続 渡慶次の歩み
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第3章 戦前・戦中・戦後体験記
第1節 私の戦前・戦中・戦後体験記

11 大阪での戦争体験

話者 与那覇※※
1924年(大正13)生
戦前の生活
 父は生まれて7か月の時に熊本へ行ったので、父の事は覚えていない。ずっと熊本にいて、11歳の時に亡くなったが、亡くなるまで1回も沖縄に帰ってないので顔もわからない。兄は2人いて、2人とも戦争に行ったが運良く生還した。1人は今でも健在である。父は熊本で炭鉱夫をやっていた。戦前は学校へ行きながら畑の手伝いをした。父がいないので生活は大変苦しかった。母は道路工事の仕事へ行っていたから、私が畑仕事をしていた。さらに水汲みとヤギの餌の草刈りをしたり、豚小屋から流れてくる水肥をかずらの根っ子にかけたりした。4年生になった頃、母が豆腐屋を始めたので豆腐売りの手伝いをした。学校から帰ってきたら豆腐作りに使う塩水をくみに海にいった。こうした生活が大阪に行くまで続いたが、私が大阪に行った後も母は沖縄で豆腐屋を続けていた。
 
大阪での戦争体験
 私は小学校を6年生で卒業して、生活面の事を考えて内地に出稼ぎに行こうと考えていた。そこにちょうど出稼ぎの募集があったので14歳の時に、大阪の紡績工場に行った。寒さと寂しさで毎日泣いていた。1か年ほど経ったときに会社の人が、泣いているのを見て、「帰るか?」と聞いたので、一度は帰ってみたいということで15歳の時に帰った。沖縄に帰ってからはパナマ帽編みを手伝った。このころから畑仕事では金にならなかったので帽子編みをするようになった。沖縄に帰って1か年が経ったのでまた大阪へ渡った。住友工業という所で働いた。その後、終戦までの6年間大阪にいた。
 1942年(昭和17)に紡績工場は軍需工場に変わった。飛行機の部品を作る工場となった。このころ、長兄は兵隊にとられていて、次兄は南洋へ出稼ぎに行っていた。大阪に住んで5年目になる1945年(昭和20)7月24日、工場で働いているときに、空襲を受けた。何十機もの編隊だった。防空壕へ避難した。あちこちに爆撃を受け、自分たちの避難した防空壕の両隣の防空壕は直撃を受けたが、自分たちの壕は無事だった。その後、会社の責任者が「逃げるぞ」と言ったので防空壕から出て逃げた。すると、外に死体がたくさん転がっていた。飛行機の編隊がまた向かってくるので、逃げようとしたらある男性が、「飛行機に向かって逃げなさい!」と言った。そこで、逃げていた方向とは逆に飛行機がやってくる方向に逃げた。飛行機に向かって走ったので、爆弾や銃弾は自分達の後ろに落ちた。そのため、弾に当たることなく逃げることができた。あの一言がなければ自分たちは爆撃にやられていたかもしれない。爆撃されたあとに寄宿舎に戻ることになったが、バスも電車も爆撃を受けていたため、徒歩で戻るしかなかった。途中に何度も飛行機から機銃掃射を受け、そのたびに橋の下に隠れるなどして助かった。
 工場が空襲を受けた後は、工場として稼動できなかったので、片付けをしていた。広島と長崎に原子爆弾が投下された後に、防空壕へ避難するときは原子爆弾の光を浴びたら大変という情報が伝わっていたので、光を浴びないために布団をかぶって防空壕へ入った。終戦後には会社の解散命令がでた。
 
