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第3章 戦前・戦中・戦後体験記
第2節 『島クトゥバで語る戦世』体験談
5 安田※※(万久安田(マナクヤシダ))
1927年(昭和2)生
聞き手:玉城※※、村山※※
安田:山うてぃぬ避難生活始まとーしが、また山ん中んかい敵が上陸すんどーぬ話が広まてぃ、避難屋ーから飛出(トン)じたーまかい山ぬ奥(ウク)んかい隠たん。雨降てぃ、わったー男(イキガ)の親73ないしがて、連(ソ)ーてぇ行かん「家(ヤー)ん番そうちみそうりよ」でぃち残(ヌク)ちゃるばー。避難小屋んかい戻ちゃぐとぅ、加那当下庫理(カナートーチャグイ)のしんかが、わった男ぬ親、連(ソ)ーてぃんじねーんばーよー。親の姿(シガタ)ぬ見(ミー)ぃらん、探(トゥ)めーんでぃあまはいくまはい。加那当下庫理が「避難家ーんかい、どぅー1人(チュイ)めーたぐとぅや、アメリカーんかい連(ソー)てぃ行かりんどーんでぃ言ち、わったーが連(ソー)てぃ行じゃんどーや」でぃぬ事どぅやる。
うりから20日(ハチカ)ぐらい経(タ)っちゃがやー、読谷山(ユンタンザ)や戦(イクサ)ん勝っち、畑(ハル)かい出(ン)じて仕事(シクチ)んそーんどーでぃぬ話があたん。見(ン)ちくぅでぃぬことなてぃあまくまぬ避難屋しんかから、男(イキガ)んちゃー一人(チュイ)出(ン)じてぃ、10名余い読谷山かい向(ン)かたんよ。
途中(ミチナカ)うてぃ、兵隊(ヒータイ)が殺さっとーし見(ン)ちゃい、前(メー)んかい進(スス)みーさんばーよ。うり見(ン)ちゃーま。行ちゅがやー行かんがやーそーしが、うまってぃ、飛行場の設営隊そうたる伊沢曹長とぅ行逢(イチャトー)んばーよ。真佐当下庫理(トウチャグイ)のお父(トウ)が、彼(クリ)ゆー知っちめーるばーてー。読谷山、じょーい行からんどーやー。あまー占領さっとーんどーでぃち言らりやーま、あんやがやーでぃち、引っ返(ケ)えーちょーさ。
戻(ムドゥ)てぃちゅーんでぃしーねー、辺土名んかい避難そうたる渡慶次しんか、ハナタイのお父達(トウター)が読谷山んかい向(ン)かとーたぐとぅ、かんしかんし、読谷山んかいや行からんどー、でぃち言ちゃぐとぅ、池之畑(イチヌハタ)のおじーが、ちらふっくたーま、合点(ガッティン)ならんふーじーぬ様子(ユウシ)が非常(ジコー)思(ウム)い出に残(ヌク)とーん。
避難屋に帰(ケー)てちっから、なー読谷山行からんでぃーぐとぅ、落(ウ)ち着(チ)ちゃーま、なー芋(ウム)掘いが行かんねーならんでぃぬくとぅなたん。夜(ユール)、芋掘いが降りてぃ。1番印象的なものは、鏡地原(カガンジバル)まで行(ン)じゃぬくとぅ。米軍や照明弾打ち上ぎーねー敵(ティチ)どぅ探(カ)めーとーしが、わったーやまーんかい芋ぬあがやーでぃち、頭(チブル)上ぎたーま、うりびけーい探めーたんよー。あんしすぐパーラパーラ機銃掃射が始まいるばー。皆砂(ンナシナ)んかい顔(チラ)打ちかんてぃ、わんねー生ちちょーがやー、死じょーがやーっし、魂抜(タマシヌ)ぎたるちわんあたんどぅ。
2か月目ぐらいから戦ん終(ウ)わてぃ、山から降(ウ)りーんなたぐとぅ、わんねー18なてぃ生ちちょーせー。同級生や皆(ムル)兵隊(ヒータイ)かい取らってぃ、うらんなとーせー。渡慶次しんかや皆(ンナ)降りとーしが、降りーねー殺(クリ)さりーぐとぅ、わんねー降りらんりち言ちゃさ。
わったー避難小屋ぬ側(スバ)んかい波平(ハンジャ)の知花※※さんと、知花※※さんがうたん。あまん家族(ヤーニンジュ)降りとーしが、2人(タイ)ぐーにー残(ヌク)てぃめーんばーて。わん1人(チュイ)降りーねー殺さりーぐとぅ、ぐーなれーりち3人(ミッチャイ)ぐーなたん。海岸(ハーマ)んかい出(ン)じたーま、夜(ユール)ないねー逃(ヒ)んぎらやーでぃち。屋ーぐゎー焼かってぃ無(ネ)ーんどぅあぐとぅ、雨降とーぐとぅマントー小かんたーま、いちょーてぃよー。翌日(ナーチャ)夜明き方、知花※※さんぬ奥さんが、「殺(クル)しぇーさんぐとぅ降りてくー。」りちゃぐとぅ、わんねー奥さんの後追(ウー)てぃ降りたんどー。2人(タイ)や降りらんたん。
