続 渡慶次の歩み
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第11章 渡慶次の芸能と年中祭祀

第7節 獅子と獅子舞について

 
 渡慶次に獅子が出来たのはおよそ260年前頃だと推定される。獅子とガンはミートゥンダ(夫婦)と言われ、同じ年代に建造されたと伝えられている。
 獅子は旗頭と共に渡慶次を象徴するものであり、また魔除けの神として部落民から親しまれ、伝染病が流行した時代に悪病払いの祈願のため部落内を練り歩いたこともあったようである。
 
◎[写真]本編参照
部落内を厄払いで練り歩いた獅子
 
 村芝居等、旧七月十六日の旗スガシーや、旧八月十五日の獅子の御願の余興の場合の獅子舞は必ず始めと終りを務める慣わしであるが、これは行事が無事に終わるように終始加護しているという意味が含まれている。渡慶次にとって獅子は伝染病や災厄(さいやく)から渡慶次を守る加護神とされているのである。
 獅子は旗頭と同じくデイゴの大木を適当な長さに輪切りにし、日陰で乾燥させてから塩水で数時間煮つめ、そのあと再び乾燥させてから、彫刻家によりノミとハンマーで幾数日かかって出来あがる。
 獅子のふさふさとした長い毛は当初、各戸から芭蕉の繊維を集め、仕上げていた。その後、戦災により焼失したことで、獅子も旗頭と同じく再制作されたが、終戦後再制作した獅子の毛はほとんど米軍払下げのロープを外して利用していたため、相当傷んでおり、獅子舞の度にものすごくホコリが舞い上がり、観客に迷惑をかけていた。
 幸いにして、1966年(昭和41)の午(うま)年に、獅子の頭・胴ともに作り替えられることになった。その際に胴の毛は、化学繊維で出来たロープを取り入れたことで、今日のすばらしい獅子が出来上がった。これは、海人であった福地※※の提案により船を繋ぎ止めるためのナイロンロープを原料にしたので、汚れず腐らない、半永久的な獅子毛となっている。それで現在のようなきれいな金髪の毛並みの獅子へと生まれ変わったのである。
 毛は漁用の網の網目の一つ一つをほどきながら、そこにロープを絡ませるといった海人独特の技法を使って宜保※※が何日もかけて創り上げた。使用されたロープは、時間が経つとほどいたロープもまた元に戻って絡まってしまう。毎年獅子屋から出した後は絡んだロープをほぐし直し、毛繕(けづくろ)いをしなくてはならない。毛繕いは、宜保※※が責任者となり、部落の多くの年配の方々が協力して行った。宜保※※は創り上げてから何十年も獅子の毛繕いを責任を持ってやっていた。渡慶次獅子舞の影の功労者である。
 獅子の頭は1950年(昭和25)に山内※※が彫刻したものであったが、ひび割れがひどくなってきたため、糸満の玉城※※の彫刻したものを取り入れた。
 獅子を祀る獅子屋は以前の事務所の上座に位置する東側にチンバ石囲いの赤瓦葺きだった。それは戦災を受けなかったため、元の場所に小さくブロック建てで復元されたが、1971年(昭和46)の公民館建設15周年を記念して、門の入口東側に安置するようになった。さらに、現在の集落センターの建設、落成に伴い、公民館南側に瓦葺きで建てられた。
 部落の一大行事で獅子を屋外に出す際には御願をする慣わしがあり、また獅子舞は余興の最初と最後に組まれ「獅子や舞いちりてぃ 踊い跳ね遊ぶ 我身や友達連(ドゥシチ)りてぃ 遊ぶ嬉しや」の三線に合わせて踊り出る。
 戦前の渡慶次の獅子舞はカチャーシーを主に踊った。シーシワクヤー(先導者)に飛び掛かる姿勢で跳んだり跳ねたりするのだが、最後は帯を喰わえてカチャーシーを踊る。とても愛嬌のある獅子舞であった。戦前の獅子舞の踊り手として有名だったのは玉城※※(牛玉城(ウシータマグスク):帽子屋(ボーシヤー))で、技術は一流であったといわれている。
 前述のように、戦争によって獅子が焼失したため、獅子舞も一時は途絶えるが、戦後1950年(昭和25)獅子の再制作により獅子舞も復活した。1954年(昭和29)の午年に行なわれた獅子・ガンの再制作を記念した道ズネーでは先頭に旗頭、獅子、区の関係者(区長など)、三線の順に集落内を練り歩いた。その際には当時中学生くらいの子ども達が山福地(ヤマーフクジ)のおじいさんが軍のミルク缶を利用して作った大きい御輿(みこし)を交代で担ぎ、道ズネーに付いて集落中を走り回った。
 その後、1971年(昭和46)の山城真秀区長の時に旧公民館事務所15周年を記念して行われる記念式典のために獅子舞、イサヘイヨー、高平良万歳等渡慶次の伝統芸能が青年会へと本格的に継承された。
 その1年後に、獅子が出てくるときに使われていた「ユナヌタカヒラ」の歌詞が恋愛調のものであったことから、もっと威厳を持ったものにしようと安田※※、福地※※の提案により替えられることになった。曲目は「与那節」にし、歌詞も古典調のものになり、踊りの振りもいくつか増えた。
 振り付けに当たった福地※※は、山原や八重山などの他地域へと見学に行き研究し、それらの地域の古典的な獅子舞いが取り入れられるようになった。動作自体が大きく変わったわけではないが、音楽が一曲から二曲編成になったため長くなり、立つ動作などが新たに加わり多少のアレンジが入った。
 その際に、獅子の退場で使われるカチャーシーの曲を「唐船ドーイ」のようににぎやかに締めくくるか、「多幸山」のスローテンポのカチャーシーで締めくくるほうがいいのかという議論もなされたが、踊り手にとっては動きがゆっくりしている方が体力的にきついため、スローテンポの「多幸山」ではなく「唐船ドーイ」が採用され、現在まで続いている。
 30年ほど経た現在、「多幸山」のようなスローテンポの曲が獅子舞いの重々しさをうまく表現できるのではないかという話しが出ており、復活についても話がなされているようである。
 獅子の御願についても当初は手を合わせるだけだったが、中城村津覇区の獅子之御願で太鼓や三線などの演奏の中、おごそかに行われている様を見て、与那覇柳英区長時代に渡慶次でも取り入れられた。現在では、区長をはじめとした公民館職員、文化財保存委員会、区の各種団体役員により、旧暦8月15日に年1回獅子之御願が行われている。
 
