続 渡慶次の歩み
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第3章 戦前・戦中・戦後体験記
第1節 私の戦前・戦中・戦後体験記

6 ハワイに連れて行かれて

話者 与那覇※※
1919年(大正8)生
戦前
 家族は父・母・妹3人・弟1人と私の7人家族であった。父はサトウキビとイモを自家用として作っていた。食事は芋や豆腐などが主で、肉は飼っている豚を年に一頭潰し塩漬けにして少しずつ食べていた。父は出稼ぎで、当時の値段で300円くらいの年収があった。貧しい生活ではあったが、大半の家庭がそのような生活だったので、苦労はあまり無かった。
 
敗走した島尻各地
 私は十・十空襲を部落の大きな木から見ていたが、これが本当に戦争がやってきたと実感させた事件であった。それから数ヶ月が経ち、避難勧告がきて、私の家族は北部に避難することになった。私は軍属になって日本軍と行動を共にしていた。当初、軍と軍との連絡係に就いていた。米軍が上陸した日には、歩いて浦添に移動した。明け方には着いたが、(いつの間にか本隊とははぐれていた。)日が昇ると米軍の空襲があるので、小さな工場で隠れていた。私が居るところはまだ、米軍が攻めて来てなかったので空襲が無い時は、とても静かだった。そこでは、一週間ぐらい過ごし、首里・南風原・東風平・具志頭・糸満・摩文仁へと移動した。その間に季節は梅雨から夏へと移り変わっていった。
 島尻は、沖縄でも米軍による攻撃が激しいところだった。私が通った首里・糸満・摩文仁などの道端には、あたりに死体がごろごろしており、そのなかを夢中で逃げ回っていた。食べ物や飲み水は全然なく、行く先々で民家や畑などを探し回って食べた。夜中に水を汲みにいくため、血が混ざったのも分からず飲んでしまったことも度々あった。その頃になると、皆栄養失調になっていたため、食料を取りに行って、米軍に見つかって殺されるという恐怖心は全くなかった。
 糸満、摩文仁を移動している頃は米軍に見つからないように軍からはぐれた人と共に行動していたが、海岸から米軍に、「出て来い」と言われて、捕虜になった。だが、日本の軍国主義教育によって、出ていったらひどい目にあうから自決した方がよいという教育がされていた。そのため、米軍から「出て来い」と言われても、恐怖心で足がすくみ、出て行けないところへ、爆弾や手榴弾を投げ込まれ死んだ人や、自決した軍人や住民も数多くいた。
 
捕虜
 捕虜になった私は、港川の収容所に連れて行かれ、戦争用の携帯用食料を渡された。その中には四角いチーズやら色々な珍しい食べ物が入っていたが、私は水も飲まないし、食べ物も食べなかった。なぜなら、私達は柵の中に入れられているし、どうせ殺されるのだと思っていた。米兵が食べて見せ、大丈夫だという事をアピールしたが、初めて見たチーズは、私達からしたら石鹸としか思えなかった。港川の収容所は人が寝られないぐらいいっぱいいたので、屋嘉の収容所に移り、そこからハワイの収容所に連れていかれた。その時に米軍の通訳の人に「何で戦争も終わったのに、連れて行くか」って言ったが、通訳の人は「まだまだ戦争は終わってないから、ここに居たら邪魔になるから、ハワイに連れて行くんだよ」と、言われて渋々納得した。ハワイに行く船の中では、茶碗に八分ぐらいのおかゆとおかずを食べていた。おかずは、大きいソーセージを薄切りにし、半分にしたものを1日2回もらっていた。それでも、まだ食べたいから、「もっとくれ」と言ったが断られた。ハワイに着いたのは、暑い盛りであった。
 
◎[写真] 本編参照
ハワイでの捕虜生活の様子
(渡久山※※氏提供)

 
船から降りる際は、丸裸で全身くまなくスプレーで消毒されたり、注射を打たれたりした。その際には、周りじゅうの海兵隊が私達を見て笑っていたそうだ。アメリカは今でも日本と戦っているはずなのに、米軍は余裕たっぷりで過ごしており、戦争の雰囲気はまったく感じなかった。ハワイでの捕虜生活は快適だった。そこには、3か月ぐらい過ごし、屋嘉の収容所に戻された。その後、解放されて家族の居る宜野座に行った。
 
復興へ
 それから読谷に戻ったのはいいが、渡慶次の部落は、米軍が管理下にあり、帰ることができず、高志保に7〜8年いた。米軍の移動許可が下り渡慶次に帰ることができたが、家などは何もなくただの原っぱだった。私は、米軍が使わなくなった木材をもってきて家を建て、食べ物も米軍の余ったものをとってきて食べていた。渡慶次はそれから目覚しく発展した。住民一丸となり道幅も広く碁盤の目のように整備した。当時このような道は、渡慶次にしかなく、とても自慢できる道だと思っている。
 

