続 渡慶次の歩み > 第7章 むらづくり―各種団体の活動― > 第1節 渡慶次青洋会
第7章 むらづくり―各種団体の活動―
第1節 渡慶次青洋会
1 渡慶次青洋会の歴史
(1) 発足
終戦後、沖縄は本土から切りはなされ、米軍統治下にあり老人福祉の面でも本土と違い、何一つ補償がなかった。1960年代中頃、琉球政府に対し、本土と同じように法に準じた老人福祉法の制定が各市町村から叫ばれ、各地で老人クラブ結成の気運が高まっていった。あの激しい大戦の戦禍をくぐり抜け、あらゆる苦難を克服し部落再建に努力してきた老人達が、老人福祉問題に自ら取り組むためにも、強力な老人組織を持ち、政府へ折衝する必要に迫られていたのである。
その頃、読谷村役場福祉課より老人クラブの組織を持つよう勧めがあり、当渡慶次においても老人問題対策への話し合いが持たれるようになっていた。1964年(昭和39)大城行雄区長、書記の与那覇※※を中心に渡慶次老人クラブ発会のための準備委員会が招集され、会運営の基礎となる規則ができあがり、会則に準じて初代会長並びに役員が選出された。
会長:大城※※
副会長:福地※※・山内※※
理事:儀間※※・山城※※ 儀間※※
会計:大城行雄 区長
与那覇※※ 書記
また、他の団体と異なるこの会の特色として、老人独自での会運営ではなく世話役を設置したことがあげられる。例えば、会合の料理や接待、また視察や旅行で村外に出かける場合の案内係や世話係等、多くの協力が必要であり、その世話係には区長以下常勤職員は勿論、各組(現在の班)の組長、字出身の村議会議員、婦人会役員、その他一般から老人クラブが必要とする人が会長より指名された。
世話役:大城行雄区長・与那覇※※書記・山城吾助村議会議員・安田※※・山内※※・安田※※婦人会長・福地※※副会長・各組組長
役員や世話役が決まってから、会運営の基金の徴収方法について、世話役も一緒に役員会を持ち検討された。話し合いの結果、世話役が運営の基金一切を引き受け、行政委員会や戸主会に訴え、寄付募集をして基金に充てることになった。
区民が老人クラブ設立に寄せる気持ちは大きく、戸主会に訴えた翌日からは寄付金が集り、1家庭から2〜3人の寄付が申し込まれることもあった。老人クラブとしては、会運営の資金があればよいとのことで、世話役も1戸1ドルに抑えるように努めた。
字中の応援で300ドル余の基金が集り、1964年(昭和39)6月6日渡慶次老人クラブが結成された。会員は65歳以上の者、男性40名、女性64名の計104名で活動が始められた。
青洋会社会見学
その後、読谷村各字に老人クラブが結成され、村福祉課より各字特色のある名を付けるよう指導があった。早速渡慶次でも世話役を交えた役員会を開催し、名称についていろいろと話し合われた。役員や世話役から多数の提案が挙がったが、最終的には山城※※の提案した「青洋会」の名称で全員の意見が一致し、決定した。「青洋会」とは、「心身共に青年の如く壮健にして、かつ時代を先取りする気迫に満ち、前途洋々たる組織発展を祈願する」ものとして命名された。その名が示すように、発会当初から活発な活動が行われ、那覇の老人ホームや、村有山のミカン園、産業施設の見学等の研修が組まれていた。
11月には、読谷村老人クラブ連合会が組織され、琉球政府及び本土政府に老人福祉法制定の陳情がなされ、形ばかりであったが助成を受けるようになった。この助成金は本土復帰と共に福祉年金として本土同様に支給された。
(2) 活動内容−会旗・会歌・記念誌− 1967年(昭和42)安田慶善区長の時、那覇市若狭町の若水会と第1回目の交歓会が渡慶次公民館で行われた。沖縄県で1番目にできた老人クラブである若水会*1は、当時、その活動運営において沖縄随一と言われており、その名にふさわしく会旗を先頭に公民館へと乗り込んで来られたときには、渡慶次の青洋会もとても驚いた。しかし、こちらの受け入れ態勢も、婦人会・健青会・世話役が協力しての歓迎で、決して劣ることなく対等の交歓会となった。
その際、若水会の会旗を参考に渡慶次青洋会でも会旗作製の提案がされたが、予算の都合上難しかった。話を聞いたやまびこ薬局の山内※※店主から青洋会旗寄贈の申し出があり、心のこもった立派な青洋会旗が贈られた。
青洋会の旗
若水会とは翌年にも交歓会を持ち、会場を那覇に移した第2回目の交歓会では、若水会旗と青洋会旗が並んで掲げられた。また、両団体より舞踊等が披露され、当青洋会で組踊「大川敵討−村原」の一場面を演じると、いっそう会場の喝采をあびた。
その後も村内外の老人クラブと交歓会や研修会を持つなど、積極的な交流事業を進めた。また、地域への奉仕活動にも意欲的に取り組み、公民館前の庭園に苗木や花を植え、育成し、その他にも公民館広場や拝所の草刈り等は青洋会が責任を持って引き受けた。
1969年(昭和44)12月に全沖縄老人クラブ大会が開催されたが、当青洋会はその運営において、計画的な実践活動と、地域社会への奉仕活動に積極的に参加していることが他の模範であるとのことで、全沖縄老人クラブ大山※※会長より表彰を受けた。
1973年(昭和48)7月1日には、青洋会設立10周年を迎え、記念式典が開かれた。そこで、組踊「大川敵討−村原」の全幕が上演された。長時間の舞台の役者・裏方とも会員が務め、成功裏に終わった。また、世話役の山城※※、大城※※両氏の協力で青洋会設立10周年記念誌も発刊され、意欲の高揚と青洋会の発展、老人福祉の確立などが提起された。以後、5か年毎に記念誌を発刊し、現在の45周年記念誌まで欠くことなく青洋会の歩みが残されている。
