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第3章 戦前・戦中・戦後体験記
第1節 私の戦前・戦中・戦後体験記
4 劣悪な環境だった避難生活
話者 与那覇※※
1936年(昭和11)生
平和の暮らしに戦争の足音が…。
私の家は、父・母・兄・妹・祖母と私の6名家族で、父親は徴兵され、戦死した。祖母も戦時中に亡くなった。父親は戦前、農業をしており、祖父の代から砂糖小屋の管理も任されていた。小さい頃は、部落の中にあったアシビナーで、追いかけっこや、かくれんぼなどをして遊んでいた。
日本軍が読谷に飛行場を建設している時、私の叔父が強制的に飛行場建設に駆り出された。そして、飛行場建設用地確保のために住宅や多くの畑が接収された。
学校では皇民化教育が徹底され、私の先輩たちのほとんどが教育勅語を覚えている。皇民化政策のひとつであった標準語使用は、「方言札」を用い徹底された。また村内でも、諸々の禁止事項があり、サトウキビをかじることもその一つであった。サトウキビをかじっているのを見られると、『キビ札』という札をかけさせられ、罰金を払わせられた。8歳の頃には、戦争に向けて竹やりの訓練もさせられた。
マラリアや敵機から命からがら生き抜いた
十・十空襲の時は、戦争だとは思わず、ただ飛んでいる飛行機を見ていた。空襲が始まった頃は、多くの人が日本軍の演習だと思っていた。私は爆弾が投下されるのを見て、飛んでいる飛行機が敵機だと知り、自分たちの防空壕では不安だからということで、部落内にあった地下壕に逃げ込んだ。
区長の避難勧告を受け、私たち家族は、私の祖父が戦前から恩納村屋嘉田につくってあった防空壕まで荷物を馬に積んで避難した。しかし、その地域も危なくなってきたため、辺土名の山奥まで避難した。避難先には多くの人たちが先に避難していた。昼は、敵機が上空を飛来しており、動けなかったため、夜になるのを待って、母親が山から村に降りていって、畑から芋などの食べ物をとってきてくれて、それを食料にして生活していた。避難生活は、ほとんど風呂にも入れなかったため、不衛生で劣悪な環境で過ごしていた。そのため、私はマラリアにかかり、寒いし、熱もあるし、まったく動けないころもあったが生き残ることが出来た。
戦後もアメリカ兵と密着した暮らしをしていた
私が終戦を知ったのは、終戦から1か月後であった。家族で米軍の捕虜になり、石川収容所に収容された。収容所では、週2回の配給とアメリカ兵が捨てた羊の肉などの冷凍食品を拾ってきたりして生活していた。当時の学校教育は、もう軍隊の教育などなく、体操や算数など普通の教育であった。当時学校に生徒があまりに来なかったため、対策として、火曜日と金曜日にチョコレートの配給を行っていた。しかし、火曜日と金曜日だけ登校する生徒が増えただけであった。私もそんな生徒の一人であった。
終戦後、米軍の管理地でもあったため、なかなか渡慶次には、戻れなかったそうだ。現在の渡慶次公民館も、元々は他の広い敷地に建てる予定だったが、予定地が米軍の管理下にあったため、今の場所に建てるしかなかったそうだ。
私は終戦後、米軍キャンプでハウスボーイという仕事に就き、アメリカ兵士の部屋の掃除や靴磨きなどをしたりしていた。片言の英語と身振り手振りでなんとか会話していた。私は一人で60名の兵士を担当しており、月に1人から2ドルもらっていた。当時では大金である。そのためハウスボーイの仕事は奪い合いが起こるぐらいの人気の仕事であった。
5 母のありがたさ
話者 安田※※
1932年(昭和7)生
皇民化の波に飲み込まれていく
家族は、父・母・弟二人の5名家族である。父親は、馬や牛など家畜を飼育していた。私が8歳のころ、父親は熱病で亡くなった。
学校では皇民化政策に沿った教育が行われていた。
◎[写真] (本編参照)
昭和13年に建築された奉安殿と久場※※校長
校門をくぐると奉安殿があり、それに向かって最敬礼することは徹底してやらされた。国の祝祭日になると、講堂に全児童が集められた。校長先生が教育勅語を読み上げている間、全児童はうつむいてなければならなかった。私の世代のほとんどの人が教育勅語を暗記していた。
標準語も強制的で「方言札」を使って徹底された。各字には大政翼賛少年団の分団があり、竹やり訓練や防空壕ではどのように行動するのかなどの戦争に備えての訓練もした。
