続 渡慶次の歩み
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第11章 渡慶次の芸能と年中祭祀

第8節渡慶次区の年中祭祀

 

旧一月二日 初御願

意味
村の繁栄・村民の健康と五穀豊穣を祈願する行事。

拝所
地頭火之神・ボージヌ前・前ヌ寺・大井・包井小(チンガーグヮー)・
ミントゥ井(儀間旧事務所の西側)

引合
朝儀・不動・蔵根小

御供物
神酒 花米 線香12本 白紙1枚

メモ
村では区長・文化財保存委員会委員・行政顧問・行政委員・行政班長等が各御嶽・各拝所を廻って祈願を行う。新正一本化になってからは初御願と初起しは、新暦1月3日になったが、2003年(平成15)から旧暦1月2日になった。

旧三月十五日 三月御祭(サングァチウマチー)

意味
麦の収穫に感謝する御祭。
 
拝所
アタトーヤー(渡慶次之殿)
アタトーヤーはノロや根神が集って祭事やその他神への祈願等が行われた所で、神アサギと同一のものであると思われる。
昔、神アサギは村屋がある所にあったようで、首里王朝尚清王時代(1532年)、各地方信仰を統一する目的で首里王府より任命されたノロが祭事にあたった。高志保より以北を受け持っていたのは崎原ノロであった。
各門中もアタトーヤーで御願するが、クディー(神人)がいる時は、その人は白衣装で祭事を行う。
 
御供物
神酒 花米 線香6本 白紙1枚
 
メモ
昔は新しく収穫した米や麦、粟、マージン、豆等を御供えして豊作を祈願した。

清明の入り日 清明祭

意味
先祖供養の行事。
 
拝所
《渡慶次》
 1.ボージヌ前
 2.按司墓(虎城間屋の東側:城嶽)
 3.伊平屋王(旧加那当下庫理の東より伊平屋へ)
 4.無縁墓3基(旧加那当下庫理の西)
 5.無縁墓(アタトーヤー敷地内)
《波平・都屋》
 波平大主ノ墓
 都屋徳武佐
《瀬名波・長浜》
 按司墓(瀬名波井)
 按司墓(長浜新垣小の前)
 按司墓(長浜村の東:2か所)
 
引合
《渡慶次》不動
《波平・都屋》朝儀
《瀬名波・長浜》蔵根小
 
御供物
神酒 線香6本 打ち紙3枚
重箱半與(ハンクン) *ボージヌ前は白紙1枚
 
メモ
村は神御清明と称し清明の入り日に行う。集まった人々が多い場合には協議の上、「不動・渡慶次組」「朝儀・波平都屋組」「蔵根小・瀬名波波平組」に分けて行うこともある。
門中でも清明の入り日に行うのが一般的である。
一般家庭では、旧暦の3月3日と昔から定められていたが、1960年代より読谷村の区長会で取り決めをし、現在ではほとんど清明の節入りした最初の日曜日に行うようになった。

旧四月一日 カンカー祭

意味
部落内から伝染病や悪風を払いのける御願で部落内の7門から外に向って祈事される。
 
拝所
旧野国の前より南に向って
旧前門の東角より東に向って
カニチグチ、大池跡の石柱、西門後西側の角より西に向って
旧加那当下庫理の西より北に向って
虎城間屋の東前角より東に向って
獅子屋…碗にお米を入れて御供え
 
御供物
神酒 花米 線香6本 白紙1枚

旧四月二日 甘藷御主祭(ンムウフシュウ)

意味
中国より甘藷を取り入れ、沖縄県下に栽培させ、その功績を讃え全県民が崇拝している。
 
拝所
仲西の前より野国総管の墓に向ってンケーノーシ(遥拝)していたが、現在では直接お墓に出向いて行っている。
 
御供物
神酒 花米 イモ3株
 
メモ
ンムウフシュウ(野国総管)は北谷間切野国村(現嘉手納町)の出身で1604年頃、進貢船の総管として中国福建省に渡った折、公務を終えての帰り蕃薯(イモ)を鉢植えにして持ち帰り、それを儀間真常によって沖縄県下に栽培させ、五穀の実らない不作の年には人々は甘藷によって救われた。
ちなみに、戦後(昭和20年代)までは沖縄の人々の主食はイモであった。

旧四月十五日 畔払い(アブシバレー)

意味
沖縄諸島で行われる虫送りの行事で畔払いの文字を当て、ムシバレーとも言う。
御嶽や拝所で虫害等がなく、作物を順調に実らせ収穫できるように祈願する。
 
拝所
アタトーヤー
 
御供物
神酒 花米 線香6本 白紙1枚
 
メモ
渡慶次の昔(昭和12年頃)のアブシバレーは子ども達や青年男女が渡慶次の浜でくり舟をこぎ、一日中海や浜で楽しく遊び、夜になると男の友達グループは各グループ毎にソーミンヌチャーシーをして女友達を歓待して夜遅く迄遊んだというが、健青会(26〜40歳)のニイセーシングヮチャーがその面影をとどめていた。

旧五月十五日 五月御祭(グングァチウマチー)