各周年ごとの記念誌
1976年(昭和51)12月には、山城※※作詞、普久原※※作曲の渡慶次青洋会の歌が作られ、現在においても毎月開かれる定例会やその他の青洋会行事の際には、字内の各所に設置されたスピーカーから会歌が流れ、集まりを知らせる放送が行われている。
1977年度(昭和52)からは、発足より12年間にわたり区長・書記の手を煩わせていた青洋会の会計、書記、予算決算等すべてを青洋会独自で行うようになった。このことは他の老人クラブとの交流会でも幾度と無く論議された問題であったが、役員人事の年齢を若くしたことをきっかけに、青洋会独自で自信を持ってやっていこうということになった。
(3) 伝統芸能の継承
1978年(昭和53)10月29日には創立15周年を迎えた。記念式典では組踊「矢蔵の比屋」が50年ぶりに上演された。以降1983年(昭和58)の20周年、1988年(昭和63)の25周年、1994年(平成6)の30周年と、5か年毎の記念式典において上演された。15周年を記念して発刊された記念誌には、神谷※※より提供された組踊「矢蔵の比屋」の脚本を掲載し、継承・発展にも努めた。
なお、1983年(昭和58)の20周年記念式典に関しては、「大川敵討−村原」や「矢蔵の比屋」も一通りやり終えたので、渡慶次に伝わる3つの組踊の内まだ上演されていない「巡見官」に取り組もう、ということになった。しかし、この演目は出演した人もおらず、80歳代の人でも上演されたのを見たことがなく、上演にあたっては外部から指導者を招かなければならなかった。そこで、「巡見官」の上演を諦め、「矢蔵の比屋」の上演に踏み切ったのである。5か年毎の上演で心がけていることは、その年ごとに役者を替え、つとめて若い者に引き継ぐことを考慮して継承している。
◎写真 本編参照
「矢蔵の比屋」の脚本の一部
(4) スポーツ活動の充実
1980年(昭和55)5月20日、旧事務所跡に新たに整備されたゲートボール場が完成し、オープンを迎えた。それを記念した各班対抗ゲートボール大会を催すなど、健康保持の目的でも、老人の趣味や生きがいとしてのゲートボール等のスポーツ活動も盛んになった。
渡口さんの関門通過は?
1983年(昭和58)には福地※※(90歳)、※※(88歳)兄弟が高齢のゲートボール選手として読老連よりそろって表彰された。
また、交流会も野外スポーツを取り入れることで、和やかな雰囲気の中で開催されるようになっていった。
字内外ともにゲートボールが盛んになるにつれ、役員だけでは十分に対応できなくなり、1985年(昭和60)体育部長を設置した。初代部長には宜保※※が選出され、青洋会のスポーツ活動振興のために活躍した。
翌年、青洋会のソフトボール愛好者を中心にした、ウラシマソフトボール愛好会が結成された。ウラシマソフトボール愛好会については、別項で紹介するが、「生涯現役」を目標に青洋会のスポーツ活動はますます充実したものとなっている。
派遣激励を受けた、旧役場前で
(5) 合同生年祝の開催
活動が活発化し、会員が増えてくると生年祝等のつきあいも増え、祝儀やお返しへの負担が大きくなっていった。そこで、生年祝を合同で行うよう働きかけ、1989年(平成元)1月から青洋会主催の生年合同祝が行われるようになった。
舞台での余興に喝采を送る
青洋会の会員は合同祝で一律の会費を集め、そこで祝うようにし、個人でのお祝いには案内しないというふうに決めたのである。この案については反対する者も数人出たが、個人で、家族と共にお祝いをする分には構わないとしたことで、現在でも合同祝を継続し、経済的な個人への負担軽減に大いに役立っている。
なお、2000年(平成12)には読谷村老人連合会主催の運動会における寄付金授受が廃止された。子ども達からの寄付という名目で出されていた寄付金が、実際は会員のポケットマネーから出ており、大きな負担になっていた。そのような負担を無くすために、寄付金授受の廃止へとつながった。
(6) 福祉活動の充実
渡慶次青洋会の年間行事に、6月の拝所清掃や全国の老人クラブで実施されている9月の「社会奉仕の日」の清掃等の環境美化活動がある。この他にも、字で年に2回行われる区民清掃では、仕事の都合などで参加できない若い世代の分も私達が、との思いから青洋会員の積極的な参加が特徴的である。
「社会奉仕の日」の清掃作業を終えて
地域のために積極的に参加、奉仕するその姿はこれからの渡慶次を担う者への見本と言える。
また、1991年(平成3)に80歳以上のお年寄りを対象にした地域でのデイサービス事業として「渡慶次いぶし銀会」が発足した。月2回の集まりを持ち、高齢者の健康確認や維持、リハビリのための活動が行われている。その活動を支えるため多くのボランティアが参加しているが、調理当番は3名ずつ、5班に分かれて各班がそれぞれの持ち味をいかしたメニュー作りがなされている。その中心を担うのも青洋会の会員である。
いぶし銀会のおやつを作るボランティアの皆さん
(7) 今後の活発な活動に期待
2003年(平成15)12月10日には40周年、2008年(平成20)11月29日には45周年を迎え、記念式典並びに祝賀会が開催され、40周年、45周年記念誌も発刊された。今後も渡慶次を代表する団体としてますます活発な活動を展開していくと思われる。
衣裳も凛々しく、さあ踊るぞ!
