煙で暗号を送っているように見えました。その直後、米軍機は山原船をめがけて爆撃を開始したのです。入院患者のうち歩ける者は自宅へ帰るよううながし、残った患者は病院の防空壕に一緒に避難したのでした。夕方になると那覇と読谷方面の空が真っ赤になっていました。
 数日たって嵩原医師も召集され、病院は閉鎖、私は牧原の実家に帰ることにしました。途中北谷で米軍の偵察機に見つかり機銃掃射を受けましたがフクギの大木に隠れ難を逃れたのでした。夜になって歩き出し、やっとの思いで家にたどり着いたら日本兵が投宿していました。屋良の球部隊の将校たちが中心でした。そこで昼間はその部隊の掃除や食事を作ったり事務の手伝いをすることになりました。しかし、その時の兵隊達は銃も十分になく、竹槍を持っているといった様子でした。これで戦争ができるのかなと真剣に思ったほどです。
 
手榴弾を手渡され
 戦況の悪化で部隊は南部へ移動。兵隊達は、「もし捕虜になりそうな時には自決せよ」と15人の女性たちに1個ずつ手榴弾を手渡して行ってしまいました。
 4月1日、高台にある久保倉敷(地名)の大きな壕から出て米軍上陸の様子をうかがったのですが、ものすごい船の数、黒々とした戦闘機の編隊。その時、偶然にも長兄に出会ったのでした。徴用兵として軍と行動を共にしていた兄は腰を痛めていて動くのにも難渋しているようでした。一緒に山原への避難を勧めたのですが、日本人として軍と行動を共にしなければ子ども達が惨めな思いをすることになるだろうと南部へと向かったのです。そういう教育でしたから…。
 後に兄は首里の弁ケ岳のガマの中で窒息死したことを、これも偶然山原の避難地で出会った兄の知人から聞いたのです。腰の悪い兄は、ガマの最深部にいて爆撃で入口を閉ざされたのです。入口近くの人々は自力でこじ開け呼吸をすることができたのですが、奥の兄はそこで息をひきとったということです。戦後その場所を確認して遺骨を拾い弔いました。
 山原への避難途中、金武の療養所の近くで、またもや米軍機の機銃掃射を受け、畑に伏せては、林めがけて一目散に走ったのです。けが人もなく15名が無事家族のもとへ行きつくことができたのは正に奇跡としか思えません。
 特に避難地での食糧難は苦しく持って行った着物はすべて芋や米にかわり、塩は海水を汲んできては夜中炊いて作りました。もう何もなかった。近くの畑で命乞いをするように芋を分けて貰ったこともありました。さらにカタツムリを山原バーキ(篭)にたくさん入れて、きれいに洗って食べたこともありました。
 六月ごろ、「沖縄の皆さん、もう戦は終わりました。早く山から出て下さい。」という内容の米軍の宣伝ビラが撒かれました。近くの喜如嘉の集落では、村人たちは道を悠々と歩いていて、山には食物もないしみんなで出て行くことにしました。
 
山から降りても多くの人々の死が…
 喜如嘉の小学校は既に病院になっていて、平良医師のもとで看護を手伝うことになりました。食料難から栄養失調が多く、子どもたちのお腹は膨れ上がり、大人も含めて毎日バタバタと多くの方々が亡くなっていきました。浜辺は人々の埋葬場と化しました。戦争は本当に恐ろしい、尊い生命がどんどん失われていく。言葉ではどうにも言い表わせない悔しさと怒りを感じました。
 私は、戦争このかたまだふるさと牧原の姿を見たことがありません。屋敷内の防空壕には青春の思い出がいっぱい詰まったアルバムを残したまま。揚水場のすぐ側にあった屋敷は今でも確認できると思うし。せめてあのアルバムだけでも戻ってきてくれれば…。ふるさと牧原に帰らない限り自分の中の沖縄戦も戦後も終わることはありません。
(平成7年9月5日 広報よみたん 第430号 沖縄戦終結50周年記念企画「私と沖縄戦」連載から)
 
 

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