7 楽しい厳しい学校生活

話者 玉城※※
1932年(昭和7)生
皇民化教育でも楽しかった学校生活
 家族は父、母、兄、妹2人、弟2人の8人家族。父親は若い時は渡慶次の区長をやっていて、その後は農業をやっていた。あの頃は厳しい生活だった。小学校2年生から家の手伝いをやっていた。家畜の世話、朝早く起きて草刈りに行って、学校から帰ってきたらまた草刈りに行ってと、その繰り返しだった。日曜日はずっと家の手伝いをしていた。
 学校は楽しかった。その当時の教科は国語、算数、修身等があった。毎朝学校に来ると、奉安殿に向かって最敬礼して教室に向かった。教育勅語を覚えない者は先生たちからビンタをくらっていた。友達とは鉄棒で遊んだり、ガジマルの木に竹竿をくくって、登ったりして遊んでいた。
 方言札をかけられたら、友達同士で「これ方言で何と言うか?」と言って、友達が方言で答えると、「おまえ、方言使った!」と言ってから方言札を渡したりしていた。家では方言を使うのがもっぱらだった。また、昔は青いサトウキビを取ってかじると大人達から相当叱られた。今よりも規制が厳しいからいろんなものが守られていたのではないか。
 飛行場を造るために、働ける者はみんな駆りだされた。6年生になると学校から海軍に志願しなさいと言われていた。軍人勅諭みたいなものを教えられていたが、ちょうどその頃に戦争がはじまったので、結局は志願しなかった。
 
敵機襲来!!
 十・十空襲の時私は、日本軍の演習だと思って楽しい思いで見ていたら、「敵機来襲!敵機来襲!」と言って、読谷飛行場に爆弾を落としていくので、『あれ?』と思った。兄貴と一緒に木に登って見ていた、爆弾を落とした飛行機が引き返すのを見たら、星型のマークがあって、本当に近くまで見えたのでビックリした。それから慌てて防空壕に入った。あとで分かったのだが那覇は空襲でやられていた。読谷からもその煙が見えた。渡慶次の人で那覇に仕事に行ってた人が、空襲でやられたと聞いた。
 小学6年生の時に戦争が始まったので、卒業式はなく、2月頃には国頭の桃原という部落に疎開していた。私の家族と、私のおじさんの7人で疎開した。昼間は敵がいるから動かないで、夜は家族そろって米軍の陣地の近くまで食べ物を手探りで探しに行った。
 
戦後の渡慶次の復興
 戦は負けて、みんな地元に帰っているという噂があったので、私の家族も山を下りた。最初は桃原に居て、そこから石川に移り、その後読谷に戻った。収容所生活は経験していないが、本当に食べ物がなかったので、ひもじい思いをしていた。
 戦後の学校生活は、テント張りの20〜30人学級。あの当時の先生たちは子ども達を学校に来させるために、チョコレートを持ってきて授業が終わると「明日も学校に来なさいよ」と言って、子どもたちに配っていた。教科書がないので、7人で1冊。1週間で1日しか教科書がまわってこなかった。ノートもチリ捨て場に行って、自分で探しに行かないといけなかった。高校2年の終わりぐらいに、6・3・3制になり、あと1年行かないといけなくなったので中退した。
 渡慶次の復興はまず、助け合いながらの家造りからだった。資材を集めて家を造っていった。渡慶次は立ち退きがあったので、他地域に比べ復興は遅かった。
 

8 手作りの復興

話者 新垣※※
1934年(昭和9)生
山原避難そして捕虜
 父は農業をやっていて、イモや野菜をつくっていた。畑は渡慶次にあった。
 沖縄戦の時自分たちは国頭の辺土名に疎開した。辺土名には約1週間かけて歩いていった。当時は10歳だったので移動が大変きつかった。昼は空襲があったので、家畜小屋や倉庫などにお願いして隠れさせてもらって、夜に行動した。
 1週間後、国頭の辺土名に着いたときには体中の血が足に集まったようにパンパンに膨れて座ったら動けないほど疲れていた。辺土名から山奥に向かって歩いて、それから東まわりで歩いた。その頃は戦争の真っ只中で、敵機が昼も夜も飛び交っていた。北部にも米軍がきて、あっちこっちにいたので、道を歩かずに、山の中を歩いた。
 朝10時〜11時ごろに山から下りて民家へ行く途中で米軍に捕まり捕虜になってしまった。それまでは山の中にいて、山から下りてきたばかりだったので情報が何もなく、捕まったときに初めて戦争が終わっていることを知った。米軍に捕まったときは子どもながらに怖かった。そのまま連れられて宜野座の収容所に収容された。
 
