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第3章 戦前・戦中・戦後体験記
第1節 私の戦前・戦中・戦後体験記
9 地下鍾乳洞への避難体験
話者 大城※※
1936年(昭和11)生
奉安殿に向かって敬礼戦前は内地に住んでいた。小学校一年のときに戦争が始まった。父は兵隊として支那、満州へ行っていて、沖縄戦のときは沖縄防衛隊として小禄にいた。戦前のことはあまり覚えてない。母と母方のおばあちゃんと一緒に暮らしていた。親の手伝いとして、洗濯や豚の餌やりをやった。遊びはコマまわしや、なわとびをした。
渡慶次から飛行場を作るために人夫が行っていたが、自分たちの知り合いからは行っていない。
当時の学校教育では、全体集会の時に奉安殿に向かって敬礼していた。1組は男子だけ、2組は女子だけ、3組は男女共学だった。自分は2組で担任は比嘉※※先生だった。3組の先生はウーマクーで有名な先生だった。
聞き取り調査に協力した大城※※さん
暗闇のガマ生活
十・十空襲の時は1年生だった。空襲の時に昭和2年生まれくらいの女性が亡くなった。最初は演習と思って見に行ったら、空襲だよと言われ慌てて家に帰った。そして、壕に避難した。
戦時中は渡慶次の地下鍾乳洞(ガマ)に隠れていた。十・十空襲の時とは違う壕に隠れた。自分と弟と母親とオバーが入った。ランドセルを持っていたので4月ごろに入ったと思う。
渡慶次の地下にあるガマ
(鍾乳洞の一つ)
夜になったら母親が外へ出て食料をとってきたので飢えは感じなかった。外の戦闘が激しいときは外に出てご飯を炊けなかった。母が炊き立ての飯ごうを持って帰ってくる途中に、照明弾が上がり、母は身を隠したが、熱い飯ごうを足につけたまま隠れたので大きな水ぶくれができていたのを覚えている。
渡慶次の鍾乳洞調査地図
(愛媛大学探検部調査)
父が那覇から弾をかいくぐって帰ってきた。私たちの居るガマを探して持ってきた乾パンをくれた。ちょうどその時は、おばあちゃんに小さい子を連れてヤンバルへ行きなさいと言われてその準備をしているときだった。父は「そんなことしないで、読谷にとどまっておきなさい」と言ったので、読谷に残ることにした。読谷に残ったので自分たちは助かったと思う。ヤンバルに親戚と一緒に避難していればどうなっていたか分からない。
ガマの中は結構広く、たくさんの人がいた。中には湿気の多いところや、池のようになっているところもあり、上から滴がたれてくるところもあった。そのようなところを避けながら、みんなゴザを敷いて座っていた。
明かりは牛や山羊の脂肪を油にして、脱脂綿につけてシャコガイの容器にいれて火をともしわずかな灯りとしていた。
最初、ガマのなかは満杯だったが、途中で国頭に避難した人がいたので余裕ができた。ガマのなかでは子守りをしていた。その他はじっと座っているしかなかった。ガマの中には2、3か月いたと思う。何日にガマを出たかは覚えていない。
捕慮となる
渡慶次で終戦をむかえて、母親、弟、父方のオバーと一緒にガマを出た。入ったときは公民館の近くから入ったけど、出たのは違う場所から出た。米兵が日本語で呼びかけていた。自分たちが出て行ったときには銃を構えて待っていた。私たちは、顔がススで黒くなっていたので、公民館の裏にある池で顔を洗いなさいと米兵に言われたが、そこは馬を洗うところと知っていたので洗わなかった。捕虜になった後、トラックで金武へ向かったが、途中で日本の戦闘機が米軍のグラマンに撃ち落とされたり、日本兵と米兵が交戦しているところも見た。金武では大川の近くの民家に住んだ。その民家では他の家族と共同生活だった。食事は米軍が配給していた。
金武の民家から漢那への立ち退きを命じられ、移動することになったので歩いていった。母親が木材を拾い集めて自分たちの家を建てた。
