続 渡慶次の歩み > 第3章 戦前・戦中・戦後体験記 > 第1節 私の戦前・戦中・戦後体験記
第3章 戦前・戦中・戦後体験記
第1節 私の戦前・戦中・戦後体験記
14 助け合いの生活
話者 玉城※※
1933年(昭和8)生
木に登ってまで逃げた鬼ごっこ家族は、私を含めて7人。父は終戦後まで役場で働いていた。生活は自給自足で自分たちの畑からイモを食べていた。お父さんが役場で働いていたから、農業は主に母がやっていた。だけど、土日とか役場が休みのときなんかは、お父さんも一緒にやっていた。自分も、幼い時から畑の手伝いをやってたけど、戦前の小学4、5年生になると、畑に行くっていうのはそんなになかった。戦後は自分たちで田んぼを耕して、米を作っていた。
戦前はお手玉、マリつき、ケンパ遊び、貝殻をはじいて遊んでいた。あと鬼ごっこやかくれんぼ、鬼ごっこは木に登ってまで逃げていた。手伝いは女の子は子守り、特に私は長女だったからそうだった。男の子は、主に畑の手伝いをしていた。
日本の演習と思っていた十・十空襲
十・十空襲はみんな同じだったと思うが、まさか敵の飛行機だとは思わないから、高いところで見ようってなって、学校のところまで行って、喜んで見た。私たちが見に行ったって聞いてからビックリして、「あれは、敵の飛行機だよ〜」って従兄弟のおじさんが連れ戻しに来た覚えがある。
日本軍はしょっちゅう近くで演習していたので十・十空襲のときもみんな日本軍の演習と思ってたから、はじめは気づかなかった。私たちのなかでは日本軍が防衛してくれる、守ってくれると思っていた。
北部での疎開の様子
私が小学5年生の時、米軍の上陸前に疎開した。疎開は、順番があって、役場の職員とかあるいは公民館の職員とかは先に行っていた。米軍が上陸するころは私たちは国頭の方で落ち着いた。疎開はわりと早かった方だ。一応家族全員で疎開はしたけど、お父さんは、役場の職員だから、家族を荷馬車で先に行かして、後から疎開するかたちだった。
国頭に行った時は、現地の人たちが読谷の人たちのどの字(あざ)の人たちはどの家にというように分けてあった。昔は本家とは別に小屋なんかがよく造られていて、そういうところに入っていた。7月になるとヤンバルに米軍が進攻したので、今度は山小屋に避難した。山小屋は現地の方々が一定のところにつくってあった。
山小屋は避難民たちが入っていた。食料は自分たちの場合、お家から豚を潰して持ってきていたから、しばらくの間の生活は良かった。だけど戦争が激しくなったら、みんな同じで、もうギュウギュウな生活だった。昼は山に隠れて、晩になると下に降りていってあたりを見回して、近くの民家の作物をあさっていた。主にイモを食べていたが、もうこんなちっちゃいものしか残ってなかった。食べるものがないから、山にある桑の葉っぱを取って食べたりもした。
石川へ
戦争が終わり日本が負けたことを聞いて、国頭から、石川の方に頼りがあったので、石川に行った。食料の基本は配給に頼っていた。家族全員で並んでもらいに行っていた。配給物資は少なくてきつかった。一日一回ずつあったかは良く覚えてないけど、とりあえず毎日あったと思う。石川では、子どもたちには教育が大事だということですぐ学校を興してあった。今の城前小学校である。
高志保へ
読谷の復興には、大人たちが先に行って家を作って、ここの字(あざ)はこの家に来なさいというようにしてという感じだったので、読谷に来たら家があった。当時は、高志保と波平が移動の中心で、読谷の人たちはそこに集められた。渡慶次は、飛行場があったから、移動できなかった。渡慶次が開放されたとき、自分のお家は、かろうじて残っていたので、そこで生活をした。もう少し下のほうはブルドーザーでならされていた。しかし米軍による立ち退き命令で、また高志保の方へ行った。その時はせっかく家に来たのにまた高志保に戻って、他の人の家で生活が始まって、騒動もあるし早く帰りたいと思った。だけどこれがきっかけで、兄弟づきあいが始まり、ずっと友達になる場合もあったりして、いい面もあった。そうでもしないと住む場所がなかった。しばらくしてだいぶ生活も落ち着いてきた。
学校教育
戦前の学校教育は、私たちが入る前から皇民化教育というか、戦争に関係する教育の方が中心だった。3年生くらいからは防空壕掘りをしたことを覚えている。教科書にそった教育を5年生まで受けてはいたが、内容は軍国主義的な教育が多かった。それが当たり前だと思っていた。不思議には思わなかった。戦後になって、あの教育はあんなものだったのかと考えることができた。言われたことをそのまま言うとおりにして、みんながやるから自分もやって、戦前は教師の言うことには絶対服従だった。