草木一本もない沖縄へ
 沖縄に米軍が上陸したと聞いたとき、もう沖縄には帰れないなと覚悟はしていたが、1946年(昭和21)の10月から沖縄に帰ることができるようになった。内地では、「那覇から読谷まで草木一本もない」と聞いていたので、大変つらい思いだった。大阪を出て、まずは広島に行って沖縄への船を待った。船が出なかったので1週間くらい滞在していた。やっと船が出ることになって4、5日かかって泡瀬に着いた。大阪にいる頃に勢頭(シール)の与那覇※※と結婚していたので、知り合いに、勢頭(シール)の家族が漢那にいると教えられて、漢那に向かった。漢那には2日間滞在した。3日目にはすぐ読谷に移動できた。読谷に戻ったときにはまだ渡慶次には戻ることはできなかった。居住が許可されていたのは高志保と波平の一部だけだった。そこで高志保に滞在した。自動車のオイルでイモの天ぷらを揚げて食べたり、ソテツを食べたりもした。今考えると身震いする。
 1、2年ほど高志保に滞在した後に、渡慶次に戻ることができるようになったのですぐ渡慶次に移った。そしてすぐに、家を建てたが、1か月で立ち退き命令が出され、また高志保に戻った。その後、牧原の米軍部隊でメイドをしたり、読谷沖映劇場で1年間チケットの売り子をしたりした。その後、再びメイドをした。夫は大工だったので、雑貨屋を建て商売を始めた。その後、兄のガラス屋も引き継いだ。
 
1セント貯金で旅行
 戦後生活もだいぶ落ち着き、渡慶次の人たちで生活改善グループというのを作った。グループでは毎日1セント貯金をしていた。1セント貯金というのはメンバーが順番に1セントを貯金して、最後の人までまわると、また最初の人に戻り貯金をするというものだった。
 その貯金と足りない分はグループ17人で農協から借りたお金で、旅行に行った。17名のなかには現在生きていると100歳を超えるおばあさんが4、5名いて、彼女らを連れて旅行した。その後、台湾旅行にも行った。
 

12 貧しい幼少時代と「山学校」

話者 大城※※
1936年(昭和11)生
家族構成
 12名家族で父と母に、兄弟姉妹が10人。私は男女合わせて7番目。男4人、女6人。私は三男で、四男がいたが1945年(昭和20)に亡くなった。
 
戦前の食事
 私の父は83歳で亡くなった。今生きていたら110歳ぐらいになる。父は戦前から専ら農業をやっていて、換金作物であるサトウキビ、その他主食の芋を作っていた。幼少の頃、白いご飯は年に1、2回しか食べることができなかった。栄養のあるものといえば主に植物性タンパク質の豆腐、動物性タンパク質としては鶏の卵があった。他に、豚を飼ってつぶしてはスーチカーという塩漬けにしたものを食べていた。冷蔵庫が無い時代なのでスーチカーは腐らないようにするためであった。飼っている鶏も卵を産まなくなると、食料として、つぶして食べていた。それでも鶏肉は年に1、2回ぐらいしか食べたことがなかった。
 
戦前の教育
 印象に残っているのは、戦前の幼稚園は2学級あり、20名ぐらいでよく遊んでいた。遊びの中でも兵隊さんが銃をかついで行進しているマネをしていたのが印象に残っている。戦前は年齢に関係なくみんな仲良く遊んだ。1年生になった時は、読み書き、習字などをならった。担任の先生は男だった。なかでも習字の時間が楽しかった。
 私たちが勉強しているかたわら、戦争に備えて、校舎の裏庭や農業実習地(現幼稚園)に先輩方が防空壕を掘っていて、それを見ていたことが印象に残っている。掘った壕は訓練にも使用した。空襲警報のような「敵が来たぞー」って先生が合図すると、毒ガスを吸わないように口をおさえた。本当は防空頭巾というものもあったが、学校には持ち込んではいなかった。防空壕といっても排水溝みたいに横穴を掘ったようなものだった。そこにみんなで伏せて隠れた。その後、日本軍がやってきて校舎は兵舎とした。
 
十・十空襲
 十・十空襲では読谷飛行場が攻撃された。飛行場周辺の民家の人々も空襲の犠牲になっている。倉庫に保存していたお米も焼けて茶色になっていた。
 
◎[写真] 本編参照
消火活動をする人々(宮平※※画)
 