なお、青洋会についての本原稿は1973年(昭和48)の10周年以来5か年毎に発刊されている記念誌をもとに編集した。
40周年と45周年の記念誌
〔注〕
*1 若水会:1961年(昭和36)に結成・誕生。(『沖縄大百科事典』老人クラブ)
終戦後、沖縄は本土から切りはなされ、米軍統治下にあり老人福祉の面でも本土と違い、何一つ補償がなかった。1960年代中頃、琉球政府に対し、本土と同じように法に準じた老人福祉法の制定が各市町村から叫ばれ、各地で老人クラブ結成の気運が高まっていった。あの激しい大戦の戦禍をくぐり抜け、あらゆる苦難を克服し部落再建に努力してきた老人達が、老人福祉問題に自ら取り組むためにも、強力な老人組織を持ち、政府へ折衝する必要に迫られていたのである。
その頃、読谷村役場福祉課より老人クラブの組織を持つよう勧めがあり、当渡慶次においても老人問題対策への話し合いが持たれるようになっていた。1964年(昭和39)大城行雄区長、書記の与那覇※※を中心に渡慶次老人クラブ発会のための準備委員会が招集され、会運営の基礎となる規則ができあがり、会則に準じて初代会長並びに役員が選出された。
会長:大城※※
副会長:福地※※・山内※※
理事:儀間※※・山城※※ 儀間※※
会計:大城行雄 区長
与那覇※※ 書記
また、他の団体と異なるこの会の特色として、老人独自での会運営ではなく世話役を設置したことがあげられる。例えば、会合の料理や接待、また視察や旅行で村外に出かける場合の案内係や世話係等、多くの協力が必要であり、その世話係には区長以下常勤職員は勿論、各組(現在の班)の組長、字出身の村議会議員、婦人会役員、その他一般から老人クラブが必要とする人が会長より指名された。
世話役:大城行雄区長・与那覇※※書記・山城吾助村議会議員・安田※※・山内※※・安田※※婦人会長・福地※※副会長・各組組長
役員や世話役が決まってから、会運営の基金の徴収方法について、世話役も一緒に役員会を持ち検討された。話し合いの結果、世話役が運営の基金一切を引き受け、行政委員会や戸主会に訴え、寄付募集をして基金に充てることになった。
区民が老人クラブ設立に寄せる気持ちは大きく、戸主会に訴えた翌日からは寄付金が集り、1家庭から2〜3人の寄付が申し込まれることもあった。老人クラブとしては、会運営の資金があればよいとのことで、世話役も1戸1ドルに抑えるように努めた。
字中の応援で300ドル余の基金が集り、1964年(昭和39)6月6日渡慶次老人クラブが結成された。会員は65歳以上の者、男性40名、女性64名の計104名で活動が始められた。
青洋会社会見学
その後、読谷村各字に老人クラブが結成され、村福祉課より各字特色のある名を付けるよう指導があった。早速渡慶次でも世話役を交えた役員会を開催し、名称についていろいろと話し合われた。役員や世話役から多数の提案が挙がったが、最終的には山城※※の提案した「青洋会」の名称で全員の意見が一致し、決定した。「青洋会」とは、「心身共に青年の如く壮健にして、かつ時代を先取りする気迫に満ち、前途洋々たる組織発展を祈願する」ものとして命名された。その名が示すように、発会当初から活発な活動が行われ、那覇の老人ホームや、村有山のミカン園、産業施設の見学等の研修が組まれていた。
11月には、読谷村老人クラブ連合会が組織され、琉球政府及び本土政府に老人福祉法制定の陳情がなされ、形ばかりであったが助成を受けるようになった。この助成金は本土復帰と共に福祉年金として本土同様に支給された。
(2) 活動内容−会旗・会歌・記念誌− 1967年(昭和42)安田慶善区長の時、那覇市若狭町の若水会と第1回目の交歓会が渡慶次公民館で行われた。沖縄県で1番目にできた老人クラブである若水会*1は、当時、その活動運営において沖縄随一と言われており、その名にふさわしく会旗を先頭に公民館へと乗り込んで来られたときには、渡慶次の青洋会もとても驚いた。しかし、こちらの受け入れ態勢も、婦人会・健青会・世話役が協力しての歓迎で、決して劣ることなく対等の交歓会となった。