降りんでーすんねー、ぬーがらわんの荷物(ニムチ)んかい日の丸入っちょーんばーよ。奥間の上(イー)んかい瓦屋小(カーラヤーグヮー)があたしが、うまからアメリカー兵隊が2人(タイ)出じてぃ、わんねー荷物小開きらち。うぬ日の丸やけー取らってぃ、残(ヌク)いや返(ケー)ちぇーたん。
降りてからや、食糧(カムシ)が無(ネ)ーらん。配給1日1回やたん。
玉城:じこーいきらさいびーたんや。
安田:後から食糧(カムシ)が無(ネ)ーんなたぐとぅ、避難民集(アチ)みてぃ。わんねー班長なてぃ、辺戸岬までぃん行(ン)じょーんばーてー。地元の人や芋(ウム)んあしが、避難民のー無ーんどぅあぐとぅ、わんが班長なてぃ、トラックんかい乗(ヌ)やーい、芋掘(ウムフ)てぃトラックんかい載(ヌ)してぃ、国頭(クンジャン)桃原かい送(ウク)いるばーよ。米兵が埋みてーる缶詰探めーとーるばーて。うれ食(カ)れーんだんぐとぅ、早ーく家族(ヤーニンジュ)んかい持(ム)っちんじ、食まさんねーならんむんでぃち、背負(カタミ)やーい与那(ユナ)まで来(チャ)ん。やたしが、与那の青年達(ニーセーター)んかい捕(カチ)みらってぃ。夜(ユー)明け方やたんよーや。アメリカ製品(シナムン)持っちぇーうらんがやーでぃち、わったー調びらったん。缶詰入っちょうぐとぅ「うれアメリカ製品やぐとぅ、うれー置(ウ)ち、芋かたみて行けー」りちよ。おーてぃん、かなーんどあっさい。
うりから芋びけー持(ム)っちっち、家族(ヤーニンジュ)や食(カ)まちゃしがよ。
10、11月頃(グル)ねー、今(ナマ)ぬ奥間ビーチホテル、うまんかい二つ(ターチ)森(ムイ)でぃちあたしぇや。甥(ミーックヮ)の※※と2人(タイ)ぐーにーし蘇鉄(スーティーチャー)採(トゥ)いが行じゃんばーよ。蘇鉄(スーティーチャー)ん全部(ムル)無(ネ)ーらんなてぃ、食むしんかいやあわりさん。
石川(イシチャー)や食むしんあんでぃる話ぬあぐとぅ、行(ン)じんでぃわるやっさーでぃち、米(クミ)や2合持(ム)っち行ちゅるくとぅなたん。昼道から歩っちーねー、越境罪りち捕(カチ)みーるばーよ。夜の10時ぐる出(ン)じやーま海から、陸から隠い隠い行ちゅしが、うんぐとぅしー源河、羽地までちゃぐとぅ、夜(ユ)ー明きーるばーよ。夜ー明け方、田井等んかい入っちゃーい。うまんじゆっくたぐとぅ、うぬ隣近所(ケートゥナイ)ぬ家(ヤー)が、儀間(ジーマ)の清勇嘉手苅(カディカン)なとーんばーよ。うまぬしんかやご飯うさがいてぃめーたんよ。あびよー、ご飯ぬんあるんでぃち驚(ウドゥル)ちょーたぐとぅ、「やーや※※どぅやさにくーわ、くーわ」し、初めてぃご飯食(カ)らん。
田井等から石川(イシチャー)んかい、今度(クンドゥ)渡いんでぃーねー、車が2時に出(イ)じんでぃるばーよ。軍のトラック、うれ証明書持っちうらんねー乗(ヌ)ららん。証明書が無ーんしぇー乗してーいかんばーて。2時なたぐとぅ、米兵(アメリカー)がトラックの後(クサー)から証明書点検さーま、1人(チュイ)なーかーる乗(ヌ)しーんばーよ。わんねー半分乗てぃから、知らんふーなーぐゎし打ち乗てぃよ。石川(イシチャー)んかい着(チ)ちゃぐとぅ、捕(カチ)みらってーならんぐとぅ、すぐ飛び降りたーま部落の中んかいちゃーぶーない。
うんぐとぅし、石川んかい来(チ)ちゃせー11月20日ぐるやたん。
玉城:家族(ヤーニンジョー)山原んかい残(ヌク)ちな。
安田:あらん。うぬ後から、すぐそーいが行んじゃん。わったー義理の兄さん、国吉※※が、国吉小の。ありが軍からトラック借たーま、許可貰(イー)てぃ。うぬ後、渡慶次しんかむるちょうせーやー。わったがちっから、20日ぐらい後やたん。12月ぐる。
山原かいういねー、蘇鉄(スーティーチャー)びかーじ食(カ)どうぐとぅ、足(ヒサ)ん腹(ワタブトゥ)んふっくてぃ。
村山:栄養失調で?