戦後は、働き盛りの6年生だから、学校行って勉強っていうのはなかった。自分達で木を切り倒して小屋をつくったりした。高志保では昔の役場のところに小学校があった。小学校は8年生まであったけど、6・3・3制になってから、中学校ができて7年生8年生なんかは分けられた。中学校は今の読谷中学校の場所にあった。テント小屋で、探してきた箱に座って勉強した。戦前と戦後の教育はまったく違っていた。民主教育だからね。6年生になって、昔の教育は間違っていたんだなってわかった。教師は戦前の教師がほとんどだったが、昔は6年生から、女学校とか中学校に進学したけど戦争で卒業していない人たちが臨時教師をやっていた。だけどこの人たちは教員免許がないので、教員養成所に行っていた。先生は戦前言っていたことと、戦後に言ってることがまったく違うから、先生たちは自分でおかしいと思っていたんじゃないかな。世間もだいぶ落ち着いて、自分が高校生になって戦前の教育のことについて考え始めた。
戦後の生活
自分たちの畑もあり、ひどい時よりは生活はましだった。主食はイモで、ちょっと余裕がある家は、弁当にふかしイモとたくあんと油味噌とかが入っていた。鶏を飼っていて、家畜も人間も一緒に生活していて、今思えば、衛生的によくなかったけどそんなふうに生活していた。卵焼きがごちそうだった。正月は、豚や山羊を潰して食べた。豪華な食事だった。
戦後の事件
一番の問題は、空からトレーラーが降ってきて圧死した「隆子ちゃん事件」だった。自分はそのころ就職していたから、職場から抗議をしにいった。当時は安心して外を歩けなかった。またパラシュートで米兵が畑などに、間違って降りてきたら、そこの畑の人が怒ったり、とにかく危なかった。こんなことが、数え切れないほどあった。一応、訓練を行うというのは、村長に通知されることになってたり、報道でわかる場合もあった。
生きてきて一番印象に残っていること
生活のことだったら就職できたことだね。40年間幼稚園で働いている。仕事があるということは、時代が困窮だったから、とても就職できたことがよかった。毎日子どもと遊んで楽しかった。
15 ひもじかった戦争
話者 玉城※※
1930年(昭和5)生
父の仕事家業は農業だった。さとうきびや芋、ウィーチョーなどをつくっていた。野菜は大根や人参、ねぎなどをつくっていた。
もらいたかった卒業証書
両親がフィリピンに出稼ぎに行ったので、私はフィリピンで生まれた。フィリピンでは日本語教育半分、英語教育半分、これだけを習っていた。おじさんに学校行くんだったら、日本に帰って、日本語の教育を受けさせなさいって言われた。学齢期になって、沖縄に帰って来たけど卒業は出来なかった。なぜ卒業できなかったかって言うと、今日卒業できるという日に空襲が始まったから、結局、学校には出席できずに、卒業証書ももらえない。小学校を終わっているからもらったのと同じだと思うけど、校長先生から受け取ってないから、卒業したとは言えない。
米軍上陸前の空襲
昭和20年3月23、24、25日と、空襲が連続してあった。25日の夕方になったら、渡慶次は「戦闘地域になるので避難しなさい」という命令がきた。歩ける人は荷物をたくさん持って歩いていった。その後も空襲は続いた。アメリカ軍が上陸したと聞いてからは逃げようとしない人達もいた。歩けない年寄りや幼い子どもとかは、どうせ死ぬんだったらここで死んだほうがいいって言って、渡慶次の地下壕に隠れた。「ここで死んだほうがいい、遠い山原には行ききれないから」と言って、みんなそこに隠れた。私の推定では、地下壕は一千名ぐらい入れるんじゃないかなと思う。
23、24、25日は、空襲どんどんするけど、昼間は空襲がピッタリと止まった。空襲がないものだから外に出てみたら、戦艦が海にいっぱいしていた。海が見えないくらい。これをまたいで行ったら慶良間まで渡れるくらい。艦砲射撃も何もしないから、これはひょっとしたら、日本の連合艦隊が守りにきてるんだ。そう思ってたら、そうではなかった。
避難、山原へ疎開
私たちは国頭村の桃原という部落に避難した。昼間は隠れないと危なかったので、国頭に2日かけて歩いて行った。
