続 渡慶次の歩み
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第3章 戦前・戦中・戦後体験記
第2節 『島クトゥバで語る戦世』体験談
 

6 知花※※(蔵元小(クラムトゥグヮー))

1925年(大正14)生
聞き手:村山※※、玉城※※
玉城:兵隊調びまんぐらから、戦地ぬくとぅ、また捕虜なてぃハワイまでもーちょーし、聞(チ)かしみそーり。
知花:徴兵検査や昭和19年4月15日。わったー大正14年生と、13年生と一緒(マンジョン)。わんねー19歳どぅないたる。
玉城:あんしぇ福地小ぬ※※たーん ゆぬむんな?
知花:※※や志願兵。わんねー徴兵検査受きてぃち出兵。渡慶次(トゥキシ)事務所んかい18名集まてぃ区長さんから激励ぬ杯(サカジチ)ん受きたん。集合や比謝橋やたん。歩ち行(ン)じゃん。役所ぬ係が配置すたしが、山部隊、球部隊でぃち行く先(サチ)ん全部別々(ナーメイメイ)。
 わんねー具志川(グシチャー)配属やたん。昭和19年10月15日。具志川とーてぃ12月いっぱいまでぃ研修・訓練ぬんあたん。1月1日ねー東風平までぃ夜間行軍ぬあたん。ちゃーあっち。
 東風平うてー1、2か月や壕掘(フ)やー。わんねー民間馬車借てぃ馬車持っちゃーそーん。松(マーチ)、壕んかい運(ハク)らい、字(アザ)からぬ供出芋(ウム)取(トゥ)いが行じゃい。3月なたぐとぅ具志頭(グシチャン)かい移動。3月24日艦砲射撃がバンバンし、住民ぬ家(ヤー)んあまくま焼けてぃ無(ネ)ーらん。
 2、3日経っちゃぐとぅ、軍艦1つ(ティーチ)ん無(ネ)ーんどぅなとーんで。西海岸かいみぐてぃうらんばーよ。アメリカーや戦負きとーんでぃち逃(ヒ)んぎとーさ、わったーや自慢(ガータン)よ。うぬあと、西海岸かい集結さーい、北谷、読谷山(ユンタンザ)から4月1日に上陸そーんでぃち情報が入っちちょーんばーて。自分たち(ドゥーナー)や具志頭(グシチャン)ぬんかい陣地造(チュ)てぃ待っちょーぐとぅ、うまからる上陸すんりる思(ウム)たる。
 私達(ワッター)や反対側ぬ運玉森(ウンタマムイ)んかい移動そうしが、4月4日に総攻撃受きてぃ、今(ナマ)ぬ琉大ぬ西原よ。うまん総攻撃ぬあてぃ、部隊や3分の1しか残くてーうらん。なー玉砕。残(ヌク)とーる兵隊(ヒータイ)集みてぃ、また中隊作(チュク)たん。うぬ中隊ん斬り込みんかい行じ、一人(チュイ)なー一人なー死(ウ)らんなて、残とぅーる者や島尻んかい。隊員のーなー2人(タイ)、3人(ミッチャイ)る残とーんばーよ。あんさーかい早ーく逃(ヒ)んぎーせぇーましでぃち。命令すん班長ん皆(ムル)うらんるなとーさい。
 今度(クンドー)ひめゆりぬ壕よ、あの壕の前(メー)ぬ穴んかい入っちゃぬばーて。わったーや敗残兵どぅなとーぐとぅ、やまとぅーが「そこはあんた方が入る所じゃない、出なさい。」でぃ言ーぬばー。なー仕方ならん「はい。」でぃち出じとーんばーよ。夜明(ユーアキ)ー頃(グル)やぐとぅ入ーる壕ん無(ネ)ーらん、甘蔗(ウージ)畑にかい3人(ミッチャイ)入っちゃん。食物(ムノー)食(カ)れーうらんどぅあぐとぅぱくない食(カ)ろうさ。
