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第11章 渡慶次の芸能と年中祭祀
第1節 組踊「大川敵討−村原」
歌三線・舞踊・韻文調の台詞(せりふ)で構成された沖縄独特の伝統楽劇のことを「組踊(クミウドゥイ)」という。創作当初は首里王府の国家的行事である国王交代の余興芸能として演じられてきた。沖縄に伝わる音楽と舞踊を総合的に取り入れ、一つの物語を形成した戯曲であることから「組踊」と呼ばれるようになった。
新国王を認証するために、中国皇帝の使者として来琉した冊封使を歓待するため、踊奉行玉城朝薫が初めて組踊を作った。正式演目に組み込まれ、初めて演じられたのは1719年(尚敬7)の尚敬冊封式典の後の重陽(旧暦9月9日)の宴でのことだった。いわば組踊は、冊封使歓待の余興芸能として出発し、昇華・発展してきたといっていいだろう。
明治の廃藩置県前後からは地方に伝わり、村芝居の演目に加えられるようになった。その中でも「大川敵討−村原」は、全編の上演に3時間近くを要し、多彩な登場人物や構成からも大作といわれ、当字にも明治中期以後に伝わったといわれている。
戦前の脚本は焼失し、1956年(昭和31)に新垣※※が関係者から聞き取りをして脚本をまとめた。その手書きの脚本を用い、渡慶次の音楽同好会が県内の古典音楽の諸先輩方をもてなすため、同好会の総会時に読谷沖映において上演した。当時の配役は、村原役に安田※※、あやー小役を仲村渠※※が務めた。指導は福地※※、新垣※※、呉屋※※等が行い、その時は1幕と2幕だけの上演であった。
この時脚本を編集した新垣※※は、脚本を公民館で保管すると紛失の恐れがあると考え、主役を務めた安田※※に預けた。その脚本は、行書体で書かれていたため読みづらく、渡慶次区で上演する際に神谷※※が楷書体で清書した。
1972年(昭和47)12月24日、青洋会によって全幕を通しての本格的な上演がなされた。配役は村原役に神谷※※、乙樽役に大城※※、その他の出演者には福地※※、呉屋※※、玉城※※、福地※※、山城※※等がいた。
衣装・小道具については1970年(昭和45)の玉城国市区長から次年度の山城真秀区長、実際に発表が行われた1972年(昭和47)の新垣喜正区長までの長期にわたり、継続して準備をしてきた。
衣装の下見のため儀間※※、山城※※、新垣※※、玉城※※が各地へ出向いた。中でもコザ市(現在の沖縄市)字大工廻で見せてもらった衣装が参考になった。そして、衣装生地の購入には山城真秀区長、渡口※※婦人会長、玉城※※が行き、与那覇※※、新垣※※、安田※※、玉城※※、与那覇※※が衣装づくりをした。「大川敵討」は役者の数も多い演目のため、公民館にミシンを持ち込み、みんなで手分けして衣装を仕上げた。
小道具は1976年(昭和51)頃までは宇座の新城※※がトタン(ブリキ)で作ったものを使っていた。1983年(昭和58)からは大城※※が材料を変え厚紙や段ボールなどいろいろな材料(ヘルメット等の米軍払下げも使用した)を探してきて、何度も創意工夫を重ねながら作られた。
役者の台詞・地謡はテープに録音し、それに合わせて役者が動く方法で演じられていた。テープの録音は波平の録音装置のあるスタジオや関係者の自宅、安田※※の三線教室、渡慶次小学校に新しくできた音楽室等で録音した。猫が鳴いたり飛行機の爆音が入るので相当気を遣ったとのことである。
また、録音の時には脚本を見ながら発声するが、三線と役者の声が合わず、何度も繰り返してやり直した。はじめは間も入れながら録音していたが、後には連続して録音し、上演の際に動作が入るところはテープを止め間を入れたりした。テープと動作を合わすということは非常に難しく、何度も練習を重ねた。
しかし、台詞(せりふ)を言うためテープをまわすところで巻き戻しボタンを押してしまい、役者が動作にとまどったこともあった。
また、1976年(昭和51)には読谷まつりの前身である読谷村文化まつりでも上演したが、やはりその際にもテープの操作を間違い、反転ボタンを押して大慌てになったという逸話もある。
1983年(昭和58)までは録音テープを使い演じられたが、1988年(昭和63)からは、録音テープを使わず、役者がすべて台詞を覚えて演じるようになった。台詞は韻文調が多く、普段使わない言いまわしがあるため、役者は発音の仕方や内容を理解するのに苦労した。同じ言葉が何度か出てくるので、次に続く言葉で詰まったり、台詞のど忘れで台詞が前後することもあるが、舞台では話がつながるように何とかアドリブを入れてその場を切り抜けたこともあった。
また、裏方も台詞・内容を覚えていないと進行の指示を出すことができないので、始めから終わりまで脚本から目を離さず、完全に詰まったときには幕内から台詞を教えるなどした。
獅子屋改築記念芸能発表会から
その後、発表の期間が4年毎、3年毎等と変更があったが、現在は5年毎に行われ、文化財保存委員会が中心となり役者の選考や指導、上演の際には裏方や地謡として活躍している。
1995年(平成7)福地一男区長の時、それまでの指導者であり総責任者でもあった安田※※から「組踊の一切を習得した」後継者として、戦後の舞台復活の際に新垣※※から預かり、その後40年間保管していた手書きの脚本を、新垣※※の息子である新垣※※に託した。
現在では、新垣※※が指導者・総責任者として上演の総指揮を執っている。
現在使っている小道具はほとんどが1995年度(平成7)に作られたもので、2つの幕を使うが、いずれも大城※※が丹精をこめて完成させたものである。また、城門は与那覇※※と大城※※が作り、現在保管している諸道具はすべてが手作りとなっている。
5年に1度の大舞台ということで、役者も指導者(裏方)も1年近くの時間をかけ、舞台を作り上げている。
2003年(平成15)に、伝統芸能の保存・後輩の育成・上演のための参考資料として、文化財保存委員会により『組踊大川敵討』の脚本が編集された。
脚本ができる前は教える人によってやり方が違うこともあり、役者を混乱させることもしばしばあった。新たに編集された脚本には場面展開・台詞・ト書や三線の工工四等が入り、正確な組踊の保存・継承に役立っている。
脚本『組踊大川敵討』の表紙
脚本もでき、役者も若い世代へと受け継がれてきているが、一度役を経験した人達が次の世代への指導者となり、技術と共に経験も継承されていくことが望まれている。