その際、若水会の会旗を参考に渡慶次青洋会でも会旗作製の提案がされたが、予算の都合上難しかった。話を聞いたやまびこ薬局の山内※※店主から青洋会旗寄贈の申し出があり、心のこもった立派な青洋会旗が贈られた。
青洋会の旗
若水会とは翌年にも交歓会を持ち、会場を那覇に移した第2回目の交歓会では、若水会旗と青洋会旗が並んで掲げられた。また、両団体より舞踊等が披露され、当青洋会で組踊「大川敵討−村原」の一場面を演じると、いっそう会場の喝采をあびた。
その後も村内外の老人クラブと交歓会や研修会を持つなど、積極的な交流事業を進めた。また、地域への奉仕活動にも意欲的に取り組み、公民館前の庭園に苗木や花を植え、育成し、その他にも公民館広場や拝所の草刈り等は青洋会が責任を持って引き受けた。
1969年(昭和44)12月に全沖縄老人クラブ大会が開催されたが、当青洋会はその運営において、計画的な実践活動と、地域社会への奉仕活動に積極的に参加していることが他の模範であるとのことで、全沖縄老人クラブ大山※※会長より表彰を受けた。
1973年(昭和48)7月1日には、青洋会設立10周年を迎え、記念式典が開かれた。そこで、組踊「大川敵討−村原」の全幕が上演された。長時間の舞台の役者・裏方とも会員が務め、成功裏に終わった。また、世話役の山城※※、大城※※両氏の協力で青洋会設立10周年記念誌も発刊され、意欲の高揚と青洋会の発展、老人福祉の確立などが提起された。以後、5か年毎に記念誌を発刊し、現在の45周年記念誌まで欠くことなく青洋会の歩みが残されている。
各周年ごとの記念誌
1976年(昭和51)12月には、山城※※作詞、普久原※※作曲の渡慶次青洋会の歌が作られ、現在においても毎月開かれる定例会やその他の青洋会行事の際には、字内の各所に設置されたスピーカーから会歌が流れ、集まりを知らせる放送が行われている。
1977年度(昭和52)からは、発足より12年間にわたり区長・書記の手を煩わせていた青洋会の会計、書記、予算決算等すべてを青洋会独自で行うようになった。このことは他の老人クラブとの交流会でも幾度と無く論議された問題であったが、役員人事の年齢を若くしたことをきっかけに、青洋会独自で自信を持ってやっていこうということになった。
(3) 伝統芸能の継承
1978年(昭和53)10月29日には創立15周年を迎えた。記念式典では組踊「矢蔵の比屋」が50年ぶりに上演された。以降1983年(昭和58)の20周年、1988年(昭和63)の25周年、1994年(平成6)の30周年と、5か年毎の記念式典において上演された。15周年を記念して発刊された記念誌には、神谷※※より提供された組踊「矢蔵の比屋」の脚本を掲載し、継承・発展にも努めた。
なお、1983年(昭和58)の20周年記念式典に関しては、「大川敵討−村原」や「矢蔵の比屋」も一通りやり終えたので、渡慶次に伝わる3つの組踊の内まだ上演されていない「巡見官」に取り組もう、ということになった。しかし、この演目は出演した人もおらず、80歳代の人でも上演されたのを見たことがなく、上演にあたっては外部から指導者を招かなければならなかった。そこで、「巡見官」の上演を諦め、「矢蔵の比屋」の上演に踏み切ったのである。5か年毎の上演で心がけていることは、その年ごとに役者を替え、つとめて若い者に引き継ぐことを考慮して継承している。
◎写真 本編参照
「矢蔵の比屋」の脚本の一部
(4) スポーツ活動の充実
1980年(昭和55)5月20日、旧事務所跡に新たに整備されたゲートボール場が完成し、オープンを迎えた。それを記念した各班対抗ゲートボール大会を催すなど、健康保持の目的でも、老人の趣味や生きがいとしてのゲートボール等のスポーツ活動も盛んになった。
渡口さんの関門通過は?