日本軍が飛行場を建設しているころには、小学校高学年の児童たちは、兵隊が切り倒した松の木の皮を鎌ではいで、防空壕に使用する坑木をつくっていた(木の皮がついていると、白アリに食われるため、皮をはぐ必要があった)。また、疎開していく前には、アメリカ軍が上陸するのを防ぐため、対戦車壕をV字型やL字型に掘らされた。
体が骨と皮だけになった
十・十空襲のとき、最初は演習だと思い、のんびり飛行機を見ていた。しかし区長の「敵機来襲!」という叫び声に敵の攻撃だと気づき、防空壕へ逃げた。
その後も何度か米軍の空襲を受けたが、年が明け2月の中旬頃になると区長から避難勧告がきて、国頭村桃原に疎開することになった。翌朝から、荷馬車を引いて桃原に向かった。羽地で日が暮れたため、一晩そこで休んだ。朝桃原に出発するとき、羽地の人が手作りのおにぎりをくれた。桃原に着くと、各家族に家の振り分けがあり、一軒の家に泊めてもらって、ともにしばらくの間生活した。
それから、米軍の空襲が頻繁になると、桃原の人が山奥につくってあった避難小屋に移動することになった。
聞き取り調査に協力する安田※※さん
食料は夕方周辺が暗くなって桃原部落の畑に下りていって、キャベツや芋などを取ってきて調理して食べた。夜が明けるときには、山に戻っていった。食料を取りにいく際、米軍の照明弾の仕掛けに引っかからないように気をつけなければならなかった。もし、照明弾が上がると、機銃の弾が飛んできた。
避難生活で最も困ったことは塩がないことだった。食べられるものは何でも食べたが、それらは塩がないと食べられたもんじゃなかった。塩は避難生活では最も貴重であった。そのため、海水を汲みにも行った。山の暮らしは、不衛生な環境と食料不足の状態だったため、マラリアや栄養失調になる人が後を断たなかった。戦後に知ったことだが、私も山を下りるころには栄養失調の状態になっていて、注射針も刺さらないほど、骨と皮の状態にあった。そのとき「もう死ぬんだ」と何度も思った。そんな私を元気にさせようと、母が共同畑でカエルをとってきて、私だけに食べさせくれた。私はこのことについて、今まで生きてこられたのは母のおかげととても感謝している。
渡慶次の復興に携わった青年会時代
私たちは山を下りてからは、アメリカの部隊が管理していた国頭地区にいたが、その地区に食料が少なかったため、家族で宜野座に移動した。宜野座では家を建てたり、畑を耕したりするなど仕事をすると食券がもらえた。それを持って、配給所に行くと、食料がもらえた。それから私だけ石川にいる祖母を頼り、石川に行き、そこから学校に通った。しかし、ここには長くいられないと思い、そろそろ宜野座に帰ろうと思ったとき、「読谷に食料がたくさんあるから一緒に取りにいこう」と友達に誘われ、読谷に行った。読谷には、イモや米軍物資の食料があったので、それを持てるだけ持って石川に戻り、そして宜野座に帰った。
私より年代が上の人たちが「戦果」をあげることをやっていたという話はいくつも聞いた。頭の良い人は、基地を監視している人も沖縄の人だから、その人と知り合いになって、やりとりしながら服や食べ物などを金網の外に投げて渡してもらっていたという話もあった。中には、手当たり次第に物を取る人もいた。ドラム缶風呂をつくるために、中に入っているガソリンをそこでこぼしてドラム缶をとっていった。
戦後、渡慶次に移動できると聞き、私は渡慶次に新しく家を建てて、高志保から移ってきた。しかしそれからしばらくすると、米軍の基地建設のため立ち退き命令が下った。そしてまた高志保に移り、暮らしが落ち着き始めたころに、渡慶次が開放されたため、再度渡慶次に移ってきた。移って当初は、土地が荒れており、私はその頃、渡慶次の青年会長を務めており、ほかの人たちが渡慶次に移ってきてすぐ家を建てられるようにするため、青年団員とともに整地作業をしていたよ。
そしてある程度渡慶次の人が移動してきて、生活も落ち着いた頃字事務所をつくることになった。しかし、建築費用のお金がなかったため、青年団で話し合いの結果、村芝居をしてそこで入場料をとって建築費用の一部にあてることになった。そのために、石川まで行って公演した。その他に区民から建築費の負担をしてもらい、現在の公民館の西に事務所を建てた。