 うぬうちねートンボー小(グヮー)(偵察機)が飛んでぅち私達(ワッター)や逃(ヒン)ぎまーいし、あとー寝(ニン)じがさら、ぬーがさらー分からん。グラマン機が3機飛でぃちゃーい機銃弾ばんない落とぅちはいるばーて。甘蔗畑(ウージバタキ)ん焼ちとぅばちよ、うまから逃ぎらんねーならんりち、浜(ハーマ)んかい向かてぃ岩陰かい行じゃん。喜屋武(チャン)岬んかい行ちゅみ、摩文仁んかい行ちゅみりち相談そうしが、喜屋武岬や火ーん上がてぃ見ーぐとぅ行かんけー。摩文仁んかい向(ンカ)かてぃ港川(ミナトガー)んかい行ちゅるさんみんやしが、摩文仁んじ皆(ムル)止みらっとーるばーよ。うまんかい大勢(ウホーク)居たんど。壕んまんどーせー、わったー班長ぬ軍曹やうまんかいどぅ居んで、片目さっとーるばーよ。班長でーむぬ「ご苦労様です。」でぃ言ちよ。「あんた方生きておったか。もう出るな、今死んだら犬死にだよ。」でぃ言いるばーよ、班長が。食糧(カムシン)無(ネ)ーらん、夜(ユール)摩文仁ぬ部落んかい行じゃぐとぅ、避難民がハガマんかいご飯煮ち背負(カタミトー)しよ、うり盗でぃ食(カ)ろーるばーて。やーさーにじららんぐとぅ3人(ミッチャイ)4人(ユッタイ)しぱくない食でぃよ。ハガマ捨(ヒ)てぃてぃ。
 水(ミジ)ん無(ネ)ーんどぅあぐとぅ、海水し芋煮ち食むんでぃそうしが、苦(ニジャ)さぬ食まりむのーあらん。
 同年兵ぬ泡瀬人(アーシンチュ)やしが、うれーわんと一緒(マジョーイ)やるばーよ。「港川んかい突破せーや」でぃち出じたぐとぅ、照明弾ぬ上がいねー隠ってーしいしいし行ちゅしが、越(キー)ういさんば。両方から照明弾のーちゃー上がいどぅやっさい。あんさーな、また戻(ムドゥ)てぃ。木の下(シチャ)んかい昼寝(ニ)んとーに捕虜さったさ。上着や取らってぃ裸なさってぃ。手榴弾4発持(ム)っちょーてーぐとぅ、うりと銃ん海んかい投ぎらさってぃ、2人(タイ)や銃向(ン)かーち、1人(チュイ)や手あげらちゃーんかい収容さったん。2世が「殺しはしない。上にあがりなさい。」でぃ言らったん。わったーや避難民とぅ一緒(マジョーイ)、今(ナマ)の健児の塔ぬ上(ワービ)ぬ広場んかい行じゃぐとぅ、捕虜なとーしが100名びかーいういるすんでー。
 大人数一緒(ウッサヌチュマンジョーン)でーむぬ、殺(クル)さらわんしむさでぃち、やすんじたーるばーよ。缶詰(カンヅミ)ん食(カ)ますんでぃすしが、うりん食(カ)まん。ある人(チュ)が「ゆぬ死ぬしどぅやぐとぅ、腹(ワタ)満っちてぃ死ぬしぇーましどー早ーく食(カ)めー」でぃ言ちよ。あったー食むたん。私達(ワッター)ん開きて取らさったぐとぅ食(カ)ろーんばーよ。食カらぐとぅまーさぬ、なーよーがりてぃるうっさい。
 まーんかい連(ソー)てぃ行ちゅがやーでぃ思(ウム)たぐとぅ、GMCぬ車4台ちゃーま、うりんかい乗(ヌ)しらってぃ、屋嘉んかい連(ソー)てぃいかさったん。うまんかい一夜(チュユル)泊まてぃ、冗談(テーファー)りる思たしが「えー断髪(ダンパチ)くゎーせー、明日(アチャ)やハワイんかいやんでぃんどー」誰(ター)がデマさらー分からんしが。翌日(ナーチャ)すぐGMCんかい乗しらってぃ、嘉手納ぬ水釜んかい連(ソー)てぃ行かさったん。うまんかい大勢(ジャッサン)集みらって船んかい乗(ヌ)しらったるばーよ。うぬ2世が「戦は終わってないから、ハワイに収容する。」でぃ言ーるすんでー。ハワイんかいやんどーすせー嘘(ユクシ)あらん本当やてーさやでぃち。
 ハワイんかい着ちゃぐとぅ、真珠湾攻撃ぬ跡やうぬまま残(ヌク)とーたん。
玉城:船(フニ)ぬ中んじぇ寝床(ニンジュンドゥクマ)、着物(チン)、うんぐとぅーやちゃぬふーじぃやいびーたが。
知花:わったーやパンツと襦袢(ジバン)小。他ぬ船(フニ)や丸裸。乗船しーねぇぷーないぷーない消毒さったん。
玉城:DDT?