◎[写真] 本編参照
収容所へ向う人々
 
 収容所は住民を入れるために米軍がテントを準備してあって、私たちもそこに入った。思ったより不自由ではなかった。そのかわり、若い男性は連れて行かれて働かされた。私はまだ子どもだったので連れて行かれることはなかった。なかには米軍に暴行されたりした人もいたが、私たちはそんなことはなかった。収容所には学校もあって、少しの間学校に通っていたが、それよりは自分の生活のほうが大切なので山に行って薪を取ってきて、それを売って生活の糧にしていた。その頃はもう11歳になっていた。
 
030136-新垣さん
学生たちの質問に答える新垣※※さん
 
3回の移動
 収容所から高志保へ先発隊が先に行って家を建てていて、そのあとに自分たちが移った。高志保で少し生活した後、渡慶次に移動することができた。高志保から渡慶次に移った詳しい年月は覚えていないが、最初に渡慶次に来たときに家を建てたが立ち退きさせられ、また高志保に戻った。結局、3回くらい移動させられた。
 渡慶次に来たときはあたり一面何もなかったが、しだいに家が建っていった。戦前からの村だったので、戦前から所有していたそれぞれの土地に家を建てた。戦前からあるものが点々と残っていたので、それを基準にした。みんなが渡慶次に戻ってから公民館ができ、字の役人たちが、土地区画をした。この時に今の碁盤目状の道が作られた。戦前はこのような道ではなかった。道のせいで屋敷の敷地が小さくなったところもある。
 
工夫して遊んだ少年時代
 高志保にいるとき、中学生になっていた。私たちが読谷中学校一期生である。その当時は校舎はなく、テント小屋だった。部活動というのはなく、体育の時間に体を動かした。勉強より生活の方が大切だったので放課後は軍作業などのアルバイトをしてお金を稼いでいた。軍作業の仕事にもいろいろあるが、私の場合は楚辺でハウスボーイをして毎月給料をもらっていた。残波や都屋にも米軍の高射砲部隊がいて、みんなそこにハウスボーイとして軍作業へ行っていた。畑で作物を作ることもできず、お金を稼ぐには軍作業をする以外なかった。食糧が不足していたので、食べるのに精一杯だったので勉強よりも金儲けのことしか考えていなかった。
 遊びというと竹馬とコマまわしなどであった。また、砲弾についているゴムを取り出して、四輪車を作って、乗って遊んだ。ほかにも港などによくあるローラーを見つけてきて、それに乗って遊んだりしていた。コマまわしとか縄跳びとかは戦前のと変わらなかった。終戦後すぐには新しい遊びはあまりなく、そこからアイデアが湧いてきていろいろな遊びを考えていった。あちこちにお店ができるようになったら、メンコなどでも遊ぶようになった。
 
渡慶次に定住
 渡慶次にずっと住めるようになったのは19歳のころ。そのころに、北谷のキャンプ桑江へ3か年間、住み込みで洋裁の見習いに行っていた。その後、25歳くらいで嘉手納の洋裁店に雇われた。
 「戦果あげ」は話には聞いていたが、自分たちはしなかった。その代わり自分でお金を貯めて、米人からタバコなどを買い、それをお店に売ってちょっとずつ儲けていた。
 英語は喋れなかったが、仕事をする分には支障はなかった。米人相手に仕事をしているときは多少英語を理解できたが、長らく英語と離れているので、今は理解できない。英語は誰かに教わったわけではないが、仕事をしていた部隊が米人だけだったので、話を聞いたりするうちに覚えていった。
 最初に覚えた英語はThank you(サンキュー)などの挨拶だった。また、小さい頃からGive me(ギブミー)という言葉を覚えていて、学校帰りなどにGive meと言いながら外人の後をついていって、何かもらうと英語でThank youと言っていた。
 終戦後の大きな事件といえば、高志保にいるときにフィリピン人が沖縄の警察に殴りこんできたことだ。拳銃を持っていて発砲し、一人が死亡、一人が重傷だった。当時はフィリピン人と沖縄の人の喧嘩(けんか)が絶えなかった。彼らフィリピン人は兵隊として沖縄へ来ていた。
 この頃は独身が遊ぶところは特になかった。結婚してからも家族を養うために働くことしか考えられなかったので、楽しい思い出は特にない。いつも苦労だけが思い出に残っている。一番つらかったことはマラリアにかかって苦しんだことだった。ヨモギなどの薬草を使って治した。1、2か月ほど苦しんでいた。
 青年の時に渡慶次に戻ってきて、家を建てたあの時代が今までの人生の中で一番印象に残っている。楚辺は、米軍のため立ち退きになり、現在の楚辺の場所で土地を造成し新しく集落を作ることになったが、そのときに各字の青年団がかり出され、道路造りや家造りを手伝った。その時造った家はかやぶき家。現在からは想像がつかないが、機械も何もなく、すべて手づくりであった。そのことが一番印象に残っている。
 
 

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