1983年(昭和58)には福地※※(90歳)、※※(88歳)兄弟が高齢のゲートボール選手として読老連よりそろって表彰された。
また、交流会も野外スポーツを取り入れることで、和やかな雰囲気の中で開催されるようになっていった。
字内外ともにゲートボールが盛んになるにつれ、役員だけでは十分に対応できなくなり、1985年(昭和60)体育部長を設置した。初代部長には宜保※※が選出され、青洋会のスポーツ活動振興のために活躍した。
翌年、青洋会のソフトボール愛好者を中心にした、ウラシマソフトボール愛好会が結成された。ウラシマソフトボール愛好会については、別項で紹介するが、「生涯現役」を目標に青洋会のスポーツ活動はますます充実したものとなっている。
派遣激励を受けた、旧役場前で
(5) 合同生年祝の開催
活動が活発化し、会員が増えてくると生年祝等のつきあいも増え、祝儀やお返しへの負担が大きくなっていった。そこで、生年祝を合同で行うよう働きかけ、1989年(平成元)1月から青洋会主催の生年合同祝が行われるようになった。
舞台での余興に喝采を送る
青洋会の会員は合同祝で一律の会費を集め、そこで祝うようにし、個人でのお祝いには案内しないというふうに決めたのである。この案については反対する者も数人出たが、個人で、家族と共にお祝いをする分には構わないとしたことで、現在でも合同祝を継続し、経済的な個人への負担軽減に大いに役立っている。
なお、2000年(平成12)には読谷村老人連合会主催の運動会における寄付金授受が廃止された。子ども達からの寄付という名目で出されていた寄付金が、実際は会員のポケットマネーから出ており、大きな負担になっていた。そのような負担を無くすために、寄付金授受の廃止へとつながった。
(6) 福祉活動の充実
渡慶次青洋会の年間行事に、6月の拝所清掃や全国の老人クラブで実施されている9月の「社会奉仕の日」の清掃等の環境美化活動がある。この他にも、字で年に2回行われる区民清掃では、仕事の都合などで参加できない若い世代の分も私達が、との思いから青洋会員の積極的な参加が特徴的である。
「社会奉仕の日」の清掃作業を終えて
地域のために積極的に参加、奉仕するその姿はこれからの渡慶次を担う者への見本と言える。
また、1991年(平成3)に80歳以上のお年寄りを対象にした地域でのデイサービス事業として「渡慶次いぶし銀会」が発足した。月2回の集まりを持ち、高齢者の健康確認や維持、リハビリのための活動が行われている。その活動を支えるため多くのボランティアが参加しているが、調理当番は3名ずつ、5班に分かれて各班がそれぞれの持ち味をいかしたメニュー作りがなされている。その中心を担うのも青洋会の会員である。
いぶし銀会のおやつを作るボランティアの皆さん
(7) 今後の活発な活動に期待
2003年(平成15)12月10日には40周年、2008年(平成20)11月29日には45周年を迎え、記念式典並びに祝賀会が開催され、40周年、45周年記念誌も発刊された。今後も渡慶次を代表する団体としてますます活発な活動を展開していくと思われる。
衣裳も凛々しく、さあ踊るぞ!
なお、青洋会についての本原稿は1973年(昭和48)の10周年以来5か年毎に発刊されている記念誌をもとに編集した。
40周年と45周年の記念誌
〔注〕
*1 若水会:1961年(昭和36)に結成・誕生。(『沖縄大百科事典』老人クラブ)
2 渡慶次青洋会歌
作詞 山城※※
作曲 普久原※※
歌 フォーシスターズ
1 残波荒波と カタノ場の風に
揉まり育ちちゃる 渡慶次やから
※わした渡慶次ぬ 渡慶次部落ぬ
渡慶次青洋会
2 天からみて立ちゅる 旗頭心
前むかて進み 渡慶次気風
※くり返し
3 獅子に村原や 我が村ぬ宝
世代に継ぎ渡せ 村の心
※くり返し
4 学問習ぬはてみ 幾才年とてん
揃みそりしんか 共に学ぼ
※くり返し
5 揃て肝合ち 語らたる故に
渡慶次村繁盛 いちんさかい
※くり返し
作曲 普久原※※
歌 フォーシスターズ
1 残波荒波と カタノ場の風に
揉まり育ちちゃる 渡慶次やから
※わした渡慶次ぬ 渡慶次部落ぬ
渡慶次青洋会
2 天からみて立ちゅる 旗頭心
前むかて進み 渡慶次気風
※くり返し
3 獅子に村原や 我が村ぬ宝
世代に継ぎ渡せ 村の心
※くり返し
4 学問習ぬはてみ 幾才年とてん
揃みそりしんか 共に学ぼ
※くり返し
5 揃て肝合ち 語らたる故に
渡慶次村繁盛 いちんさかい
※くり返し
3 会員数の推移
年度 | 人数 |
1964年 | 104 |
1968年 | 114 |
1973年 | 132 |
1978年 | 141 |
1983年 | 149 |
1987年 | 181 |
1993年 | 203 |
1998年 | 232 |
2003年 | 265 |
2008年 | 278 |
山内※※民謡ショー
多くの会員が出席し、にぎやかな会場
◎[写真] 本編参照