今の国道58号はあのとき、中南部から北部へ行く人でいっぱいだった。荷物かついでいる人もいるし、幼い子どももいる。5歳か6歳くらいかな、「母ちゃんよー、母ちゃんよー」って反対の方向に行く子どももいた。今考えてみたら、あの子は戦争孤児になってるかもしれないって、今でも非常に気にかかる。反対の方向に行くのだから、もう絶対に親とはぐれて会えないはずである。
私たちが避難した所には民家があって、家の一角をかりて、そこに入った。これは県の指示だから家賃はでなかった。でも、民家には持ち主の家族が住んでいて、3部屋あったら2部屋は家主が使って、1部屋は避難民に使わせていた。
生きるために
国頭にも配給米があって、毎日少しずつ食料としてもらっていた。地元の区長に、私の父が相談して、米屋に配給米を取りに行った。渡慶次から避難している人達は、担げる人、持てる人はみんなそれぞれに米を持って、敵が上陸しているのにその中をかいくぐって行った。そして食べ尽くすと、今度は山から下りる。どれぐらいの距離だったかよく分からないけど、下りていったら芋があった。その芋を取ろうとしたら、「避難民ヌスルーヤルー(盗人だ)」ってものすごく怒られた。人のものとるのだから、言われるのは当たり前である。あとからは何も言われなかった。避難民がかわいそうで、食べさせないといけないって思ったんでしょうね。
芋をよその畑に取りに行くのは夜。昼は絶対とりにいけない。もうそこは敵の陣地がつくられているから。夜でも気づかれないように行った。敵の陣地の中は誰もさわっていないから芋がある。陣地は砂地で、鉄条網ではりめぐらされているんだけど、網の下を掘ればくぐっていける。鉄条網がはりめぐらされているところに、あっちこっち缶カンもさげられていた。それをさわってしまったら、そこに機銃掃射がくる。横には照明弾も埋められている。1日目に成功した人が、2日目に行ったら敵が待ち構えていて機銃掃射にやられて死んだ人もいるし、生き残った人もいれば死んだ人もいる。戦争はやっぱり住民も巻き込まれる。もう食べるものがないものだから、本当にみじめなひもじい思いをしていた。
配給・戦果
食料がないことで一番ひもじい思いをした。着物もなかった。米兵が着けるものとか拾ってきて、ほどいて縫ったりして着けていた。配給は、缶詰とメリケン粉(小麦粉)があった。米兵に、「タバコちょーだい。」って言ったらあげる人もいた。それも一本ずつ。タバコは自分が吸うものでなくて、親父にあげるためにもらってきた。
天地の差
B29が発着できるような基地を米軍はつくったんだけど、すごいなーって思った。読谷飛行場をつくるときの工事のやり方は全然違っていた。土をショベルで掘って、担いで、馬車にいっぱい積んで運んでいく。米軍の場合はブルドーザーで土をおして、トラックやダンプカーに積んで、低いところにこぼしてしきならしていく。天地の差があった。米軍と日本軍を比較した場合、米軍は物資が豊富、日本軍は物資が貧しいことを思い知らされた。こんなに物のある米軍にどうして戦争をしかけたかなって非常に不思議である。
戦後の事件
一番危険なのは落下傘の訓練だと思う。読谷飛行場は落下傘の演習地域だった。たまたま民家に落ちたり、トレーラーも落下傘で降ろしたりした。一番大きな悲しい事故は、落下傘のトレーラーがおちて小学校5年生の女の子が亡くなったことである。ものすごく抗議をやったが、それでも落下傘の演習を止めなかった。ようやく、落下傘の演習を止めたって聞いたら今は伊江島に移っている。今でも伊江島で間違って演習場以外の場所におちたりしている。
民家に間違って米兵がおちてきたら、「あんたは行かさない」って言って捕まえておくのだけど、憲兵が来て、米兵を引っ張っていく。私たちは、落ちてきた米兵をこっちにおいておくっていって、そこで憲兵と引っ張り合いをする。攻撃はなくて、結局はいがみ合いになるんだけど、お互い紳士的にやらないといけない。野蛮行為はしてはいけないから、抗議の仕方として大きな罵声もあびせる。お互い何を言っているかは分かると思う。抗議しているんだなーってことが、表情から分かると思う。おちた米兵も私たちが恐いから、ガタガタ震えていた。
16 「感謝」
話者 山城※※
1936年(昭和11)生
戦後の生活親父は役場の農林係に勤めていた。戦前も戦後も役場関係だった。戦中は役場の機能が止まっていたので役場職員ではなかった。戦後もその仕事を継いだ。組織機構が違ってきて、業務内容も変わった。家族は父母に子どもが7名で合計9人家族だったが、当時はそれくらいが普通であった。大体の家庭がそうであったように私のところでも生活は厳しかった。