知花:いん。シラミ殺(クル)すぬ。裸なさってぃ、捕虜でぃしぇーあんどぅやさや。日本兵が言いたしが、たっちてぃ捨(ヒ)てぃーるすさやでぃ思たる。
 ハワイんかい着ち収容所んかい入りらったしが、アメリカ袋(ブクル)兵隊と同様(ユヌムン)渡さったん。うりんかい靴、毛布ん2枚なー、カーキ洋服2着なー、パンツ2枚、ランニング2枚、楊枝とか歯磨き、全部(ムル)配給ぬあたん。上着んかいやPWでぃち書かっとーるばーよ。うりからテントぬ割り当てさってぃ、1棟のテントから1人(チュイ)なーや炊事要員出(イ)じゃしでぃぬくとぅなたぐとぅ、わんねーすぐ手挙げやーい炊事要員なたん。儀間しんかん(仲上地小(ナカイーチグヮー)、清行松門(セイコウマチジョー)、英行松門(マチジョー))収容所とーてー一緒(マジョウイ)やたん。
玉城:捕虜収容所うてーちゃーし暮らちょーびーたが?
知花:わんねー炊事。他のしんかや倉庫整理しーが。うぬしんかやタバコ小から洋服ん盗でぃ捕(カチ)みらっとーんどー。
玉城:盗るーさーんてん食糧(カムシン)あいびーたさに?
知花:うったー欲強(ユクジュ)ーさぬ、仕事かいやらちゃぐとぅ盗るしあっちゅる。洋服ん家んかい持ち行かりんでぃる思(ウム)たらー。
 前からぬ捕虜兵ん、ちゃっさん居たんよ。うったんかいん、まーさむん食まち。日本ぬ勝っちょーてーれーわったーぽこぽこくるさってぃるうてーさやー、いーばー戦負きてーさやーでぃ思(ウム)たんよ。
 あんし、家ーかい帰(ケー)いしぇ1か月かかとーしが、船の中うてぃん炊事どぅそーぐとぅ、ぬーん不自由やさーんたん。
 
〔訳〕
玉城:徴兵検査を受けた頃から、戦地でのこと、また捕虜になってハワイに行った話を聞かせてください。
知花:徴兵検査は昭和19年4月15日(に受けた)。私達大正14年生まれと13年生まれが一緒だった。私は19歳だった。
玉城:福地※※さん達と同じですか?
知花:※※は志願兵だった。私は徴兵検査を受けて出征した。渡慶次事務所に18名が集まって、区長さんから激励の杯を受けた。集合は比謝橋で、歩いて行った。村役所の職員が配置をしたが、山部隊や球部隊と行く先がみんな別々だった。
 私は具志川への配属だった。昭和19年10月15日。具志川では12月いっぱいまで研修・訓練を受けた。1月1日の晩に東風平まで行軍した。ずっと歩いて行った。
 東風平では1、2か月は壕掘りなどをしていた。私は民間から馬車を借りて馬車係をしていた。馬車係は壕へ松を運んだり、各字からの芋の供出を集めたりしていた。そして3月になると、具志頭へと移動した。3月24日には艦砲射撃も始まり、大砲がどんどん撃ち込まれ、あちこちで民家が焼けて無くなっていた。
 2、3日すると軍艦が1つも無くなっていた。西海岸にまわっていたので。米兵は戦に負けて逃げたんだと喜んでいた。そのあと、西海岸に集結して北谷や読谷山から4月1日に上陸するという情報が入ってきた。自分たちは具志頭に陣地を造って待っていたので、ここから上陸すると思っていた。
 私達は反対側の運玉森へと移動したが、4月4日に総攻撃を受けて、今琉大がある西原の方。そこでも総攻撃を受けて、部隊は3分の1しか残らず、玉砕だった。残った者を集めて、また中隊を作った。その中隊も斬り込みに行き、1人1人いなくなっていった。残ったのは2、3人だったので、早く逃げる方がいいと思った。命令する班長達もいなくなっているからよけいにそう思った。
 今度はひめゆりの壕の前の穴に入った。しかし、私たちは敗残兵となっているので、「ここはおまえ達が入る所じゃない、出なさい。」と本土出身の将校に言われた。しかたがないので「はい。」と言い、壕を出た。夜も明けて来たので、入る壕もなく、サトウキビ畑の中に3人隠れた。ずっと何も食べていなかったので、そこでむしゃむしゃ食べた。