當間※※の踊り
當間※※の踊り
4 歴代役員名簿
本編参照
老人心得三か条
私達は、明治、大正、昭和三代を生き抜いたことに誇りを持ち老後を健康で明るく、幸福におくるため、次の三か条を実行して、よいおじいさん、よいおばあさんになることを心がけましょう。
1. だれにでも愛される年寄りになりましょう。
◎家族と仲良くしましょう。
◎となりきんじょの人に親切にしましょう。
◎だれとも愛想よくしましょう。
◎年寄りのぐちは言わぬようにしましょう。
◎年をとっても身なりをよくしましょう。
琉歌
年やよてをてん 世間う万人に
かなささりよしど 人のかがみ
2. だれとでも話せる年寄りになりましょう。
◎若い人々の話し相手になりましょう。
◎毎日の新聞に気をつけましょう。
◎年をとっても知能をみがきましょう。
◎会合にはつとめて出るようにしましょう。
◎年寄りの劣等感をなくしましょう。
琉歌
年よてんともて 怠りてしまぬ
命のある間や ゆだんするな
3. 世のため人のため役に立つ年寄りになりましょう。
◎隠居の習慣はなくしましょう。
◎足腰の立つ間は働きましょう。
◎はたらくことは長生のためと思いましょう。
◎年寄りのできることは何でもやりましょう。
琉歌
年よたんともて ただ遊でなゆみ
一事どんすりば 国のたから
渡慶次青洋会会則
(名称及び事務所)
第1条 本会は渡慶次青洋会と称し事務所を渡慶次公民館内に置く。
(目的)
第2条 本会は会員自らの生活を健全で豊かなものにするために修養の機会を通じて会員福祉の増進と地域の発展に資することを目的とする。
(組織)
第3条 本会は渡慶次自治会に加入している65歳以上の者もって組織し運営する。但し本会の趣旨に賛同する60歳以上の者でも入会することができる。
(事業)
第4条 本会は第2条の目的達成のため次の事業を行う。
(1) 会員の健康管理に関する研修と講習
(2) 青洋会に関する諸行事の開催
(3) 会員相互の連絡と調整
(4) 会員の福祉に関する必要な事項
(5) 他老人クラブとの交流に関すること
(役員)
第5条 本会に次の役員を置く。
(1) 会長1名 (2) 副会長2名
(3) 体育部長1名 (4) 班長14名
(役員の選出)
第6条 本会の役員は、年度末総会で選出する。但し会長は、会員の投票より選出し、以上総ての役員は選考委員会で選出するものとする。選考委員は会員皆さんの承認を得て会長が委嘱する。
(役員の任期)
第7条 役員の任期は1か年とする。但し再選を妨げない。補欠で就任した役員の任期は残任期間とする。
(理事)
第8条 本会に理事10名を置く。選出については年度末総会において選考委員会で選出する。
(役員の職務権限)
第9条 会長は本会を代表し会務を統轄する。
2 副会長は会長を補佐し会長事故ある時は職務を代行する。
3 会長、副会長は書記、会計、芸能部何れかを兼任するものとし各々適任者を以ってこれに充てる。
4 班長は会員との連絡を密にし、総ての会務運営に当たらなければならない。
5 体育部長は総ての体育行事を企画実行し会員の健康増進を図るものとする。
(機関)
第10条 本会に次の機関を置く。
(1) 総会 (2) 役員会
(3) 理事会 (4) 予算審議委員会
(5) 拡大委員会
2 総会は会長が招集し会の議長となる。
3 役員会は本会の執行機関で三役(会長・副会長・体育部長)及び各班の班長で構成し会長が招集する。
4 理事会は必要に応じ会長が招集し会長より提案された議案の審議、予算の立案をしなければならない。
5 予算審議委員会は理事、顧問その他会長が推薦する若干名を加えて構成する。
6 拡大委員会は理事・顧問で構成し会議は会長が必要と認めたときこれを招集する。
(運営)
第11条 本会の運営費は会費、補助金、寄付金その他を以って充てる。
(予算・決算)
第12条 本会の予算は年度末3月に予算審議委員会の議決を経て総会の承認を得るものとする。
2 決算は年度末に於いて監査委員の監査を受け、次年度始めの定期総会で承認を得るものとする。
(総会)
第13条 本会の総会は年度始めと年度末に開催する。但し会長が必要と認めた時は臨時に開催することができる。
2 総会は会員の3分の1の出席によって成立し、議決は出席者の過半数の賛同を得て決する。
(帳簿)
第14条 本会に次の帳簿を置く。
(1) 会則と諸規程 (2) 会員名簿
(3) 記録簿 (4) 備品台帳
(5) 現金出納簿
(諸手当)
第15条 本会は役員に対し報酬、旅費を支給することができる。
2 支給方法は青洋会諸規程による。
(監査)
第16条 本会の監査委員は、年度末総会に於いて選考委員会で選出する。
2 監査委員は年度内といえども、会長の要求があった場合はその要求にかかる事項について監査(指導)しなければならない。
(会則及び規約の改廃)
第17条 本会の会則及び規約の改廃は予算審議委員会の議決を経て総会の承認を得るものとする。