昭和19年生まれの弟は漢那の収容所の中で栄養失調と真夏の暑さに負けて亡くなった。母が黙って亡くなった弟を抱いていたのを覚えている。オバーは中川にいる娘の所にひきとってもらった。父は戦時中に捕虜になって屋嘉収容所に収容されていた。その後、ハワイに連れて行かれたが、自分たちが漢那にいるときに戻ってきた。その後父は食料品をどこからか仕入れてきて、それを売るという商売をしていた。
読谷への帰郷
読谷に帰ってから高志保の今の知花写真館の向かいに家を建てて落ち着いた。そこで父親と母親と、昭和22年生まれの弟と一緒に住んだ。そのときは小学校4年生だったが、5年生までは高志保の小学校にいた。小学校はかやぶきで雨が降ると中に雨が入ってきて、土間が滑りやすくなった。当時は裸足の人もいれば、草履を履いている人や、チリ捨て場から探してきた靴を履いている人もいた。
一度、渡慶次に戻ったが、また立ち退きになって、瀬名波に移った。瀬名波では知人の家に居候した。高校まで瀬名波にいた。父親は軍のレストランでパンを焼いていたので、食料には困らなかった。戦争で親を亡くした子どもを持つ近所の家庭に食料を配っていた。
転々とした職業
高校を受験し合格したが、親はお金がないのであまり喜んでくれなかった。裁縫セットの教材費を親がくれなかったので、頭にきて、11月に高校を辞めてしまった。それを今でも後悔している。辞めたあとは、ちょっとでも稼ぎがあるようにと牧原にいた米軍部隊の洗濯の仕事に出ていたが、1年間で辞めた。
その後は友達の紹介で嘉手納基地内での住み込み家政婦をしていた。そのときに洗濯機の使い方がわかるかと訊かれ、わからないのにわかると答えてしまい失敗した。土曜日は家に帰ることができたので、待ち遠しかった。帰ったら同じ住み込みの家政婦をしている友達と夜通し遊んでいた。おしゃべりをしたり、キビをかじったりして過ごした。そのときの友達とは今でも仲良しである。嘉手納へはバスで通っていた。土曜日に帰るときには、家の主人からB円の小遣いをもらった。その仕事は20歳から22歳まで続けていた。途中で結婚したのでやめた。23歳の時に長男が生まれた。
父は最初、楚辺の旧部落の方でハウスボーイをしていて、外人に認められたので天願で働いていた。天願までは自転車で通っていた。炊事なので残飯を自転車の後ろに積んで持って帰ってきた。父は70歳まで仕事を続けた。その後は80歳までガードマンをしていた。私は昭和42年に渡慶次小学校の調理場の調理員として採用され、平成8年まで働いた。
10 私の戦中、戦後
話者 山内※※
1938年(昭和13)生
遊びの中での訓練家族構成は母、姉2人、兄、私の5人であった。私が生後3か月の時に父は亡くなった。父は渡慶次区の事務所の書記を15年も務めていたので、その間母は、家まで訪ねて来る客の応対などをしていた。その後父は役場に勤めたがしばらくして亡くなった。父が亡くなった後は、母は農業をして苦しい中女手一つで私たちを育てた。母が畑仕事に行くときには保育所がなかったので、もっこで私と肥料を担いで行った。
1944年(昭和19)、幼稚園に入ってからは空襲に備える遊戯と訓練があった。「空襲警報聞こえてきたら〜♪今は僕たち小さいか〜ら♪お〜となの言うことよく聞いて〜♪あわてないで〜、騒がないで〜、落ち着いて〜♪入ってみましょう防空壕〜♪」という歌を教えられた。幼稚園の頃に、遊びのなかでこのような訓練をして、空襲が来たら防空壕に入る練習をした。このような事を教えられたのが印象に残っている。
遊びはコマまわし、ケンケンパーなどをやっていた。硬貨をパッとひっくり返す博打もやった。きょうだいと遊んだことはなく、同い年の子どもと遊んでいた。食事をすることも忘れて遊び回り、親が渡慶次中を探し回ったこともあった。
当時の弁当はイモを丸く切って炒めたものを持っていった。