 そのうちトンボ(偵察機)が飛んできたので、私たちは逃げまどった。そのあとは寝てしまったのか何か分からない。グラマン機が3機飛んできて、機銃弾をどんどん撃ち込んで来た。サトウキビ畑も焼けて、畑から逃げなくてはいけないとなり、浜に下りて岩陰に行った。喜屋武岬に行くか摩文仁に行くかと相談していたが、喜屋武岬には火が上がっているのが見えたので、向こうには行かないでおこう。摩文仁に向かって港川に行こうという計画だったが、摩文仁はみんな止められていた。大勢が摩文仁に集結していた。壕もたくさんあった。そして私たちの班長だった軍曹がそこにいて、片目をやられていた。班長なので「ご苦労様です。」と言った。「あなた達も生きていたのか。もう出るな、今死んだら犬死にだよ。」と班長に言われた。食べ物がないので、夜摩文仁の部落に行ったが、避難民が、炊いたお米を持っているのを見て、それを盗んで食べた。ひもじさは我慢できなかったので。ハガマに入っているご飯を3、4人でむしゃむしゃ食べた。そしてそのハガマはそこに捨てた。
 水も無いので、海水で芋を煮て食べようとしたけど苦くて食べられたものではなかった。
 同年兵で泡瀬出身の者がいたが、彼はいつも私と一緒だった。「港川へ突破しよう。」と一緒に出て、照明弾が上がると隠れたりしながら向かったが、越えられなかった。両方から照明弾も上がってきたりした。それでまた戻った。昼、木の下に寝ているところを捕まり捕虜となった。上着ははぎ取られ、上半身裸にされた。さらに、手榴弾を4発持っていたので、それと銃を海に投げさせられた。2人は銃を向けて、1人は手を挙げさせ収容された。2世が「殺しはしない。こっちに上がって来なさい。」と言った。私達は避難民と一緒に、今の健児の塔がある上の方の広場に行かされると、同じように捕まった人が100人ぐらいいた。
 こんな大勢いるので、殺されるにしてもみんな一緒だからいいかと思った。缶詰も食べろというが、食べなかった。すると、ある人が「どうせ死ぬんだったら、お腹いっぱいになって死ぬ方がいいよ、早く食べなさい。」と言い食べていた。私達にも缶詰を開けて渡してくれたので食べた。食べたらとてもおいしかった。飢えてやせ細っていたし。
 それからどこに連れて行かれるのかと思ったら、GMCの車が4台来て、それに乗せられて屋嘉まで連れて行かれた。ここには1晩だけ泊まって、冗談だと思ったが「散髪しなさい。明日はハワイに連れて行かれるみたいだよ。」と誰かが言った。誰がデマを流したかは分からないが。翌日にはGMCに乗せられ、嘉手納の水釜まで連れて行かれた。そこで大勢が船に乗せられた。2世が「まだ戦が終わっていないから、ハワイに収容させる。」と言った。嘘ではなく本当にハワイに行くのだと実感した。
 ハワイについてから、真珠湾攻撃の跡がそのまま残されているのも見た。
玉城:この船の中では、寝床、着物などはどうしていたのですか?
知花:私たちの船はパンツと肌着を着ていた。別の船は裸だった。船に乗るときには、米兵にブシューブシューと消毒された。
玉城:DDTですか?
知花:そう。シラミを殺すための。裸にされて、捕虜というのはそういう扱いだから。日本兵が言っていたように斬って捨てられるのかと思った。
 ハワイに着いて収容所に入れられたが、まるで米兵と同じようにアメリカ袋をはじめに渡された。その袋の中には靴、毛布2枚、作業服2着、パンツ2枚、ランニング2枚、楊枝や歯磨きまで入っていて、全員にそれが配給された。上着にはPWと書かれていた。それからテントが割り当てされ、テント1棟から1人ずつ炊事係を出すよう言われたので、私はすぐ手を挙げて炊事係になった。儀間出身者(仲上地小(ナカイーチグヮー)、清行松門(セイコウマチジョー)、英行松門(マチジョー))も収容所で一緒だった。
玉城:捕虜収容所に入っていた間は何をしていたんですか?
知花:私は炊事。他の人は倉庫整理の作業をしていた。この人達はタバコや洋服を盗んで捕まったりしていた。
玉城:泥棒しなくても食べるものはあるんですよね?
知花:欲が強くて、仕事に行かせたら泥棒してきていた。洋服でもなんでも、家に持って帰れると思っていたのだろう。
 すでに捕虜になった本土出身の日本兵も大勢いた。彼らにも食べ物をたくさん与えていた。もし戦争で日本が勝っていたら、私たちはビシバシ彼らにやられていたと思う。戦に負けてよかった。
 それから私はハワイから家に帰るまでに1か月かかったが、船の中でも炊事係だったので、なにも不自由なことはなかった。
 
 

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