(会計年度)
第18条 本会の会計年度は4月1日に始まり翌年3月末日に終わる。
(雑則)
第19条 本会に顧問若干名、世話役若干名を置く。
2 顧問は年度末総会において会長が推戴する。
3 顧問は会長が必要と認めた場合は会議に出席し意見を述べることができる。
4 世話役は会員外から会長が委嘱する。
附則
本会則は昭和39年6月より施行する。
この会則は昭和51年4月1日一部改正し、同日施行する。
この会則は昭和52年4月1日一部改正し、同日施行する。
この会則は昭和55年4月1日一部改正し、同日施行する。
この会則は昭和60年4月1日一部改正し、同日施行する。
この会則は昭和62年4月1日一部改正し、同日施行する。
この会則は昭和63年4月1日一部改正し、同日施行する。
この会則は平成8年3月27日一部改正し、同年4月1日より施行する。
この会則は平成8年4月28日一部改正し、同日施行する。
この会則は平成14年4月15日一部改正し、同日施行する。
この会則は平成18年4月25日一部改正し、同日施行する。
この会則は平成19年10月15日一部改正し、同日施行する。
渡慶次青洋会諸規程
第1条 本会会員は運営費として会費を納付するものとする。但し会長が認める90歳以上の者は特別会員として免除する。
第2条 会則第15条の規定する役員の年額報酬並びに委員手当を別表1、別表2のとおり支給する。
別表1
別表2
第3条 村外出張並びに村外研修の際は別表3のとおり旅費を支給する。
別表3
第4条 本会の慶弔費は会長に一任する。
附則
本規程は昭和52年4月1日より施行する。
この規程は昭和55年4月1日一部改正し、同日施行する。
この規程は昭和58年4月1日一部改正し、同日施行する。
この規程は昭和60年4月1日一部改正し、同日施行する。
この規程は昭和62年4月1日一部改正し、同日施行する。
この規程は昭和63年4月1日一部改正し、同日施行する。
この規程は平成3年4月1日一部改正し、同日施行する。
この規程は平成8年3月27日一部改正し、同年4月1日より施行する。
この規程は平成19年10月15日一部改正し、同日施行する。
老人心得三か条
私達は、明治、大正、昭和三代を生き抜いたことに誇りを持ち老後を健康で明るく、幸福におくるため、次の三か条を実行して、よいおじいさん、よいおばあさんになることを心がけましょう。
1. だれにでも愛される年寄りになりましょう。
◎家族と仲良くしましょう。
◎となりきんじょの人に親切にしましょう。
◎だれとも愛想よくしましょう。
◎年寄りのぐちは言わぬようにしましょう。
◎年をとっても身なりをよくしましょう。
琉歌
年やよてをてん 世間う万人に
かなささりよしど 人のかがみ
2. だれとでも話せる年寄りになりましょう。
◎若い人々の話し相手になりましょう。
◎毎日の新聞に気をつけましょう。
◎年をとっても知能をみがきましょう。
◎会合にはつとめて出るようにしましょう。
◎年寄りの劣等感をなくしましょう。
琉歌
年よてんともて 怠りてしまぬ
命のある間や ゆだんするな
3. 世のため人のため役に立つ年寄りになりましょう。
◎隠居の習慣はなくしましょう。
◎足腰の立つ間は働きましょう。
◎はたらくことは長生のためと思いましょう。
◎年寄りのできることは何でもやりましょう。
琉歌
年よたんともて ただ遊でなゆみ
一事どんすりば 国のたから
渡慶次青洋会会則
(名称及び事務所)
第1条 本会は渡慶次青洋会と称し事務所を渡慶次公民館内に置く。
(目的)
第2条 本会は会員自らの生活を健全で豊かなものにするために修養の機会を通じて会員福祉の増進と地域の発展に資することを目的とする。
(組織)
第3条 本会は渡慶次自治会に加入している65歳以上の者もって組織し運営する。但し本会の趣旨に賛同する60歳以上の者でも入会することができる。
(事業)
第4条 本会は第2条の目的達成のため次の事業を行う。
(1) 会員の健康管理に関する研修と講習
(2) 青洋会に関する諸行事の開催
(3) 会員相互の連絡と調整
(4) 会員の福祉に関する必要な事項
(5) 他老人クラブとの交流に関すること
(役員)
第5条 本会に次の役員を置く。
(1) 会長1名 (2) 副会長2名
(3) 体育部長1名 (4) 班長14名
(役員の選出)
第6条 本会の役員は、年度末総会で選出する。但し会長は、会員の投票より選出し、以上総ての役員は選考委員会で選出するものとする。選考委員は会員皆さんの承認を得て会長が委嘱する。
(役員の任期)
第7条 役員の任期は1か年とする。但し再選を妨げない。補欠で就任した役員の任期は残任期間とする。
(理事)
第8条 本会に理事10名を置く。選出については年度末総会において選考委員会で選出する。
(役員の職務権限)
第9条 会長は本会を代表し会務を統轄する。