その頃は各家庭で庭に壕を掘っている大人をよく見かけた。自分の家でも壕を掘って、防空頭巾を作り、空襲に備えていた。渡慶次国民学校の校舎が兵舎に使われ、軍事訓練をしているのをよく見た。棒のぼりをしたり、筋トレをしていた。訓練が終わったら、兵士達は村の家々を訪ね食事にありついていた。その時に大人たちは「兵士にとってはまだ不足だはずねえ」というのを話していたのを聞いた覚えがある。
学生たちの質問に答える山内※※さん
北部へ疎開
米軍の艦砲射撃が始まると山の中に避難しなさいと言われた。最初は家族5人で2、3日分の食料を持って避難した。その後、ほかの村の人も北部に疎開しはじめたので自分たちも疎開することになった。名護までの道の途中で何回も空襲にあった。山に入って隠れながらヤンバルにむかった。田井等、稲嶺、古我知、辺土名、奥間など各地を転々とした。
山の中では食べ物がなくなると、夜、母が畑の持ち主の目をすり抜けながら畑に行ってイモをとって生活していた。昼は隠れていて夜に活動した。米軍が上陸したときは、ヤンバルに逃げていたので、助かったと思っていた。やがて山原にも米軍がやって来るようになると、昼はもちろん、夜も照明弾が打ち上げられ、危険だった。私の家族は女手しかなかったので、親戚についていった。途中、餓死した人の死体を見た。避難先の地域の人と物々交換でイモと着物を交換したこともあった。水のないところでは、みんなで穴を掘って雨水を溜めたり、小川から水を汲んだりしていた。山の奥には米兵はあまり来なかったので、小川で兄と海老をとって遊んだ記憶がある。竹を切って、シダ植物の葉で屋根を作り、仮の小屋を作ったりもした。ヘゴの芯も食べた。イモがあればいいが、ないときはその辺にある草など何でも食べさせられた。家族と親戚、知人など、5、6人グループの時もあれば、12人ぐらいのグループの時もあった。各グループで逃げたい場所も違うので、常に人の入れ替わりがあった。私たちは男手がいて頼りになる親戚についていった。
食べ物に困らなかった捕虜生活
田井等で親戚たちと一緒に捕虜になった。米軍につかまると殺されるということが頭にあったので、母が米兵に「殺すのか?」とジェスチャーで訊いたら「ノー」と答え、さらに「タイラ」や「ハネチ」と言っているように聞こえた。そこに連れて行かれ自分たちが収容されたことを知った。いろんな地域の人たちがいた。特に遊ぶことや仕事もなく、米軍の配給で生活していた。配給はパンではなく米だった。食べ物に困ることはなかった。収容所での記憶は女の人が道端に座ってシラミをとっていたのを覚えている。粉のDDTをかけられた。衛生的によくなかった。田井等にいたのはわずかの期間で1か月ほどだったと思う。
石川に親戚がいて、その人が、自分たちが田井等にいることを知って呼びにきてくれたので、田井等の収容所から石川の収容所へ移動した。石川にはたくさんの人がいて、自由に入れないようになっていたが、夜、忍びながら石川に入った。石川でも配給はあった。石川で小学校へ通うことになった。その頃は寒い時期だったので、2学期の終わりごろだったと思う。2年くらい城前小学校に通っていた。そのころ、読谷には米軍基地が建設されていたので、しばらくは帰れなかった。
戦後の学校生活
小学校3年生の頃に高志保に戻ってきた。戻るときには建設隊が先に戻り、規格屋(キカクヤー)を建ててから村民を迎え入れていた。今の読谷小学校の所に仮の学校があったので、そこに通った。校舎はテントだった。初等学校、中等学校とも机はなかった。あとから、米軍が使っていた様々なものを机代わりにした。弾薬を入れる箱は椅子として使っていた。教科書は先生しか持っていなかったので、わたしたちは先生が黒板に書いたものを写して勉強していた。小学校5年生の頃に、現在の渡慶次小学校敷地に校舎が建ち、そこに通えるようになった。