意味
沖縄本島で行われる稲穂儀礼・稲穂祭ともいう。
「由来記」では「稲穂之祭」として5月吉日に3日間行われたということである。
現在では旧暦の5月15日に行う村落が多い。
稲穂を神前・仏前に供え、豊作を予祝・祈願する。本来は村落行事である。
五月御祭(ウマチー)は麦稲四大祭(バクトゥユウマチ)の中でもっとも大事な祭祀である。
 
拝所
アタトーヤー(渡慶次之殿)
 
御供物
神酒・花 米・線香 6本・白 紙1枚

旧六月十五日 六月御祭(ルクグァチウマチー)

意味
沖縄諸島で行われる稲の収穫儀礼・稲大祭・麦稲四大祭の最後の祭祀で旧暦の6月15日に行われる。
本来は村落単位の行事で、御嶽での収穫感謝の祈り、儀式と直会も行われた。
 
拝所
アタトーヤー(渡慶次之殿)
 
御供物
神酒 花米 線香6本 白紙1枚

旧六月二十五日 井の御願(カーヌウガン)

意味
井戸(水)は人間にとって命の泉であり、その泉(井戸)に感謝の意味で現在でも村全体で拝んでいる。
 
拝所
大井(ウフカー)・包井小(チンガーグヮー)
 
御供物
神酒 花米 線香6本 白紙1枚
 
メモ
人間の生活を営む上で水は欠くことの出来ないものの一つであり渡慶次の先住者は水の求め易い所、つまり現在の公民館周辺に住み着いたものと思われる。
渡慶次村に最初に掘られた井戸は年代は不明であるが、包井小と大井であろう。
その後1907年(明治40)に渡慶次校区に井戸が掘られた。1909年に部落内に約百米間隔で共同井戸が掘られた。その場所は金細工の後、池原小の西、白堂の前、野国、牛池之畑の東、徳前与野比、仲山内、万久川上、昌助山内以上9ヶ所であるが、これらの井戸の特徴は全て道路に面し、小石を積み上げて屋根があることであった。
*昭和20年の渡慶次の人口1084人、戸数221戸、井戸の数71であった。

旧七月十六日 旗スガシー

意味
旗頭は渡慶次の象徴であり、昇龍が長刀を口にして天に立ち向かって突進する様は、何者にも怯まず、限りなく発展する渡慶次の区民性を表現している。
旗頭の旗の部分が三角形になっているのは、当時の渡慶次村が三角状に広がっていたことから龍の胴体に当たる部分は三角形にしていると伝えられている。
旗頭は朝儀に保管され、その管理はニーセー頭が当った。
その旗頭も去る沖縄戦で焼失してしまい、1951年に山内※※によって彫刻され、現在は公民館に保管されるようになった。
渡慶次を象徴する行事の場合は、旗頭を先頭に総てが行われ、旧暦7月16日・八月十五夜と共に行われる獅子の御願や村遊びの時には旗頭を先頭に朝儀まで行列をなして歩き、そこで棒術・エイサーを披露する。これは朝儀に祀られている神への奉納の意味である。旗頭は相当の重量があり旗頭持ちは力のある人から選ばれた。それでも道ズネーイには三方から綱でバランスを保って行進したが、容易な技ではなかった。戦前村遊びが盛んだった頃は、大按司役に選ばれた人が旗頭持ちと決まっていた。
 
メモ
旗頭は渡慶次の象徴であり、字行事の場合は旗頭を先頭に総てが行われる。
旗頭を先頭にして文化保存委員会委員、行政顧問、行政委員、行政班長等が朝儀の根神に村の繁栄を祈願し、若い男女によるエイサーや棒術が奉納される。
また、旗スガシには獅子の御願も同時に行われ三線・太鼓・鐘・ホラ(ブラ)を鳴らし、獅子を迎える。
《旗頭の変遷》
 最初の旗頭 再造1880年
 宇座の山内※※(屋号・山内)
 沖縄戦で焼失 再造1951年
 渡慶次の山内※※ (屋号・昌賢山内)
 旗再製1966年
 渡慶次の福地※※(屋号・蔡和福地)

旧八月一日 カンカー祭

意味
部落内から伝染病や悪風を払いのける御願で7門から外に向って祈事される。
 
拝所
旧野国の前より南に向って
旧前門の東角より東に向って
カナチグチ、大池跡の石柱、西門後西側の角より西に向って
旧加那当下庫理の西より北に向って
虎城間屋の東前角より東に向って
獅子屋…碗にお米を入れて御供え
 
御供物
神酒 花米 線香6本 白紙1枚
 
メモ
8月のカンカー祭は、4月に行うのとは多少違い、8月初日に牛1頭を屠殺し、人頭割で各戸に配られ各家庭の夕食に当てられた。
また牛の血は、フコウガー(ハマゴウ)やギシチャーギー(ゲッケツ)の枝葉にぬって各家の門や、家の周りに魔よけとして差した。
これが即ち悪風返し(ゲーシ)である。しかしこの風習も第2次大戦の始まる以前からは非常時のため牛の屠殺はなくなり現在行っているような御願だけになった。

旧八月二日 ボージヌ御願(ウガン)