戦後になって私は大学に行きたいとの希望をもっていたが、生活が苦しいので親父には言えなかった。逆に親父のほうから「下の子どもたちのことも考えてくれ、大学はあきらめてくれ」と言われた。それで、アルバイトをすることで許しを得た。4年間那覇の牧志のほうで家庭教師をしていた。夏休みには長浜の森岡採石工場で、学費を稼ぐために働いた。今振り返ってみたら自分はわがままだったのかなという感じがして、いつも兄弟姉妹に感謝している。
大学への登校は首里の坂道を歩いてキャンパスに向かった。もちろん車はなく、寮生活だったが、あの時としては恵まれていたと思っている。
空襲と疎開生活
十・十空襲のとき、私は自宅の東にある共同井戸で水を汲んでいた。パラパラという音が聞こえてきたので、演習だと思い、今日のは規模が大きいなぁと思っていた。そこへ兵隊がやって来て「これは演習じゃないよ、空襲だぞ」と言ったので私は水をおっぽりだして、家に戻った。すると鐘を打っているような音がして、周りの人もそのとき初めて空襲に気付いたらしい。
近々読谷に米軍が上陸してくるという情報は入っていた。当初、親父は今帰仁へ避難するということだったが、国頭村字桃原に変更になった。それで私たち家族は親父を残し2月下旬桃原へ向かった。
疎開先での生活は現地の人たちに大変お世話になった。空き家を貸してもらったり、本家を二つに仕切って暮らしたり、さらに食料も分けてもらっていた。空襲が激しくなり、みんな米をかついで、山の避難小屋に逃げた。この小屋も、現地の人々が造ってあった。時期が4月、5月、6月だったが割と涼しかった。冬だったら大変だったと思う。
山に入っても食べるもの、寝るところも、現地の人たちにお世話になった。今でも、車で通る時は必ず当時お世話になった屋敷に寄り、感謝の意を表するため手を合わせ頭を下げている。
山の中にいるときには米を蓄えていたが、それは戦争がいつ終わるかわからないからと手をつけないでおいていたのであった。
◎[写真] 本編参照
米軍上陸 (比謝川河口・渡具知)
当時の食べ物はだいたい、芋を食べていた。待ち合わせ場所は一本松とみんなが呼んだちょっとした高台で、そこに松明を置き、夜になるのを待って山のふもとに下り、芋を探した。
一番怖かったのは、米軍の陣地の柵に触れることであった。柵に触るとカラカラと音がして照明弾が撃ち上げられ、機銃掃射が始まるのであった。私たちはみつからないようにと明かりを持たず、手探りでイモを探した。今生きているのが不思議なくらい運が良かったと思う。必要な分のイモを手に入れると帰るのだが、一本松で松明に火を付け、比地川沿いを避難小屋に向かった。それぞれに帰る時間はバラバラであった。
戦前・戦後の仕事と食糧事情
戦前はどこもそうだったと思うが産業らしきものはなかったので、ほとんど農業だった。農業といっても自給自足のためだった。田んぼがたくさんあるわけではなく、ほとんどが畑で芋と野菜を植えていた。芋もいいものができればいいが、虫がついて芋には閉口した。
戦後の命をつなぐ手段としてはアメリカの軍事物資が中心になっていた。ほとんどの人の憧れは軍作業に出ることだった。軍作業でお金を稼ぐというよりも軍作業に行けば家族を支えることができたからである。というのは軍作業では、お菓子とか、米兵が残していった缶詰等がもらえたからである。それは自分の口に入れるのではなくて、家族を支えるためだった。だから、あのときの軍作業の中でも人気のトップは炊事班だった。炊事の場合には残飯の中に肉の塊を隠し、養豚をしていると残飯を持って帰ったりもした。残飯はもちろん豚に食わせるが、中に忍ばせてあった肉はきれいに洗って食卓に上った。だからアメリカの軍作業の中でも炊事班長ともなると、みんなの憧れの的になっていた。当時は衣・食・住の中でも食の状態がひどい状態だった。
私が高等学校の時には弁当を見るだけで親父がどんな仕事をしているかがわかった。弁当の中に、肉が入っていると親父が炊事をしているとわかったのである。
戦中、戦後を通して印象に残っていることは、いろいろな人にお世話になったことである。戦中は桃原の人々に、戦後は大学に行かせてくれた家族に感謝している。その後も多くの人々のお陰でここまでやってくることができた。すべての皆さんに感謝の思いでいっぱいだ。