食べられる分はとって何とか我慢して食べた。攻撃の目標は飛行場や港それに那覇の市街地であった。朝8時ぐらいから飛行機が飛びかっていて、爆弾を上空から落としていった。最初は、日本軍の飛行機が演習でもしているのかなと思って高い木に登って見ていた。しばらくすると敵の飛行機だと気づき、木に登っている子供たちはすぐにおろされ、自分たちの家の防空壕に入れられた。「隠れなさいよ」っていうから隠れないといけないと思った。
 
山原へ疎開
 1944年(昭和19)の十・十空襲前には、渡慶次では共同で地下のガマに通じる出入り口を掘ってあった。地下の鍾乳洞は井戸とつながっており水もあった。米軍上陸直前になると、山原へ疎開する人々が増えた。歩ける人は歩いて、小さい子どもやお年寄りは親戚なんかの馬車に乗って家族全員で疎開した。うちでは兄だけが兵隊にとられた。
 国頭へ疎開した時に昼は山中に隠れて、夜になると避難小屋でご飯を食べた。当初は役場が手配してくれた地元の民家にお世話になった。その内に米軍の北部侵攻で民家に戻ることができず、山中を逃げ惑う生活が続いた。
 安全と思われる時には、民家に食物や使えそうな物を取りに行った。栄養失調でとても大変だった。しばらくして山を降りてアメリカ軍に収容された。収容所ではアメリカ軍からの配給があり、いわしの缶詰やメリケン粉などであったが、そのお陰で命を長らえた。しかし、それだけでは足りないので、空腹を凌ぐためにそこら辺に生えている雑草でも摘んで、煮て食べたりしていた。
 
戦後の学校生活
 戦後は全部焼けていて跡形もなかった。5年生になってやっと渡慶次小学校に新しい校舎が建てられて移動できるようになったが、その時はまだ自分の家には戻れなかった。その頃の勉強といったら、ほとんど本も無く、ノートも無いし、先生の話を聞くだけだった。黒板に書くチョークも無かったと思う。チョークで書いてもらった憶えが無い。聞くだけだから憶えるというのは難かった。鉛筆や紙も米軍のちり捨て場から使えそうなものを拾ってきて使った。紙は穴をあけて紐でつづっていた。音楽だけは勉強した憶えがある。
 遊ぶ時は周りにあるものを使って、自分で道具を作って遊んでいた。「山学校」といって学校を休むこともあったが悪いことはしなかった。どこかへ行って遊びながら食べ物を探す。だいたい山(アカムヤー)へ行っていた。学校を休みすぎても今のように親には連絡しない。これが普通だった。学校へ行っても、教科書などが少なく面白くないから、みんな「山学校」を選んでいた。親も生活するので精一杯だったので、「何で学校行かないの」って注意もしない。親も今のように子どもの教育にかまう余裕がなかったんだろう。
 私はその後、沖縄大学の短大部(2か年)を卒業し、教師免許を取り、昭和37年に津堅小学校に採用された。
 

13 子どもがいてこそ親が生きる

話者 与那覇※※
1915年(大正4)生
戦前の生活
 父はサトウキビや芋をつくったりしていた。戦前はサトウキビを売っていたが、収入が少ないので当時まだ10歳だった私が帽子を編む仕事をして生活を助けていた。お父さんとお母さんに怒られるので、遊ぶことはできなかった。手伝いはしないといけないし、帽子も編まないといけないから、苦しい生活だった。
 裸足だったから、今のように贅沢ではない。12月25、26日にお店で下駄を買ったが、お正月にしか履けない。その下駄を1月1日になるまで、見ては隠して見ては隠ししていた。学校は、小学校の高等科まで行かせてもらった。
 
日本軍がやって来た
 日本軍は力があると私たちは信じていたから、芋を削って干したものを俵に入れて、兵隊(日本軍)さんにおくっていた。空襲のときは「爆弾がおちたら100メートルぐらい走ってふせなさい」と兵隊さんに言われた。爆弾が落ちた後の消火のためのバケツリレーの訓練もした。
 