安田:いん。蘇鉄(スーティーチャー)びかーる食(カ)どーぐとぅ。顔(チラー)かんさーまよ、腫(ハ)りてぃ。あの蘇鉄や食まりーたしが、山ぬ中ーかいある(ヒグゥ)よ、うり食むんでぃ指(イビ)し押し込りんまた戻ち。あれびけーじぇー、ちゃーんならんたん。いかなしん食(カ)みーさんたん。
渡慶次から馬車持(ム)っちちょーる避難民が居(ウ)たしが、山んかい登(ヌブ)てぃから、馬くるち食ろーんばーよ。塩(マース)入りらんよーい煮ちぇーぐとぅ、食まりーるむのーあらん。うんにーに初めてぃよ、馬の肝臓(チム)んかい毛生(キーミイ)とーる馬、初めて見ちゃん。西門の馬小や年寄り(トゥスイ)やたしが、肝臓んかい白毛(シルキー)いっぱい生(ミイ)とーるばーよ。真佐当下庫理のお父(トウ)が「チムんかい、毛ー生(ミイ)とーしんある」でぃちよ。若馬小んかい無(ネ)ーんど。
昭和20年12月、連(ソ)ーらってぃ読谷山かい、芋掘いがちぇーぐとぅ。うにまんぐらーや渡慶次んかい入ららんたん。道ん無ーんどぅあさいや。石川かい帰(ケ)ーいねー巡査んかい見らりーねー、取い上ぎらりーぐとぅ、山ぬ中から帰ーたん。
村山:マラリアんかい かかいびたんなー?
安田:わん1人(チュイ)かからんたん。家族(ヤーニンジュ)むるかかとーしが。うんなくんなあたしがお父(トウ)がよ、まとめてよかったなーでぃ思(ウム)むとーんばーよ。
〔訳〕
安田:山での避難生活が始まっていたが、また山にも敵が攻めてくるという話が広まって、避難小屋からも出て、山のさらに奥へ隠れた。雨も降っていたので、私の73歳の父は(はじめは)一緒に連れて行かず、「留守番していてくださいね」と残していった。
しばらくして避難小屋へ迎えに戻ると、加那当下庫理の人たちが父を連れて行っていなくなっていた。父を探し出すといってあちこちを探して大変だった。加那当下庫理の人々は「避難小屋に1人で残っていたので、米兵に連れて行かれると思い私たちが連れて行ったんだよ」と言っていた。
それから20日くらいしてからか、読谷山では戦にも勝って畑にも出て仕事もしているという話があった。見てこようということになり、あちこちの避難小屋にいた男性が各家庭から1人ずつ、10名余りで読谷山に向かった。
しかし、途中で兵隊が殺されているのを見てからは道を急ぐこともできなかった。行こうかどうか迷っていたところへ飛行場の設営隊だった伊沢曹長と会った。真佐当下庫理のお父さんが知り合いだということで、話をしていると、読谷山は占領されて全然行けない状態だと言われ、引き返すことになった。
そこから引き返す時、今度は辺土名に避難している渡慶次出身者、ハナタイのお父さん達が読谷山に向かおうとしているのに出会った。そこで向こうの状況を告げると、池之畑のおじいさんがそんなはずがないと怒った様子でいたのが1番印象に残っている。
避難小屋に帰ってから、読谷山には行けないと分かり、落ち着いてから、食糧を調達するために山をおりて芋を掘りに行かなくてはいけないということになった。夜に芋を掘りに山を下りた。芋掘りで印象深いのは、鏡地原へ行ったときのこと。米兵から照明弾が打ち上げられ、向こうは敵を探しているはずだが、私達はどこに芋があるか見えると思い顔を上げて、芋ばかり探していた。照明弾が上がるとすぐに機銃掃射が始まった。みんな砂に顔をうずめていたが、私自身生きているのか死んでいるのか分からないほど度肝(どぎも)を抜かれたこともあったよ。
2か月くらいすると、戦もおさまって、山から降りることになったが、私は生きていて18歳になっていた。同級生は(この年齢では)皆徴兵されていたので、渡慶次の人がみんな降りることになっても、降りると殺されると思い、私は降りないと言った。
私たちが居た場所の近くに波平の知花※※さんと知花※※さんがいた。むこうも家族は山を降りたが、2人は残っていた。私1人降りると殺されるからと、3人で一緒に居させてもらえることになった。海岸に行き、夜になってから逃げようと。小屋も焼かれて無かったので、雨の中マントを被り耐えていた。翌日の明け方だったか、知花※※さんの奥さんが来て「殺されることはないから降りておいで」と言ったので、私は奥さんの後に続いて降りた。2人は降りなかった。