2 副会長は会長を補佐し会長事故ある時は職務を代行する。
3 会長、副会長は書記、会計、芸能部何れかを兼任するものとし各々適任者を以ってこれに充てる。
4 班長は会員との連絡を密にし、総ての会務運営に当たらなければならない。
5 体育部長は総ての体育行事を企画実行し会員の健康増進を図るものとする。
(機関)
第10条 本会に次の機関を置く。
(1) 総会 (2) 役員会
(3) 理事会 (4) 予算審議委員会
(5) 拡大委員会
2 総会は会長が招集し会の議長となる。
3 役員会は本会の執行機関で三役(会長・副会長・体育部長)及び各班の班長で構成し会長が招集する。
4 理事会は必要に応じ会長が招集し会長より提案された議案の審議、予算の立案をしなければならない。
5 予算審議委員会は理事、顧問その他会長が推薦する若干名を加えて構成する。
6 拡大委員会は理事・顧問で構成し会議は会長が必要と認めたときこれを招集する。
(運営)
第11条 本会の運営費は会費、補助金、寄付金その他を以って充てる。
(予算・決算)
第12条 本会の予算は年度末3月に予算審議委員会の議決を経て総会の承認を得るものとする。
2 決算は年度末に於いて監査委員の監査を受け、次年度始めの定期総会で承認を得るものとする。
(総会)
第13条 本会の総会は年度始めと年度末に開催する。但し会長が必要と認めた時は臨時に開催することができる。
2 総会は会員の3分の1の出席によって成立し、議決は出席者の過半数の賛同を得て決する。
(帳簿)
第14条 本会に次の帳簿を置く。
(1) 会則と諸規程 (2) 会員名簿
(3) 記録簿 (4) 備品台帳
(5) 現金出納簿
(諸手当)
第15条 本会は役員に対し報酬、旅費を支給することができる。
2 支給方法は青洋会諸規程による。
(監査)
第16条 本会の監査委員は、年度末総会に於いて選考委員会で選出する。
2 監査委員は年度内といえども、会長の要求があった場合はその要求にかかる事項について監査(指導)しなければならない。
(会則及び規約の改廃)
第17条 本会の会則及び規約の改廃は予算審議委員会の議決を経て総会の承認を得るものとする。
(会計年度)
第18条 本会の会計年度は4月1日に始まり翌年3月末日に終わる。
(雑則)
第19条 本会に顧問若干名、世話役若干名を置く。
2 顧問は年度末総会において会長が推戴する。
3 顧問は会長が必要と認めた場合は会議に出席し意見を述べることができる。
4 世話役は会員外から会長が委嘱する。
附則
本会則は昭和39年6月より施行する。
この会則は昭和51年4月1日一部改正し、同日施行する。
この会則は昭和52年4月1日一部改正し、同日施行する。
この会則は昭和55年4月1日一部改正し、同日施行する。
この会則は昭和60年4月1日一部改正し、同日施行する。
この会則は昭和62年4月1日一部改正し、同日施行する。
この会則は昭和63年4月1日一部改正し、同日施行する。
この会則は平成8年3月27日一部改正し、同年4月1日より施行する。
この会則は平成8年4月28日一部改正し、同日施行する。
この会則は平成14年4月15日一部改正し、同日施行する。
この会則は平成18年4月25日一部改正し、同日施行する。
この会則は平成19年10月15日一部改正し、同日施行する。
渡慶次青洋会諸規程
第1条 本会会員は運営費として会費を納付するものとする。但し会長が認める90歳以上の者は特別会員として免除する。
第2条 会則第15条の規定する役員の年額報酬並びに委員手当を別表1、別表2のとおり支給する。
別表1
役職 | 報酬 |
会長 | 33,000 |
副会長 | 27,000 |
体育部長 | 15,000 |
班長 | 7,000 |
別表2
役職 | 手当 | |
監査委員 | 1回につき | 2,000 |
第3条 村外出張並びに村外研修の際は別表3のとおり旅費を支給する。
別表3
読老連村内視察研修 | 2,000 | 会長、副会長(女性リーダー) |
評議委員宿泊研修 | 13,000 | 会長 |
女性リーダー宿泊研修 | 10,000 | 副会長 |
会長以下会員旅費 | 1,000 | |
舞踊等伝達講習費(村内) | 500 | 会員 |
第4条 本会の慶弔費は会長に一任する。
附則
本規程は昭和52年4月1日より施行する。
この規程は昭和55年4月1日一部改正し、同日施行する。
この規程は昭和58年4月1日一部改正し、同日施行する。
この規程は昭和60年4月1日一部改正し、同日施行する。
この規程は昭和62年4月1日一部改正し、同日施行する。
この規程は昭和63年4月1日一部改正し、同日施行する。
この規程は平成3年4月1日一部改正し、同日施行する。
この規程は平成8年3月27日一部改正し、同年4月1日より施行する。
この規程は平成19年10月15日一部改正し、同日施行する。