空襲と食料
 十・十空襲のときは、ビュービューと飛行機が飛んでいたけど、空襲とは思わなかった。日本軍が演習をしてると思っていた。渡慶次では大きな被害はなかったが、その後も断続的に空襲があった。
 空襲の時はガマに隠れていたが、食べ物はあったのでひもじい思いはしなかった。空襲は何日間も続くといううわさがあったから、その前に食料も準備していた。作っては食べ、食べては作りの生活だった。ごまを炊いたり、黒砂糖を食べたりした。
 自分達でガマへの入り口は掘った。空襲のときだけ地下のガマに入ってじっとしていた、空襲がないときは普段の生活だった。畑を耕したり、薪をとったりしていた。
 
国頭へ疎開
 昭和20年3月20日ごろだったと思うが、荷馬車に乗って、おばあちゃんも私の子どもも国頭の辺土名に行った。私が27、8歳のときだった。道も整備されてなかったから、移動はきつかった。青壮年の男性はいなかった。おじいちゃんは荷馬車に乗せて行った。当時、男はみんな兵隊に行ったが、誰も望んで行かなかっただろう。「3名男の子ができたら褒美があるってよー、兵隊になるってよー」と言われていて、兵隊に行くのが当然の世の中だったので兵隊に行かない人は恥ずかしい思いをした。
 辺土名に疎開したら、避難小屋に隠れた。渡慶次に残った人は山原に避難した人たちほどの苦難はなかったらしい。おじいちゃん、おばあちゃんとか避難しなかった人もいるけど、アメリカ兵に配給も与えられて、石川の収容所に連れて行かれたりしていた。山原に疎開した人々は「明日は勝つ、明日は勝つ」って言って、それだけしか思っていないので、なかなか山を下りることをしなかった。辺土名ですぐに米軍に収容された人たちの中には、それほどひもじい思いをしなかった人もいる。私たちみたいに、長いこと山中を逃げ惑った者達は苦しい生活をした。
 国頭に食料はなかった。私たちが来る前はあったらしいが、米軍が北部にやって来てからは全然なかった。現地の人も食料をあげる余裕はなかった。最初に山原避難した人々は、空襲に備えて米も持って行った。食料のない私たちは、ソテツや芋の葉っぱなども食べた。昼間は爆撃がつづくので谷底に隠れていて、暗くなったら畑に芋とかを取りに行っていた。
 最初の頃は、着物を持っていたから、米と交換して飢えをしのぐことも出来た。山原には6ヶ月くらいいたと思う。食料はだんだんなくなってきたので、読谷に歩いて行った。男は、アメリカ兵に殺されると思ったので、国頭から戻る時は、私が一番前だった。荷物を取りに行くのも私だった。
 
渡慶次へ
 戦争が終わるまでは国頭にいたが、荷物を取りに来た人が、国頭周辺にはもう渡慶次の人たちはいないということで、私たちも国頭を出た。
 1か年ぐらいは石川に住んでいた。石川にいるときは、車はないから歩いて何度か食べ物などを求めて読谷まで来たことがあった。
 それから帰村が許されて高志保に戻ってきて、その後渡慶次に帰ってきた。渡慶次にもどってきたときは嬉しかった。
 
戦後の生活で印象に残ったこと
 一番おいしかったのが芋の汁で、芋をつぶしておかゆみたいにして食べた。「戦果」は軍作業している人だけがしていた。配給は缶詰と米、メリケン粉(小麦粉)もあるし、おいしかった。そのときは何でもおいしかった。なくなったらもらいに行く生活だった。
 私は6名子どもを産んだが、「親の後ろ姿をみて育つ」というのは本当だと思う。お父さんもお母さんも苦しい中、私を高等科までいかせてくれた。私は、ひ孫が7人いる。「大きいばあちゃん、小さいばあちゃん」とひ孫が言う。子どもがいてこそ親は生きるのであって、子どもがいてこそ元気がでると私は思う。子や孫にも戦争体験を語る。最初に長女が戦争の話しを聞きたいって言った時には話せなかった。絶対言わなかったガマの中でのこと。生きていたときの面影を思いだす人もいるから。
 
 

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