降りるとき、私の荷物の中に日の丸が入ったものがあった。奥間の上の方に瓦屋があったが、そこから米兵が2人出てきて、私の荷物を開けた。その日の丸が入ったものは取られ、他は返された。
降りてからは、食べるものが無く、配給も1回だった。
玉城:とっても少なかったですよね。
安田:あまりにも食べるものがなかったので、避難民を集めて、私が班長になって、辺戸岬ぐらいまで行った。地元の人は芋があるが、避難民は無かった。私が班長になって、トラックに乗って行って芋を掘り、またその掘った芋をトラックに載せて国頭の桃原に送った。そんなある日、米兵が埋めた缶詰を見つけて、こんなものは食べた事が無かったが、早く家族に食べさせたいと思って担いで与那まで来た。しかし、与那の青年達に捕まってしまった。夜明け頃だったか、アメリカ製品を持っていないか私たちを調べだした。缶詰が入っているので「これはアメリカ製品なので、置いていけ。芋だけ持って行け。」と言われた。ケンカしてもかなわないので、芋だけ持って帰って家族には食べさせた。
10月、11月頃になると、現在の奥間ビーチホテルがある場所、そこには小高い森が2つあった。そこへ甥の※※と2人で蘇鉄を採りに行った。だんだん蘇鉄も無くなってきたので、食べるものが無く本当に大変だった。
石川には食べ物があると聞き、行ってみようと思った。米を2合くらい持って行くことにした。昼間道を歩くと越境罪といって捕まるので、夜10時に出発した。海や陸を隠れ隠れ歩き、源河から羽地についたときには夜明け前になっていた。夜明けに田井等に入って、そこで休んでいると、近所の家に儀間の清勇嘉手苅の人たちがいた。その家では白いご飯を食べていて、白いご飯があることにびっくりした。すると「※※じゃないか、おいで」と言ってくれて、そこで初めて白いご飯を食べた。
田井等から石川へ行くというと、軍のトラックが2時に出ていることを教えてもらった。このトラックは証明書が無いと乗れないようになっていた。証明書がない者を乗せてはいけないので、2時になると米兵がトラックの後の方から証明書を確認しながら1人ずつ乗せていた。私は半分くらい人が乗ってから、知らんぷりして乗り込んだ。石川に着くと、捕まらないうちにすぐ車を降りて集落の方に逃げた。
そうやって石川に来たが、それが11月20日くらいだったと思う。
玉城:家族は山原に残したままですか?
安田:いや、着いた後すぐに迎えに行った。義理の兄、国吉※※(国吉小)、彼が軍から許可をもらってトラックを借りて行った。渡慶次の人たちはその後みんな来ていた。私たちの20日くらい後、12月ぐらいでしたね。
山原にいるときは、蘇鉄ばかり食べていたので足もお腹もふくれていた。
村山:栄養失調で?
安田:そう。蘇鉄ばかり食べるから、顔はこんなにむくんで。蘇鉄はまだ食べられたが、山にあるヘゴだけはなかなかのどを通らなかった。私はもうあれだけは指で押し込んで食べてもまた吐いてしまう。どうやっても食べられなかった。
渡慶次からは馬車で山原に避難したので、むこうに着いてすぐ、馬をつぶして食べた。山に上がってから。でもこの肉は塩を入れずに煮ただけなので、食べられたものではなかった。その時に初めて馬の肝臓に毛が生えているのを見た。西門の馬で、老馬だったので、肝臓に白い毛がいっぱい生えていた。真佐当下庫理のお父さんも「肝臓に毛が生えていることもあるんだね」と言っていた。若い馬の肝臓には毛は無い。
1945年(昭和20)の12月、連れられて、読谷に芋を掘りに行った。そのころは渡慶次には入れなくなっていた。道も無かったから。また石川に帰るときには、巡査に見つかると芋も全部取られてしまうので、巡査のいない山の中を歩いて帰った。
村山:マラリアには罹りましたか?
安田:私1人は大丈夫だった。家族は全員罹っていた。そんなこんなあったが、お父さんが全員をまとめて行動していたことがよかったと思う。