110374-獅子舞御願の様子
獅子之御願の様子
 
 獅子之御願は、歌三線、太鼓、ドラなどを打ち鳴らし行われており、その際にも「与那節」が演奏される。歌詞は「獅子舞」の歌詞とは違い、「嘉利吉や続く 村の喜びや 獅子がなし連れて 踊い遊ぶ」で歌われる。
 こうして約260年の伝統を守り続けてきた獅子は、修理、あるいは再制作によって保存し、渡慶次の守護神として、また民俗芸能のひとつとして後世にも正しく伝えられなければならない。
 
獅子の沿革
 1750年頃造られたと考えられる
 1800年頃再造 高志保の喜瀬という人が彫刻
 1873年頃再制作 国吉※※の彫刻(白堂(シリドゥ)の西に住んでいた人)
 1950年旧8月再制作 山内※※の彫刻 沖縄戦で焼失したため
 1966年旧8月再制作 玉城※※(糸満市字真栄田)の彫刻 ひび割れしたため、現在に至る
 
踊り手の変遷
  <頭部> <後部> <ワクヤー(先導者)>
知花※※ 友江※※ 玉城※※
  棚原※※ 新垣※※ 与那覇※※
  玉城※※ 大城※※ 嘉数※※・与那覇※※
  福地※※ 知花※※・棚原※※ 与那覇※※・福地※※
  田原※※ 玉城※※ 喜友名※※
  与那覇※※ 与那覇※※ 玉城※※
  仲村渠※※ 玉城※※ 玉城※※・玉城※※
 
地謡の変遷
国吉※※:戦前
  大城※※(不動(フルー))
  安田※※ 与那覇※※
  大城※※ 与那覇※※
  嘉数※※ 山内※※
  知花※※
 
 

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