意味
ボージヌ前に祀られている霊に対しての御願。
 
拝所
ボージヌ前
 
御供物
神酒 花米 線香12本 白紙1枚 重箱半與
 
メモ
ボージヌ前は忠魂碑に向って左側の大岩の下に祀られている。ボージヌ前という人はいかなる素性の人か、このことは文献にも載っていないので知る由もないが、特別にボージヌ御願とあるからには渡慶次村創建に功績のあった人か、または先住者だったのか、いずれにしても渡慶次村に何らかの貢献があった人物であろうと想像される。
昔からそこは御嶽と呼ばれているが、文献によると御嶽は一人を祀ってある所ではなく、一族を中心とする原始的宗教に基づいて祖神を祀ってあるところと言われており、ボージヌ前一人を祀ってあるところではなく、ボージヌ前なる人も一緒に祀ってあるからいつしかボージヌ前と呼ばれるようになったと推察される。

旧八月十日 八月御祭(ウマチー)

意味
豊年祭。古くは八月御願とも言った。
今年の豊作への感謝と来年への予祝を祈願する。
 
拝所
アタトーヤー(渡慶次之殿)
 
御供物
神酒 花米 線香6本 白紙1枚

旧八月十五日 獅子之御願

意味
獅子は渡慶次の守護神として村人(区民)から崇拝されている。
村の先人達の言い伝えによると伝染病が流行した時代に、悪病払いの祈願と併せて部落内をねり歩いたこともあったようで、獅子は魔除けの神とされ、村遊び(村芝居)や、旧暦7月16日の旗スガシ、八月十五夜の村遊び(村芝居)の時、獅子舞は余興の始めと終わりに披露されるのが慣わしである。
 
拝所
獅子屋
 
御供物
神酒 花米 線香6本 白紙1枚
 
メモ
獅子之御願は文化財保存会委員、行政顧問、行政委員、行政班長等によって歌・三線・ホラ(ブラ)・太鼓・ドラを打ち鳴らして御願をする。
戦前の獅子屋は事務所(村屋)の上座に位置する。東側にチンバー石囲の赤瓦葺だった。
その獅子屋も去る沖縄戦(第2次世界大戦)で焼失してしまい、戦後間もなく元の場所にブロック建てで復元され、新たに1971年に公民館建築15周年記念事業と併せて公民館南入口に獅子屋を建立してある。
《獅子の変遷》
 1750年頃獅子が造られたと推定される
 1800年頃再造高志保の喜瀬という人によって彫刻
 1873年頃再造国吉※※氏の彫刻(白堂の西に住んでいた人)
 沖縄戦で焼失
 1950年再造屋号昌賢山内、山内※※の彫刻
 1966年再造糸満市真栄田出身、玉城※※の彫刻

旧九月十六日 大御願(ハルヤーポン祭)

意味
農耕儀礼としての行事、米・粟・マージン・大豆等、全ての農作物の豊作を祈願する祭り。
 
拝所
瀬名波ノロ殿内
不動明王
 
引合
朝儀・不動・蔵根小
 
御供物
神酒 花米 線香6本
*不動明王は白紙1枚
 
メモ
各戸から粟・マージンを1合宛て集め、粟ダンゴ餅を作り不動明王の神前で村役員や、45歳以上の者が集まり、豊年満作を祈願した。
ある祭りの年にこの祈願の根取役をした老人が原(畑)の萬作を祈願する意味で「ハルヤーポン」と太鼓を敲いたのでその後からこの御願はハルヤーポン祭りと呼称するようになった。
大御願の餅作りや、その他一切の準備は不動でなされ、その日の餅作り人夫は2名で、1人当たりの日当は10貫(20銭)であった。
御願が終わると粟餅は子ども達に配られた。

旧十月一日 竃巡り(カママーイ)

意味
旧暦の10月頃から冬場にかけて空気が乾燥し湿度が低くなり、火災が発生し易い時期で村全体(各戸)に火の用心を呼び掛けし、火災が発生しないように、火之神に御願する。
 
拝所
地頭火之神 旧蔵元の北側
朝儀
 
御供物
神酒 花米 線香6本 白紙1枚

旧十月の初庚の日 出生祝(ボージャースージ)

意味
この1年間に生まれた子ども達の健やかな成長を願い母子を招待し、区民全体で祝福をしてあげる。その日は各種団体から余興も出演し盛大である。
 
メモ
1987年からは、出生祝は「渡慶次まつり」と同日に行うようになった。
*出生児1人から産飯代(ウバギデー)として千円也を徴収する。
*字から出生児1人びとりに記念品も贈呈される。

旧十二月二十四日 解御願(フトゥチウガン)

意味
年頭に立てた願掛けを解く行事で、火之神が昇天し天帝に1年間の報告をするとされる。
年の初めに祈願した村人の健康と村の繁栄等の願を解き、また改めて年明けに願立てをすることを述べる。
 
拝所
地頭火之神・ボージヌ前・前ヌ寺・大井・包井小・ミントゥ井
 
引合
朝儀・不動・蔵根小
 
御供物
神酒 花米 線香6本 白紙1枚
 
 

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