スポーツは学校対抗の野球、バレーボール、陸上競技会などがあった。私は学校代表で出場することが多かった。4年生から6年生まで学校代表だったのでいい思いをした。選手に栄養をつけようと、全校児童が米を持ち寄ってきて、それを上級生や先生が炊いて、練習のあとに食べさせてもらえたのはうれしかった。決勝まで進むことが多かったが、なかなか優勝することはできなかった。読谷に戻ってから20歳までずっと高志保にいた。
毎朝の水汲みと野球
家では小学校6年生から毎朝、井戸まで水汲みをする手伝いをしていた。家にあるドラム缶をいっぱいにするのが私の仕事だった。母からは「水を汲み、夕食までに帰れば部活動は何をやってもいいよ」と言われていた。井戸に水を汲みに来る人はたくさんいた。ドラム缶をいっぱいにするには、何回も汲みに行かないといけなかった。しかも、汲む人の列ができたので、かなり時間がかかった。並んで待つのが嫌だったので、早起きして汲みにいった。早起きしていくと清水を汲むこともでき、時間もかからなかった。水汲みは水道ができる20歳くらいまでやっていた。水汲みのおかげで筋力がついて足腰が強くなったので部活動にプラスになった。部活動を終わって帰ってきても友達が遊びに来たので勉強ができなかった。そこで、水汲みをして、学校行くまでの一時間ほどの空き時間に勉強した。予習もしたので授業が楽だった。
野球をしているとき、夕日が沈むのを見て、沈まないで欲しいと願っていた。もっと野球がしたかった。高校ではテニス部に所属した。
ソフトボールとの出会い
友達には大学に進学する者もいたが、私はすぐには大学へ行けなかった。すでに兄が大学へ進学していたこともあり、私の分までは余裕がなかったためだった。そこで、電力会社に勤め、大学へは兄が卒業してあと、琉球大学に通った。大学では軟式テニスをしていた。キャプテンだった。そのころに渡慶次に移った。
大学卒業後は、1965年(昭和40)に教員になった。翌年、ソフトボールが正式に沖縄県に入ってきた。山田中学校に赴任した時、国語の教員だったが、教員が少なかったので英語と体育も担当した。野球をやっていたのでソフトボールの講習を受けて、顧問を経て全県に普及させる立場になった。学校が終わると部活動をしていた。土日や夏休みも練習や大会があるので休めなかった。それを定年までやっていた。部員は多い時には約60名いたので、戦力が落ちないように、各学年とも鍛えていた。そのおかげで、教え子たちが全国大会に出場するまでになった。九州大会では4回、全国大会では3回優勝した。
そうした傍ら、私は読谷村体育協会の役員をしていた。会議は夜が多く学校を終えてすぐに駆けつけるなどした。体育協会ではテニス部長とソフト部長を務めながら、理事長10年、副会長4年、会長7年を務め、その後中頭郡体育協会の会長を1年務めた。現在は顧問をしている。
印象に残ったこと
読谷村では米軍基地が村土の多くを占め、さらに村の真ん中にある読谷飛行場ではパラシュート降下演習が行われるなど米軍基地被害も数多く発生した。中でも1965年6月11日のパラシュート降下による「隆子ちゃん圧殺事件」は大きな衝撃として村民に受け止められた。そうしたことから米軍基地返還の闘いは激しいものがあった。
今までの人生で印象に残ったことで、明るい面ではソフトボールで全国大会などを含め37回も優勝をさせることが出来たこと。暗い面では姉が病気になり、輸血をするために親戚や知人宅をまわって輸血を頼んだこと。また夜中に発作を起こした時に遠く離れたところにいる看護婦を呼びに行ったことなどである。
貧しかったが、スポーツで活躍でき、小中高で代表選手に選ばれたことがうれしかった。そのうれしさが貧しさを吹き飛ばした。仕事もスポーツも自分にとってプラスになることだったし、まわりにもいい影響を与えていたと思う気がするので、今の子どもたちにもそれを勧めている。貧しいけれど、心は豊かだったように思う。